第5話-A29 Lost-311- 治療法は?
「急性魔力欠乏症というのは?」
急性魔力欠乏症――現代日本ではまず考えられない病名だ。
「ヒトは普段何もしなくても魔力は消費されていきます。
しかし、体内で生成される魔力はそれよりも多いため、
私達は魔法を扱うことができます。
一般的に生成される魔力を10とすると、
自然に消費される魔力は7ぐらいといわれています。
つまり、3だけ余るわけです。」
「なるほど、生成された魔力は全部使えないのね、初めて知った」
姉さんは頷く。
ヘーゲルはさらに説明を続ける。
「しかし、生成される魔力は少ないため、
このままでは魔法を扱うことはできません。
そこで、個人差はありますが、余った魔力を一定量蓄えることができます。
ちょうどチョロチョロと湧き出る泉の水を容器に貯めているようなものです。
そこから私達は必要な分だけ容器の水を取り出して使うわけです。
さて、ここからが問題です。
私達には容器に貯まった水が少なくなってくると、
それらは身体的症状として現れてきます。
症状が軽い順に、
食欲の増進、倦怠感、食欲不振、吐き気、強い眠気などが挙げられます。
これが、急性魔力欠乏症の症状です」
そういえば、あの夜姉さんの店に行こうと俺が誘った時、
「食欲がない」って言ってたな。
あの後寝てしまったということは、あの時吐き気まで伴っていたということになる。
俺は体験したことはないが、相当辛かったんだろう。
吐き気は俺も勘弁してほしいと思う症状第一位だからな。
「今挙げた症状はすべて身体の生理的な反応です。
食欲の増進は魔力補給の基になる食料の確保、
倦怠感は魔法の使用を精神的に阻害するため、
さらに酷くなってくると現れてくる食欲不振と吐き気は、
食料の消化のエネルギーを魔力の補給に充てられるために起こります」
「どうりで喧嘩する客を引きずり出すのに魔法を使いまくった後が辛いと思ったら、
そういうカラクリだったのね。
ホント、ヒトの身体はよく出来てるわね」
「そして最も重篤な症状である眠気は、
自然に消費する魔力自体を極限まで減らすための最後の自衛手段です。
一度寝入ってしまうと昏睡状態になります。
周囲からの刺激を一切受け付けなくなり、
ある一定量まで回復するまで起きてくることはありません。
もっとも、このような状態に陥る時には、
すでに魔力の生成量自体もかなり落ちていますので、
回復には2、3日程の時間を要しますが。
本当に最悪の場合は代謝を減らすために体温までも下げてしまい、
そのまま死亡してしまうこともあります。
しかし、そこまでいくことは滅多にありませんのでご心配なく」
「つまりリンが勝手に起きて来るまで安静にしておけ、ということですか?」
「ええ、基本的にはそういうことです。
それと、毎食時に少しでもいいですから、流動食を与えるようにしてください。
この状態でも体力は消耗していますので、
万が一の最悪の事態を避けるためにも、欠かさないように注意してください」
そこまで言うと、彼は道具を鞄の中にしまい、おもむろに立ち上がった。
「彼女の容態が急変した場合は、できるだけ早く私に連絡してください。
それでは、失礼いたします」
「あっ、ちょっと診察代は!?」
俺達に背を向けてリンの部屋から出ていこうとするヘーゲル。
診察代も貰わねえで出ていく医者は初めて見たぞ。
俺の言葉に彼は振り返る。
「ああ、それでしたら彼女が回復した後に、
まとめて請求させていただくので今は要りません。
それと、今回の料金は診察料4000レルと、
緊急呼び出し料1000レルの合わせて5000レルになります」
ここでは急患の診察は特別料金がかかるらしい。
日本では保険適用の場合、
全治療費の三割が患者に対して請求されるらしいから、
3000円の治療費がかかっている場合は実際は一万円かかっている。
治療費負担軽減制度がここにはあるのかは分からないが、
まあそれでも、5000レルしか請求してこないのは多分安い。
俺は立ち上がって、姉さんとその子供を部屋に残し、
裏口までヘーゲルを見送りに行った。
外の雨はやんだものの、雲行きは依然として怪しく、
いつまた降り出してもおかしくない状態だった。
「あなたのことは噂で聞いてはいましたが、
本当に翼のない人間がいるなんて、正直驚きました」
「はは、みんなからよく言われます、それ」
俺がそう答えると、ヘーゲルは初めて俺に笑顔を見せた。
笑う彼の顔はとてつもなく爽やかな表情だった。
恐らく急患の知らせを聞いてから張り詰めていた緊張の糸が切れたのだろう。
彼がそれでは、と挨拶をして灰色の空へと飛び立って行くのを、
彼が見えなくなるまで俺はずっと見ていた。
家に戻った俺がリンの部屋へと向かおうと階段を登ると、
登り切った先の廊下で汚れた姿のままの状態で一人佇んでいるルーの姿があった。
「あれ、風呂には入らないんすか?」
「いや、入りたいのはやまやまなんだが……その、着替えとかないし、
何よりも井戸水汲み上げる容器の底が抜けてるから水も用意できないし……」
そういや俺、昨夜バケツを破壊したんだったな。
バケツは何とかして調達したとしても、
洗った身体の上に着る服がドロドロなら元も子もない。
かといって着替えの服があるのかと言えば、ない。
今着ている俺の服はここに来た時の服装そのまんまで、洗って着回している。
リンの服なら替えはあるが……ルーに女装させるつもりはないし、
見ず知らずの小太り男性が勝手に着た服を着るのは、
例え丁寧に洗濯したとしてもリンが生理的に受け付けないのは簡単に想像がつく。
身体を洗って帰りは裸で帰ってもらうのは無理だし……
あっ、裸の上にうちの黒ローブを着せればカムフラージュできるじゃねえか!
ああそうか、背中に大穴が開いちまったんだったよな……
ローブ着たって裸の背中が見えれば意味ないし、
下手すりゃハプニングでズバッと脱げた時には公然なんたらで連行されるだろう。
露出狂とやってること変わんねえからな。
とりあえず、今回はドロドロのままで帰ってもらうしか方法はなさそうだ。