第九話 今度の恋文は、私だけのもの
セオドアと交際を始めてから、三か月が過ぎた。
私たちは会えない日にも手紙を交わした。
橋の収支や倉庫の契約については、これまでどおり公文書で。個人的な手紙には、仕事の結論を持ち込まないと決めた。
彼から届く私信は、驚くほど飾り気がなかった。
朝寝坊をして朝食を逃したこと。視察先で勧められた菓子が甘すぎて、私にも食べさせて反応を見たくなったこと。会議で私に反対された日は悔しかったが、帰宅して資料を読み直したら、やはり半分は私が正しかったと思ったこと。
私も書いた。
商人から初めて「オルブライト嬢へ相談したい」と名指しされた喜び。父が私の執務机を大きなものへ替えようとして、扉を通らず二人で困ったこと。セオドアが会議中、考え込むとペンを指で回す癖があること。
優れた文章でなくても、手紙は楽しかった。
上手に見せるためではなく、相手へ自分を少しずつ渡すものだと、初めて知った。
会うたびに、手紙で知ったことが本当の姿になった。セオドアは雨の日には古傷のある右肩をかばい、私が気づくと大丈夫だと強がる。私は考えに迷うと便箋の左下へ小さな点を打つらしく、彼に指摘されて初めて知った。
完璧だから惹かれたのではない。互いの不器用さを隠さず、笑ったり心配したりできる時間を、私は愛し始めていた。
冬の終わり、セオドアから厚い封書が届いた。
書き出しは、いつものように不器用だった。
――何度書き直しても、交渉案ほど整いません。整わないまま、伝えます。
続く文章には、私にしか意味の分からないことが並んでいた。
初めて橋の足場で手を取ったとき、私が礼を言うより先に亀裂を見たこと。意見が対立した会議の夜、悔しさよりも、明日も隣で議論できることを嬉しいと思ったこと。私が香辛料のきいた茶を飲むと、最後の一口だけゆっくりになること。
――私は、役に立つあなたを妻にしたいのではありません。
――仕事が順調な日も、何も決めたくない日も、あなたがあなたである限り、共に暮らしたい。
――私と結婚していただけませんか。
読み終えても、しばらく便箋を置けなかった。
嬉しかった。
同時に、怖かった。
ヴァルター侯爵家の嫡男と結婚すれば、いずれ私は侯爵夫人になる。社交も家政も、領地での役目も増えるだろう。私の仕事が再び「夫を支える務め」と呼ばれ、私の名が彼の陰へ隠れない保証はない。
セオドアをジュリアンと同じだとは思っていない。
それでも、一度失いかけた自分の名を、信頼だけで預けることはできなかった。
けれど、独りでいられることを証明するために、愛する人まで遠ざけるのも違う。自立とは、誰も必要としないことではない。必要な条件を語り、相手の条件も聞いた上で、自分の意思で共に生きることを選べることだ。
私は一晩考え、父へ手紙を見せた。
「断りたいのか」
「いいえ。断りたくないから、怖いのです」
父は私の答えを急かさなかった。
「ならば、怖いものを一つずつ言葉にしてみなさい。言葉にできれば、二人で扱える」
私は新しい紙を広げた。
恋文ではない。結婚した後も私が私でいるための、婚姻契約の草案だった。
双方の婚前財産と事業収入は、それぞれが管理する。共同の支出は、金額にかかわらず記録を共有する。橋と倉庫の契約では、私はリディア・オルブライトの名を用いる。夫婦のどちらかが相手の書状や署名を使うときは、その都度承諾を得る。家政、社交、領務を一方の無償の義務とせず、分担または報酬を伴う職務として決める。
書きながら、自分でも厳しすぎると思う箇所があった。
けれど、愛されるために曖昧にするより、まずすべてを見せたかった。
私はセオドアへ返事を出した。
――お答えする前に、橋でお会いしたいです。話し合いたい条件があります。
◇
待ち合わせの日、川辺には早春の風が吹いていた。
セオドアは石板の前で待っていた。私が契約書の束を差し出すと、驚きはしたものの、笑いもしなければ不機嫌にもならなかった。
「ここで読んでも?」
「お願いします」
彼は一枚ずつ、急がずに読んだ。
「反対の条項はありますか」
「大半は賛成です。むしろ、私にも同じ権利があると明記したい」
「同じ権利?」
「私の私信や署名も、あなたは承諾なく使えない。私の仕事も、妻を支える当然の務めとはされない。片方だけを守る契約では、対等とは言えません」
私は用意してきたペンで、条文へ「双方」と書き加えた。
セオドアは居住地の項目で手を止めた。
草案には、橋に近いオルブライト領を生活の本拠とすると記してある。
「ここは、もう少し話したい」
胸が緊張した。
「ヴァルター領へ住むべきだと?」
「いいえ。橋の近くに共同の家を持つことには賛成です。ただ、冬の治水期には私が領内へ長く滞在する。あなたが望むなら同行でき、望まないなら本宅に残れるようにしたい。反対に、オルブライトの仕事であなたが滞在するとき、私にも同じ選択がほしい」
「居場所を一つに縛るのではなく、二人で本拠を持ち、必要な場所へそれぞれ動けるようにするのですね」
「はい。離れて働く日があっても、家を失うわけではありません」
風で紙が飛ばないよう橋の管理所へ移り、窓辺の机で文言を直した。顔を上げれば、私たちが出会うきっかけになった橋が見える。
報酬のない仕事を断ったことで愛情を疑わないこと。病気や事故で片方が働けないときは、貸し借りではなく共同生活の責任として支えること。公平を装って、弱っている側へ同じ負担を求めないこと。契約だけでは測れない日々についても、私たちは言葉を足した。
すべての未来を紙で防げるわけではない。それでも、話しにくいことから目をそらさずに始めることはできる。
求婚の答えを待たせたまま契約を議論するなど、ロマンチックではないかもしれない。
けれど私は、意見を言うたびに安心していった。
セオドアは私の条件を、愛情への疑いとは受け取らなかった。二人の未来を現実にするための約束として、一緒に考えてくれた。
最後の条文を直し終え、書類を鞄へ収める。私たちは再び橋の中央へ戻った。そこで彼が息を吐いた。
「これで、答えを伺ってもよいでしょうか」
「その前に、私からも渡すものがあります」
私は鞄から、もう一通の封書を取り出した。
契約書とは別に、昨夜書いた手紙だった。
――セオドア様。
――あなたは、私の代わりに答えを出そうとせず、私が違う意見を言う場所を守ってくださいました。
――私は、何もかもうまくできるあなたを夫にしたいのではありません。朝寝坊をして、甘い菓子に困り、私と意見が違えば本気で悩むあなたと、明日も話し合いたいのです。
――私と結婚してください。
読み終えたセオドアは、目元を押さえた。
「私が先に求婚したはずなのですが」
「私からも選びたかったのです」
「では、答えは?」
「はい。あなたと結婚します」
「私も、はい。あなたと結婚します」
二人で同じ答えを口にすると、可笑しくなって笑った。
セオドアが一歩だけ近づく。
「抱きしめても?」
「はい」
腕の中は温かく、力は私が離れようと思えば離れられるほどだった。
やがて彼が少し身を引き、さらに緊張した声で聞く。
「口づけても、よいですか」
私は彼の上着をつかみ、自分から顔を上げた。
「それも、はい」
触れた唇は短く、優しかった。
橋の上には、私たちのほか誰もいない。
今度の恋文も、今の答えも、誰かから借りたものではない。
彼だけへ贈り、彼から私だけへ返されたものだった。




