第1話-19 計算式の彼女 そして逃亡
「ここはコンピュータの中だとでも言いたいのか?」
なにかと質問攻めではなかなか話が進まない、とりあえず話には合わせておくようにしよう。それが無難だ。世界のシミュレート、仮想空間と来ればコンピュータを連想するのが普通であろう。
「正解。補足して言うなら、このシミュレートは、膨大な数のコンピュータが連携して実行されているの。そのように私が認識させられている可能性もあるけれど」
「いまいち、いや、全く現実味のない話だな」
今俺のいる世界が仮想空間で、存在しない。んで目の前にいる二人が「私達システム!」と言い出す。ハイそうですか、と誰が二つ返事で信じるだろうか。俺はこの通り全く信用していない。しかしその存在を全く否定しているわけではない。俺の中でこれは夢なのではないかという有力な説が急浮上している。今この状態が俺が見ている夢であるなら、確かに仮想空間である。それにしては映像は色が付いていて非常に鮮明だし、外から漏れる雨音とかやたらリアルだが、この説が有力である点については変わらない。
「そうだと思う。いきなりこんな事言い出したら誰だって変に思うよね」
そう言うと今度は神子上が席を立ち上がってキッチンへ向かった。嵩文はそんな彼女を大人しく、ただじっと見ている。
「今からここがシミュレート空間だってこと、証明するね。これはリンゴ。そしてこれは包丁」
神子上はそう言って包丁でトントンと綺麗にリンゴを8等分にし、その一切れを俺に差し出した。
「食べてみて」
言われたとおり食べてみるが、何の変哲もないリンゴだった。冷蔵庫で冷やされていたようで、冷たさが心地良く、みずみずしくてうまい。ただ、やや渋みが……いやいや、何故俺は頼まれもしてないのに、産地不明のリンゴの評価をしている?
「リンゴでしょう?」
「ああ、普通にリンゴだ」
神子上はニコリと笑った。はて、このリンゴをどう証明に使うのか。今俺が見ているものが夢にしろ現実にしろ、自分では予想がつかない。一種のShowTimeを見る気持ちでリンゴを眺める。
「今からすることが手品でもマジックでもないことを証明するために、リンゴは一切隠しません。何の変哲もないこのテーブルの上に置くだけ。さらに私も零雨ちゃんも、このリンゴには触らない。見てて」
あまりにも無謀と言える条件だ。零雨に「あれ」をやって、と指示する。嵩文はうなずいて、テーブル上に無造作に置かれたリンゴをただひたすら見つめる。
――――ただひたすら。
「……眺めるだけか?」
「ほら、変化が始まった」
神子上の声に俺の視線は再びリンゴへとカムバック。見るとリンゴが少し茶色になっていた。……いやこれ、ただリンゴが空気に触れて酸化してるだけじゃね? そう思った瞬間、リンゴが砂になり始めた。それからものの10秒も経たないうちに、リンゴの水分はどこへやら、薄茶色の乾いた砂の山になってしまった。
誰も触れずに一瞬にしてリンゴを砂に変えることは、確かに現代の科学技術では不可能だ。かつもくしてみる。変化なし。頬をつねってみる。痛いだけで変化なし。痛い……夢ではない?
「触ってもいいか?」
「いいよ」
神子上にそう言われて俺は元リンゴだったその砂に手を伸ばし、親指と人差し指でつまんだ。学校のグラウンドと同じ質の砂だった。微生物が分解して作り出される腐葉土とは違う。どれは一体どういうカラクリなのだろうか。神子上は言った。
「仮想空間じゃないと、こんなことできないよね」
「ふむ……」
「信じてくれる?」
「これひとつじゃ地味すぎて説得に欠ける気がするんだが」
ご満悦そうな顔をしていた神子上の表情が曇った。
「こう言っちゃなんだが、他にこう、派手で超現実的な証明はないのか?」
「えっと、そういう問題?」
「そうだ」
俺が言い切ると神子上は固まった。確かにリンゴが砂になるというのは不可解な現象ではあるが、それは彼女たちが“あらかじめ準備していた”ものである。神子上の嵩文に対する「あれやって」という言葉で明確だった。予め準備していたということは、そこに説明可能な種や仕掛けを仕組んでいる可能性が否定できない。
「本当にこの世界が仮想であるなら、今から俺が言うことができるはずだ」
もし神子上の話が本当ならば、彼女の言う“特殊な権限”にはリンゴのような「本来あるべき結果を意図的に歪曲させる権限」が含まれていると考えられる。本当に仮想空間なら、俺が今ここで即席的に注文した無理難題をクリアすることができるはずだ。最初から用意している手品やマジックには出来ず、今の事象がその“特殊な権限”によって行われているからこそできるであろう事象、一つ考えついた。神子上は俺のその発言を聞くと緊張が解けたような表情をし、胸を張って言った。
「それで信じてくれるのなら、足立くんの言う通り、『やれ』と言ったことをやってあげる」
「それじゃあ、その場から一切動かずにテレビをつけてみろ」
「簡単」
その一言と同時にテレビの電源が入った。しかしこれではまだ弱すぎる。リモコンを隠し持っていれば簡単に済むことだ。次のお題がクリアできれば信じてやってもいい。
「そのまま動かずにフランスのネイティブな国営放送を映してくれ」
日本ではフランスの生電波は飛んでいない。原理的に映るはずがないのだ。外国の有名な放送局ならケーブルテレビで放送されていることもあるが、フランスはごく一部の局で翻訳されたごく一部の番組しか放送されない。しかし神子上はケロッとした顔で言うのだった。
「いいよ」
今俺が言ったことをちゃんと理解して了承したのか? タダのハッタリだろう。動くこともできずにフランスの国営放送を映せなんてのは不可能。
「零雨ちゃん、エッフェル塔の絶対座標は分かる?」
なぜそこでエッフェル塔。確かにフランスといえばパリ、パリといえばエッフェル塔、みたいな図式があるが……俺の理解の範疇を超えている。嵩文はそれに返す。
「絶対座標で……常に運動する物体の……位置を特定するのは……負担がかかる。……数値変動が微小な……地球測地系84を使うべき」
混乱が始まった俺に油を注ぐ形で「絶対座標より地球測地系84を使うべき」という理解不能な言葉が飛び出す。適当なことを言っているのか、本気の会話なのかすらわからなくなっている。
「その方式でいいから、分かる?」
「………………48.858333, 2.294444」
「ありがとう。監理局もあれ以来監視の目は厳しいはずだし……シールド張っておかないとね」
その瞬間、一発で画面が切り替わって外国人のニュースキャスターらしい人物が現れ、フランス語でニュースを読み上げるのを聞いて唖然とした。ガ、ガチでやりやがった……
「他にもこんなのとかどう?」
そう言うと画面がまた勝手に切り替わり、どこかで見たことのある人間がテーブルに座っている映像が写った。カメラに気がついていないのか、その人間は常にカメラとは違う方向を見ている。この顔、どっかで見たことがあるはずなんだが。誰なのかと思案しながら頬杖をつくとテレビの中の人間も同時に頬杖をついた。なんだ、俺によく似たただのドッペルゲンガーじゃねえか。頬杖をついていた手を小さく振ると画面の中の俺のドッペルゲンガーも寸分違わず同じように手を振った。よく見れば着ている服装も俺と同じである。……もう分かりきっている。この画面に写っているのが俺自身だ。無駄にハイビジョン画質で映すな。俺の汚れた心が映るだろうが! 謎の映像に神子上はクイズを読み上げた。
「さて問題です。どこから撮影しているでしょうか?」
「んなもん簡単だろ」
テレビ画面を見ながらそのカメラのある方に手を伸ばして指さした。テレビには指を指される映像が映っている。この方向で間違いない。隠しカメラはここだ!
「…………ってカメラないじゃねえか」
指さす方向には神子上しかいなかった。カメラはどこにも見当たらない。絶対どこかにあるはずだ。俺はイスから立ち上がってそのカメラの方へと近づいた。ホームセンターの防犯カメラ売り場に展示されているカメラの中で、どれが実際にテレビにつながれて実演されているのかを探し当てるように、と言うと正確でわかりやすいだろう。テレビを見ながら手探りで探していく。ぺたっという音と生暖かさを感じるとともに、そのカメラの視界が俺の手で覆われた。
「カメラはここ……だと?」
カメラを覆っていると思っていた手は、ちょうど神子上の両目を目隠ししていた。これは一体どういうことなんだ……手で彼女の目を隠しながら何がどうなっているかの状況整理を始める。俺は目を隠している。そしてそのカメラはその隠している範囲内にある。だがカメラは彼女にはない。つまり、「神子上の視点がテレビに映ってる」……? さらにテレビから声が聞こえてきた。
「ピンポーン、正解!」
「だあああああああっ!」
このバケモンは俺の予想を完全に超越している! 常人が触れてはいけない領域! 気がつけば頭よりも身体の方が早く動いていた。――――そう、逃亡である。
家のフローリングで足を滑らせてコケそうになりながらも、人間の動物としての逃走本能がそれを立て直す。二人がいるリビングを全速力で飛び出し、玄関より緊急脱出を試みるために全力で向かう! ほんの数秒の出来事だと思うが、俺の脳の火事場率100%認定のお陰で、時間の流れが非常にスローに感じる。あのドアの鍵を開けてドアノブをひねって飛び出すただそれだけ……あとは野となれ山となれだ!
ドアの開錠は実にスムースだったが、そこで一旦停止を余儀なくされる! 急げ、早くここから飛び出すんだ!
ドアが開いた。ここを出ればあとは自由に逃げ回れる――!
「デヤアアアアアア!」
外の灰色の雨が降る景色が見えた。靴も履かず傘も持たず、ただここから離れることだけを俺は考えていた。一歩目が出た瞬間感じた、靴下が硬い地面につく違和感! なんのこれしき! 二歩目を踏み出す! 違和感! 三歩目の足は重い! 靴下が雨水を吸っているからか! 足裏も冷たい! だがこのまま家まで逃げ帰れば!
そう思った瞬間から、なぜか俺の視界は進まなかった。前に進んでいるにも関わらず、視線は徐々に下を向いていく。――コケたか!
しかしゴツンという鈍い音を立てて地面と接吻するはずの俺の顔は、視線が下を向いた状態で静止していた。数瞬遅れて何かに支えられていることを理解した。
「……話は終わっていない」
俺のすぐ横からしたその声。飛び出した俺を抱えてキャッチしたとしか考えられない。 だが嵩文は今さっきまでリビングにいたはず。なぜ先回りできている!
「ダァ――ッ! おいコラ離せ!」
そんな俺の声を無視して嵩文は俺を肩に担ぐと家の中へと押し戻す。俺、情けねえ……嵩文に担がれたままリビングに戻って再びイスに座らせられた。俺が座るなり神子上は困ったような顔をする。
「雨の中鬼ごっこするのは得策じゃないと思うな、私。あなたの言うとおり証明しただけじゃない」
「違う、これは夢だ……こんなことがあるわけがない」
こんなのは夢でしかあり得ん。悪夢だ。だがいつから夢が始まっているのかが特定できない。俺と嵩文がファミレスで初めて会った日からなのか、今朝からなのか。夢にしては異常に鮮明な映像と五感とのリンク。嵩文が玄関の鍵をかける音が聞こえてきた、更にチェーンまでつける音も。
「私達はあなたと仲良くしたいだけなの」
「嘘だ、そんな単純な話じゃないはずだ」
神子上はそう言って俺の隣に座った。身体がのけぞる。俺についてまわってきた嵩文のことを考えれば当然だ。仲良くしたいとする相手がストーカーに走る理由がない。もしかしたら俺はここから出られないのかもしれない。そんなことも頭をよぎった。嵩文が向かいのイスに座った。
「大丈夫。難しく考えなくてもいいから、ちょっと落ち着こう。ね?」
神子上は俺の顔を覗き込んだ。俺と目が合うと微笑むが、それが真意なのかどうか俺には分からない。濡れた靴下の生々しい感覚が、現実なのか夢なのか曖昧にさせる。
「何か飲む?」
「いらねえよ」
ここで出される飲み物に何かが入っているかもしれない。いやもしかしたらさっきのリンゴにも何かが入っていたのかもしれない。これ以上この家のものを口にするのは危険だ。
「さっきはちょっと遊びが過ぎちゃったね、ごめんなさい」
手を俺の肩に乗せた。とっさにそれを振り払う。テレビを見ると電源が切れていた。時が経つにつれてさっきのテレビの映像が本当にあったことなのかどうなのか、曖昧になっていく。突然神子上が俺に体を寄せる。当然のごとく身構える俺に神子上は耳元でつぶやいた。
「落ち着くまで、待っててあげるから」
この物語はフィクションです。
作中「地球測地系84」の本来の名称は世界測地系84です。
聞き慣れない名前ですが、単純に経度緯度で現在位置を表す方法だそうで。