婚約破棄?わかりました。じゃあ、死にます。
初恋は、銀の光のようだった。
冷たくて、遠くて、けれどほんの一瞬だけ、指先にやわらかな熱を残していく。
幼い私にとって、それは夜明け前に降る霜のようなもの。白く、儚く、触れれば消えてしまいそうなのに、その美しさだけはいつまでも胸に焼きついている。
「これ、やるよ」
幼い顔をほんのりと紅潮させながら、彼は不器用な手つきで小さなペンダントを差し出した。
銀色の精緻な細工が施されたそれは、月の光を閉じ込めたように優しく輝いていた。
次期王妃としての重責、大人たちの思惑が交錯する政略結婚。幼いながらに息が詰まるようなプレッシャーを感じ、強張っていた私の心を解きほぐすには、その不器用な優しさはあまりにも十分すぎた。
「……ありがとう」
満面の笑顔で、私はそれを受け取った。彼の笑顔。照れ隠し。小さなまごころ。
私の銀髪を、母のように「老婆みたい」だと蔑まず、いつか「絹糸のようだ」と褒めてくれた声。
思えば、あれが私の初恋だった。
彼が隣にいてくれるなら、どんな厳しい教育も、冷たい城の空気も耐えられる。ずっと、こんな穏やかで優しい時間が続くのだと、信じて疑わなかった。
なのにーー。
*****
「ミラーラ・アイスベルン!お前との婚約を破棄する!」
建国記念の夜会で、この国の王太子であり、私の婚約者であるヘンリ・グロリウス殿下の声が高らかに響いた。
彼の腕には、私ではない一人の少女がしっかりと抱き寄せられている。
濡羽色の髪を背に流した、神秘的な娘だった。
この国では珍しい東洋の血を引いているのだと、殿下は何度も語っていた。黒曜石のような瞳は潤み、震える指先が殿下の袖を掴んでいる。
まるで私は、真実の愛で結ばれる恋人を引き裂こうとしている悪しき令嬢のようだった。
(ああ……やはり。こうなることは、わかっていたわ)
私はゆっくりと手元の扇子を開き、口元を隠す。
広間に響く殿下の声は、腕の中にある彼女ーーカレン・ラムーア男爵令嬢を守ろうとする熱を帯びていた。
殿下の、その熱の正体に私が初めて気づいたのは、いつだっただろうか。
ーーあれは雨上がりの、濡れた土の匂いがするお茶会でのこと。
始まりは、あまりに些細な一言だった。
「面白い令嬢がいるんだ」
恒例のお茶会の席で、殿下はそう言った。
王宮の庭園には、前日降った雨の匂いが残っていた。銀の茶器に映る自分の顔が、ひどく固く見えたことを覚えている。
「面白い令嬢、ですか」
「ああ。カレン・ラムーア男爵令嬢だ。最近まで平民として暮らしていたそうだが、ラムーア男爵の庶子だと判明して引き取られたらしい」
殿下の声は弾んでいた。
「とても変わった娘なんだ。黒髪で、東洋の血を引いていて、考え方も自由で。古い慣習に縛られず、もっと世界は自由であるべきだと言うんだよ」
ーー自由。
その言葉を口にする殿下の瞳は、私が贈ったどんな言葉よりも、どんな努力よりも、ずっと鮮やかに輝いていた。
「殿下がそのように楽しそうにお話しになる方なら、きっと魅力的な方なのでしょうね」
私は微笑んだ。
王妃教育で最初に教わるのは、感情を顔に出さないこと。涙は弱みになり、沈黙は憶測を呼ぶ。だから微笑む。喜びすぎず、悲しみすぎず、いつも穏やかに。
ーーけれど、必死に貼り付けたその完璧な仮面すら、彼の心を引き留める鎖にはならなかった。
その日から、殿下の話題は少しずつカレン様で満たされていった。
カレン様は花を見て詩を詠むのだという。
カレン様は礼法の教師に、なぜ女性だけが慎ましくあるべきなのかと問うたのだという。
カレン様は平民として暮らしていたから、本当の民の心がわかるのだという。
カレン様は、カレン様は、カレン様はーー
お茶の香りも、庭の景色も、私の言葉も、すべてその名に塗りつぶされていく。
一度だけ、私は諫めた。
「殿下。婚約者以外の女性とあまり親しくなさるのは、外聞がよろしくございません」
殿下は困ったように笑った。
「君もカレンに会えばわかるよ。彼女はそういう、つまらない嫉妬の対象じゃない」
「嫉妬ではございません。殿下のお立場を案じております」
「そういうところだよ、ミラーラ」
殿下は茶器を置いた。白磁が皿に触れる音が、やけに冷たく響いた。
「君はいつも規則や立場ばかりだ。俺は、もっと自由に人と関わりたいだけなんだ」
突き放すようなその声に、私たちの穏やかだった二人きりの時間は静かに終わりを告げた。
彼が求めた「自由」がどのような形をしているのか、私はすぐ思い知らされることになる。
次の週、殿下は本当にカレン様をお茶会へ連れてきたのだ。
「初めまして、ミラーラ様!」
カレン様は明るく笑った。挨拶の角度は少し浅く、言葉遣いも貴族令嬢としては砕けていた。けれど、それすら彼女の魅力として受け取られているのだと、殿下の表情を見ればすぐにわかった。
「ミラーラ様って、とてもお綺麗なんですね。でも、少しお人形みたい。もっと自由に笑えばいいのに」
悪意はなかったのだろう。無邪気な刃ほど、受け止める側の血を意に介さない。
「ご忠告、痛み入りますわ」
私がそう返すと、殿下は楽しそうに笑った。
「ほら、カレンは面白いだろう?」
私はその時、殿下の瞳の中から自分の姿が薄れていくのを見た気がした。
*****
それからの変化は、ゆっくりと、けれど確実だった。
ーー春の園遊会の日、殿下は私のエスコートを直前で取りやめた。
『すまない、ミラーラ!カレンが階段から足を踏み外して怪我をしたんだ。彼女は危なっかしくて放っておけない。お前は一人でも完璧に振る舞えるから、大丈夫だろう?』
そんな身勝手な手紙一つで、私は冷たい視線が渦巻く社交界に一人で放り出された。
「君なら大丈夫だろう、ミラーラ」
殿下はいつも私にそう言った。
「君は強いから」
強い。
その言葉は、便利だった。
私が泣かないのは強いから。怒らないのは強いから。置き去りにされても微笑むのは強いから。ならば傷つけてもいいのだと、彼は無意識に思うのだろう。
ーー夏の狩猟祭では、私が殿下のために誂えた手袋を、殿下はつけなかった。
「カレンが刺繍してくれたんだ。少し不格好だけど、温かみがあるだろう?」
ーー秋の慈善舞踏会では、私が半年かけて財務官と調整した寄付目録より、カレン様が思いつきで口にした孤児院訪問を称賛した。
「彼女は本当に民のことを考えている」
「寄付の配分は、すでに各領の状況を踏まえて組んでおります。急な訪問は先方の負担にもなりますわ」
「また規則かい?」
殿下はため息をついた。
「君はいつもそうだ。何もかも手順、慣例、責任。息が詰まるよ」
そして、決定的な言葉を告げた。
「俺はもっと自由な令嬢が好きなんだ」
その瞬間、胸元のペンダントが石のように重くなった。
女としての私を明確に拒絶された屈辱に耐えながら、私はそれでも、彼を支えるという婚約者の務めを全うしようとした。
王族の婚姻が、恋だけで成り立たないことを知っていたからだ。王家には王家の役目があり、王妃には王妃の務めがある。
愛人を持つことが褒められた行いでないとしても、歴史上、決して珍しいことではない。
これ以上彼が道を踏み外さないよう、私は最後の譲歩として一つの道を提示した。
「殿下がカレン様を大切に思われていることは承知しております。ですが、殿下は王太子でいらっしゃいます。私と婚姻を結び、王族としての義務を果たされたのち、彼女を正式に公妾にする道もございます」
そう告げた私を、殿下は信じられないものを見るような目で見た。
「それは、カレンに失礼だと思わないのか?」
信じられない言葉に、私は震える声で問い返した。
「ーーでは、婚約者である私に対しては、失礼ではないとおっしゃるのですか?」
殿下は一瞬言葉に詰まり、それから痛いところを突かれた子供のように忌々しげな顔をした。
「君はまたそうやって、すぐに理屈で俺を縛ろうとする」
殿下の声には、失望が滲んでいた。
「俺はカレンを愛している。愛する女性を妾になんてできない」
「私も、殿下の婚約者です」
「君は強いだろう」
ああ、まただ。その言葉。
私はその日、ようやく理解した。殿下は私を憎んでいるのではない。ただ、見ていないのだ。私の努力も、孤独も、傷も、何ひとつ。
そして、その無自覚な残酷さが、ついに誰の目にも明らかな形で突きつけられたのがーー先月の夜会だった。
その日、殿下は私のエスコートにこなかった。
仕方なく、私はアイスベルン家の執事サイラスを伴って会場へ赴いた。しかし、そこで私が目にしたのは、堂々とカレン様の腰に手を回し、甘い言葉を囁きながらエスコートするヘンリ殿下の姿だった。
ざわつく会場。突き刺さる同情と嘲笑の視線。私は屈辱に唇を噛み締めながら、足早にその場を去るしかなかった。
そして今宵、建国記念の夜会という最悪の舞台で、彼は「婚約破棄」を宣言したのだ。
*****
「……説明、してもらえますか?」
私は静かに口を開いた。震える声を必死に抑え、あくまで公爵令嬢としての矜持を保って。
「私は以前、殿下が妾を持つことをお許しすると申し上げたはずです。それなのに、なぜこのような真似を?」
ヘンリ殿下は、カレン様を背後に庇うように立ち塞がり、大声で言い放った。
「俺はカレンを愛している。カレンも俺を愛してくれている。真実の愛なんだ。愛する人を妾にするなんて、不誠実だろう」
カレン様が潤んだ瞳で殿下を見上げる。
「ヘンリ様……」
「俺はミラーラと別れ、カレンと結婚する。もう決めたことだ」
まるで、それが勇敢な決断であるかのように。
大広間の空気が張り詰める。壇上にいる国王陛下と王妃殿下は顔色を失い、私の父は唇を固く結んでいた。母は扇で口元を隠していたが、その目には失望とも怒りともつかない冷たい光が宿っている。
ああ、そう。そういうことなのね。
私は深く息を吸い込み、顔を上げた。
「わかりました。婚約破棄ですね」
「あ、ああ。ミラーラには申し訳ないと思っているが……もう、決定したことなんだ」
ヘンリは私の意外なほどあっさりとした返答に戸惑いながらも、頷いた。
「わかりました。……じゃあ、死にます」
「……は?」
私が放った言葉の意味が理解できず、ヘンリは間抜けな声を漏らした。
私は首元に手を伸ばし、幼い頃から肌身離さず身につけていたペンダントのロケットを開く。中から小さな錠剤を取り出すと、一切の躊躇なく口の中に放り込み、ゴクリと飲み込んだ。
「な、何をしているんだ?!」
「何って、服毒自殺ですわ」
私は薄く微笑みながら答えた。
「東洋の花、『オニバナ』から抽出した猛毒です。私はあと五分ほどで体の感覚がなくなり、死に至ります。痛みのない、安らかな死だそうですわ」
広間が悲鳴とどよめきに包まれる。ヘンリは血相を変えて私に駆け寄ろうとした。
「狂ったのか!?死を以て、俺たちの真実の愛を汚そうとするとは……そんなに、俺のことが憎かったのか!」
「いいえ、殿下」
私は静かに首を振った。
「私は、あなたのことを、ずっとお慕い申し上げておりました」
「え……?」
ヘンリの足が止まる。私は残り少ない時間を惜しむように、静かに、しかし会場の全員に響く声で語り始めた。
「私は、ヘンリ殿下の隣に立つ次期王妃として、幼い頃から血を吐くような王妃教育を受けてまいりました。一般的なマナーや教養だけではありません。王妃としてのあり方、他国との外交機密、国政の裏側、防衛の要所……そして、王族特有の秘匿された知識の数々。この意味が、殿下にはおわかりになりますか?」
「な、何を……」
「王妃とならない私は、この国にとって『歩く機密情報』、すなわち特級の危険分子なのです」
貴族たちの顔から血の気が引いていくのがわかった。
「これほどの知識を詰め込まれた私は、もうどこにも嫁ぐことはできません。我が国に王子は殿下お一人。他に独身の王族もおりません。下手に高位貴族に嫁げば、その知識を利用してクーデターを起こす火種となります。他国へ嫁ぐなど、国家反逆罪に等しい行為。つまり、婚約を破棄された私には、『死ぬ』以外の選択肢は残されていないのです」
「そ、そんな馬鹿な……!」
「法律にも明記されておりますわ。過去の歴史を紐解いても、さまざまな理由で王妃になれなかった令嬢が、その後どのような運命を辿ったか……殿下も歴史の授業で学ばれたはずです」
冷暗な地下牢で狂い死ぬか、あるいは暗殺者の刃に倒れるか。
「私は、そのような惨めな最期を迎えるくらいなら……公爵令嬢として、そして殿下を愛した女として、矜持ある死を選びたいのです」
「そ、そんな……つもりじゃ……死ぬなんて……俺は、ただ自由になりたくて……!」
ヘンリの声が震え、その瞳から大粒の涙が溢れ出した。
「ごめんなさい、殿下。あなたの心を、繋ぎ止められなくて」
私の視界が、ゆっくりとぼやけ始めた。足元の感覚が消え去り、立っているのが困難になる。
「あなたはカレン様を愛していた。あなたの幸せを心から願うなら、私が身を引くしかなかった。でも……それは、私が死ぬということ。自分の死が怖くて……なかなか言い出せなかったの。卑怯な私を、どうか許して……」
「違うんだ、ミラーラ!俺はーー!」
ごほっ。
むせ返るような咳と共に、私の口から赤黒い鮮血が流れ落ちた。白いドレスが、真紅に染まっていく。
糸が切れた人形のように崩れ落ちる私の体を、ヘンリが必死に抱きとめた。
「ごめん!ごめん、ミラーラ!俺がバカだった!こんなに近くに、ずっとお前がいてくれたのに……何が一番大事かに気づくのが、それを失う時だったなんて!」
ヘンリの顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになり、私のドレスを握りしめて号泣している。
「殿下……」
「死なないでくれ!医者だ!誰か、早く医者を呼べ!!」
「ごめんなさい、殿下……。一人で、自由になってしまって……。それでも、私、ずっと殿下のことが、大好き……」
薄れゆく意識の中で、私は最後の力を振り絞って彼を見つめた。
「一つだけ、お願いがあるの……。私の遺体は……アイスベルン領のタウンハウスにある、サシャの花の木の近くに埋めてほしいの。あそこは、私にとって一番安らぐ場所だから……」
「ああ、わかった!約束する!だから目を開けてくれ!」
「ありがとう、殿下。私、ずっとあなたのこと、愛してるわ……」
「俺もだ、ミラーラ!ミラーラぁぁっ!!」
ヘンリ殿下の悲痛な絶叫が広間に木霊する。貴族たちの啜り泣く声も、絶望に満ちたカレン様の顔も、深い水底に沈んでいくように遠のいていった。
静かに落ちていく意識の中で、私はそっと目を閉じる。
こうして、私、公爵令嬢ミラーラ・アイスベルンは、殿下への変わらない愛を胸に、愛する人の腕の中で、美しく儚く亡くなった。
ーーーなーんて、ね。
*****
眩しい。
温かな光が瞼の裏をチカチカと刺激する。誰かが私の体をそっと起こしているのがわかった。唇に柔らかな何かが触れ、冷たくて甘い水が喉を通って、空っぽの胃に染み渡っていく。
「ん……」
ゆっくりと目を開けると、視界いっぱいに薄紅色のサシャの花が満開に咲き誇っていた。風が吹くたびに甘い香りが鼻腔をくすぐる。よかった。計画は今のところ、うまくいってるみたい。
視線を少し下げると、私の顔を覗き込んでいる男がいた。夜の闇を溶かしたような長い黒髪を無造作に一つにまとめ、サファイアのように深い青の瞳を持った、息を呑むほどの美丈夫だ。
どうやら、私はちゃんと、生き返ったらしい。
「よかった……!ミラーラ!怪我はないか?苦しいところはないか?」
男は私の顔を見るなり、安堵に顔を歪めて私を強く抱きしめた。
「大丈夫よ。ありがとう、ルカ。それにしても、あなたの薬、こんなに上手くいくなんて驚きだわ」
「本当にヒヤヒヤしたよ。一歩間違えれば君を本当に死なせてしまうところだった。でも……君をあの場所から連れ出すには、これしか方法がなかったんだ」
目の前で私を抱きしめているこの男は、ルカ・ド・ヴェニキア。隣国であるヴェニキア国の第三王子であり、そしてーー私が幼い頃心を奪われた、本物の「初恋」の相手だ。
私とルカの出会いは、今から十年以上前、私たちがまだ五歳の頃だった。当時、ヴェニキア国と我が国は不可侵条約を結んでおり、その証としての「人質」として、ルカは我が国へと送られてきた。人質の保護任務を任されたのが我がアイスベルン公爵家であり、彼はこの領地の外れにある古びた離れに軟禁されていた。
王子とはいえ、人質は人質。罪人のような見窄らしい生活を強いられていた彼と、私は偶然出会った。その頃の私は、ヘンリ殿下との婚約が正式に決まり、地獄のような王妃教育が始まったばかりだった。同世代の子供たちと遊ぶことなど許されず、常に「完璧な令嬢」であることを強いられ、プレッシャーで心身共に疲弊しきっていた。
息抜きのためにメイドの目を盗んで領地を散歩していた時、離れの庭で土いじりをしている黒髪の少年に出会ったのだ。それからというもの、私はこっそり屋敷を抜け出しては、ルカと遊ぶようになった。ルカは信じられないほど頭が良く、特に植物や生き物の知識が豊富だった。
「これは毒があるから触っちゃダメだ」「この葉っぱは傷薬になるんだよ」。彼が教えてくれる外の世界の知識は、狭い鳥籠の中で生きていた私にとって、何よりも輝いて見えた。
ある日、ルカは私に小さなペンダントをくれた。『これ、やるよ』中が開くロケットになっていて、私と彼が一緒に押し花にしたサシャの花びらが入っていた。
『俺はいつか、必ず君を迎えに行く。だから、それまで待っていてくれ』
それが、私の本当の初恋。夜会で私が服毒に使ったロケットは、ルカからもらった大切な宝物だったのだ。
数年後、両国の関係が改善し、ルカはヴェニキア国へと帰還した。ルカはヴェニキアへ戻った後も、密かに私へ手紙を送ってくれた。仲介してくれたのは、アイスベルン家の執事、サイラス。何を隠そう、彼はヴェニキア国が潜り込ませた間者だったのだ。
ヘンリ殿下の心変わりが決定的になった時、私はルカに手紙を書いた。
『もうすぐ、私は捨てられます。このままでは命が危ないわ』
ルカからの返事は驚くべきものだった。
仮死状態を作る薬が完成した、と。最初に読んだ時は、さすがに目を疑った。
それは毒ではない。限りなく死に近い眠りを作る薬だった。脈は弱まり、呼吸は浅くなり、体温は落ちる。短時間なら医師にも死と誤認させられる。ただし、定められた時間内に解毒薬と水を与えなければ、本当に戻れなくなる。
恐ろしい薬だ。
けれど、私にはそれが必要だった。
「こんな危険な真似、本当はさせたくなかった。でも、君が王妃教育で得た知識ゆえに国から出られないのは事実だ。公的に『死んだ』ことにならなければ、君を自由にすることはできなかった」
ルカは私の銀色の巻き毛を愛おしそうに撫でた。
「気にしなくていいのよ、これしか方法はなかったもの」
「君が戻ってきてくれて、本当に良かった」
ルカが私を強く抱きしめる。彼の胸から伝わる力強い鼓動が、私が生きて、本当に自由になったのだという事実を教えてくれた。
しばらくその温もりを味わった後、私はそっと顔を上げて、いたずらっぽく尋ねた。
「そういえば、私が命を賭して演じた『悲劇のヒロイン』の評判は、どうだったのかしら?」
「……やっぱり、気になるのか?」
「ええ。一応、私の渾身の演技でしたもの。観客の反応は聞いておきたいわ」
「なら、大成功だよ」
ルカは呆れたように笑いながら、私を支えてゆっくりと立たせた。
「王都では、君の死が悲恋として語られている。真実の愛を選んだ王子と、そのために命を散らした公爵令嬢。吟遊詩人がもう歌にし始めたらしい」
「仕事が早いわね」
「ヘンリ殿下は、相当参っているそうだ。君の墓に通うと騒いでいるとか。カレン嬢とも、うまくいっていない」
私は小さく笑った。カレン様は自由を愛する令嬢だった。けれど王妃教育は、自由とは対極にある。朝から晩まで、礼法、歴史、外交、法、財務、宮廷派閥の把握。沈黙の長さにすら意味があり、笑顔の角度にすら責任が伴う。
彼女がそれに耐えられるかどうか。
それ以前に、殿下はあの夜、大勢の貴族の前で私に愛を告げてしまった。
俺も君を愛している、と。
真実の愛を掲げて婚約者を捨てた王子が、死にゆく元婚約者を抱きしめ、愛を叫んだ。その事実は、どんな美談にも小さな棘を残す。
ヘンリ殿下は流されやすい方だった。
……まさか、あそこまで私の決死の演技に絆されてくれるとは思わなかったけども。
カレン様も、その「流されやすい」弱さを利用して殿下に近づいたのだろう。真実の愛を貫く二人と、それを阻む頭の固い悪役令嬢。そんな構図を描きたかったのかもしれない。
けれど、おあいにく様。私が演じたのは悪役令嬢ではなく、愛する王子のために命を散らす悲劇の令嬢。
物語の結末が変われば、世間の目も変わる。真実の愛の勝利は、血の気の引くような悲恋の余韻に塗りつぶされた。婚約破棄の末に、王族の非情な掟によって服毒自殺に追い込まれた公爵令嬢。そして、その死の間際に後悔し、愛を叫んだ王子。
世間の同情は全て私に集まり、ヘンリ殿下とカレン様は「純真な令嬢を死に追いやった愚か者」として、一生厳しい非難の目に晒され続けるだろう。まあ、せいぜい頑張って生き地獄を味わうといいわ。
「ミラーラ」
ルカが甘い声で囁く。
「約束通り、君を迎えに来た」
風が吹き、サシャの花が揺れる。
「もう王妃候補としてではなく、公爵令嬢としてでもなく、ただのミラーラとして生きてほしい。ヴェニキアへ来てくれ。俺のそばに」
「人質だった第三王子が、ずいぶん立派になったのね」
「君を連れて帰るために、必死だったからな」
ルカは少し笑った。
「兄たちにも話はつけてある。君の新しい身分も用意した」
遠くで馬車の車輪が軋む音がする。ヴェニキアへ向かうための馬車が、抜け道の先で待っている。
私は最後に、タウンハウスの庭を振り返った。
そこには、ミラーラ・アイスベルンの墓がある。
悲恋の令嬢として死んだ私の墓が。
きっと人々は花を手向けるだろう。ヘンリ殿下も、何度かは訪れるかもしれない。涙を流し、過去を悔い、カレン様との間に消えない影を落としながら。
けれど、墓の下に私はいない。
銀の髪を風に揺らし、恋とも言えぬ、何かの残骸を置き去りにして、本当の愛へと歩いていく。
「行こう、ミラーラ」
「ええ」
ルカが差し出した手を、私は取った。
ーーかつての初恋は、銀の光のようだった。冷たくて、遠くて、触れた瞬間だけ温かい。
私がずっと胸の奥に隠していた、小さな銀のロケット。サシャの花びらと、幼い約束を閉じ込めた、たった一つの宝物。
その光は今、遠くで瞬いているのではない。私の手を包むこの温もりとして、すぐ隣にある。
私は、ただ一人のミラーラとして、愛され、歩み、笑いながら生きていく。
サシャの花が、遠ざかっていく。
薄紅色の花びらの向こうで、私は新しい人生へと旅立った。
ここまで読んでいただいてありがとうございました!
---蛇足---
今流行りの「失恋×ポエティック」な物語を書いたはずが……息をするようにどんでん返し?とざまぁを書いてしまいました。人は容易く変われないものですね。。。
でも、王太子があまりにもすぎて…
婚約破棄じゃなくて婚約解消だろがい普通!とか、
「俺はカレンを愛している」キリッ、じゃねぇよ、堂々と浮気宣言すんな!とか、
それを放置してる王室とか親とか、そういうモヤモヤを全てざまぁしてやりたくなって、後半を書いてしまいました。
やーい、お前の国、国家機密流出〜!!
「私のお墓の前で泣かないでくださいヘンリ殿下。そこに私はいません。」…『千の風に』エンドですね。
少しでもスッキリしていただけたら幸いです。
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