第5話-B9 キカイノツバサ チンパンジーは自動車を修理できるか(挿話)
俺巻き連載150回記念の挿話です。
今回コウが異界へ連れ去られ麗香が異常をきたした後のステージの様子を書きました。
主役が彼女なので、選択の余地なく俺巻き初の3人称形式。
で、書いたのですが……最初に謝っておこうと思います。
すみません、これまでになくぶっ飛ばしすぎました。
################################
>s0-V3.0aを起動...
メインプログラム起動
リソースの予約完了
設定されたモジュールを起動中...失敗
>Lunch error.
PROGRAM:s0-V3.0a
ERROR_CODE:Undefined Error
「……Lunch Failed(起動失敗)」
薄暗い部屋の中で、S0-v1.7f――嵩文零雨は、床にうつぶせになって倒れ込んだまま微動だにしない彼女を前にしていた。正座で見下ろす彼女は無言。首を傾げるその動作に、長く白い髪がはらりと揺れる。
倒れ動かぬその姿に、かつてプライマリシステムとして、神子上麗香として活動していた彼女の面影は全くない。嵩文零雨が居るのは彼女の自宅リビングであった。
1677万7216回目。今回もS0-v3.0a――"神子上麗香"の起動に失敗した。彼女の持つ様々なパラメータ設定を一つ、あるいは重ね合わせて書き換え起動を試みたものの、どれも正常に立ち上がることはなかった。どのテストでも、彼女の記憶と言えるログを読み込む段階になると異常を起こしてしまうのだった。
「…………。」
零雨はこの異常事態に速やかに対処するために動作レベルを通常より引き上げて処理を高速化しているが、それでも次の動作を決定するまでに時間がかかってしまう。彼女が起動してからこの方法を実行することを決定するまでに実に2時間の時間を費やしていた。
それにしても膨大な実験数である。だが量子コンピュータの持つ強力な並列処理能力のおかげで、実験時間で4秒とかからなかった。そんな強烈な演算能力をもってしても、彼女が意思決定に2時間も費やした理由は、間違いなくフレーム問題に由来するものだった。
フレーム問題は、機械知能が目的を果たすためにすべき行動を選択する時、選別対象が無限にあるため計算時間も無限となってしまう問題のことだ。通常彼女たちにはフレーム問題が発生せぬよう、かつ高速で最適な結論をはじき出すよう、思考に特殊なロジックを搭載している。
しかしそれはあくまで事実上の思考停止を回避するための対症療法的なロジックでしかなく、完璧な結論は無限大の時間を費やさなければ出てこない。ゆえにロジックが吐いた結論は常に完璧ではない。零雨はそのことを認識していた。だからこそ、特殊なロジックが弾きだす品質以上の品質を求めるために、ロジックを使わず2時間も思考していたのである。もっとも、そうして出た結論もまた、無限の時間をかけていないため完璧とは言えないのだが。
リビングの壁に掛けられた時計は動いていない。午後5時7分。コウが外部より侵入した詳細不明なプログラムによってどこかへ連れ去られたあの瞬間から、世界は結果的に停止している。コウの代替人物を手当たり次第に探し、失敗する度この時間へ巻き戻ってリセットすることを数千回繰り返し、別の方法を選択しようとしている最中でのこのトラブルだった。
「……原因はログ?」
統計的に導き出した彼女の答え。1677万回も同じ場所で異常を起こせば、誰だってそう考えるだろう。同じ結果を導き出すまでに執拗なまでの実験が必要だったのは、彼女が旧い、つまりその点においては未熟なプログラムであったからだ。もちろん、間違いの許されないこのトラブルに正確な対応を行うために統計的な情報はないよりもあったほうがよく、実際はより少ない回数を設定できた彼女が、テスト回数を1677万回に設定したのはそのような意味合いもあった。
……ログチェック開始。
>CRC……データに誤りなし
>ログ内容の矛盾の調査……2ヵ所に矛盾点
1ヵ所目の矛盾に対する原因……システムトラブル
USERはこの矛盾を承認済み
矛盾の原因:不明
この矛盾が直接原因の可能性:なし
2ヵ所目の矛盾に対する原因……不正なプログラムによる記録改ざん
USERはこの問題を承認済み
矛盾の原因:
意図的な記録改ざん
不正なプログラムに関する情報
感染源:
物理演算プログラムの誤差補正機能
物理演算プログラムに関する情報
プログラムに異常・改ざんの痕跡なし
補正機能の概要:
理想的な値と実際の計算値の値の一致を目的とした機能
備考:
誤差補正機能が生成したコードと量子エラーが加わり、偶然バグ・プログラムとして処理・実行されたと推測される
プログラムは駆除済み
記録の矛盾が問題を引き起こさないことを確認
この矛盾が直接原因の可能性:なし
この問題は零雨の頭を悩ませた。つまるところ、二つの矛盾のうち前者は彼女達がステージ25に降り立ち、コウと接触することになった原因が引き起こした結果の一部であり、後者は旅行時に現れた、寝台列車で笑うバグプログラムのことである。これらの矛盾の後の経過は極めて順調で、ログにはこれが原因となって異常を起こすことがないよう、適切な処理も施されていた。だから麗香がこの矛盾で異常を起こすはずがない。
「……?」
零雨は静かに首をかしげた。ログは2点を除いて正常で、問題がありそうな点は見当たらない。……ただし、彼女が認識できる概念のモジュールについては、だが。
##レポート##
対象プログラム:S0-v3.0a
感情制御モジュールでオーバーフローを確認
この不具合がシステムに与える脅威:高
オーバーフローの対策に失敗
対応外のモジュール
#############
零雨は起動時に、麗香のログから"感情モジュール"の異常が確認された旨の通知情報を受け取っている。オーバーフローとは、河川からあふれ出た水が市街地を侵食する現象に近い。街は川に書き換えられ、壊れていく。同様のことが起動するたび麗香の内部でも起きている。見過ごせない重大事なのだ。零雨はそれを認識しているものの、その問題を起こしている"感情モジュール"というものがどのようなものであるのを認識できない。
――私の認識できない、高度な概念が異常を引き起こす原因になっている。
最大限の注意を払った修復を要する。
静かにまばたきを一回。視線の先は彼女から離れない。
「……拡張モジュール、ロード。
モジュール名:NVE
対象:私」
無音の空間で呟いた一言がリビングに響く。
「……失敗。処理能力34.27%不足」
零雨が考える対処法を実行するには、量子コンピュータの処理能力が足らなかったようだ。
「……ステージ各状況を調査」
ステージ0 EXECUTE
ステージ1 PAUSE
ステージ2 PAUSE
ステージ3 PAUSE
ステージ4 PAUSE
・
・
・
ステージ29 PAUSE
ステージ30 PAUSE
ステージ31 RESERVED
ステージ32 RESERVED
ステージ33 RESERVED
・
・
・
ステージ39 RESERVED
ステージ40 RESERVED
ステージ41 RESERVED
ステージ42 PROTECTED
ようやく、零雨が立ち上がった。しばらくぶりに動く彼女の身体が鳴る。リビングを出て奥にある廊下に目を向ける。同じ場所に留まりつづける夕陽の光が窓から入りこみ、薄暗い廊下の途中にある階段の存在を浮かび上がらせていた。彼女はまばたきを2回ほどして少し思考すると、零雨は階段で2階へ上がった。
――発見。
間を置いて、零雨はメディアケースを一箱抱えて下りてきた。倒れたままの麗香のすぐ脇にそのケースを投げ捨てるようにして置く。麗香の長い髪がケースの下敷きになってしまったが、当然零雨はそんなことなど気にも留めなかった。
「…………。」
ケースのフタを開ける。映画やゲームソフトが収録されたディスクの長方形の形をしたパッケージ。それと同様のものが、裸の白いプラスチックの帯を上にして綺麗に収容されていた。帯にはそれぞれカラーコードを印刷した紙が貼り付けられていて、どれがどの内容なのかを判別できるようになっていた。零雨は再び正座してケースの帯を一瞥すると、迷わず一本のパッケージを引き抜き、中身のディスクを取り出す。
「……解除コードは――」
記録面を眺めて必要な情報を読み取ると、すぐにケースに戻し、まるで逆再生しているかのように正確に元の場所へ戻した。
「……ステージ31から41までを終了。解除コードは――」
今、ステージは全て零雨が管轄している。零雨は麗香の管轄領域であったステージ31から41を終了させる判断を下した。もともとそれらのステージには何も入っておらず、これから実行されるであろうシミュレート世界に必要なメモリと計算資源が予約されているだけであった。彼女が2階から探してきたのは、予約されているだけで使われていない能力を解放する鍵コードだったというわけだ。
「……拡張モジュール、ロード。
モジュール名:NVE
対象:私」
先ほど失敗した命令をもう一度繰り返す。予約されていた領域を使うことで、処理能力の不足は解消されたはずだ。
「……入れ子型仮想環境(Nested Virtual Environment)の生成に成功。
ステージ0から25の記録データを仮想環境へコピー」
命令を下した瞬間、零雨の体がふらつき、そのまま麗香の上に重なるようにして倒れこんだ。倒れた体を起き上がらせることもできず、ただ電気ショックを加えられたように細かくけいれんする。
――仮想環境内なら、何をしてもシステムにダメージを与えることはない。
――現実では犯罪になるようなことも、夢の中なら咎められることはない。
――取り返しのつかないようなことでも、夢の中なら何度でもやり直せる。
零雨の弾き出した結果はつまりそういうことだった。
旧型の彼女が認識できないものは、何をどうやっても認識できるようにはならない。たしかに学習によって認識出来なかったものが認識できるようになることもあるが、それにも限界がある。バージョン1.7と3.0の壁はとてつもなく高く、厚すぎた。
チンパンジーは自動車を修理できるか。可能性はゼロではない。どこかに蹴りを入れたら、絶妙なツボにはまって自動車は直るかもしれない。だがもしかしたら逆に直せないほどボロボロにしてしまうかもしれない。どちらかといえば壊してしまう確率の方が大きいと考えるのが普通だ。それを承知で現実に修理させるのは、いくらなんでも無茶というもの。直せるのがチンパンジーしかいないなら、やり直しの効く仮想環境で大いにやるに越したことはない。
「……セイ……コウ。
…………s0……V3.0a……仮想内で……起動」
今、彼女は彼女の身体の中に、26の並行世界を持つ、もう一つの壮大なシミュレート世界を創り上げようとしていた。
すべては、神子上麗香を元に戻すために。
次話からはレイアウトを戻して再び平常運行で参ります。