第5話-B63 不可侵の怪物 リンネ・エルベシアの告白 3
事が起きたのは、そんな掟破りも記憶から思い出になって久しい、十七歳のときでした。
私が独り身のお婆さんの家の庭の草むしりをしていました。お婆さんは家の軒先から、私が草むしりをしているのを、細い目で眺めながら何も言わず見ていました。
ちょうど、幼い頃に一緒に遊んでくれた年の近い女の子達が、その庭の脇を通りがかりました。
彼女たちは恋愛話をしていました。彼女達は私を見て小声で「アレよりマシでしょ」と、それぞれ顔を見合わせて笑って、通り過ぎていきました。
聞こえないように言ったつもりなのでしょうけれども、私の耳には、その程度の小声は私の耳元で話しているかのようにハッキリと聞こえるのです。
私は私、他の村人たちとは本質的に別世界の生き物なのだと悟った私には、その程度の言葉には、もう心動かされることはありませんでした。
しかし、その直後に聞いた子供の悲鳴だけは別でした。
それは家畜を飼っているあのおじさんの家からで、周囲を見渡してもその声に気づいた人は誰一人としていませんでした。
私は何も考えず、草むしりをやめて声の方へ飛んでいきました。
おじさんが飼っていた家畜の中でも、特に獰猛だと恐れられていた暴れ牛が、村のいたずらっ子の一人を襲っていたのです。普段は頑丈な縄で柱とつながれていましたが、このときは結び目が解けてしまっていました。きっと、肝試しか何かでちょっかいをかけて遊んでいたのだと思います。
青年になったいじめっ子の流れを受け継いでか、普段私に嫌がらせをしてくることもあった彼らの仲間は、駆けつけた私に助けを求めました。
「エルベシアなんだから助けてよ!」と言ったのです。なんて都合のいいことを言う子供なのだと、このときばかりは理不尽を感じました。
私一人の力で、イタズラ小僧を地面の上を乱暴に転がす牛の巨体を押さえ込むなんて、できる気がしませんでした。
しかし、ここで見過ごせばまた問題になります。来なければよかったと後悔しました。黙ってお婆さんの家の庭の草むしりを続けていれば、私はイタズラ小僧が起こした事件の第三者でいることができたのです。
躊躇した私の背中を彼らは押しました。こうしている間にも、彼は牛に傷つけられているのです。私は腹をくくって牛の首元めがけて飛んで、思い切り体当たりをかけました。そこからは、無我夢中で、牛の抵抗で激しく揺れ動く視界と態勢の中で、必死になって牛を叩いたり蹴ったりしました。そしてついに、私はその暴れ牛の首をへし折ったのです。
重傷を追った少年を抱え上げ、横たわって激しく痙攣する牛を見て、私は助けることができたのだと、呆然とした頭で思いました。遠目から見ていた彼らは、私に恐怖の目を向けていました。
彼らが恐怖の名残を感じているのかと思いましたが、そうではありませんでした。今まで白かった自分の翼が、ふと私の視界に映ったときには真っ黒になっていたのです。黒い羽根に青い羽根が模様のように、ぽつぽつと生えていました。
そこに、駆けつけたおじさんの怒号が飛んできました。
騒ぎを聞きつけたお父さんから、自宅にいるようにと言われました。
私の翼は、少しずつ色が抜けていって、一時間もすれば元の真っ白な翼に戻っていました。
私はあの少年のことが少し気がかりでした。いくら彼らが引き起こしたのだろう自業自得だとしても、激しく痛めつけられた彼が命を落としたり、一生の傷を抱えたりすることを考えてなお、心を穏やかにできるような私ではありませんでした。
お父さんは私に良くやったと褒めて、その牛の件で開かれた村の緊急の集会に出かけていきました。
私は、このことで自分が危険な種族ではないという大きな証明が、ひとつできたのだと思いました。乗り気ではなかったとはいえ、私が勇気を出して彼を助けたことは、ちゃんと彼らが見ていたのです。
しばらくして、お父さんが息を荒くして帰ってきました。帰ってきてすぐ、お父さんは私の名前を半ば叫ぶように呼びながら、部屋の扉を開けました。
ベッドの上に座ってじっとしていた私に、お父さんは目を剥いて尋ねました。
「お前はあの子をあんなになるまで痛めつけたりなんか……してない、よな?」
「あの子」は牛のことなのかと考えましたが、それもおかしな話だと思って、私は確か首を横に振って答えたと思います。
「そうだよな、すまない。変なことを聞いちまって」
お父さんはそう言って、ゆっくり扉を閉めると、早足で部屋の前を立ち去っていきました。それからすぐ、誰かが出掛けていく音がしました。
そして、私はいま置かれている状況を把握したのです。村の集会で、おそらく誰かが彼に重症を負わせたのは私だと主張していたのです。それはあのおじさんなのかもしれませんし、他の人かもしれません。分からないけれど、誰かがそういうことを口にしたに違いないのです。
そうでなければ、お父さんは私に確認をしに帰ってくるわけがありません。私のことをいつも信じてくれるお父さんが、私に確認をしにくるほどのことなのですから、きっと集会ではあることないことがひどく飛び交ったのでしょう。
私は無実です。集会に飛びこんで、そう話をしようかと考えました。けれども、それで事態が好転するなんて思えませんでした。それは命乞いのように思えて、それは私が犯した罪の許しを乞うことのように思えたのです。
あのお婆さんが集会で声を上げてくれることを信じるしかなかったのです。
日が暮れて遅くなっても、お父さんは集会から帰ってきませんでした。
あまりにも遅いので、お母さんとロンの三人で先に夕食を食べましたが、私は集会のことが気になって、あまり食べられませんでした。
お父さんが帰ってくるまで、私は自分の部屋で待っているつもりでした。けれども、私はベッドの上に倒れ込むようにして寝てしまって、気がついたら朝になっていました。
朝の食卓はいつもより静かでした。家族揃って顔を合わせて食事をしているのに、誰もなにも話しませんでした。
私は勇気を出して、少しやつれた様子のお父さんに、昨日の集会のことについて尋ねました。お父さんは「ああ」と一言応じて、それから「まだ話し合いが終わってないから、なんとも言えない」と答えました。
そのときの、お父さんを見るお母さんの目つきは、とても悲しそうでした。今思い返せば、そのときには既に、村で結論が出ていたのだと思います。
お父さんはこんなにやつれているのに、何もせず家でじっとしている自分がいたたまれなくなって、お父さんにできることならなんでも協力すると言いました。ロンも加勢して、お姉ちゃんは人助けをした、ただ単純なことなのに、どうしてそれを誰も認めようとしないんだと言いました。
お父さんは、なんとも答えませんでした。
今日は二人とも、外に出てはいけない、自分の部屋でゆっくりしてなさいと、お母さんは言って、食べ終わった食器を片付けはじめました。
自分の部屋に戻って少しすると、階下から両親が口論する声が聞こえてきました。しばらくしてまた、お父さんと、それからお母さんも家を出ていきました。
一日中、自分の部屋で暇な長い時間を過ごしました。外はよく晴れていて暖かく、何気ない、穏やかで元気そうな村の日常が窓から見えました。
私は自分の部屋の掃除をしてみたり、引き出しの中の思い出の品を眺めてみたり、読み飽きた本を捲ったりしました。それでも、村の雑用をしていた時の時間の流れよりも、そのときはうんと長く感じられました。まるで神使様の、私への贈り物のようでした。
途中、ロンが私の部屋にきて、お姉ちゃんは無実なんだから、村人にちゃんとそのことを伝えようよと言いにきました。私がそんなことをしたところで、ありもしない許しを乞うているように聞こえるだけだと、ロンに言いました。
するとロンは、私の部屋に押し入って、部屋の窓を開け放って「お姉ちゃんがなにしたってんだ、いままでお姉ちゃんが誰かを傷つけたことが一度だってあったか」と、そんなことを何度も、何度も叫びました。
ロンの脇から外を覗くと、外にいた村人たちの顔が、こちらを向いていました。放っておけば、一日中、叫んでいそうでした。見ていると急に涙が溢れてきて……溢れてきて、私は彼を窓から引き剥がして、ベッドの上に放り投げました。何をするんだと抗議した彼に……もうやめてと……私は言いました。
…………ごめんなさい。続けます。
夕飯は、いつもより少し遅かったですが、家族揃って食べることができました。私の好きなスープもありました。
食卓に座ると、お母さんは泣きはらした目をしていました。お父さんも俯いて、私と目を合わせませんでした。
食べながら、今日は外で何をしてきたのか尋ねましたが、二人ともはぐらかして答えてくれませんでした。
私は、最後まで取っておいたスープに手をつけました。口の中いっぱいに、鮮烈な鋭い感覚がしてむせて、反射的に口に含んだものを、容器に吐き戻しました。
今までに経験したことのない味でした。それが何なのかを悟って、私がすべきことを果たそうと思いました。
もう一度スープに手を出したとき、お父さんの太い腕が伸びてきて、その容器を弾き飛ばしました。スープは床に広がって、容器が転がりました。
「やっぱりなしだ。こんなもん娘に飲ませられるか!」
お父さんは「ごめんよ、辛い思いをさせて」と謝って抱き寄せました。とても力が強くて、苦しいほどでした。
すぐお母さんが水を持ってきて、スープには猛毒が入っているから、口の中の毒を吐き出しなさいと言いました。
口の中の毒を吐き出したあと、私は両親から、この二日間、村でどういう話し合いが行われていたのか聞きました。
村の集会では、今回の事件はリンが犯人という前提ありきで進んでいったこと、お父さんが反論しても誰も耳を貸さなかったこと、向かいの家のおばさんも、当日草むしりを頼んだおばあさんも何も言わなかったこと、私の犯行を見た証人として、あのおじさんがいたこと――私のエルベシアとしての種族の凶暴性が表面化したと結論づけて、村は私の両親に毒殺するよう命じて集会を終えたこと。
今、家の周囲を村の屈強な男達が囲んでいて、しばらくすれば、彼らが私の死体を引き取りにくる手はずなのだと言って、両親は泣いて詫びました。
私は両親を責めることなどできませんでした。それは村で生きていくためのやむなき判断で、両親は最後まで必死に抵抗したのです。そして、この事態のすべての引き金を引いたのは私なのです。
毒殺を放棄した今、私達はこの状況を……どうすることもできなくて……そうこうしているうちに、気の短い彼らが家の戸を叩いてきたのです。
お父さんは、私とロンに屋根裏に隠れて、地図を持って逃げる準備をするように言いました。お母さんは、なんとかしてこの場をしのぐからと言いました。ロンは両親に協力すると言いましたが、お父さんに一蹴されて、何かあったら私を守るように言いました。
私とロンは屋根裏部屋に隠れて、ハシゴも引き込んでフタをして、真っ暗な場所でじっと息を殺していました。息が上がって、胸がこれまでにないくらい激しくドキドキしました。
それからすぐ、階下から怒号が聞こえました。お父さんと村の男がやりあっているような激しい音も伝わってきました。男の人の叫ぶ声が聞こえて……お母さんの悲鳴が聞こえて……それから、それから――お母さんが大声で何かを叫んでいました。はたと、争う音も声もしなくなって……
ロンが魔法で指先に火を灯して、カバンを抱えて持ってきたんです。地図と宝石と、少しばかりの食料が詰め込まれていました。
「もしものことがあったら、これを持って逃げろってオヤジが。俺は様子を見てくる。六十数えるうちに戻ってこなかったら、お姉ちゃん一人で逃げて。気をつけてな」
あのバカはそう言って私にカバンをぐいと押し付けて、私の声も待たずに屋根裏を飛び出していきました。もうどうしていいのか……何をどうすれば正解なのか、全くわかりませんでした。
バカな姉は、弟に言われた通り、誰もいない暗闇の中で怯えながら、ただひたすらカバンを抱えて数を数えていることしかできなかったのです。
六十を数えても、百を数えても、ロンは戻ってきませんでした。気がつけば屋根裏に煙がたまって、部屋が耐えられないほど暑くなっていました。彼らの誰かが私の家に火をつけて、隠れた私を炙り出そうと、あるいはそのまま焼き殺そうとしていたのです。
数えるのをやめて、屋根裏にある使えそうなものを探すと、短剣がありました。私は、肩からカバンをかけて、短剣片手に屋根裏を飛び降りたのです。
飛び降りた部屋にも、火が放たれて、異臭がしていました。部屋の出口を出た先で、弟の頭のない死体と、その近くに転がった頭が、真っ黒になって燃えていました。ロンの身体が動いたので、まだ生きているんじゃないかと駆け寄りましたが、身体が炎で焼けて引きつっているだけでした。
気が狂いそうになって、どうしていいのか分からなくなって、涙が溢れ出て、足の力が抜けてしまって、膝をつきました。どうして私は……今握っている短剣をロンに持たせなかったのでしょう。
あんなに私のことを思ってくれたロンを……あんな惨たらしい死に方で――
――ごめんなさい……少しだけ、時間をください。




