終章 残響
Under toneを出た翌日、澪は編集部を休んだ。
編集長には、体調が悪いとだけ伝えた。
熱はない。
頭痛もない。
食欲もあった。
ただ、音を聞きたくなかった。
冷蔵庫の低い駆動音。
給湯器が鳴らす小さな電子音。
上の階から落ちてくる足音。
窓の外を走る車。
普段なら意識もしない音が、一つずつ意味を持って迫ってくる。
何かを知らせている。
どこかへ呼んでいる。
そう思い始めると、どの音も無視できなかった。
録音機は、玄関脇の棚に置いた。
電池は抜いてある。
それでも、時折赤いランプが点灯した。
数秒だけ光り、何事もなかったように消える。
そのたびに澪は、部屋のどこかで誰かが息を吸ったような気配を感じた。
ラブラドライトのブローチは、テーブルの上に置いていた。
灰色の石。
角度を変えると、内部に青い光が浮かぶ。
耳を近づけても、何も聞こえない。
音がしないことだけが、かえって不気味だった。
三つの石はUnder toneへ置いてきた。
引っかく音。
笑い声。
名前を呼ぶ声。
もう聞こえない。
ナギの言葉どおり、遠くなったのだと思った。
昼過ぎ、編集長から電話が来た。
「大丈夫?」
「はい」
「石の記事、急がなくていいからね」
「ありがとうございます」
「Snow flakesの取材だけ、明日までに起こせそう?」
澪は玄関脇の録音機を見た。
「分かりました」
「無理しないでね」
電話を切る。
仕事だ。
怪談の取材ではない。
音楽特集のための、普通のインタビュー。
澪は録音機へ電池を戻した。
電源を入れる。
画面には、保存されたデータが並んでいた。
煙の指輪。
片耳の光。
青い歌。
Snow flakes。
Under tone。
消したはずの事前録音まで、もう一度表示されている。
七月二十八日。音の鳴る石、事前記録。
澪はそれには触れず、Snow flakesのファイルを選んだ。
パソコンへ接続し、音声を取り込む。
画面に波形が表示された。
新曲の話。
曲作りの方法。
ライブと録音の違い。
三人の声は明るかった。
コウタが説明し、ハヤテが話を広げ、ヒナタが短く補う。
時々、三人が笑う。
普通の会話だった。
澪は文字に起こしながら、少しずつ呼吸を取り戻した。
三人が身につけているものは、事件の石とは別物だ。
Under toneに並んでいた、同じ種類の石。
似た意匠のアクセサリー。
少し変な音を鳴らすことはあっても、三人はそれを必要以上に追わない。
怖いものは怖い。
だから、怖い日は早く帰る。
聞きたくない音は、聞かない。
原因が分からなくても、それだけで人生のすべてを怪異にはしない。
澪には、それができなかった。
聞こえた音には、必ず意味があると思った。
誰の声なのか。
何を伝えたいのか。
なぜ自分に聞こえたのか。
止める方法はあるのか。
追うほどに、音は近くなった。
いや。
自分から近づいていった。
取材の終盤に入る。
『笑い声が聞こえることは?』
『ありますけど』
ハヤテの声。
『怖かったですよ。その日はコウタの部屋に逃げました』
『来たな。夜中に』
二人が笑う。
少し遅れて、ヒナタが息を吐く。
澪は、そこで一度再生を止めた。
何度も聞いた音声だった。
異常はない。
三人が会議室を出たあとの会話を除けば。
今日、静かだったな。
あの人が持っていたから。
そっちへ行っていたんだ。
あれは本当に、三人が話した言葉だったのか。
澪は波形を拡大した。
扉が閉まる。
三人の足音が遠ざかる。
その数秒後に、声が入っている。
だが、波形を細かく見ると不自然だった。
三人の声は、取材中に録音された音とよく似ている。
同じ呼吸。
同じ語尾。
同じ雑音。
過去に録られた言葉を切り取り、つなぎ合わせたもののようだった。
今日。
静か。
あの人。
持っていた。
そっち。
行っていた。
録音の中にある言葉だけで、作れない文章ではない。
澪は声を一つずつ切り分けた。
コウタ。
ハヤテ。
ヒナタ。
速度を落とす。
雑音を減らす。
三人の声の下から、別の音が浮かび上がった。
低く、一定の間隔で続く音。
カリ。
そのすぐ後ろで、金属が小さく触れ合う。
チリ。
さらに奥で、女が笑っている。
その下に、細い歌声。
三つの音が重なっていた。
澪は音量を下げた。
それでも止まらない。
音は、パソコンのスピーカーからではなかった。
玄関脇の棚。
録音機から聞こえている。
電源は入っていない。
画面も暗い。
澪は近づかなかった。
三つの音が、少しずつ形を変えていく。
引っかく音が、言葉になる。
笑い声が、息を整える。
歌声が、音程を失う。
最後には、一人の女の声へ重なった。
『やっと、静かになった』
澪はテーブルのブローチを見た。
ラブラドライトの奥で、青い光が揺れている。
Under toneへ置いてきたはずの三つの音が、ここにある。
石から離れたのではない。
石だけを置いてきた。
音は、最初から録音機に残っていた。
ナギは言っていた。
ずっと、誰か入っています。
録音機の赤いランプが点灯した。
澪は立ち上がり、棚へ近づいた。
電池を抜く。
ランプは消えない。
電源ボタンを長押しする。
反応はなかった。
画面に、見覚えのないファイルが表示されている。
佐伯澪 取材
録音時間は、今も進んでいた。
澪は停止ボタンを押した。
代わりに、スピーカーから自分の声が流れた。
『立たないで』
澪は立っていた。
椅子へ戻ろうとする。
『動かないで』
足を止める。
録音機の中で、短い呼吸音がした。
澪自身の呼吸だった。
『振り返らないで』
背後で、床が軋んだ。
誰かが一歩、近づいたような音。
澪は正面を向いたまま、息を止めた。
録音機の再生は続く。
『録音機を見ないで』
すでに見ていた。
画面に赤い波形が伸びていく。
引っかく音。
笑い声。
細い歌声。
三本の波形が重なり、その中央に新しい一本が現れた。
澪の声だった。
『聞こえた』
まだ口にしていない。
それなのに、胸の奥から何かが押し上がってくる。
澪は唇を噛んだ。
声を出してはいけない。
録音された通りに話してはいけない。
そう思った。
録音機の中で、自分が嬉しそうに笑った。
『見つかった』
背後の足音が止まった。
右耳で女が笑う。
胸の内側を、爪が引っかく。
喉の奥に、知らない旋律が満ちていく。
澪は最後まで振り返らなかった。
ただ、録音機の暗い画面に映っていた。
自分の肩越し。
誰もいないはずの場所に浮かぶ、青い光。
テーブルの上で、ラブラドライトが一度だけ鳴った。
録音開始を知らせる、小さな電子音だった。
翌朝。
編集部の共有フォルダに、一件の音声データが届いていた。
送信者は、佐伯澪。
送信時刻は午前二時十三分。
ファイル名は、
音の鳴る石 完成稿。
音声は、静かな部屋の環境音から始まる。
冷蔵庫。
時計。
遠くを走る車。
しばらくして、女性の声がした。
『音を扱う仕事をしていると、説明のつかない音に出会うことがある』
編集長は、その声が澪のものだとすぐに分かった。
『それは、決して珍しい話ではない』
声は落ち着いている。
『石が音を覚えることも』
少し間がある。
『人が、音に残ることも』
そのあとに、四人分の音が入っていた。
一人目は、爪で何かを引っかいている。
二人目は、笑っている。
三人目は、歌っている。
四人目は、何もしていない。
録音機のすぐ近くで、静かに息をしている。
やがて、その四人目が小さく言った。
『聞こえた』
録音は、そこで終わっていた。
佐伯澪は、その日から行方不明になった。
部屋に争った形跡はない。
玄関には鍵がかかっていた。
パソコンはついたまま。
机の上には、録音機だけが残されていた。
ラブラドライトのブローチは見つからなかった。
数日後。
編集長は「音の鳴る石」の記事を掲載しないと決めた。
三枚の写真も。
三件の取材記録も。
Snow flakesの取材音声も、すべて資料保管庫へ移された。
鍵のかかる金属製の棚。
録音機も、同じ場所へ入れた。
それから、誰も再生していない。
ただ。
深夜まで編集部に残った者が、時々音を聞くという。
硬いものを引っかく音。
女の笑い声。
歌詞のない歌。
そして、もう一つ。
録音を始める前に、確認するような女の声。
『聞こえていますか』
返事をしてはいけない。
そう決められている。
それでも、棚の奥では。
まだ、鳴っている。




