第5話-B58 キカイノツバサ 袋小路
「とにかく入れ」
ドアを広く開けてリンを中に引き入れる。
日中、懸垂をしていたときはこんな様子を見せる素振りすらなかった。悪い想像でもしてしまったのだろうか。それとも、まさか襲撃にあったとか。
ドアを閉めて、固く施錠を施した。
「誰かに襲われたのか?」
リンは首を横に振る。真っ白な手が震えていた。
助けてとは言われたが、襲撃じゃないとしたら一体なんなんだ。
「どうした、何があった?」
「…………。」
「座って話する余裕はあるか?」
リンは答えなかったが、その問いに首肯した。
何に困っているのか口で説明していただきたいところだが、彼女がそんな軽口を受け止められるような精神状態ではない。
「とりあえず、なんか飲むだろ」
リンを応接室のソファに座らせて、給湯室に入った。
前回はロイドに茶を出して失敗したが、敗因は把握している。今回は大丈夫。
この前と違うところは、まずは水を用意する必要があるところである。台所横の、焼却炉の蓋のような簡素な扉を開けると、暗い空間と2本のロープが見えた。井戸だ。
真下の部屋に入ったことがないので想像になるが、恐らく同じ場所に給湯室があり、この建物を縦貫する井戸を共用していると思われる。ロープを手繰ると、固く括りつけられたナスカン状の金具を見つけた。ここにバケツの取っ手をカシャンと固定して使うようだ。足元に底面が逆さになるように置いてあった。
汲んだ水を小鍋に少量入れ、かまどに火をつけるために、薪を入れ、指で火魔法を起こす。
「――またかよ」
また、符丁を描いても火がつかない。生水飲めはキツい。何度かやり直してみるが、火がつかない。よりによってこんな大事なときに。
「火つかねぇな……おっと」
数十秒ほど格闘し、そう呟いてやけくそになって符丁を繰り返していると、突然指先に火が現れた。そのまま薪に火をつける。指が熱いが、我慢あるのみ。
ふと後ろに気配がして振り返ると、応接室から顔を出すようにリンがこちらを覗きこんでいた。
「湯ができるまで座ってゆっくりしてろ。んで茶を飲めば八割がた気分が落ち着く」
本当は沸かしている間に話の一つでも聞けるのだろうが、何か異常が起きたときのことを考えると、早急に対処するためには、かまどの前を離れることができない。
ガスコンロと違って、かまどは容易に火が消せない。扉を閉めれば比較的すぐ消えるが、コンロのツマミを捻れば火が消える簡便さに比べれば、手間のかかる道具である。
「待たせたな」
「…………。」
少し時間が経って、花茶が出来上がった。今回はうまくできた自信があった。抽出時間も十分にとった。
応接室のテーブルに茶を並べる。といっても二つしかないのだが。テーブルの上が少し淋しげに見えた。
「すまんがちょっと待ってろ」
給湯室に何か気の利いた菓子はないだろうか。
突然の来客への対応用に用意があることを期待して、給湯室の収納扉を開ける。ない、ない――ビンゴ。メモが貼られたガラス瓶の中に、クッキー発見。
「"よなかに おなかがへって どうしようもない おこさまよう"――うるせぇグレア」
一人ごちて、そのうちの一枚を手にとる。見た目異常なし、香りよし――味もよし。虫も湧いていない。食べられるだろう。
木皿にクッキーを盛って、応接室に戻る。
「多少は落ち着いたか?」
リンの隣に座るべきか、向かい合って座るべきか。少し迷って、リンと向かい合って座った。
隣にスッと座ることに若干の抵抗があった。空いている電車の座席に座るときに、隣の席より一つ空けて座るそれと似た心理が働いたのだ。
本当は、隣にいたほうが良かったのかもしれない。そう思いつつ花茶を一口。匂いは良かったが、ちょっと変質していたのだろうか。それとも、何か淹れ方を間違えたのだろうか。あまり美味しくなかった。
リンは両手でティーカップを持つと、ゆっくり口元に持っていく。上目で一瞬俺を見る。
「そろそろ、話を聞かせてくれ。どうした」
「…………。」
「…………。どうしたのか言ってくれないと、俺もどうしようもない」
リンは黙って下を向いて、両手に持ったティーカップの中身をずっと見つめていた。
まだ手が震えていた。
「俺は迎賓館に来てからリンが元気なくなったように感じているんだが、それは俺に頼ろうと思った理由と関係しているのか?」
「…………。」
「なぁ……」
十分の沈黙。固まったようにリンは何も言わなかった。相当言いづらいことなのだろう。困るとお茶に手を出すのは俺の癖かもしれん。
夜の静寂。窓越しに外の木々が風にざわめく音しか聞こえない。ここは俺の黒歴史エピソードの一つでも披露するべきか。背伸びをしてソファに両手をついてくつろぐ。
「まあ気楽になれ。俺にできることにゃ、できることなら手助けできる」
こんな場面でも、噛むときは容赦なく噛んでしまう俺である。
「――なさい」
「ん?」
「ごめんなさい……ここまで……」
どういうわけか、みんな俺の前で泣く。クラリもグレアも、そして目の前のリンまでも。
俺には人を泣かせる才能があるのではないかとさえ思ってしまいそうなほどだ。
「ずっと……力になってくれるって……言ってくれてたのに……ごめんなさい……」
「今話せば、いいじゃねえか。自分にとっちゃ大ごそでも、他人から見たらそうでもなかったりする」
深夜だからだろうか、頭がぼんやりしてきた。
クッキーに手を伸ばして口に入れ、脳の活性化を促す。パサついたクッキーが口の中の水分を奪う。花茶の中身を飲み干して、口の中を潤す。
ティーカップから流れたお茶とともに、異質な味の何かが舌に触れた。
「ん」
――溶け残った砂糖のような、少しドロついた何か。何だこれ。少なくとも、この味は砂糖でも塩でもないし、こんなものを入れた覚えはない。石鹸のような苦味というか、なんというか。
「ごめんなさい……血をください」
「え、なにそれ刃物?」
リンの袖の下から、それはそれは銃刀法で引っ捕らえるには十分に長い刃渡り十五センチほどの短剣の柄が、震えの止まった手に握られ、ごく自然に、さりげなく現れる。
その暗器を何に使うかといえば――俺に切先を向ける。
「いやいや待て早まるな! ふぁけわかんねえしその得物はいったん袖ん中に戻して話ワァオ!」
泣きながらテーブル越しに刃物を振り回すリン。とっさに身体を引いてソファに体を預けると、元いた自分の場所に、横薙ぐ刃が通り抜ける。あっぶね。間一髪斬られずに済んだ。
慌てて足をソファの座面に乗せ、応接室から逃げるために立ち上がる。身体の感覚がどんどん薄れていく。平衡感覚がおかしいのを、視覚の傾きでなんとか対応する。変な薬を混ぜられた。さっきからロレツが回らないのもそのせいで間違いない。
「助けて……コウさん……」
「そりゃこっちのアレだ!」
ソファーをおぼつかない足で駆け、床に飛び降りる。バランスが崩れて膝がつくが、なんとか体勢を戻して応接室を飛び出す。執務机の上に適当に置かれていた護身用のリボルバーが目に留まる。言うことの聞かない手で取り落としそうになりながらも掴む。
応接室から短剣を手にゆっくり出てきたリンに銃口を向け、その場で両手で構える。
「ぶぎを下ろせ。お、ま、えのよりこっちのほうが射程も長い」
リンの次の攻撃を避けられる確証はない。両手で持っているにも関わらず、銃の照準が定まらない。
彼女は、警告を無視してゆっくり歩み寄ってくる。俺は距離を保つように、部屋の廊下に出るべく、銃口を向けたまま後退を続ける。リンを部屋に入れるときに鍵を閉めちまった。ちくしょう。
心臓だけは暴れるように脈打っているだけは分かる。
「コウさん……身体がふらついています」
パァン。大きく近づいたリンに、銃口を下に逸らし、耳をつんざく実弾入りの威嚇射撃の発砲音。しっかり握れない手の中で、銃が暴れる。
彼女はその音に驚いて翼を広げる。今日の日中見たときは白かった翼が、今は黒い羽根に入れ替わっていた。いつから? 俺が部屋に入れたときに翼が黒かったら気づくはずだ。
今の一瞬のスキを突いて、物語の主人公よろしく廊下に脱出できれば、まだ助かる見込みはあったかもしれない。だが、まだドアまでの距離は遠い。
「!」
不意に、バッと駆け寄ったリンに、身体の反応が遅れる。
本能的にそれを防ごうと飛び出た両腕を、彼女は下から蹴り上げる。手に持っていた銃が弾き飛ばされ、その重い一撃かあるいは薬のせいか、俺の身体は直立を保てず地面に倒れていく。
「くぅっ!」
仰向けに倒れ、思い切り頭を打ち付ける。視界がブレる。衝撃で肺から空気が飛び出す。薬の功は、その痛みさえもマヒさせたことだった。しかし当然、満足に動けない身体ではそれを十分に活かすことはできず、そのままリンは馬乗りになる。
その上、薬は俺の意識さえも急速に崩しはじめる。詰んだ。完全に詰んだ。
「ごめんなさい……助けて……」
視界に彼女の悲しそうな、苦しそうな表情が一杯に広がる。
リンはその短剣で俺に何かしているようだったが、もう身体は動かない。激しく動いていた心臓が、薬のまわりをよくさせたのだろう。
俺が意識の最後に見た景色は、リンが俺を抱擁するように倒れてきたところだった。