第5話-B69 先送りの結末
下から嫌な音がして、彼女がどうなってしまったのか、確認するべきだと思った。
すぐ、階下から女性の悲鳴が聞こえて、下を覗くことに対する希望の無意味さを悟った。
結局座りこんで、赤い布切れを手にただ言葉を失う他なかった。
鮮明に覚えている。
風に揺れる彼女の服、悲しそうで穏やかな目、空間に身を預ける動き。
激しい主観的視点、俺の両目が高速で記憶に焼きつけた景色。感触。無音。音。
「あぁ……」
どうすればいい?
鮮度抜群の記憶の輻輳。冷静になろうとするたび、落ち着こうとするたび、何度も体感する記憶の津波。思考のテーブルが洗い流された後に残るのは、俺の言動と現状。
俺は助けられたんじゃないのか。血の気が引いて、急速に手足が冷える感覚。
普段の俺ならどうした?
いつの間にか呼吸が荒くなっていることに気づいた。冷静になれ。深呼吸をしろ。こんなところで過呼吸でも起こして倒れる訳にはいかない。重傷なやつがいるのだ。
……そうだ、処置だ。すぐにリンを助けなければならない。
「救急車……医者……」
咄嗟に思考を駆け巡ったのは救急車。そんなものはないと、言葉に出して初めて気づいて否定する。
医者を呼ばねば。医者にどうにかできるとは思えなかったが、とにかく呼ぶのだ。
そこで体に力が入らないことに初めて気がついた。数分前まで動き回れていたにも関わらず、感じる浮遊感、吐き気。嘘だろ。
立つことはおろか、座り込むことすら辛くなって、屋上の緩やかに傾いた地面に転がった。
理解している。俺がいま何をしているのか。俺がこんなことをしている場合じゃないことも。
恐怖で足がすくむような、そんな身体のブレーキが全身にかかって、身動きがとれないのだ。
「ちっくしょぉぉぉあ――! ちきしょう! ちきしょう! ざけんじゃねえクソッタレぁぁあ゛――っ! 」
仰向けになって力の限り叫んで拳を地面に叩きつけた。拳の痛みは感じられないほど気にならなかった。
何を差し置いても自分の無能っぷりが悔しかった。
リンの最後の瞬間、俺がすぐに動けていれば、彼女を助けられたかもしれない。
「あぁ……あぁ゛……」
視界の夜空が歪む。
俺はヒーローでも英雄でもなく、人間ひとり救うことはおろか、癒やすことさえできない無様な人間だった。
それどころか、こうして今でさえ俺は何もしていない。
すべきことを放り棄て、喉から情けない声を出して、誰の為とも分からぬ涙を流すことしかできない。これが等身大の俺なのだ。
目尻から一筋流したところで時間は戻らない。
しばらくして気がつくと、身体が動けるようになっていた。相変わらず手足は震えていたが、いたずらに屋上に留まって何かあるわけでもない。
ふらついたが、緩やかな傾斜の屋根に立つ。地上から怒号と悲鳴がにわかに聞こえる。誰かが医者を呼ぶだろう。
強く残る浮遊感に足を取られそうになりながら、屋上を降りようと梯子へ向かう。
――これではっきりした。
俺は鮮烈で刺激的なこの世界に多少鍛えられて、多少の胆力はついたと思っていた。ところがどうか。素の俺はなんら変わっていなかった。
アドレナリンに踊らされて行動していたにすぎなかったのだ。
元いた世界で溢れていた非理想的な対応への批判に同調していた俺が、いや批判しない仏のような人々でさえ、この体たらくを見ればなんと軽蔑するだろう。
「――なあって、おい!」
背後から肩を強く掴まれ、強引な力に流されて振り返るとブロウルがいた。
「リンとグレアが墜落して瀕死だって大変なことになってるぞ! なにがあった?」
ブロウルは端的に告げる。グレアが瀕死。その言葉を理解できなかった。
俺はゆっくり首を横に振った。グレアのことは知らない。今は語りたくない。一人にしてほしい。どれで解釈されても俺の意思だった。
「それ――」
手に握るそれを見つけた彼は、その一言を残して言葉を薙ぎ払われたようだった。
ブロウルの目を見られなかった。彼は言葉を探して口を開き、結局閉じて静かに首を横に振った。
話したくなかった。話さねばならない。
「リンが身投げした、助けられなかった、グレアは分からない。俺やっちまった……」
「…………。」
一つずつ言葉を取り出すたびに、重苦しい涙が溢れる。ブロウルは頭を抱えようと勝手に動いた俺の手を掴んで、身体を引き寄せた。
「大丈夫だお前のせいじゃない――それだけは聞かずとも分かる」
違う。俺は都合の良い解釈と判断を繰り返し、物事を深く考えず、あげく我が身かわいさに怖気づいたのだ。
「リンを見殺しにした……取り返しのつかないことをしちまった……」
リンが自らの胸の内を明かした翌朝、俺は工業ギルドの仕事を優先した。そうしてリンに落ち着いた時間を持たせることが最善だと思っていた。だが結果は違った。彼女はその時間で自らの生を終えることを決断した。
「その――ほら、まだ死んだと決まったわけじゃない。な? クラリは当番の医者に加勢してるし、ガル爺も赤服のオッサンと一緒だ。分かるだろ、まだ終わっちゃいないんだよ」
「もう俺どうしたらいいんだよ……」
常識的に考えて、俺に刃を向け、果てに「殺してくれ」とまで訴えた彼女が、一日時間を空けたところで考えが反転するわけがなかった。そこまで考えていなかった。
リンに申し訳が立たなかった。
彼女の心情を理解し向き合うためには、眠気にまみれた就寝前のひとときと、迎賓館出発前の少ない時間程度では到底足りなかった。
リンのSOSをしっかりと受け止めて、彼女のために行動すべきだったのだ。
「ボス。俺はそんなことが言えるお前が、誰かを見殺しにできるわけないと思ってる」
「オッサン一人のために燃え盛る船に突っ込むような人間が、誰かを見殺しにできるのかよ。あのときお前が眺め傍観しているだけの群衆の一人だったとしても、誰も責めなかった。あの状況で、お前は俺と同じく行動することを選んだ。見殺し? 絶対ない」
「――お前一人でどうにかしてやれる状況にない――あったとしても、今のボスじゃうまくいかない」
「俺達に頼ってくれよ。一人じゃ重たいだろ」
ブロウルは言葉を選んだ。
すまない――言葉が沁みて涙が溢れ出た。
*
ブロウルに付き添われて、屋上から自室の執務室に戻ってソファーに腰掛けて、膝の上で両手を組んで俯いていた。
大分落ち着いたが、それでも気が気じゃなかった。これは他人事などではない。自らが中心人物の一人であるにもかかわらず、こうしてゆったりとケツをソファーに押し付けていることがもどかしかった。
とはいえ、俺はリンとグレアの治療などできない。現代式の圧迫止血法程度の救命措置しか習っていない。もはや専門の人間による治療が始まっている現段階において、俺の出る幕などないのだった。
足の貧乏ゆすりが始まる。
ブロウルは俺のことをずっと気にかけてくれた。今ブロウルは、花茶の一つでもと言って湯を沸かしている。
「味が多少悪くたって気にすんな。死にやしねぇ」
壊すのは得意だが作ったり直したりはてんで苦手だと、完成物への予防線を張りつつ、筋骨たくましい男がガラスのポッドを用意して、特にこだわりがなければしない調合まで始めた。
「リンはエルベシアだったんだ」
ブロウルのいる給湯室からの音が止んだ。
一拍置いてブロウルの鼻を響かせた返事が返ってくる。
「昨晩そう告白された。今晩はリンと相談の上で、それを打ち明けるつもりでいた」
「それで今晩、話をするかもしれねえって言ってたってわけか」
ブロウルの返しに俺がそうだと答えると、「でもおかしくね?」ブロウルは疑問を口にする。
「エルベシアってのは、人の生き血を啜る凶暴でイカれた奴らなんだろ? リンちゃんみたいな性格なんて真逆じゃん」
「いやそれは違う」
ブロウルの言葉に言葉が反射的に飛び出た。
その考えだけは、彼女の話を信じた俺が訂正しなければならない。たとえエルベシアの多数がそうであったとしても、反例の彼女をその括りに入れることは、許したくなかったのだ。
「エルベシアが人に頼らねば生きられない種族。多数派からの差別と迫害の果てに追いつめられて、そうせざるを得なかった」
「…………。」
「他のエルベシアは知らない。だが彼女は自分からそう告白したんだ……故郷の村を自分の手で潰したと」
「ボス――そんなヤツとは思ってないが、それが趣味の悪い冗談なら今すぐやめるべきだ」
ブロウルの低い声が部屋に響いた。
彼がそう言ったことは、俺への警告というよりも、それはむしろリンの尊厳を守るための形式上の言葉に思えた。
「リンはそのことにずっと苦しんでいた。何度も自殺を試みていた。俺はそんなこと全然分からなかった」
屋上のリンの表情が頭から離れない。
砂漠で初めて会ったときの彼女の顔。花屋の生活。笑うときはいつも少しさみしげだった。
……思い返せば、俺は一度リンが台所で血を飲むところに遭遇していた。
そのとき俺はリンが何か隠し事をしていることに気づいていた。まさかそれがそうだとは思っていなかった。だったと思う。わざわざ他人が隠しているものに、こっちから突っ込むべきではないと思っていたのだ。
「死ぬなら幸せなうちにって言ったんだ。自分を探して……引き止めてくれただけで十分幸せだと――」
俺が迎賓館に暮らしを移すときのリンの二転三転した言動が蘇る。
花屋を閉めるかどうかも迷っていたようだった。それから迎賓館についてきて、法律の本を借りて読んでるところで……そこで確か俺は、リンにどうして一緒に来る気になったのか訪ねたのだ。
彼女は俺に、行きたいと思ったから行きたかったのだ、と言ったことは覚えている。変に子供っぽいことを言うもんだと思っていた。
"私が迎賓館についていったとき、コウさんといれば、後悔とあの光景が脳裏に蘇る日々から開放されるような気がしました。新しい暮らしでもう一度、人としてやり直して、自分も、コウさんも幸せにできるような人でいたい――"
「なあブロウル。最低なことしちまった」
リンは生きたいと思ったから行きたがったのだ。
俺が殺したようなものだ。
リンがここに来た当初、死のうなどとは思っていなかったのだ。
彼女は最初は活動的だった。俺がいる所に寄ってきては、お菓子だの何だのと持ってきてくれていた。気づけばそれがなくなって、部屋に籠もるようになって、体調を崩して――
リンの変化に気づいていた。だが飛行艇計画にかかりっきりの俺は――いや。
俺は飛行艇計画が忙しいのをいいことに、対応している姿勢を出しつつ、彼女への対応を何度も何度も保留し、先延ばしにし、彼女からの自発的な行動に期待していたのだ。
問題と向き合うだけの十分な時間がありながら、俺は裏切ったのだ。
「そんなに卑屈になるな。お前はよくやってた。今までの行動は俺が見てたんだから間違いねぇ。それより神使様に二人の回復を祈ってるほうがよっぽど前向きだぜ」
「…………。」
「後悔してるってことは、相手のことを考えてるってことだろ」
ブロウルが花を蒸らしているポッドを、ティーカップと一緒に目の前のテーブルに置いて向かいのソファーに座った。
「他人がいつも自分の思う通りに動いてくれるとも限らねー。俺に彼女がいないのもそういうことだ。リンが納得してそうしたのなら、それを受け入れていいと思うぜ。ボスを誰も責めないし、むしろ俺はボスを誇りに思う」
「できることがあるまで二人のことを祈りながら待つしかない。まあ飲めよ」
ブロウルは花茶をカップに注ぐ。
彼に彼女がいないことを初めて不思議に思った。
「取り急ぎお願いがございます……お二方の治療にお力添えをいただきたいのです」
メルが医者から言付けを頼まれて俺の部屋に来たのは、それから少し時間が経ってのことだった。