第5話-B52 キカイノツバサ 無策
渡し板が架けられたのは、どうやら甲板の二層下の階だった。破孔が頭上の床を一部えぐりとっていて、そこから煙が吹き出ていたし、頭上の板が甲板の板だとは、船の大きさから見ても到底思えなかったからだ。
内部は赤黒い光がちらほら見え、照明を持ってこなくとも、なんとかなりそうだった。あったほうが見通しはずっといいのには変わらないが。
照明を用意してこなかったことを後悔した。
「あっつ……」
さっきから熱いとしか言っていないが、本当に熱線が強烈なのだ。重防御の身体の中で、唯一生身を晒している目が痛くなるほどの熱と煙。涙が出てくる。
キャンプファイヤーでくべられた薪の下層に飛び込んでいるようなものだ。 この装甲は提供してもらった捨てて構わない衣類でできている。破いただとか焦げただとか、そういうことを気にする必要はない。
この感覚だと効果が切れて燃え始めるまでもって十分、いや五分も耐えられるかどうか。
時間がない。破孔から新たに供給される新鮮な空気が、火災を急速に広めて、脱出できなくなる最悪のケースだって考えられる。
「とりあえずこっちだ」
煙を吸わないよう背を屈めて船尾へ向かう。縄や木箱、補修用の資材らしき板や金物があちこちに散乱していた。
中をくまなく探すだけの時間はない。もし俺が船内にいて、火事から逃げ遅れたとするなら下層に逃げる。まず甲板や甲板にすぐ出られる場所にいたなら、さっさと逃げているはずだ。
下なら火の手が回ってくるまでに多少時間がある。悪あがきにはちょうどいい。
「どこだ……」
歩きまわっても、階下に降りる階段が見つからない。足元に空間があるのは、突入位置と床の高さから分かっている。人や物を運ぶ船が、最大積載量を下げてまで巨大なデッドスペースを作るとは思えない。
ちきしょう。船内の構造を調べておくべきだった。思いつきの作戦の代償だった。
辛いことをしているときの体感時間ほど延びることはないが、とにかく突入から体感でおよそ三分だ。
水が蒸発しているせいか、身体が身軽になっていくのと同時に、俺の肌に触れる水が徐々に湯に変わってきた。
心臓が暴れるように鼓動を打つ感覚と、俺自身の状態を気にしていたからこそ分かる、次第に削れていく意識。
空気ボンベなんて頼もしい装備がないくせに、俺の活動時間の想定はあまりにも楽観的だった。
引き返すことも真剣に考えはじめたそのとき、俺は船体中央と船尾の中間付近にいた。そこで気づいたのだ。二、三度さまよい歩いたその通路に存在する、木製の四角形の蓋の存在。通路に沿って縦に並ぶ木目の中で、その蓋だけ横に木目が並んでいる。しかもご丁寧に蓋が取りやすいよう、コの字型の切り欠きまでついている。
「こいつか!」
切り欠きに手を入れ、蓋を放り投げる。
穴を覗くと背後の火炎が、穴の直下の倒れたハシゴを照らす。下りても、あのハシゴで戻ってこれる。
床までの高さはおよそ二・五メートル。なかなか飛び降りることのない高さに足がすくむ。
ここでケガは絶対に避けるべきだ。物語ならばクールに飛び降りて颯爽と捜索するのだろうが――着地したときハシゴを踏んで足を捻ったり骨折したりする可能性のある現実では、まずやるべきではない。
「ふん!」
穴の縁に手をかけてぶら下がる。握力を司る鍛えられていない筋肉に緊急出力が命じられる。手をも覆う衣類の重装備。手を曲げることそのものに対する抵抗も大きかった。
そっと手を離して着地する。足元のハシゴで少しばかり足を捻ったが、少しぷらぷらさせれば、なんともなかった。上から飛び降りていたらまずケガしていた。危ねえ。
この船室の壁は曲線を描いて足元にしぼむ形になっていた。船殻。最下層だ。
天井からの燻る煙が中に吹き出すようにして入ってはきているが、まだ火の手は及んでいない。最後の空間だった。
「はぁ、はぁ――」
ここの空気も熱い。熱いが、さっきまでいた通路よりも、火に直接当たらない分だけずっとマシだった。息をしている新鮮な感覚もある。
「ん!」
この何も置かれていない薄暗い船室の奥で、壁にもたれるように力なく座っている人影と、そのすぐ近くに白く光るランプがあった。一気に気が引き締まる。俺達はこの状況から人影救うために、ボロボロの作戦を強行したのだ。
「おい!」
声を出して駆け寄ったが、人影――工具を腰の作業ベルトに差しこんだ、白髪混じりの、見た目四十代のオヤジは反応しなかった。
生きてはいる。顔面蒼白、口を開け、肩が頻繁に上下に動いている。
「おい起きろ!」
手で小刻みに頬を叩くと、オヤジは重そうに目を開けた。
「俺が分かるか?」
何かを伝えるように口を動かし首を振り、姿勢を崩して自ら仰向けになる。
「おい待て! こちとらお前の為だけに恩を押し売りに来てやってんだ! おとなしく買ってもらわにゃ困るんだよ!」
そう言った瞬間、部屋が一気に明るくなった。橙の光が熱線を放ちながら部屋全体を照らし尽くす。
とっさに男の上に覆いかぶさり、丸まってその炎をやり過ごす。直炙りとか想定の範囲外だぜクソが!
「あぁぁ熱い……熱ぃ……」
マジ死ぬ。てかこれ死ぬパターン一択しかねぇ。
待ってましたと言わんばかりのレスポンスで、俺の脳内にて人生のスタッフロールが、これまでのシーンをバックに振り返りながら上映される。ところが、開始数秒で炎は急速に収束。
振り返ってその火炎の出どころを探すと、今さっき降りてきた穴から吹きこんでいた。どうやらここの潤沢な酸素という資源を見つけて歓喜の炎を上げたらしい。
九死に一生だった。間違いない。そして生き延びた俺の手元にある課題。
今の吹きこみでこの船室に燃え広がり激化する火災、急激に苦しくなった息と、限界に近づく水装甲、加えて助かる気皆無のオヤジ。
「生き延びてもクソみてえな現実しかねえ!」
ここに長居すれば、確実に俺も死ぬ。頭で想像していた突入前と比べて、一つ一つの事象が、映画館などおもちゃに思える空前のド迫力で降り注ぐ。むしろこの中で生きている俺が不思議なくらいだ。
炎が収まったのを見計らって、穴の下まで走ってハシゴを立てかける。今の炎で焦げついたようだがまだ使える。
ハシゴを上り、頭を出して上の階の様子を見る。入る前よりも火勢は強いが、そんな大した変化じゃない。手近に転がっていた縄を手に掴んでハシゴを降りる。
引きずり下ろすと縄にも火がついていていた。縄の火を足で踏み消すと、燃えたところで縄が切れる。両方とも、床に垂らせば足の付け根に縄がギリ届かない長さ。俺の座高から逆算するまでもなく、明らかに一メートルもない。
「マジか……」
倒れこんだオヤジを見る。あの状態だと脱出に時間がかかる。ハシゴを越えるためにはとりあえず縄があればなんとかなるかもしれないと思って持ってきたのだが、新しい縄を探すべきか、あるいは一旦船外に出て応援を呼ぶべきか。呼べるとしたらブロウルがいる。
だが一度出て入り直したときには、もう助けられないかもしれない。その可能性は高い。天井が崩れることは、すなわち床が崩れるということだ。
「なんとかしてやる。縄は転用だ」
オヤジさんのものだろう、ランプの取っ手の穴に縄を通し、縄を結んで輪を作って俺の首にかける。魔法で光らせるタイプだったので、火の心配はしなくてよかった。おかげで行きよりも視界が確保しやすくなる。
「行くぞおやっさん! 飛行艇ができるまで死んでもらっちゃ困るんだよ!」
彼の上体を無理やり起こし、オヤジの片腕を引っ張って背中に回す。この俺の動きを、彼は嫌がる様子も見せなかった。もうろうとしているのだ。
こんな俺も半分肩で息だ。冗談でも言ってなければ、息苦しさが辛い。
足の間に腕を差しこみ、彼の身体を首に巻くように肩に担いで立ち上がる。いつだったか、学校の特別授業か何かで、体育の先生監修のもと、この動きを教えこまれたのだ。ファイヤーなんたらと名前がついてた記憶があるが、思い出すだけの酸素がない。
「せい!」
俺が突入役になったのは、これを扱えるからだ。テストにはクソの役にも立たないが、非常時に役立つ技。記憶の片隅に入れておいて正解だった。
いくら身体の軽い有翼人とはいえ、四十キロはあるだろう彼を軽々と持ち上げられる。それがこの技の特徴。
「ぬぅぉぉぉぉぉ――!」
しかもこの技は相手の体重を肩に乗せるため、使うのは片腕だけで、もう片腕は自由に扱える。
ただ、人を抱え、片手を塞がれた状況でハシゴを登るのはそれでもやはり辛かった。肩車をして立ち上がるような動作を何度も行う。酸素、体力、熱。見上げればたかがニ・五メートル。この状況では地獄のような高低差に思えた。
「ぐっぬぁぁああ――ぎっづぁ!」
ハシゴの頂点まで上りつめ、先に男を床に転がす。いくら口で息をしても、肺が膨張と収縮を繰り返すだけで、空気が吸えない。
この穴を見つけたときよりも、火の勢いはあからさまに増していた。天井には炎のカーペットが敷かれ、壁からもとぐろを巻くような炎が飛び出し、火の粉が舞う。
ほんの少し目を離した隙に、ここまで一気に燃え広がるものなのか。
最大火力という表現を申し分なく使える勢いの炎相手に、もはや俺の水装甲はほぼ無力に等しかった。まともに目を開けてさえいられない。
今はまだないよりはあったほうがマシ、しかしグズグズすれば、あっという間に歩く松明で間違いない。
俺も床に足をつけた。帰り道が床だけ火がついていないという俺へのご褒美をこめた花道仕様だったら心底ありがたかったのだが、現実がそんなこちらの心情を察して用意してくれるわけがない。
オヤジを肩に担いで、燃えはじめる床を足で踏みつけて出口を急ぐ。次第に身体に力が入らなくなってきていた。はじめは小走りで駆けられたが、ものの十メートルもしないうちに体力が切れて歩いてしまう。酸素がほしい。立ち止まる。力の入らない足が震える。
「まだ、まだだ――」
ここは出口じゃないぜ俺さんよ。ここまで頑張ってきて、くたばるってそりゃないぜ。明日から頑張るって溜めた俺のエネルギーはその程度か。
自分を奮い立たせて、全身の力を足に集中して再び駆ける。痛いほどに熱い足。だがここにいればいるほど命が削れていく。
「はぁ、はぁ――」
一歩足を前に出すたびに足が砕けそうになって転びそうになる。
肩に担いだオヤジを下ろせば、もっと早く出口にたどり着けると、考えが頭を横切る。
「まだ、冗談を、考える余裕は、残って――」
走れ。急げ。死ぬぞ。
走って、歩いて、走って、歩いて、歩く。幾度繰り返したかさえ朧に消え、無限にも続くように思えた赤い光の一部に穴が開くその場所にたどり着いた。
破孔だ。