第5話-B37 キカイノツバサ 重圧
早起きは三文の徳というが、その利益は現代の金銭感覚に換算すると70円程度らしい。一方、現代日本の労働における最低賃金は、600円以上になるのは確かだ。仮に600円で計算したとて、70円の価値は7分。早起きという苦行を課してまで得られるものがその程度でしかないならば、俺はベッドで丸まっている方を選ぶね。
そんな感じのぐうたらライフを日々実践しようと試みる俺と、それを妨害せんとすグレアの攻防が日々繰り広げられるということはもはや言うまでもないが、起きようと強く思うだけで正しく機能してくれる体内時計というものは、よく出来ていると感心せざるを得ない。時刻調整が済んでいるのはグレアのお陰か。
早朝五時半。まだ多少の疲れは感じるものの、俺は体内時計の時報で目を覚まし、ベッドから降りる。
窓の外の景色は明るくなってきているもののまだ暗く、いくらグレアでもこんな時間に布団を剥がしには来ない。
もちろん、俺がこんな時間に起きたのはベッドで丸まっているより大事なことがあると判断したからで、その事柄といえば、もっぱら飛行機かグレアのことである。
俺は執務机に座って、引き出しから白紙の羊皮紙を二枚取り出し、筆記用具を手にとった。
「ふあぁー……」
俺自身マヌケだと断言できるあくびをかまして手を動かす。
"所用で席を外している。早めに戻るので朝食は準備したままにしておいてくれ"
当然ひらがなである。
「他のメイドとはうまくやっている」と、以前グレアは話していた。エントランスで紙飛行機で遊んでいた時のメイドたちの反応からも、どうやらそれは事実らしいことはなんとなく推察できた。
昨晩は答えを濁したが、正直今も俺はグレアをどうしたらいいのか分からない。本当に連れて行っていいのだろうか。連れて行くことは許されるのだろうか。政争に巻き込まれたグレアの避難先の役割をしている迎賓館から、連れ出していいのだろうか。両親に会いたいと彼女は言ったが、我慢させるべきじゃないのか。
昨晩のメイドたちと思われる足音からして、グレアが神都に行きたいと申し出た件について、彼女らは知っているに違いない。彼女たちの本音が聞きたいと思ったのだ。俺のそばには常にグレアがいるが、彼女のいる前では本音を吐きにくいだろう。俺一人で、グレアに知られることなく腹を割って話し合うためには、早朝か深夜しか時間はない。そういうことだ。
もう一枚の羊皮紙にも書き込んで折りたたみ、俺は寝間着のまま廊下に出るドアに手をかける。
そういや、先日ブロウが朝五時に迎賓館に突撃してきてドタバタしたという話を聞いたな。グレアも朝は他のメイドたちと仕事をしている可能性がある。グレアに見つからないよう願いながら事を進めるしかない。
ドアをそっと開け、隙間から廊下の様子を覗きこみ、人がいないことを確認。クリア。廊下に出た。
「何で俺ばっかり……」
口からこぼれ出た。クラリの時もそうだったが、自分や他人の命が関わってくる選択を、どうして俺が引き受けにゃならんのだ。
自分の命は自分で守れよ、自己責任だろ。そう割り切れれば、自分の命さえ心配していればそれで済む。グレアを神都への旅行に連れて行くことができるだろう。
グレアが道中力尽きるようなことがあったとき、彼女は死の間際、一緒についてきたことを後悔するのではないか。そして、連れて行って欲しいと頼まれた俺が、出発前に引き止めて却下していれば、もしかしたら別の拍子に巡ってきた両親との再会のチャンスに乗って、夢を叶えることができたのではないかと後悔しないか、俺は不安なのだ。いや、不安なんかじゃない。責任と死の関与への恐怖だ。
「神都に行きたいだなんて、軽々しく言ってくれるなよな……」
早足で廊下を歩く。
自分の判断で、人が死ぬかもしれない。貴族の生まれの、それもより高貴な家柄のグレアの殺生与奪に関わるかもしれない判断。その巨大な重圧感で、今にも胃が擦り切れそうだ。こんなの俺一人で決めきれるわけがねえ。
階段を少し降りたところで、手すりから身を乗り出してエントランスホールを見下ろす。誰もいない。静かだ。
恐らくメイドはもう起きていたりするのだろうが、一体どこにいるのだろうか。
「ちょっとそこの人おはよう!」
不意にエントランスホールを横切ろうとするメイドが現れ、俺は声をかけた。もうすこしいい声の掛け方はなかったのかと俺自身もツッコんだが、後の祭りである。幸いにして俺の声に気づいてくれた彼女だが、エントランスには誰も居ないと油断していたようで、思いもがけない声が思いもがけない方向から浴びせられたことに肩が飛び上がり、瞬時に翼を広げた。立ち止まって俺を見つけると、すっと翼を畳んでおはようございます。深々と一礼。良かった、捕まえた。
と思いきや挨拶を済ませて去ろうとする彼女。
「待った待った待った! 君に頼みがある!」
逆に今度は俺が慌てる番になった。とっさに引き止め、階段を駆け下りた。
「アダチ様、私にご用ですか?」
「ああ、君にご用だ」
引き止めたのは、見た目グレアよりも年上そうな、若くて名前も知らないメイドであった。しかしそれはむしろ、頼み事をするには好都合だった。俺は折りたたんでポケットに入れていたもう一枚の羊皮紙を取り出し、彼女に差し出した。
彼女はついさっきまで、俺の世話はグレアが全て請け負うし、自分は集会などで必要なときに駆り出されるだけの派遣的立ち位置、自分は近い場所で働いているだけの単なる部外者だと思っていたのだろう。受け取ってもよろしいのでしょうか、彼女の戸惑いの様子は俺にそう訴えかけていた。
「これをグレア以外のメイドに見せて欲しい。グレアにはこのことは一切言ってはいけないし、暗にそれを伝えることもしてはいけない。グレアに対して機転を利かせる必要も一切ない」
「……昨晩のことですか」
「知ってるのか」
問うと彼女は首を縦に振った。
「はい。私達はみなあの子のことを知っていますから」
「つまり、迎賓館の中で知らなかったのは俺だけ……だったのか」
「申し訳ございません。しかし、あの子のことは簡単に教えてよいものではありませんから、どうかご理解を――」
知らないメイドも多くいると思っていたが、まさかここで働く人のほとんどが知っていたとは意外だった。
グレアのことををあの子とスラリと表現できたのは、きっと彼女のことを関係の近しい後輩のように思っているに違いない。グレアを連れて行くと判断したとき、目の前の彼女が思うことを想像して、一瞬気が重くなる。
メイドは俺が渡した紙に書いてある内容に目を落とす。
「いやいや、まさかみな知ってただなんてちょっと驚いたが、隠す理由は理解している。逆に、グレアの事をよく知っているというのはラッキーだ」
「あの子の今後についての判断は……その、アダチ様が決めるものでは?」
紙に書かれた内容を一読したメイドは言った。
「確かにそうかもしれないが、俺一人で決めるには荷が重すぎてな。仲間として一緒に過ごしてきたみんなの心境も聞きたい」
「はぁ……」
彼女は困惑した声を上げた。無理もないだろう。本来は自分たちの管轄外である判断の一翼を、俺によって担わせられようとしているのだ。
「……承知しました。この紙に書いてあることに従えばいいのですね」
「そうだ。忙しいだろうに悪いな」
「そんなことはありませんよ」
苦笑いで両手を振って彼女は否定した。
「こんな早朝に頼んで申し訳ないが、よろしく頼む」
「かしこまりました」
俺は彼女に片手を上げて身を反転させた。懐中時計は部屋に置いてきた。外は薄ら青くなったもののまだ暗く、普段俺はまだ寝ている時間だ。部屋に戻るためエントランスの階段を数段登ったところで、あの、と彼女から声をかけられた。
「――彼女がここを去る事になれば、私個人の感情としてはとても残念に思います」
「そうか。ありがとう。再三になるがよろしく頼む。それじゃ」
俺が再び階段を登り始めると、背後でもヒールの歩く音が聞こえた。チッ。彼女には聞こえてないだろう。舌打ちが思わず出た。世の中はそう上手くいってくれないものだ。
連れて行けばここに残るメイドに、連れて行かなければグレアに残念だと言われ、それだけでは飽き足らず、来たる未来においてグレアが死ぬか、両親再会の夢が潰えれば、あの時あんな選択をしなければと後悔しなければならない判断をせねばならぬ。非常に損な役回りであるが、誰かがやらねばならない。あいにく押し付ける相手が思い浮かばない以上、俺がやる以外にない。
俺が頼んだことは、一種の責任逃れだ。最悪な結果になったとしても「でもあいつらも言っていたし」と、全ては無理でも一部を転嫁して俺がした判断を正当化する材料にできる。卑怯だと俺自身も思っている。かといって自分一人で判断できる器じゃないし、そんな事案じゃない。バカのヘタレが回避困難な過負荷から自分の身を守るには、従来通り予防線を張るしか方法が浮かばなかった。
円でもレルでもいい。100万くれたらアドバイスをやるという人物が現れたならば、俺は即座に100万の工面をするね。値段が10倍でも構わない。最善の結果を確約してくれるなら100倍出してもいい――惜しむらくは、軽くなる財布は俺のものではないだろうということだ。
くそったれ。この世界はたかだか一高校生である俺に何を期待しているんだ。特殊能力者でもなければ天才でもない、運動もイマイチなグレアお墨付きの残念野郎である。そんな俺に、まるでリクライニングチェアーにでも腰掛けるかのように色々預けてくれやがる。椅子の足が折れる日はそう遠くない。
俺は執務机に置いていたグレア宛の置き紙を、雑多な引き出しに放り込んだ。メモ紙として再利用。
さて。早朝やるべきタスクは終えた。あとはグレアが布団を引っぺがしに来るまでの自由時間である。
人間偏差値推定40。結局いくら転嫁しても、俺はその判断の責任を負う義務からは逃れられない。そのことだけは忘れまいと胸に誓ってベッドに潜りこんだ。