第5話-A42 Lost-311- 隠し事
屁理屈をこねくり回して遊んでいると、あっという間に我が家へ到着した。店の中を覗いてみるが、店内には誰もいない。リンはどこへ行ったのだろうか。
「まさか」
またどこかで倒れてるんじゃないか。最悪の事態が頭をよぎる。まずは落ち着いて、買ってきたものをどこかに置こう。まだそうと決まったわけじゃない。
2階へとつながる階段の前に来たとき、上から何かの戸がきしむ音が聞こえた。階段の先を見上げる。
「2階にいるのか?」
荷物を手に持ったままそっと階段を上がる。階段を上がってすぐの台所から、水をコップに注ぐ音が聞こえてくる。リンはただ水を飲みに来ただけのようだ。
「店に誰もいないから心配したぜ」
リンはしばらく戻って来ないと思っていたらしく、突然の声にビクンと飛び上がり、同時に翼をばっと広げた。広げた風圧が俺の顔を通り抜ける。広がった大きな翼が邪魔をして姿は見えないが、リンは何やら慌てた様子だった。
ガシャン
台所の洗っていない食器の山に、何かがぶつかる音。恐らくさっきのコップだろう。驚いた時に少し水を吹きこぼしてしまったのか、布を口に当てて振り返るリンは、困ったような顔をしている。
「もう、戻ってくるタイミングが悪すぎます!」
「突然声かけてビックリさせちまったのは謝るが、何もそこまで慌てることはないだろ。
先に買い物済ませてきたから、その荷物を置きに戻っただけだ」
「そうですか、なら、適当にここにでも置いてください」
リンは口を抑えたまま、台所手前の小さなテーブル台を指差した。俺は言われたとおりの場所にその荷物を置くが、リンはその動作一つ一つを確認するような目付きで、じっと俺を見ている。
「どうした?」
「いえ、別に何も」
「それと、今お前が口で覆ってるの、床拭きの雑巾だよな? 分かってるか?」
俺が言うと、リンの視線は口元に寄せられ、言われて初めて気がついたような、ハッとした表情を見せた。次の瞬間、リンの雑巾を押さえる手がそれを取り払うような素振りを一瞬見せた。それは正常な反応であるはずなんだが、どういうつもりか彼女は強く目をつむって、逆により一層強く口に押し当てる。リンは沸騰したように顔を真っ赤にして大声を上げた。
「わ、分かってますっ! それぐらい!」
これらの行動を総合的に分析すると、リンはただ単に水を飲みに来たのではないということは明らかだった。だいたい、口を拭くだけなら、そんな長時間押し当てなくとも、水分はきちんと吸収してくれるし、そもそもわざわざ雑巾を選ぶ必要もない。
「モノに愛着を持つのはいいが、いくらなんでも雑巾にキスはやりすぎだろう。
そんな物好き、お前さんぐらいしかいないと思うぞ」
「イジメないでください!」
「はいはい、悪い悪い」
そう言いながらも、やっぱり口に押し当てたままである。平然を装いたいのだろうが、パニクりすぎて怪しさ満点である。何を隠しているのか、それはもう気になる。こんだけあからさまに慌てられては、俺の荒ぶる探究心にも、多少は火がつくものである。だが今はそれを知らなければいけないような、切羽詰まった状況ではない。何か隠していると完璧に感づかれている、という状況と自覚していてなお隠したい、触られたくないことならば、探るのはやめておくに越したことはない。
「さっきから隠し事バレバレ」
「えっ……」
何やってたんだとキツく問い詰められるとでも思っていたらしい。リンは拍子抜けした様子だった。もしかして一部始終を見ていたの? そんな目で俺を見ているような気がして、すぐに付け加えた。
「大丈夫だ、そこで何をしていたのかまでは知らん。
だがやましい事ならあまりするもんじゃないぞ」
リンの肩をポンと軽く叩いて、台所出口に足を向けた。そう、何もなかった時のように、自然に、さり気なく。
「んじゃ医者んとこ行ってくる。日没まで外にいるつもりだ」
もう、遅いです――そんな声が聞こえた気がした。
「――って出かけたはいいが、その診療所はどこにあるのやら」
そういえば、診療所の場所ってどこだ。建物の屋根に、その建物でやっている店の記号が塗装されているわけだから、高いところから見下ろせば見つかりそうな気がする。しかし、診療所の絵記号がどんなものが知らない以上、そこから調べる必要がありそうだ。
「とりあえず姉さんとこに」
場所を知っている姉さんに聞けば、調べなくても一発で教えてくれるだろう。報告ついでに教えてもらうか。
ぼちぼち歩くこと体感時間で約数十分。姉さんの店に到着した。まだ昼間なので店は閉まっている。しかし中に人はいるようで、家の小さな煙突から細々と煙を吐き出しているのが見える。肉を焼いているのだろう、この辺りに良い匂いが漂っている。裏口にまわって、木戸を叩いてみる。
「すみませーん」
……返事がない。煙が立ち上っているのだから、誰もいないはずはない。もう一度、今度は強めに戸を叩いてみる。
「すみませーん! 誰かいます?」
…………。
あれ、留守だろうか。留守だとしたら、この煙は一体何の煙なのだろうか? さらにもう一度、かなり強めに戸を叩いてみる。
「すみませーん、誰かいバフォ――!」
中に人はちゃんといました。戸が蹴り破られるような、目にも留まらぬ勢いで開き、戸の前にいた俺は見事なまでに顔面直撃。一瞬後にはそのままダイレクトにぶっ飛ばされていた。出てきたのは確かに姉さんだったが、その顔は完全に般若の形相を呈し、しかも右手には包丁。……包丁!?
「またこのクソガキ! 今日という今日は許さないわよ!
あんたのその腕を叩き切って、二度と戸を叩けないようにしてやる!」
「え、え?」
な、なんか貴女様の逆鱗に触れる様なことしましたっけ? 地面に尻餅をついて完全無防備、しかも鼻の奥で何かが切れたっぽい俺。包丁片手に激昂済みの姉さん。少しばかり戸を叩き過ぎたことは認めます! サーセン! マジサーセン! 土下座なら何万回でもしますから包丁だけは鞘にお収め下さい!
「って、コウさんじゃない!」
「え?」
頭が真っ白になって「え」を連呼する俺に、姉さんは引きつった笑顔で手を差し伸べた。
「ごめんなさいね! あたしてっきり近所のクソガキかと勘違いしてて、つい!」
「あ、ああ……」
子供がイタズラでピンポンダッシュならぬ、ノックダッシュをしていたということか。クソガキとはまた同感を得る表現である。鼻の奥で切れた何かは、やはり俺の予想通りの結果を生み出した。鼻から垂れる液体を両手で擦ってみる。手に付いているものは何を隠そう、鼻血である。とりあえず気まずくなりそうな場を和ませるためにも、これはもう言うしかないだろう。
「な、なんじゃこりゃぁあ――!」
「もしかして、あたしが開けた戸にぶつかった?」
「……まともに喰らったッス。戸が一瞬音速を超えた気がする」
「オンソクってのはよく分かんないけど、まずは手当てしなくちゃ。さ、上がって」
「姉さん、ちょっと質問していいっすか? 不躾ですけど」
右手で鼻をつまんで立ち上がって、ちょっと上ずった鼻声で言った。さっきの姉さんの顔はまさにご乱心であった。ここの地域の風土なのだろうか、荒っぽい人多すぎだ。俺、外出歩く度に怪我して帰ってきてるじゃねえか。特に姉さんとルーに会う日は、ほぼ100%の確率で怪我してる。
「なに? 言ってみて」
「そのイライラ、更年期障害っすか?」
「…………さ、上がって」
女の人の前で軽率な発言を慎むべきなのは、万国共通のルールらしい。
今日も厨房から聞こえる姉さんの父の声を、殺伐とした会話でかわした姉さんは、俺を2階の自室に誘導した。紙が山積みにされている机。以前と変わった様子はない。イスに俺を座らせ、ごちゃごちゃした部屋の引き出しから細長い麻っぽい生地を引っ張り出す。鼻をつまむ俺を尻目に、さっきの包丁を使ってカッターの要領で小さく切り出していく。
「切れ味鋭いっすね」
「コレでご飯食べてるからね。大事な客に出すものを、安物の道具なんかで作れないわよ」
その大事な包丁で布なんか裂いてもいいのかという疑問も湧いたが、多分このあと熱湯殺菌か何かをするんだろうと、自己解決。まさかそのままで料理をするわけはないだろう。というか、こんな切れ味サクサクの包丁を振り回すとは、一歩間違えれば事件である。
「ちょっと長いけど、これでいいわよね」
裂いた布を円筒状に丸めて言った。俺は左手で受け皿を作り、つまむ右手をそっと離す。左手の上に生暖かい血だまりができる。すかさず姉さんがその布を俺の鼻にねじ込もうとするが、ちょっと太すぎてなかなか入らない。
「あの、ちょっと大きいっす」
「なあに、これぐらい入るわよ。栓になってちょうどいい塩梅なんじゃないかしら?」
そう言って力づくでねじ込もうとする姉さんに、俺の鼻が悲鳴を上げた。
「ちょ、痛い痛いフゴッ!」
「痛いのは最初だけだから! ちょっとすれば痛みも治まるわよ」
それは鼻の穴が広がったって言うんじゃ……フンガ!
……結局、ねじ込まれた。