第十話 最後の手紙の、その先へ
橋の全面再開から、一年が過ぎた。
立て替えた補修費は、すべて回収を終えた。
工事中から続けていた臨時の通行料は廃止し、大型の商用馬車だけが、橋の点検と将来の補修に必要な低い維持費を負担することになった。徴収額と使途は、これまでどおり管理所へ掲示される。
住民は無料で橋を渡り、小口商人の共同便も定着した。橋の両岸には新しい店が増え、オルブライトの共同倉庫は、三領の商品が集まる市場へ育っている。
私の仕事も、橋の完成では終わらなかった。
倉庫と市場、橋の維持契約を扱う合同事務所を設け、私はオルブライト家から正式な報酬を受けて運営責任者になった。婚姻後も仕事ではリディア・オルブライトの名を使うことが、契約に明記されている。
事務所の入口には、二人分の名札が並んでいた。
――運営責任者 リディア・オルブライト。
――治水責任者 セオドア・ヴァルター。
どちらの名も、もう一方の下にはない。
「今日くらい、帳簿を閉じてはどうだ」
父が執務室の扉から顔を出した。
「確認は終わりました。今、閉じるところです」
「花嫁が式に遅れれば、後世まで語られるぞ」
「セオドア様なら、理由を聞いてから待ってくださいます」
「それを試す日ではない」
父に急かされ、私は笑いながら帳簿を閉じた。
今日は、私とセオドアの結婚式だ。
◇
支度のため伯爵邸へ戻ると、見覚えのある黒い封蝋の手紙が届いていた。
差出人はジュリアンだった。
婚約解消以来、個人的な手紙は一度も来ていない。私は侍女に同席してもらい、封を開いた。
――ご結婚を祝福します。
――あの日、謝れば何かを返してもらえると思っていました。今は、謝罪とは返事を求めず、自分が負うべきものを引き受けることだと考えています。
彼は交易の仕事へ戻るため、商人の店を一軒ずつ訪ねているという。失った契約をすぐ結び直してほしいとは頼まず、過去の判断を説明し、次の取引条件を文書で示しているらしい。
――この手紙にも、お返事は不要です。あなたの幸福を、今度こそ私の都合に使わず願います。
華麗な言葉ではなかった。けれど、ジュリアン自身が考えたと分かる手紙だった。
私は返事を書かなかった。
怒っているからでも、罰したいからでもない。
彼へ宛てた最後の手紙は、あの夜に書いた婚約解消の申し入れだ。その結末を、今さら書き換える必要はなかった。
手紙を家の記録係へ預け、私は鏡の前へ座った。
白いドレスの胸元には、大きな宝石ではなく、鈴蘭の刺繍がある。初めて自分の名で送った手紙に押した、実家の印と同じ花だ。
父が部屋へ入り、私の姿を見て目を細めた。
「迎えに来たぞ」
「はい」
「今なら、まだ式を延期できる」
冗談ではなかった。
どれほど準備が進んでも、決めるのは私だと確認してくれている。
「延期しません。私が、今日結婚したいのです」
「そうか」
父は笑い、腕を差し出した。
◇
式は、橋を見下ろす小さな礼拝堂で行われた。
豪華な王宮の大広間ではない。けれど窓の向こうには、私たちが守った橋と、行き交う人々の暮らしが見える。
馬車をオルブライト側のたもとで降り、私は父と橋を歩いて渡った。あの日、セオドアの手を自分から取った道を、今日は自分の足で彼のもとへ進む。対岸の礼拝堂前では、彼がずっとこちらを見ていた。
セオドアは祭壇の前で待っていた。
私を見た瞬間、緊張した顔がほどける。どれほど整えた挨拶より、その表情の方が嬉しかった。
神殿から祝福役として来たのは、セレナだった。
婚約審理の後、私たちは時折手紙を交わしていた。彼女は神殿の救護物資を共同便へ載せる仕組みを提案し、私は倉庫を提供した。あの日の出来事を忘れたわけではない。それでも、嘘の説明によって向き合わされた二人が、今は互いの意思で同じ場所に立っている。
セレナは私とセオドアへ、別々に問いかけた。
「今日ここへ立つことを、ご自身で選びましたか」
「はい」
私たちの答えが重なる。
結婚契約は、両家の代理人と神殿の立会いのもとで確認された。
財産と仕事、署名と書状、家政と領務、二人の本拠。話し合って決めた条項が読み上げられ、私とセオドアは同じ机で、同じ大きさの署名欄へ名を書いた。
彼が先でも、私が後でもない。
互いに確認して、同時にペンを置く。
続いて、自分の言葉で誓いを述べることになった。
セオドアは私を見つめた。
「私は、あなたの答えを決めつけず、尋ねます。分かったつもりにならず、聞きます。意見が違う日にも、あなたの隣へ戻ります。リディア、あなたを愛しています」
胸がいっぱいになる。
私も、用意した言葉を自分の声で伝えた。
「私は、嫌なことには嫌だと言い、嬉しいことには嬉しいと言います。あなたの代わりに答えを書かず、私の気持ちも隠しません。何度意見が違っても、一緒に答えを探したい。セオドア、あなたを愛しています」
セレナが祝福を告げ、礼拝堂に拍手が満ちる。
セオドアは皆の前でも、勝手に私を抱き寄せなかった。
「口づけても?」
参列者から楽しそうな笑いがこぼれる。
私は笑って頷いた。
「はい。喜んで」
今度の口づけは、橋の上でしたものより少し長かった。
◇
私たちの家は、橋から馬車でほど近い丘に建てた。
中央に食堂と居間があり、その左右に同じ広さの執務室がある。私の部屋からはオルブライト側の倉庫が、セオドアの部屋からはヴァルター側の堤防が見えた。
二つの部屋の間には、小さな書庫を作った。
一緒に考えたい資料はそこへ置き、どちらか一人の仕事は、それぞれの部屋へ置く。扉を叩いて入ることも、急ぎでなければ翌日に話すことも、暮らし始める前に決めた。
式を終えて家へ入ると、私の机に一通の手紙が置かれていた。
セオドアの筆跡だ。
「同じ家に住むのに、手紙ですか」
背後から来た彼へ尋ねる。
「同じ家にいるからこそ、残しておきたい言葉もあります」
封を開く。
――今日、橋を渡るあなたを待ちながら、初めて会った日のことを思い出していました。
――あのとき私は、優れた交渉相手を得たいと思っていました。今は、会議のない朝に同じ食卓で茶を飲み、別々に働いた夜に同じ家へ帰ることを楽しみにしています。
――あなたの仕事を誇りに思います。仕事をしない日のあなたも、同じように大切です。
――私を選んでくださり、ありがとうございます。
――返事は急がなくてかまいません。今夜、同じ食卓で顔を見られるだけで十分です。
私は笑いながら、便箋とペンを取り出した。
「返事は急がなくてよいと、最後に書いたのですが」
「急いでいるのではありません。私が今、書きたいのです」
短い返事を書き、彼へ手渡す。
――私も、あなたと同じ家へ帰れることが嬉しいです。
――明日の朝は、香辛料のきいたお茶を一緒に飲みましょう。朝寝坊をしても、私の分は残しておいてください。
――あなたを選べて、幸せです。
読み終えたセオドアが、私の手を取った。
「この手紙は、私だけのものですね」
私は、迷わず答えた。
「ええ。あなたにだけ書きました」
ジュリアンへ宛てた最後の手紙は、一つの婚約を終わらせた。
けれど、私の言葉も、私の人生も、そこで終わりはしなかった。
私は今、自分の名で働き、自分で選んだ家へ帰り、自分で選んだ人へ恋文を書く。
最後の手紙のその先には、誰かに与えられた幸福ではなく、私たちが話し合い、選び続ける毎日が待っていた。
だから明日も、その先も。
私たちは、自分の言葉で「おかえり」と言い合うのだ。




