第5話-A32 Lost-311- たったそれだけでした
こちらが欠落していたお話です。
ご迷惑おかけして本当に申し訳ありません。
「ん……」
目が覚めると、額を押し付けた跡が残っている俺の腕があった。俺の目の前には計算途中の値札が積まれている。どうやら売上の精算をしているうちに、いつの間にかカウンターの上で寝ていたらしい。最後に覚えているのは、日没後、店を閉めたところでちょうど姉さんの夕食が出来上がったというので食べ終え、そっから今日の精算をしておこうとカウンターに座って計算を始めたところまでだ。
「あー、首が痛てえ……」
店のシャッターを締め切っているので部屋の中は薄暗い。ただ、シャッターの隙間から光が漏れているから、夜はとっくに明けていると考えていい。これで翌日の昼まで寝過ごしてましたとかだったら笑い話にもならない。店を開けると同時に客からの嵐のようなガチのブーイングを全身で受け止めつつ、地面掘って土下座せにゃならん。昼でないことを祈りながら店の裏口に回って通りに出ると、眩しい朝日が目に入った。空はプールに水を張ったような色が広がり、太陽に照らされている雲がわびさび程度にポツポツと浮かんでいる。小学生に夏休みの宿題で絵日記を書いて来いと言ったら、多くがこの空を描いてきそうだ。通りの店の人は、みな眠そうな顔をしながら回転の準備を始めだしている。俺がいつも起きている時間。クレーム食らわなくてよかった、と安堵の溜息をつき、グーッと両手を伸ばして背伸びをする。いつの間に俺はこんな爽やか青年キャラになってしまったのだろうか。……口の悪さは相変わらずだがね。
そういえば、俺が寝入ってしまったから知らないんだが、姉さんは今どこにいるのだろうか。夕食は作ってもらったわけだし、恐らく家に帰ってるかもしれん。あー、でも姉さんは思い立ったらすぐ行動する人だし、いくら俺が遠慮したとはいえ、もしかしたら俺が寝てる間に家事の手伝いをしてくれたかもしれん。カウンターから直接裏口にきたから家の中はあまり良く見てないから分からないが。どっちにしろ帰ってるだろうな。ベッド一つしかないし。
「キャア――――ッ!!」
意外にも二階から姉さんの声が聞こえてきた。姉さん、家事の手伝いの途中で自分も眠くなって寝ちゃったのかもしれん。ってちょっと待った、今のって姉さんの声だったよな? え、そんなの知らんって? まあ確かに俺にしかわからないことだろうが……俺は姉さんの声だと思う。いつの間にか自分が他人の家で寝ていたことに驚いて悲鳴を上げたとか? そりゃねえわな。あれ、じゃあ今のって……
「ちょっと、コウさん! リンちゃんが、リンちゃんが!」
今度は自信を持って言える。今の声は姉さん、音源は家の2階、リンの部屋だ。ていうかリンに何があった!?
何にせよ。あの物言いはいいニュースではなさそうだ。俺は裏口に回って家に入ると全力で階段を駆け上がってリンの部屋へとぶっ飛び、ノックもせずにガバッとドアを勢い良く開け放った。
「リンがどうかしたのか!?」
「うう……ちょっとコウさん、開ける時ぐらいノックしてよね……」
足元から声がして見下ろすと、姐さんが顔を青ざめた状態で尻餅をついて鼻を手で抑えていた。俺を探そうと部屋を出ようとしたときに今のドアに当たったのか――やばい、後でボコボコにされる。
「ちょっと、姉さん大丈夫っすか!?」
「あたしは別に大丈夫だけど、それよりリンちゃんが……」
リンがどうした、俺がそう言いうと姐さんは空いている片腕でリンのベッドを指差し、俺の視線もそれを追うようにしてリンに向けた。リンを見た瞬間俺は背筋が凍りついた昨日見た時とは全く違う、“変わり果てた”リンの姿があったからだ。昨日までは、顔色は悪かったが、それでも肌色だったのだが、まるで血を抜かれたかのように真っ白くなっている。唇の色も紫に変色してしまっている。駆け寄ってリンの頬に手を当てると、冷たい。俺は思わず手を引っ込めた。死んでる? 嘘だろ?
そんなバカな、ともう一度触ってみようとするが、もう一度触って冷たかったらと思うとなかなか触れない。
“本当に最悪の場合は代謝を減らすために体温までも下げてしまい、
そのまま死亡してしまうこともあります”
医者が言った言葉。最悪の状況を避けるために適切に手を施してきたにもかかわらず、どうしてこんなことになってしまったのか、俺には全く理解出来ない。半ばヤケクソでもう一度リンの頬に触ると、やはり冷たい。俺が焦る後ろから姉さんが魂の抜けたような声を出して言う。
「コウさん……どうする?」
「そんなもん決まってるだろ!!
と、と、とにかく、い、医者だ、医者呼んでこい!!」
「分かった!」
俺が声を荒らげて言うと、姉さんは頷いて部屋の窓から突き破るようにして飛び出していった。姉さんに面と向かって声をを荒らげるというのは、いささかまずいことだったかなと思ったが、こんな緊急事態の時に「どうする」と訊いてくるのもおかしい。彼女だって医者の診察結果を聞いてるわけだから、医者を呼ぶことぐらい頭に浮かぶだろって話だ。口元に手を持って行って呼吸の確認をすると、僅かながら空気が動いているような気がする。リンがいつからこんな状態になったのかは分からないが、時間がそれほど経っていなければ助かる見込みもあるかもしれない。
「リン、すまん!」
俺はリンの布団をガバッとめくってリンの腹の上を触る。まだ温かい。ということは、身体の芯はまだ冷え切っていない状態ということになる。希望が見えたような気がする。これ以上無駄に体温を奪わないためにも、俺は剥がした布団はすぐに元に戻した。
「ふう~……」
とりあえず息を整えて一旦落ち着こう。毎度言うように、こういう時は焦ってやると出来るものも出来なくなっちまうからな。映画とかでもよく敵に追い詰められて微力でも反撃しようとするヒロインが焦りで失敗するとかいう展開はザラにある。ていうか今そんなこと考えてるヒマはないぞ俺! 俺が今考えるべきことは――
「今俺がやるべきことは、何だ?」
そう、これだ。映画番組を懐かしんでホームシックやってる場合じゃない。医者が来るまでの間、俺は何をすればよいのか……似たようなシチュエーションを考えてみるか。例えば、雪山で低体温症を起こした瀕死の人間がいたら、俺はどうする? まずは俺は“寝るな!”と叫んで何が何でも寝かせないようにするね。既に寝てしまった相手に対しては“寝るんじゃねえ、フローズンされたくなけりゃとっとと起きろ!”と言いながら起こさせようと万策を尽くすだろう。では、起きて来ない相手には俺はどう対応する?
……保温、だろうな。
雪山なら恥らいを捨てて抱きあって保温というのが最も一般的だろうが、それは装備が少ない場合のある意味最終手段であって、家ならもっといいものがあるはず……例えば熱湯入りの鍋。誤解しないように言っておくが、それをぶっかけて全身大やけどさせようとかいうつもりはない。湯たんぽ的な使用法を想定している。
「まずはこれでいこう」
台所の鍋に井戸水を汲み上げて入れ、かまどに火をつけ最大火力で運転させる。井戸のバケツに関しては先日、ルーがお詫びの品として持ってきたバケツをを使っている。だが、あれだけのことをしでかしてお詫びの品がこれというのはかなりショボいと思うのは俺だけじゃないはず。かまどに燃料をこれでもかというぐらいに突っ込み、まだかまだかとイライラしながら待つこと3分。鍋の水から湯気が出始めたのでかまどの火を消して(正しい使い方を覚えた)その鍋を持ってリンの部屋へ駆けこんだ。姉さんとヘーゲルはまだ来ない。
「……これ持ってきたはいいが、どうやって保温するよ?」
肝心なことが抜けていた。湯を用意したまではいいんだが、具体的な保温方法が見つからない。湯たんぽを探すにしても、家にあるかどうか怪しいし、おしぼりのようなタオル的なものに湯を含ませる方法だと水が蒸発するときに逆に体温を奪ってしまう。とりあえずこうしておくか。
「よいこらしょっと……」
俺はリンの布団をはがし、体の深部が冷めないよう、腹の上に鍋をおいた。へそで茶を沸かすじゃないが、これが今俺が考えつくことのできた最善の方法だ。俺のこの処置が正しいかかどうかは分からない。分からないが、ただ黙って手をこまねいて医者が来るのを待っているようなことはしたくない。
俺は鍋がひっくり返らないように置いて、冷たいリンの手を握った。
「絶対に死ぬなよ……お前がいなくなったらマジで困る」
リンが死んでしまったらこの店は、いや、縁起でもないことを考えるのはよそう。それよりも他に俺ができることがないかを考えるべきだ。医者が到着するまでの応急処置の有無は生死を分けるらしいし、生存確率が僅かでも上昇するなら遠慮せずにやっておくべきだ。リンの顔を見つめながらそれを考えてみる。他に何かできること……放熱しやすい場所を集中的に保温すれば放熱を防げるかもしれない。放熱しやすい場所、か。考えるのは結構難しい。
ならば考え方を変えてみるか。低体温とは逆に、熱中症患者に対する有効な処置は? まず患者を日陰に運ぶのは常識だ。他には? 額に濡れタオルとか、そんなもんか。いやまて、学校で暑い時、俺って制服の第一ボタンを外して首筋の空気の通りを良くするよな? で、たまに第2、第3ボタンまで外して先生からだらしないと言われる。いやいやだらしないとか今はそういうのはどうだっていい。では逆に寒いときは? 俺ならボタンを留める。首には太い血管が多く走っているから保温や放熱の調節がしやすい。冬にマフラーを巻くのは首を保温するため――そうか、これだ!!
俺がリンの首に手を持って行くと、冷えてはいるが確かにほんのりと温かい。そこをマフラーのように保温するのは有効だろうが、少なくとも体のシンが冷えている現状では加温するのがいいだろう。とりあえずここは俺がさすって温めておく。
「なっ!?」
首をさすりながら、医者は何をチンタラやってんだと思った瞬間、突然窓から影が飛び込んできた。その影はリンの上にあった鍋に直撃。鍋は鈍い音を立てて湯を床にぶちまけ、床から湯気が立ち上った。影が一体何者なのか俺が確認する間髪を入れず、二つ目の影が飛び込んで、それは床に転がるようにして着地した。
「……あっつっ!」
若い男の声がして俺はやっと状況がつかめた。窓から飛び込んできたのは姉さんとヘーゲル。最初に突入した姉さんは例の鍋に頭から突っ込んだ衝撃が相当きつかったらしく、倒れ伏したまま頭を抱えている。後を追うようにして入ってきたヘーゲルは床に広がった熱湯をその白衣が吸収、数瞬のタイムラグを置いて声を上げた。
医者が熱湯に悶え、姉さんが頭を抱えてのた打ち回るその横で懸命にリンの首をさすっている俺。かなり前衛的な映像に仕上がってる気がするが、意図したものじゃないから仕方無い。先に苦痛に打ち勝ったのはヘーゲルだった。
「はぁ、はぁ……ちょっと……いいですか」
全速力で飛んできたらしい彼は粗い呼吸音を挟みながらそう言い、鞄からあの透明な石を持ち出した。魔力の量を測定する例のアレだ。ヘーゲルの印象的なメガネはその顔にはなく、着地の衝撃で外れたらしいメガネは床に転がっていた。ヘーゲルがリンの手にそれを握らせて手を離す。……が、石はわずかに色が紫になっただけで、ほぼ透明に近い。彼は石を鞄の中に放り投げ、リンの手を握って脈か何かを探っている。俺はヘーゲルに聞いた。
「リンの容態は一体どうなってるんすか?」
「まだ……死んではないですが……検査をしなくてもわかるほど……非常に危険な状態です。
食事は……ちゃんと与えましたか?」
「毎日欠かさずに作ってましたけど」
「安静な状態で……以前よりも魔力の残量が減っているのは……普通ありえないことです」
「それは俺に何か原因があるということっすか?」
「そんなことは……言ってません。
原因は不明ですが……とにかくこの状態では……外部から強制的に魔力を供給させるしかないでしょう。
ただ…………」
ヘーゲルはそう言って目を泳がせる。呼吸はだいぶ落ち着いてきたようだ。
「……ただ?」
「供給が受ける側が意図的に受ける場合はいいのですが……
人によっては意思に反して外部から強制的に魔力を供給すると……拒絶反応を起こしてショック死する可能性があります。
受ける側が属性持ちなら供給は同じ魔力属性の人間、
無属性なら無属性もしくは回復系属性である必要がありますが、
リンさんは属性持ちですか?」
「いや、俺には分からないっすけど、赤い炎を出せるみたいなので恐らく属性なしかと……」
「では、あなたが出せる炎の色は何色ですか?」
「バリバリの緑っすね」
「なら大丈夫そうですね。では少し確認です」
ヘーゲルは鞄の中に投げ入れた石を俺に差し出し、持ってみてくださいと言った。俺がそれを受け取った瞬間、まるでカメラのフラッシュを至近距離で受けたかのような強烈な白い閃光とともに、石を持つ手が焼け石のように熱くなった。あまりの熱さに反射的にその石から手を離してしまい、石は床に落ちた衝撃で2つにパックリと割れて転がった。
「あ……ごめんなさい」
気まずくなってとっさに謝ったが、ヘーゲルはそんなことよりも俺の魔力所有量に度肝を抜かれたようで、俺をまじまじと見て言った。
「それよりもあなたは一体何者ですか?
魔術師でも黄色から赤色、そんな人が数十人集まってやっと白色に輝くほどの量をたった一人で……」
「俺もなんでこんなことになってるのかよく分からないっすね……
って、今はそれどころじゃなくて――」
「そうでしたね、それだけ豊潤にあれば大丈夫です」
「それで、どうやって供給するんすか?」
「通常なら効率的に供給できるように専用の魔法を用いるのですが……
あなたの場合はそれを使うと、
逆に効率が良すぎて彼女の身体にかなり負担をかけてしまうのではないかと思います」
「じゃあどうやってやればいいんすか?」
「リンさんの肌に触れているだけで十分だと思います。
この方法だと普通、理論上全快までに数ヶ月を要しますが、
あなたの場合なら数日で大丈夫だと思います」
「……たったそれだけっすか?」
「ええ、外部から強制的に供給させること自体、
リンさんの身体に悪影響を及ぼすので言いませんでしたが、最終手段です」
「今度こそ本当にそれで治るんすね?」
俺は早速リンの手を握ってそう聞くと、ヘーゲルは自信を持った様子で答えた。
「断言はできませんが、可能性は高いでしょう。
もちろんそれだけでなく、他の必要な処置も施せば、の話ですが」
「何なんすか、早く言ってくださいよ!」
「以前言った通りの食事に加えて体温の維持、それから……」
彼は鞄から今度は小さな瓶を取り出した。中には緑色の粉末が入っている。何だそれ、クロレラの粉末か?
「これを毎食ごとに水に溶かして摂取させてください。一回につき大さじ3杯です。
青臭くて苦く、まずいものですが、これを飲むと回復が早まるはずです」
「それってつまり……」
「ええ、青汁です」
まさかこんな所で青汁に出会うとは思いもよらなかった。