俳句 楽園のリアリズム(パート5-その2)
今回はバシュラールが人類史上最高の幸福を実現してしまった理由でもある、宇宙的幸福をめぐる文章を集めた部分のふくまれる(パート5-その2)をおとどけします。
遠い日の宇宙的幸福を追体験させてくれる700句の俳句作品が、詩的想像力はもちろん、私たちの詩的感受性を育成してくれないはずはない。そうして、俳句の言葉をとおして宇宙的幸福を追体験してしまうそのことが、私たちの詩的言語感覚を研ぎすまさないはずはない。バシュラールのいう「言葉の夢幻的感受性」とは、詩的想像力と詩的感受性と詩的言語感覚が複合したかたちの感受性だと思われますが、俳句でそれなりのポエジーを味わえるようになったとしたら、そうした言葉の夢幻的感受性がそれなりにご自分のものになったことの証拠。最初に読むのは大木実や高田敏子という詩人のやさしすぎるほどの詩ですし、この本(まだ本にはなっていませんがややこしいのでこれからはこう言わせてもらうことにしました)のなかの俳句の宇宙的幸福=ポエジーをくりかえし味わっていただけたなら、ふつうの詩を読んで詩情や詩的な喜びや慰めを感じないで一篇を読みとおすなんてまったく不可能なことだと考えます。
バシュラールの指し示している幸福ときたら一生かけても到達できないほどにも無限大に開かれているので、この本には一生身近に置いて役立てていただく値打ちがあると思っています。
それにしても、本文で触れたことがありますけれど、バシュラールの文章の扱いは引用の許容範囲を超えていると出版元の方とかは思われるでしょうが、人類の宝物のような書物の訳文の一部を最高なかたちで生かしているこの原稿を著作権を盾に制限するとしたら、あまりにも狭量なことで、そんなことは絶対ないだろうと信じています。それは、教会や神父や牧師が、あなたの書いた本には聖書からの引用があまりにも多すぎるとクレームをつけたりするのとほとんど同じことだと思いますので。
それにしても、この本のなかのバシュラールの言葉の内容を100%実現させてしまったりしたら、間違いなく通常の100倍の幸福をどなたもが手に入れることになるでしょうが、俳句のポエジーをレベルアップさせていただくほどに、ほどほどの途中だろうとどなたもが最高と思えるような人生を手に入れることになるのは確実なこと。それこそがこの本を一生の宝物としていつまでも役立てていただける理由なのです。
いまは知覚の対象でしかない「世界」のすべての事物を、幼少時代には宇宙的想像力と宇宙的感受性でもってイマージュとして受けとめ、ぼくたちだれもが子供のころ、まぶしいほどの宇宙的幸福でもって満たされていたのだった。そんなことぜんぜん覚えていないけれど、つまり、そう、バシュラールの教えによると。あるいは、それが、そうでありえたかもしれない、もうひとつの幼少時代だったとしても。
「読者自身もいままで引用してきたあら
る詩(俳句)について考えてみていただ
きたい。それらの詩はそれぞれに異色の
ものであるが(この本で利用させてもら
っている俳句はぜんぜん異色ではないけ
れど)しかし、おそらくすべてが境界を
とびこえ、流れを遡行し、静かな水をた
たえた大きな湖を見つけだしたいという
悲願を証言している。その湖では時間が
流れを停止している。しかもこの湖はわ
たしたちのなかにある。原初の水のよう
に、また不易の幼少時代の宿る場所のよ
うに」
つぎは青柳志解樹の俳句作品。沈黙に縁どられてこんなにもあらわになったイマージュたちを、ぼくたちの心のなかの湖面のようなどこかはしっかりと受けとめてくれるだろうか……
整然として果樹園に春の雪
星またたけば犇めきて雑木の芽
くろぐろと濡れて夜明けの春の土
「この湖はわたしたちのなかにある。原
初の水のように、また不易の幼少時代の
宿る場所のように……
太陽より湖眩しくて梅咲けり
春愁の椅子一つある葡萄園
山国の日陰日向の春のいろ
「俳句作品を読むことによって、しばし
ばたった一句の俳句のイマージュの助け
によって、わたしたちの内部に、もうひ
とつの幼少時代の状態、わたしたちの思
い出よりももっと昔へと溯る幼少時代の
ある状態を甦らせることが可能になるだ
ろう……
満開のさくらも夜となりしかな
笛吹川雨の彼方の桃の花
春惜しむ笛吹川のたもとにて
「俳句は宇宙的幸福のさまざまなニュア
ンスをもたらす」
今回は、バシュラールに人類史上最高の幸福を実現させてしまった理由でもある<宇宙的幸福>ということに関係のありそうなすごい言葉を、まとめて紹介させてもらうことにしよう。
それにしても、なんてとてつもない幸福なのだろう、バシュラールの指し示してくれている幸福ときたら!
「わたしたちを幼少時代につれもどす夢
想がなぜあれほど魅惑的で、あれほどた
ましいにとって価値あるものとみえるのか」
小さな旅に出てひたる「思い出の夢想」について考えてみたときにはっきりしたことだけれど、それを味わうことがこの本の目的のひとつでもあるポエジーというものが、これほどの、人生における至福といいたくなるような喜び=快楽を体験させてくれる(はずな)のは、どうやら、それが、幼少時代の宇宙的幸福というとてつもない幸福感を遠い源泉としていと思われるからだった。
「夢想する子供とは何とすばらしい宇宙
的な存在であろうか」
「イマージュの世界そのもののなかに住
むという幸福を、全宇宙のなかに浸みわ
たらせる」
「夢想する人が宇宙論的に幸福であるこ
とをどうして肯定せずにおられよう」
「最初の幸福にたいし感謝をささげなが
ら、わたしはそれをふたたびくりかえし
てみたいのである」
人生最初の幸福とは、人生の黄金時代における、まぶしいほどの宇宙的幸福のことでなくてはならないだろう。宇宙的幸福をともなわなければ夢想とはいえない。夢想するのでなかったら、ポエジーというこの世の至福を味わえるはずもない。
「幼少時代がなければ真実の宇宙性はな
い。宇宙的な歌がなければポエジーはな
い」
それではさっそく、宇宙性とか宇宙的夢想とか宇宙的幸福とかいったことをめぐる、それこそ人類の宝物というしかないような、バシュラールのものすごい言葉をまとめて読んでみたいと思う。
何度も紹介させてもらっているものがほとんどでちょっと新鮮さに欠けるかもしれないけれど、それでも、心をこめてじっくりと読みこんでみよう。これらが、人生最高の幸福=快楽について述べられた文章であることは、まず間違いないことなのだから。
「わたしたちは思い出しながら夢想する。
わたしたちは夢想しながら思い出す。わ
たしたちの思い出はひとつの川を喚起す
る。その川は丘の上に広がる空を映して
いる。だが丘は大きくなり、また入江も
拡大する。小さなものは大きくなってい
る。幼少時代の夢想の世界もまた拡大さ
れており、今日の夢想にあらわれる世界
よりも大きい。(中略)このようにして
幼少時代はもっとも大きな風景の源泉と
なる。子供の孤独はわたしたちに原始的
な無限の広がりの感じをあたえたのであ
る」
「この幸福な孤独のなかで夢想する子供
は、宇宙的な夢想、わたしたちを世界に
結びつける夢想を知っているのである。
わたしの意見では、人間のプシケの中心
にとどまっている幼少時代の核を見つけ
だせるのは、この宇宙的な孤独の思い出
のなかである」
「思い出しながら想像する夢想のなかで、
わたしたちの過去はふたたび実体を発見
するのである。絵画的なものをこえ、人
間のたましいと世界との結びつきが強固
になる。そのときわたしたちのなかでは
歴史の記憶ではなく宇宙の記憶が甦える」
「夢想家は、限界も制限もないその夢想
のなかで、かれを魅了した宇宙的イマー
ジュに身も心もまかせきっている」
「宇宙的夢想の正常な軸は、それに沿っ
て感覚的世界が美の宇宙に変容される、
そういう軸である」
「宇宙的な夢想の頂点に立つ詩人の功績
はパロールの宇宙を構成することである」
「詩人―詩人の機能―は、不可思議の世
界、昂揚した宇宙的イマージュから生じ
た世界を、いくつもわたしたちにあたえ
ねばならぬことである」
「夢想家の宇宙は不動の時間のなかにわ
たしたちを入れ、世界のなかにわたした
ちの基礎をおくようにしてくれる」
「宇宙的な語や宇宙的イマージュは人間
を世界に結びつけるきずなを織るのであ
る」
「詩人が世界の美しいイマージュを革新
しながら夢想家を援助するとき、夢想家
は宇宙的な健全さに近づいているのであ
る」
「ここで読者は、宇宙化するわたしの領
域に入る」
「夢想する人が宇宙論的に幸福であるこ
とをどうして肯定せずにおられよう」
「幼少時代の世界を再びみいだすために
は詩人の言葉が、真実のイマージュがあ
ればいい。幼少時代がなければ真実の宇
宙性はない。宇宙的な歌がなければポエ
ジーはない。詩人はわたしたちに幼少時
代の宇宙性をめざめさせる」
「これが宇宙論的な幼少時代の存在であ
る。(もの心つく年齢に達するや)人間
は過ぎ去っていく。宇宙はとどまる。そ
の宇宙はいつも原初の宇宙であり、この
世のどんな大きな見世物でさえ生涯にわ
たって消すことのない宇宙なのである。
わたしたちの幼少時代の宇宙的な広大さは
わたしたちの内面に残されている。それは
孤独な夢想のなかにまた出現する」
「詩人たちは宇宙的幸福のさまざまなニ
ュアンスをもたらす」
「夢想する子供とは何とすばらしい宇宙
的な存在であろうか」
最後に、究極の到達点を示しているような言葉を引用させてもらっておしまいにしよう。
「宇宙の夢想により、夢想家は責任のな
い夢想、証拠にたよらない夢想を知るの
である。宇宙を最後に夢想する、これこ
そ夢想のもっとも自然ななりゆきである」
人類の幸福のためにこれらの文章の含まれた膨大な著作を書き残してくれただけではなくて、こうした宇宙的幸福を、詩を読んだり世界を眺めたりするだけで、ひとりの夢想家として実際にいつでも味わうことのできたバシュラールが、人類史上最高の幸福を実現してしまったのもあたりまえといえるだろう。
「この世のすばらしい美を眺めているあ
いだにわたしたちを捉える夢想のなかで
さえ、わたしたちは夢想の坂道をたどる
ものだ。知らずしらずのうちに、わたし
たちは昔の夢想の方へつれていかれる。
あっという間にわたしたちは、もはやそ
の夢想がいつ頃のものか日付を確定しよ
うなどとは思わないほど遠い昔までつれ
ていかれる。永遠の微笑がこの世の美の
上にふりそそいでいる」
「存在の奥まで下降した一種の忘我のあ
とでは、疑惑のおしゃべりの必要もなく、
夢想家のたましいは表面に上昇し、戻っ
てその宇宙的な生をまた生きるのである」
「宇宙的時間が、ここでは凡庸な時間、
つまり押し流すだけで産み出すことのな
い時間に優先しているのだと思われる」
こんなとてつもない宇宙的な時間をバシュラールみたいに毎日の生活のなかで生きることができるようになってしまったら、ぼくたちだって、5倍どころか、やっぱり、通常の100倍は幸福な人生を手に入れてしまうことになりそうだ。
「夢想の詩的相は、意識を覚醒状態のま
まに保つ金色のプシシスムにわれわれを
近づける」
ぼくたちのあらゆる感覚や感受性が覚醒させられ開放されて、ぼくたちのこの人生が最高の調和でもって支配されるようになるのも、自然ななりゆき。旅や俳句が、その夢想の幸福が、当然の結果として、いま、ぼくたちの心を、まさに、金色の魂に近づけてくれているはずなのだ。どんなに圧倒されそうなすごさだろうと、バシュラールの教えによると。そうした意識が捉えるあらゆる対象が、このうえなく甘美な宇宙的な〈諧調〉のようなもの、つまり、まぶしいほどの幸福感をぼくたちにもたらすことになるのも、また、当然といえる。
「詩的夢想のなかでは、あらゆる感覚が
覚醒し、調和する」
「ただ夢想だけがこういう感受性を覚醒
させることができる」
「夢想は人間的なものがすべて生成する
ように存在のすべての牢獄を開放する」
「夢想において人間のたましいのなかで
花と開きうるものすべてが調和する」
「夢想が人生を調和させ、生への信頼を
準備する」
俳句のイマージュとかで宇宙的幸福を体験させてくれたうえに、感覚や感受性を覚醒させてぼくたちの感性まで変革してくれる夢想そのものには、やっぱり、ぼくたちの人生を限りなく幸福なものに変えてしまうメカニズムみたいなものがひそんでいるとしか考えられない。つまり、そう、幸福のメカニズムが。
「夢想家の語ることばは『世界』の名詞
となる。名詞たちは大文字に接近する。
すると、『世界』は大きくなり、世界を
夢想する人間は『大きく』なる。イマー
ジュのなかでこのように大きくなること
は、しばしば理性的人間にたいする抗議
なのである。それは詩人が詩的陶酔を理
性的人間に打明けてみるだけで十分であ
ろう。理性的人間はおそらく陶酔という
語でひとつの抽象語を作りながら理解す
るにちがいない。しかし詩人は、陶酔が
本物であるために世界の盃で飲むのであ
る。もう詩人は隠喩では満足しない。詩
人にはイマージュが必要なのである」
文中の隠喩とは意味作用が作りあげる文学的なイマージュのことをいっているのかなとぼくは理解したけれど、まさにぼくたち、この本のなかで、俳句という盃で、一句ごとに、真のイマージュを、つまり、なみなみと注がれた小さくて大きな「世界」を、3口で飲みほしているということにならないだろうか。そう、詩人だけではなくてぼくたちにも、詩的陶酔を誘う「世界」の名詞が、本物のイマージュが必要なのだ。
「しかしこのイマージュは原則としてわ
たしたちのものであるとはいえない。そ
れはわたしたちの単なる思い出よりもっ
と深い根をもつからである。わたしたち
の幼少時代は人間の幼少時代、生の栄光
に達した存在の幼少時代を証言している」
「幼少時代は深層心理学のいう方式その
ままのかたちで、あたかも本当の原型、
単純な幸福の原型としてあらわれる」
旅と俳句で最高の人生を手に入れるというぼくたちの試みているこの方法がだれにとっても素晴らしく有効なのも(復活する幼少時代のレベルが上がったらという条件はつくけれど)旅情やポエジーというかたちで、あるいは、旅抜きの俳句のポエジーだけでも、この世の至福、幼少時代の宇宙的幸福というとてつもない幸福=快楽を、だれもが比較的簡単に、しかもだれもがうれしくなるほど公平に体験できてしまうからだった。この試みの正当性と有効性は、いままで読んできたバシュラールのすべての言葉が、完璧に保証してくれている、はず。
最晩年、バシュラールはこんな言葉を残している。
「私が今、語っておきたいのは、このよ
うな夢想がいかにして私の中で活動する
夢想となるに至ったのか、また夢想が内
奥の存在にどのように働きかけているの
か、そして詩人の一つの夢想が、どのよ
うにしてわれわれのうちに調和をもたら
すようになるのかということである。長
い月日のあいだ、一つのイマージュに忠
実に、水に忠実に、鳥たちの飛翔のあら
ゆる夢想に忠実でいられることは、なん
と心豊かな恵みであろう」
一篇の詩を読むだけでこのようなとてつもない夢想を堪能することができたのも、夢想することの本質をだれよりも深く理解していたからということもあるけれど、それ以上に、記憶と想像力の結合度の極端に高い詩的想像力を、バシュラールは完全に自分のものにすることができたからではないかと思われる。
「プルーストは思い出すためにマドレー
ヌの菓子を必要とした。しかしすでに思
いがけないひとつの語だけでも同じ力が
発揮される」
ぼくたちの試みにおいても、ふだんはどこかに隠されている「幼少時代の核」とセットであらわになった想像力ー記憶という心理的混合体が、旅先の風景や事物に触れてよみがえらせてくれる遠い日の記憶、あるいは、俳句の言葉に触れてよみがえらせてくれる遠い日の記憶が、プルーストのマドレーヌみたいな至福をもたらしてくれるはずなのも、そうした過去の記憶が、ぼくたち自身が実際に体験したかどうかに関係なく、そうでありえたかもしれない、もうひとつの幼少時代の宇宙的幸福を、なぜかぼくたちに思い出させてしまうせいだった。
つぎの青柳志解樹の俳句作品も、5・7・5と区切るようにして、ゆっくりと言葉をたどってみるだけでいい。俳句の音数律がくっきりと浮き彫りにしてくれるこれらの宇宙的イマージュは、はるか時間の彼方、あの、まぶしいほどの宇宙的幸福を、しっかり呼びさましてくれるだろうか……
咲きいでて風の芙蓉となりにけり
小鳥らの声ちりばめし水の秋
山の鳥霧に濡れたる声を出す
「俳句は宇宙的幸福のさまざまなニュア
ンスをもたらす……
町の灯に応ふ山の灯露けしや
女湯の灯の消えてより天の川
学校のピアノ鳴るたび山粧ふ
「何ごとも起こらなかったあの時間には、
世界はかくも美しかった。わたしたちは
静謐な世界、夢想の世界のなかにいたの
である……
秋の湖かがやきつつもかすみけり
かたはらに石ありて聞く秋の声
「幼少時代の世界を再びみいだすために
は俳句の言葉が、真実のイマージュがあ
ればいい。幼少時代がなければ真実の宇
宙性はない。宇宙的な歌がなければポエ
ジーはない。俳句はわたしたちに幼少時
代の宇宙性をめざめさせる……
コスモスが咲くだけの旧村役場
落葉松を黄に染めあげし村境
鶏小屋の戸を締めにゆく秋の暮
「そのとき世界とその夢想家はどんな新
しい連帯関係にはいることか」
「ここで読者は、宇宙化するわたしの領
域にはいる……
天高し屋根を真赤にサイロ立つ
水飲んでよりしみじみと秋の雲
「俳句作品のなかで俳句形式が世界の美
しいイマージュを革新しながら俳句の読
者を援助するとき、ぼくたち俳句の読者
は、宇宙的な健全さに近づいているので
ある」
出会えたポエジーにまだ個人的なバラつきがあるのは仕方のないことだけれど、いま読んだ俳句でぼくたちにそれなりのポエジーを味わわせてくれたのが、つまり、ぼくたちをそれなりに夢想なんかさせてしまったのが、それなりにあらわになった「幼少時代の核」とセットでそれなりに活動してくれた詩的想像力(想像力―記憶という心理的混合体)だったのは、まず間違いないことだろう。
「幼少時代の存在は全想像力を駆使して
現実のイマージュを生きている」
全想像力を駆使して現実のイマージュを生きて宇宙的幸福で満たされていたときの、その想像力には、詩的想像力などとちがって記憶などといものはまだふくまれていないはずだから、まっさらなその想像力は宇宙的想像力と呼んで区別すべきだろう。
ぼくたちは子供のころ、宇宙的想像力や宇宙的感受性でもって、世界の<イマージュとしての事物>をその絶対的な直接性において捉えたりなんかして、とてつもない宇宙的幸福につつみこまれていた(らしい)。そんなふうに宇宙的幸福を子供だったぼくたちに体験させていたのが、遠い日の宇宙的夢想。
いつぽう、大人になってから、旅先のなつかしい風景や事物に触れたり、俳句の言葉から<事物のイマージュ>を作りだしたりして、記憶の作用による詩的想像力や詩的感受性でもって、もう一度宇宙的幸福を体験しなおすことが、詩的夢想。つまり、宇宙的夢想をすることなしに、その記憶だけでちゃっかり宇宙的幸福を追体験してしまうことが、詩的夢想、と、そんなふうにも言えるのではないだろうか。
記憶などというものにたよらない宇宙的想像力や宇宙的感受性による宇宙的夢想と、記憶だけがたよりの詩的想像力や詩的感受性による詩的夢想。
もっとも、時たま俳句で素晴らしいポエジーに出会えたときの実感なんだけれど、俳句のイマージュを作りだしたのは詩的想像力だとしても、それを受けとめてくれたのは(つまり「心の鏡」だ)もしかしたら、詩的感受性なんかではなくて、復活しはじめた宇宙的感受性だったのかもしれない、と、なんだかそんなような気もするのだけれど。
「過去の証拠品を前に、思い出をよびさ
ましたりたしかめたりする事物や風景を
前に、詩人は思い出のポエジーと幻想の
真実との融合を味わう。夢想のなかでふ
たたび甦った幼少時代の思い出は、まち
がいなくたましいの奥底での〈幻想の聖
歌〉なのである」
「宇宙的夢想の正常な軸は、それに沿っ
て感覚的世界が美の宇宙に変容される、
そういう軸である」
幼少時代の宇宙的幸福を呼びさまして〈幻想の聖歌〉を耳にしたような至福をぼくたちに味わわせてくれるのは詩的想像力や詩的感受性だとしても、旅先で、ほんとうにぼくたちの幼少時代の宇宙的なたましいが復活してしまったりしたら、その属性である宇宙的想像力や宇宙的感受性も同時に復活してしまう
ことになるのは、明らか。やっぱり、そのうち、旅先で「思い出の夢想」にかわって「世界の夢想」が、つまり、宇宙的夢想が再開されることになるのが、自然なりゆきといえそうだ。
「宇宙の夢想により、夢想家は責任のな
い夢想、証拠にたよらない夢想を知るの
である。宇宙を最後に夢想する、これこ
そ夢想のもっとも自然ななりゆきである」
何度も言っているようにこの原稿を売り込むためにこのサイトへの投稿をつづけているのですが、いまひとつ読者数が伸びず歯がゆい思いをしております。もちろん、いまの段階でもたぶん、このサイトで100人以上のひとの人生と直接かかわっているそのことだけでも意味はあるとは思いますが、自分の人生をほとんど台無しにしてまで頑張ってきたのです、本にしてもらってもっとたくさんのひとの人生とかかわるためにも、なんとしても読者をもっと増やしていきたいので、何度もお願いしておりますが、本稿を気に入っていただけたなら、サファリやヤフーやグーグルで「ヒサカズ(一字分空白)ヤマザキ」の名前で検索していただけたら2編くらい掲載されているタイトルからこのサイトに入れますので、お知りあいの方とかに私の作品の存在をおしえていただけたなら、ご協力を心から感謝いたします。もしも書籍化のお話をいただいたなら山崎久和の本名にもどしたいし、縦書きで俳句作品も上下をそろえて縁どる沈黙の効果をさらに生かしていつでも気ままにポエジーをさらに深く味わえるようになったその本を、たとえ一万円の定価がついてもいまの読者の方にも手に入れていつまでも活用していただけそうな気がしておりまが、買っていただけない読者の方のためにも、本稿の投稿は最後までまっとうするつもりでおります。
自己PRにはしたないほど夢中で書き忘れてしまうところでしたが、今回はじめて私の作品を読んで気に入っていただいた方には、まず(パート4)のあたりにある(パート1・改)で私の考え方になじんでいただいて、さらに(パート2-その1と2)で旅というものにどうしてこうもこだわるのかを理解していただくのが好ましいと考えます。あとは、順番を気にせずに、どこでも適当に読んでいただいて、当然の結果として次第にレベルアップしてくる俳句の快いポエジーを、くりかえし堪能していただければと思っております。