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Snow flakes ‐ Prism BLUE ‐ HINATA

正しい距離より、触れている方がいい

作者: 山吹 ことり
掲載日:2026/04/01

 音が、先にあった。


 目を開けるより早く、耳の奥で弦が重なる。


 軽やかなリズム。

 遠くで揺れる拍手。

 何人もの声が混ざった、柔らかいざわめき。


 それらが、波のように近づいてきて、

 ゆっくりと意識を押し上げる。


「……」


 ヒナタは、目を開けた。


 最初に見えたのは、高い天井だった。


 白く磨かれた装飾が、光を受けて淡く反射している。

 どこかのホール。

 いや、そんな言葉では足りない。


 広すぎる。


 音が響いているのに、

 妙に遠い。


「……ここ、どこだ」


 小さく呟いた声は、

 天井まで届く前に、空間の奥へ吸い込まれた。


 背中に、硬い感触がある。


 椅子、というより、

 やけに大きく、重いもの。


 身体は少し沈んでいるのに、

 落ち着かない。


 視線を落とす。


 重い布。

 きちんと整えられた衣装。

 袖口の装飾。

 指先まで、見慣れない。


「……」


 自分の身体なのに、

 自分のものではないみたいだった。


 ヒナタは、ゆっくりと周囲を見る。


 部屋、ではない。


 広間。


 そう呼ぶ方が、近い。


 視界の下には、人の流れがあった。


 色とりどりのドレス。

 揃った礼装。

 光を弾く髪飾り。

 音楽に合わせて、円を描くように動く人々。


 舞踏会。


 その言葉が、少し遅れて浮かぶ。


「……」


 現実感はない。


 けれど、細部だけは妙にはっきりしている。


 ドレスの裾が床を滑る音。

 誰かが笑う気配。

 グラスが触れ合う、ごく小さな響き。


 夢なら、もっと雑でいい。


 そう思うくらいには、

 そこにあるものすべてが整いすぎていた。


「……夢か」


 呟いてみる。


 答えるものはない。


 理解は、後回しにすることにした。


 分からないものを、すぐに分かろうとするのは疲れる。

 とりあえず、見えるものをそのまま受け取る。


 ヒナタは、視線を下へ流した。


 人の流れ。

 音の流れ。

 光の流れ。


 その中心近くで、ひとつだけ引っかかる。


「……」


 目が止まった。


 長身の男。


 金髪。

 整いすぎているくらい、整った顔立ち。

 動きに、無駄がない。


 立っているだけで、周りの空気が少し変わる。


 その向かいに、黒髪の姫がいた。


 華やかではある。

 けれど、派手ではない。


 白い雪の下に、静かな夜があるみたいに、

 そこだけ音の温度が違う。


「……」


 視線が合った気がした。


 いや、合ってはいない。


 距離もある。

 人の流れもある。

 光も、音も、間に挟まっている。


 それでも。


 何かが、揃った。


 ヒナタは、無意識に少し前へ身を乗り出す。


 音楽が遠くなる。


 周囲のざわめきも、拍手も、

 広間の光さえ、少し薄くなる。


 残るのは、その二人だけだった。


 金髪の王子が、一歩近づく。


 距離が詰まる。


 近い。


 けれど、踏み込んでいない。


 侵さない。

 乱さない。

 決められた形の中で、自然に近づいている。


「リトルスノー」


 低く、柔らかい声だった。


 呼ばれた姫が、ほんのわずかに視線を落とす。


 肯定でも、否定でもない。


 ただ、その名を受け取るように。


 王子が、その手を取る。


 動きはゆっくりだった。


 丁寧で、迷いがない。

 無理がなく、綺麗で、どこにも引っかからない。


 そのまま、手の甲へ。


 そっと触れる。


 口づけ。


 軽く。

 一瞬。


 でも、確かにそこにあった。


「……何」


 ヒナタは、思わず呟いた。


 何かが引っかかる。


 美しいとか、似合っているとか、

 そういう言葉では片づかない。


 ちゃんとしている。


 たぶん、それが一番近い。


 でも、ちゃんとしているからこそ、

 どこか遠い。


「……」


 視線が外れない。


 理由は分からない。


 ただ、妙に残る。


 ヒナタは、ゆっくりと背もたれに戻った。


 それでも、もう一度、下を見る。


 二人はまだいる。


 同じ位置に。

 同じ距離で。

 さっきと同じように、整ったまま。


 音楽は続いている。


 人々も、何もなかったように踊っている。


 けれど、ヒナタの中には、

 さっきの一瞬だけが残っていた。


 金髪の王子。

 黒髪の姫。

 リトルスノーと呼ばれた人。


「……面倒だな」


 誰にも聞こえない声で、そう呟いた。


 分からないものが、ひとつ増えた。


 それだけで、十分に面倒だった。



****


 気づいたら、立っていた。


 さっきまで座っていたはずなのに。


「……」


 背中にあった硬い感触が消えている。


 視線を落とすと、足元には数段の段差があった。

 振り返れば、そこには大きな椅子がある。


 玉座。


 たぶん、そういうやつだ。


 どうして自分がそこに座っていたのか。

 どうして今、降りようとしているのか。


 分からない。


 ただ、身体はもう動いていた。


「……」


 ヒナタは、ゆっくりと段差を降りる。


 一段。

 また一段。


 靴底が床に触れるたび、音が変わる。


 上から眺めていた時よりも、

 広間の音が近い。


 弦の響き。

 衣擦れ。

 小さな笑い声。

 誰かの息遣い。


 人の気配が、はっきりと肌に触れる。


「……」


 止まらない。


 そのまま、進む。


 視線の先には、さっきの二人がいた。


 金髪の王子。

 黒髪の姫。


 さっきと同じ場所にいる。


 同じ距離で。

 同じ温度で。


 周囲の人の流れが、二人を避けるように動いている。

 それとも、二人を中心に流れているのか。


 よく分からない。


 ただ、その場所だけが、妙に整っていた。


「……」


 ヒナタは、少しだけ眉を寄せる。


 理由は分からない。

 でも、そのままにはしておけない気がした。


 足は止まらない。


 音楽が近くなる。


 人の流れが、自然に分かれる。


 誰も止めない。

 誰も声をかけない。


 むしろ、道ができていく。


 それが当然みたいに。


「……」


 距離が縮まる。


 あと数歩。


 そのとき、金髪の王子がわずかに顔を上げた。


 視線が合う。


 今度は、確実に。


 整った表情。

 崩れない姿勢。

 こちらを見ても、少しも乱れない。


 ヒナタは、止まらなかった。


 最後の一歩を進む。


 距離が、止まる。


「……」


 無言。


 王子を見る。

 姫を見る。

 もう一度、王子を見る。


 どちらも、逃げない。


 何かを待っているようにも見える。

 何も待っていないようにも見える。


 少しだけ、間が落ちた。


 ヒナタは、そのまま口を開く。


「今の」


 声は静かだった。


 けれど、その場に落ちるには十分だった。


「なんだったの」


 直球。


 空気が、ほんの少し止まる。


 周囲の音が、一瞬だけ遠のいた気がした。


 金髪の王子が、ゆっくりと瞬きをする。


 驚いてはいない。


 ただ、こちらの言葉の置き場所を測っている。


「姫君への礼です」


 低く、整った声だった。


 何も乱れていない。

 言葉の角度まで、きちんとしている。


 ヒナタは、首を傾ける。


「いや、そうじゃなくて」


 言葉を探す。


 でも、うまく出ない。


 綺麗だった。

 似合っていた。

 自然だった。


 そういう言い方は、どれも少し違う。


「……なんか、ちゃんとしてた」


 結局、出てきたのは雑な感想だった。


 でも、たぶん外してはいない。


 王子が、ほんのわずかに目を細める。


 黒髪の姫は、何も言わない。


 ただ、ヒナタを見ている。


 まっすぐに。


「……」


 ヒナタも、見る。


 視線を外さない。


 黒髪。

 落ち着いた瞳。

 派手ではないのに、目が離れない。


 数秒。


 無言。


 周囲だけが流れている。


 そのまま、ヒナタがぽつりと言った。


「名前」


 順番も、礼儀もない。


 ただ、必要だと思ったから聞いた。


 王子が、先に口を開く。


「ハヤテと申します」


 自然に。

 迷いなく。


 ヒナタは、頷く。


「そう」


 それだけ。


 次に、姫を見る。


 待つ。


 姫が、ほんの少しだけ間を置いた。


 名乗ろうとした、その前に。


「リトルスノー?」


 ヒナタが言った。


 姫の動きが止まる。


 ほんの一瞬。


 そこに、わずかな驚きが混じる。


 ハヤテが、少しだけ視線を動かした。

 けれど、姿勢は崩れない。


「……ええ」


 姫が答える。


 静かに。


 ヒナタは、また頷いた。


 納得したように。


「そっちの方が合ってる」


 また雑だった。


 けれど、ヒナタの中ではそれで決まった。


 黒髪の姫。

 静かな立ち方。

 雪みたいな名前。


 たぶん、そっちの方がいい。


 リトルスノーが、少しだけ目を細める。


 警戒でも、拒絶でもない。


 ただ、こちらを測っている。


「……」


 ヒナタは、少しだけ息を吐いた。


 まだ、引っかかりは消えない。


 むしろ近くで見たせいで、さっきよりはっきり残っている。


「……もう一回やって」


 空気が止まった。


 今度は、さっきより分かりやすく。


 ハヤテが、わずかに首を傾ける。


「……何を」


 ヒナタは、即答する。


「さっきの」


 リトルスノーが、ヒナタを見る。


 少しだけ、困ったように。


 ハヤテが、一度だけ目を伏せた。


 それから、自然にリトルスノーの手を取る。


 同じ動き。


 同じ距離。

 同じ温度。


 手の甲へ、そっと触れる。


「……」


 ヒナタは、それを見た。


 今度は、近くで。


 指の角度。

 距離の取り方。

 触れて、離れるまでの間。


 全部が、きれいに整っている。


「……」


 少しだけ、目が細くなる。


 それから。


「……やっぱり、ちゃんとしてる」


 同じ感想だった。


 でも、さっきより少しだけ深い。


 遠くから見た時より、近くで見た方が分かる。


 これは、崩れていない。


 誰も傷つけないように。

 誰も踏み越えないように。

 きちんと距離が決められている。


 だから、ちゃんとしている。


 だからこそ。


「……」


 ヒナタは、少しだけ考えた。


 短く。


「俺もやっていい?」


 完全に場違いだった。


 でも、真顔だった。


 ハヤテが、ほんの一瞬だけ沈黙する。


 それから、静かに言う。


「……陛下」


 ヒナタは、首を傾ける。


「なに」


「これは、誓いの形です」


「うん」


「順序がございます」


 冷静な声だった。


 けれど、ほんの少しだけ困っている。


 ヒナタは、少し考える。


「……そっか」


 あっさり引いた。


 引いたけれど、納得したわけではなかった。


 周囲を見る。


 華やかな広間。

 整えられた音楽。

 決められた立ち位置。

 崩れない笑顔。


 全部がちゃんとしている。


 その分だけ、少し息苦しい。


「……面倒だな」


 小さく呟く。


 でも、すぐに視線は戻った。


 もう一度、二人を見る。


 ハヤテ。

 リトルスノー。


 並びは美しい。


 距離も正しい。


 それなのに、何かが残る。


「また来る」


 それだけ言った。


 許可も、確認もない。


 ハヤテは、軽く一礼する。


 リトルスノーは、静かにこちらを見ている。


 ヒナタは、そのまま背を向けた。


 来たときと同じように、人の流れが開く。


 歩きながら、小さく呟く。


「……なんなんだよ」


 自分でも分からない。


 でも、さっきより少しだけ、はっきりしている。


 あの姫が。


 気になる。



****


「……どこ行ってたんだよ」


 部屋に戻った瞬間、声が飛んできた。


 間髪入れず。


 まるで、扉が開く前から待っていたみたいだった。


 ヒナタは、足を止める。


 広間の音が、まだ耳の奥に残っている。

 弦の重なり。

 遠い拍手。

 リトルスノーと呼ばれた黒髪の姫。


 それらが、少し遅れて部屋の静けさに沈んでいく。


「……舞踏会」


 そのまま答える。


 コウタは、書類の前に立っていた。


 この場所でのコウタが何者なのか、

 ヒナタにはまだよく分からない。


 けれど、表情だけは見慣れていた。


 面倒なことを察した時の顔。


 それも、かなり早い段階で察している顔だった。


「それは知ってる」


 コウタが、無言で一歩近づく。


 距離が、妙に正確だった。


 詰めすぎない。

 でも、逃がさない。


 観察されている感じがする。


「その中で、何してきた」


 声は低い。


 怒っている、というより、

 確認している。


 すでに半分くらい答えを持っている人間の聞き方だった。


 ヒナタは、少し考える。


 何をしてきたのか。


 見ていた。

 近づいた。

 話しかけた。

 もう一回やらせた。


 順番に並べてみると、

 少しだけ面倒な気がした。


「……見てた」


「何を」


「……ちゃんとしてるやつ」


 コウタが、一瞬だけ止まる。


「……は?」


 ヒナタは、構わず続ける。


「金髪のやつ」


「ああ」


 理解は早かった。


「ハヤテ王子」


 ヒナタは、頷く。


「そう、それ」


 名前を口にされて、少しだけ腑に落ちる。


 あれは、ハヤテだった。


 さっき名乗られたばかりなのに、

 妙にもう知っているような気もする。


「それで」


 コウタは、わずかに眉を寄せた。


 嫌な予感が、もうしている顔だった。


「……話しかけた」


「だろうな」


 即答。


 ヒナタは、少しだけ目を細める。


「なんで分かるんだよ」


「分かる」


 短い返事。


 説明する気はなさそうだった。


 ヒナタも、それ以上は聞かない。


 聞いたところで、きっと似たような答えしか返ってこない。


 少しだけ視線を外す。


 それから、思い出したことをそのまま言う。


「……もう一回やらせた」


 コウタの動きが止まった。


 完全に。


 空気まで一緒に止まったようだった。


「……何を」


「さっきの」


「だから何を」


 ヒナタは、少しだけ手を動かす。


 曖昧に。


 自分でも、その動きをどう説明すればいいのか分からなかった。


「こう……手取って、キスするやつ」


 コウタが、目を閉じた。


 一瞬だけ。


 深く息を吸う。


 そして、ゆっくり吐く。


 その間、ヒナタは黙っていた。


 たぶん、今のはよくない反応だ。


 でも、何がどのくらいよくないのかは分からない。


「……やらせたのか」


「うん」


「誰に」


「……」


 沈黙。


 少し長い。


 広間での場面が、もう一度頭に浮かぶ。


 ハヤテがリトルスノーの手を取る。

 手の甲へ、そっと触れる。

 綺麗で、正しくて、遠い。


 コウタが、ゆっくり目を開けた。


 静かに言う。


「それ、完全に無茶振りだ」


 ヒナタは、首を傾ける。


「でもやってた」


「やるだろ」


 コウタは即答した。


「断る場面じゃないからな」


 ヒナタは、少しだけ考える。


 そう言われれば、そうなのかもしれない。


 でも、ハヤテの動きに無理はなかった。


 困ってはいたかもしれない。

 それでも、崩れてはいなかった。


 ちゃんとしていた。


 やっぱり、そう思う。


 コウタは、じっとヒナタを見る。


 数秒。


「……で」


 続ける。


「それ見て、何思った」


 ヒナタは、少しだけ視線を上げる。


 答えは、最初からあまり変わっていない。


「……ちゃんとしてた」


 コウタが、ほんの少しだけ顔をしかめる。


「語彙」


 小さく呟く。


 ヒナタは、無視した。


 別に、言葉が足りないわけではない。


 たぶん。


 これが一番近いだけだ。


 少しだけ間が空く。


「……あと」


 コウタが、待つ。


 ヒナタは、胸の奥に残っている感覚を探す。


 綺麗だった。

 正しかった。

 でも、見終わっても消えなかった。


 それは、感想というより、引っかかりだった。


「……なんか、引っかかる」


 今度は、少しだけまともな答えになった。


 コウタの表情が、わずかに変わる。


 興味。


 それから、理解。


「リトルスノー、って呼んでた」


 ヒナタが続ける。


 コウタは、すぐに反応した。


「黒髪の姫」


 ヒナタは、止まる。


「……黒髪の、姫」


 言葉を繰り返す。


 その響きだけで、広間の光が少し戻ってくる。


 黒髪。

 静かな目。

 リトルスノーという名前。


 合っていると思った。


 でも、合っていると思った理由は、まだ分からない。


 コウタは、それを見る。


 見逃さない。


「気になるのか」


 さらっと聞く。


 ヒナタは、すぐには答えなかった。


 気になる。


 そう言えば、そうなのかもしれない。


 でも、それを認めるには、まだ何かが足りない。


「……分かんない」


 正直に言う。


 コウタは、軽く息を吐いた。


 呆れたというより、

 納得したような息だった。


「分かりやすいな」


 と言う。


 ヒナタが見る。


「なにが」


 コウタは、少しだけ肩をすくめる。


 説明しない。


 ヒナタは、少しだけ眉を寄せた。


 分からないものが増えていく。


 ちゃんとしている距離。

 引っかかる感じ。


 どれも、まだ名前がつかない。


「……面倒だな」


 また言う。


 でも、さっきより少しだけ違う。


 ただ面倒なのではない。


 分からないのに、放っておけない。


 それが、面倒だった。


 コウタは、それを見て、

 ほんの一瞬だけ口元を緩める。


「……とりあえず」


 話を戻す。


「次からは、もう少し段階を踏め」


 ヒナタは、即答した。


「嫌だ」


 コウタが、間を置く。


「理由は」


「……この方が早い」


 コウタは、無言になる。


 数秒。


 それから、諦めたように言う。


「……まあ、そうだな」


 理解はしている。


 納得はしていない。


 そんな声だった。


 ヒナタは、そのまま椅子に座る。


 身体を預けると、広間の音が少し遠くなった。


 けれど、リトルスノーの姿だけは、まだ消えない。


「……また行く」


 ぽつりと言う。


 コウタは、頷いた。


 止めない。


 止めても無駄だと、分かっている顔だった。


 コウタは、ため息をついた。


 静かに。


 それから、少しだけ視線を外す。



****


 庭は、静かだった。


 舞踏会の音は、遠い。


 さっきまで広間を満たしていた弦の音も、拍手も、人の声も、

 扉をひとつ隔てただけで、別の世界のものみたいに薄くなっている。


 残っているのは、風の音と、葉の擦れる音だけだった。


「……」


 ヒナタは、何となく外に出ていた。


 理由はない。


 強いて言うなら、

 音が、少しうるさかったから。


 広間の音が嫌だったわけではない。

 ただ、整いすぎた光と、整いすぎた人の流れの中にいると、息をする場所が少なくなる。


 どこを見ても、正しい。


 正しい立ち方。

 正しい笑い方。

 正しい距離。


 その中で、さっき見た二人のことだけが、妙に残っていた。


「……」


 ヒナタは、整えられた道を歩く。


 手入れの行き届いた緑。

 均等に並んだ花。

 どこを見ても、綺麗すぎる。


 少しだけ息を吐いた。


 そのとき。


 視界の端に、黒が入る。


 足が止まる。


「……」


 昼間よりも少し柔らかい光の中に、

 黒髪の姫が立っていた。


 リトルスノー。


 広間にいた時と同じ空気をまとっている。


 でも、少し違う。


 周囲に音がないせいか。

 人の流れがないせいか。


 さっきより、輪郭が近い。


「……」


 ヒナタは、特に迷わず歩いた。


 そのまま、距離を詰める。


 リトルスノーは、気づいている。


 でも、動かない。


 逃げるわけでもなく、

 迎えるわけでもなく、

 ただ、そこにいる。


「……偶然」


 ヒナタが言う。


 軽く。


 挨拶みたいに。


 リトルスノーが、ゆっくりと視線を上げた。


 ヒナタは、少しだけ首を傾ける。


「一人?」


 ヒナタは、少しだけ周りを見る。


 本当に誰もいない。


 ハヤテも。

 コウタも。

 広間にいた人たちも。


 ここにはいない。


 小さく言って、ヒナタは隣に立った。


 近すぎない。


 でも、さっきよりは少し近い。


「……」


 しばらく、無言だった。


 風だけが通る。


 ヒナタは前を見る。


 リトルスノーも、同じ方向を見る。


 視線は合わない。


 でも、同じものを見ている。


 それだけで、広間にいた時よりも、少しだけ息がしやすかった。


「嫌じゃないの」


 直球だった。


 リトルスノーは、すぐには答えない。


 少しだけ、間が空く。


 風が通る。

 庭の葉が、かすかに揺れる。


 ヒナタは、少しだけ目を細める。


「あの距離で、いいの」


 さらに直球。


 リトルスノーが、少しだけ視線を向ける。


 答えは、すぐには返ってこない。


 また、少しだけ沈黙する。


 風。

 葉。

 遠くの音。


「……でも」


 ヒナタが続ける。


「見てて、変じゃなかったな」


 言葉を選ぶ。

 珍しく。


「……ちゃんとしてる、だけじゃなくて」


 少しだけ探す。


 広間の光。

 ハヤテの手。

 リトルスノーの視線。


 崩れない距離。


 綺麗だった。


 でも、それだけじゃない。


「……合ってた」


 リトルスノーの呼吸が、ほんの少しだけ変わる。


 ほんの一瞬。


 でも、確かに。


 ヒナタは、それを見る。


「……なら」


 少しだけ間を置く。


「これでいいのかも」


 ヒナタは、頷く。


「うん」


 それだけ。


 また、静かになる。


 さっきより、少しだけ距離が変わっている。


 近づいたわけではない。

 でも、遠くはなくなった。


「……」


 ヒナタは、少しだけ伸びをした。


 気の抜けた動き。


 それから、そのまま歩き出す。


 振り返らない。

 でも、数歩進んでから、小さく止まる。


「……」


 振り返らないまま。


「……リトルスノー」


 呼ぶ。


 リトルスノーが、わずかに視線を向ける。


 ヒナタは、少しだけ間を置いた。


 それから。


「名前、合ってる」


 リトルスノーは、ほんの一瞬だけ驚いたように目を開く。


 それから、

 小さく笑った。


 ヒナタは、軽く手を上げる。


 背中を向けたまま、

 そのまま、歩いていく。


 庭の外へ。

 音のある場所へ。


「……これでいいのかも」


 残った風が、少しだけ動く。


 さっきより、ほんの少しだけ、

 庭は、静かじゃなくなっていた。



****


 戻るつもりは、なかった。


 少なくとも、自分ではそう思っていた。


 庭を出て、音のある方へ歩いて、

 そのまま別の場所へ行くつもりだった。


 けれど、気づいたら、また広間の近くにいた。


「……」


 音が近い。


 さっきよりも、はっきりと聞こえる。


 弦の重なり。

 床を滑る足音。

 誰かの笑い声。

 拍手の名残。


 整えられた音が、整えられた空間の中で流れている。


 ヒナタは、少しだけ目を細めた。


 面倒だと思いながら、

 足はそのまま向いている。


「……」


 視線を上げる。


 探すまでもなかった。


 見つかる。


 同じ場所。

 同じ流れ。


 黒髪の姫と、金髪の王子。


 リトルスノーと、ハヤテ。


 二人は、さっきと同じように立っていた。


 近すぎない。

 遠すぎない。

 誰が見ても不自然ではない距離。


 きっと、あれが正しい。


 そう思う。


 並びも、立ち方も、視線の置き方も。

 何も間違っていない。


「……」


 ヒナタは、少しだけ息を吐いた。


 さっき、自分で言ったばかりだ。


 ちゃんとしてる。

 合ってた。

 きっと、これでいい。


 そう思った。


 でも。


「……」


 まだ、引っかかる。


 言葉にはできない。


 できないまま、足が動く。


 今度は、ゆっくり。


 わざと。


 近づいていることを、相手に気づかせるように。


 人の流れが、また自然に開く。


 誰かが振り返る。

 誰かが軽く頭を下げる。


 その中で、ハヤテが先に気づいた。


 視線が動く。


 ヒナタを見る。


 それから、わずかに一礼する。


 リトルスノーも、遅れて視線を向けた。


 ほんの一瞬だけ。


 庭での空気が、そこに残る。


「……偶然」


 ヒナタが言う。


 軽く。


 誰に向けたわけでもない。

 けれど、二人に向けた言葉だった。


 ハヤテが、穏やかに口を開く。


「お戻りになられたのですね」


 ヒナタは、頷く。


「なんか、戻ってた」


 雑な答え。


 でも、ハヤテは否定しない。

 そのまま受け取る。


「それは何よりです」


 綺麗に返ってくる。

 言葉の置き方まで、きちんとしている。


 ヒナタは、それを見る。


 少しだけ。


 やっぱり、ちゃんとしている。


「……」


 次に、リトルスノーを見る。


 さっきと同じ。

 でも、少しだけ違う。


 庭で話した分だけ、

 広間で見た時より、遠くはない。


 ヒナタは、少しだけ考える。


 短く。


「さっき、庭」


 リトルスノーが、わずかに頷く。


「風、よかったな」


 会話は雑だった。

 でも、ちゃんと繋がっている。


 リトルスノーが、ほんの少しだけ目を細めた。


「……そうですね」


 柔らかい。


 広間の中で、そこだけ庭の空気が戻る。


 風の音。

 葉の擦れる音。

 並んで、同じものを見ていた時間。


 ハヤテが、それを見る。


「……」


 ヒナタは、それも見ている。

 全部。


 でも、言語化はしない。

 できない。


 少しだけ間が空く。


 ヒナタが、ぽつりと言った。


「……やっぱ、ちゃんとしてるな」


 また、それ。


 今度は、ハヤテに向けて。

 はっきり。


 ハヤテが、わずかに笑う。


「光栄です」


 余裕がある。

 崩れない。


 その返し方まで、綺麗だった。


 ヒナタは、少しだけ視線を逸らす。


 それから。


「……でも」


 続ける。


 短く。


「ちょっと遠い」


 空気が、わずかに止まった。


 音楽は続いている。

 人の流れも止まっていない。


 それなのに、二人の周りだけ、

 薄い膜が張ったみたいに静かになる。


 ハヤテの視線が、わずかに揺れた。


 リトルスノーも、同時に動く。


 でも、どちらも崩れない。


「……そう見えますか」


 ハヤテが、静かに返す。


 ヒナタは、頷いた。


「うん」


 理由は言わない。


 言えない。


 でも、確信だけはある。


 ちゃんとしている。

 合っている。

 間違っていない。


 それでも。

 少しだけ遠い。


「……」


 リトルスノーが、少しだけ視線を落とす。

 さっきより少しだけ揺れていた。


 ヒナタは、それを見る。

 十分だった。


「……」


 小さく息を吐く。


 それから、一歩だけ近づいた。


 距離を詰める。


「……リトルスノー」


 さっきより、少しだけ近い声。


 リトルスノーが、視線を上げる。


 ヒナタは、少しだけ考えた。

 ほんの一瞬。


 それから。


「また、外行こう」


 軽く言う。


 空気が止まる。


 ハヤテの視線が、わずかに動く。


 リトルスノーは、少しだけ迷った。


 ほんの一瞬。


 その迷いが見えたことに、

 ヒナタは自分でもよく分からないまま、少しだけ満足する。


「……後ほど」


 リトルスノーが答える。


 ヒナタは、頷く。


「うん」


 それでいい。

 十分だった。


「……じゃあ」


 軽く手を上げる。


 そのまま、また離れる。


 来たときと同じように、

 人の流れが自然に開く。


 背中を向ける。


 歩きながら、小さく呟く。


「……やっぱ、面倒だな」


 でも、さっきより少しだけ分かっている。


 何が引っかかるのか。


 まだ言葉にはならない。


 それでも、確かにそこにある。


 ヒナタは、そのまま歩く。


 音の中へ。


 光の中へ。



****


「……なるほど」


 コウタは、静かに頷いた。


 話を聞き終えてから、数秒。


 何も言わずに考えている。


 その沈黙が、少し長い。


 ヒナタは、椅子に座ったまま待っていた。


 特に何かを期待しているわけではない。


 ただ、コウタが考え始めた時は、

 だいたい自分より先に何かを見つけている。


 それは分かっていた。


「……」


 コウタが、ゆっくりと顔を上げる。


「面白くなってきたな」


 第一声がそれだった。


 ヒナタは、少しだけ眉を寄せる。


「なにが」


 コウタは、わずかに口元を緩める。


 ほんの少しだけ。


「全部」


「雑」


「お前に言われたくない」


 即答されて、ヒナタは黙る。


 コウタは、そのまま机の上の紙を一枚脇へ寄せた。

 仕事を中断する時の動きだった。


 つまり、今の話はそれなりに重要らしい。

 ヒナタには、その重要さがまだ分からない。


「整理するぞ」


 コウタが、指を一本立てる。


 癖みたいなものだった。


「まず、ハヤテ王子」


 ヒナタは、頷く。


「ちゃんとしてるやつ」


「そう、それ」


 雑な共通認識が成立する。


 コウタは気にしない。

 むしろ、そのくらいの方が話が早いと思っている顔だった。


「で、黒髪の」


 ヒナタは、少しだけ間を置く。


「……リトルスノー」


 言い慣れてきている。


 自分でも、それに気づいた。


 コウタも気づいたらしい。


 少しだけ笑う。


「気に入ってるな、その呼び方」


 ヒナタは、無視した。


「で」


 コウタが続ける。


「その二人の関係を見て」


 少しだけ間を置く。


「“遠い”と感じた」


 ヒナタは、頷く。


「うん」


 間違っていない。


 ちゃんとしている。

 合っている。

 でも、遠い。


 自分の中にある感覚を、コウタが勝手に言葉にしていく。


 少し腹が立つ。


 でも、外れていないから余計に面倒だった。


 コウタが、もう一本指を立てる。


「その上で」


 さらに間を置く。


「リトルスノーを外に誘った」


 ヒナタは、また頷く。


「うん」


 それも事実だった。


 深く考えたわけではない。


 ただ、また外に行けばいいと思った。


 庭の方が、広間より息がしやすかったから。


「……完全に触れに行ってる」


 コウタが、断言した。


 ヒナタが止まる。


「なにに」


「距離に」


 言い切られて、少し沈黙する。


「……いや」


 ヒナタは、雑に否定した。


「違う」


 コウタが、少しだけ首を傾ける。


「どこが」


「……別に」


 言葉が出ない。


 否定はしたい。

 でも、どこが違うのかと聞かれると分からない。


 コウタは、すぐに補足する。


「無自覚か」


 ヒナタが見る。


「なにが」


 コウタは、少しだけ楽しそうに言った。


「全部」


 ヒナタは、無言になる。


 嫌な感じがする。


 自分の知らない場所で、話が勝手に進んでいる。


 でも、否定できる材料がない。


「いいか」


 コウタが、軽く一歩近づく。


 距離が詰まる。


「今の状態」


 指で空中に線を引くように示す。


「ハヤテ王子と、リトルスノー」


 一本の線。


「その距離に」


 もう一本。


「お前が、横から触れている」


 ヒナタは、少しだけ顔をしかめる。


「……なんか嫌な言い方」


「事実だろ」


 即答。


 コウタの声に迷いはない。


「で」


 続ける。


「一番問題なのは」


 ヒナタは、黙って待つ。


 コウタが、はっきり言う。


「お前が、それを“面倒くさいと思いながらやっている”こと」


 ヒナタが止まる。


「……」


 図星だった。


 面倒だと思っている。


 分からないから。

 言葉にならないから。

 でも、放っておけないから。


 だから面倒だ。


「……だって、めんどいし」


 言い訳は、雑だった。


 コウタが少しだけ笑う。


「だろうな」


 否定しない。


 むしろ肯定する。


 それが、さらに嫌だった。


「でも」


 コウタが続ける。


「やめない」


 ヒナタは、言葉に詰まる。


「……」


 数秒。


 それから、仕方なく頷く。


「……うん」


 やめるつもりはなかった。


 それだけは、はっきりしている。


 コウタは、満足そうに頷いた。


「分かりやすいな」


 ヒナタが睨む。


「うるさい」


 コウタは、軽く肩をすくめる。


 それから、少しだけ声の温度を落とした。


「で、どうする」


 ヒナタは、少し考える。


「……なにが」


 コウタは、あえてはっきり言う。


「近づくのか」


 間。


「見てるだけにするのか」


 ヒナタの呼吸が、わずかに変わった。


 ほんの一瞬。


 コウタは、それを見ている。


 逃がさない。


 ヒナタは、少しだけ視線を外した。


「……分かんない」


 正直に言う。


 取りに行く、という言葉がしっくりこない。


 引く、という言葉もしっくりこない。


 ただ、あの距離が気になる。


 それだけだった。


 コウタは、頷く。


「だろうな」


 想定内の声だった。


 少しだけ笑う。


「じゃあ、試してみるか」


 ヒナタが見る。


「なにを」


 コウタは、さらっと言う。


「軽く揺らしてみる」


 ヒナタが止まる。


「……なにを」


 コウタは、同じ温度で返す。


「距離」


 ヒナタは、完全に無言になった。


 言っていることは分かる。


 分かるけれど、

 それをそんなに簡単に言うのはどうなのかと思う。


「ちょうどいい」


 コウタは、机の上の予定表を見た。


「明日、庭でお茶会がある」


 ヒナタが、顔を上げる。


「……なんで知ってるの」


「参謀役なので」


 平然と答える。


 この夢の中でも、コウタはコウタだった。


 立場が変わっても、

 やることはあまり変わっていない。


 ヒナタは、ため息をつく。


「……で」


 コウタが、続ける。


「そこに三人とも来る」


 ヒナタの表情が、わずかに動く。


「……三人」


「お前と、ハヤテ王子と、リトルスノー」


 少しだけ間。


「いい感じに揺れるんじゃないか」


 コウタの声は穏やかだった。


 けれど、内容はまったく穏やかではなかった。


 ヒナタは、数秒黙る。


「……ほんと、めんどい」


 でも、止めない。


 止める気がないことを、コウタも分かっている。


 コウタは、それを見て静かに笑った。



****


 庭は、昼の光に満ちていた。


 白いテーブル。

 整えられた椅子。

 香りの強すぎない花。


 すべてが、決められた位置に置かれている。


 風が通っても、乱れない。

 花びらが揺れても、形は崩れない。


 そういう場所だった。


「……」


 ヒナタは、そこに座らされている。


 座り心地は悪くない。


 悪くないのに、落ち着かない。


 広間よりは静かだ。

 けれど、庭にも庭の正しさがある。


 カップの位置。

 皿の向き。

 椅子と椅子の距離。


 どれもきちんとしている。


「……なんでこれ」


 小さく呟く。


 向かいで、コウタが穏やかに紅茶を注いでいた。


 手つきは慣れている。


 こういう場にいるコウタは、やけに自然だった。


「社交です」


 即答。


 ヒナタは、カップを見る。


 薄い色の液体。

 湯気。

 甘い香り。


「……飲むの?」


「飲みます」


 当たり前のように返される。


 ヒナタは、少し考えてからカップを持った。


 ひと口飲む。


「……甘い」


 コウタが、わずかに笑う。


「そういうものです」


 ヒナタは、もう飲まなかった。


 そのまま、カップを置く。


 音は小さかった。


 けれど、庭の静けさの中では、少しだけはっきり聞こえた。


 風が通る。


「……来た」


 ヒナタが言う。


 視線の先。


 金髪の王子と、黒髪の姫。


 ハヤテとリトルスノーが、並んで歩いてくる。


 同じ歩幅。

 同じ距離。

 同じ空気。


 近すぎない。


 遠すぎない。


 見ている者が安心するような距離だった。


「……」


 ヒナタは、少しだけ目を細める。


 コウタは、それを横目で見る。


 何も言わない。

 ただ、観察する。


 ハヤテが、先に一礼した。


「お招きいただき、ありがとうございます」


 完璧だった。


 姿勢も。

 声も。

 言葉の間も。


 無駄がない。


 ヒナタは、頷く。


「うん」


 雑だった。


 でも、それで足りた。


 リトルスノーも、軽く頭を下げる。


「お時間をいただき、ありがとうございます」


 整っている。


 けれど、ほんの少しだけ、昨日の庭の空気が残っている。


 広間にいた時より、声が遠くない。


 ヒナタは、それを見る。


 そのまま。


「座って」


 短く言う。


 ハヤテとリトルスノーが、向かいに座る。


 位置が決まる。


 距離が生まれる。


 テーブルを挟んで、四人。


 その形だけ見れば、何もおかしくない。


 コウタが、静かに紅茶を差し出す。


「どうぞ」


 完璧に進行する。


 ヒナタは、何もしない。


 ただ、見ている。


 ハヤテがカップを取る。

 リトルスノーが、少し遅れて同じように手を伸ばす。


 動きは揃っていない。


 でも、乱れてはいない。


 それぞれが、それぞれの位置で整っている。


「……」


 少しだけ、間。


 コウタが、自然に口を開いた。


「昨日の舞踏会、見事でした」


 ハヤテに向けて。


 話を振る。


 ヒナタが、少しだけ視線を動かす。


 ハヤテは、穏やかに答える。


「光栄です」


 短い。


 無駄がない。


 コウタが、続ける。


「特に、手の取り方」


 わざと具体的だった。


 ヒナタの指が、ほんの少しだけ動く。


 ハヤテは、崩れない。


「基本に忠実なだけです」


 リトルスノーは、静かに聞いている。


 表情は変わらない。


 けれど、昨日と同じ話題だと分かっている。


 コウタが、ちらりとヒナタを見る。


 それから、言った。


「陛下も、興味をお持ちのようで」


 投げる。


 ヒナタに。


 ヒナタは、少しだけ間を置いた。


 否定する理由はなかった。


「うん」


 正直に頷く。


 リトルスノーの視線が、わずかに動く。


 ハヤテも、同じ。


 その小さな反応を、ヒナタは見ている。


「……もう一回見たい」


 ヒナタが続ける。


 完全に直球だった。


 空気が、ほんの一瞬だけ止まる。


 庭の風さえ、少し遠くなる。


 ハヤテは、静かに応じた。


「承知しました」


 迷いがない。


 リトルスノーの手を、自然に取る。


 昨日と同じ動き。


 同じ順序。

 同じ角度。

 同じ温度。


 そして、手の甲に軽く触れる。


「……」


 ヒナタは、それを見る。


 今度は真正面から。


 逃げない。


 手の取り方。

 距離。

 触れて、離れるまでの短い時間。


 全部が整っている。


 正しい。


 綺麗だ。


 間違っていない。


「……」


 数秒。


 それから、ぽつりと言った。


「……やっぱ遠い」


 静かな声だった。


 けれど、その場を揺らすには十分だった。


 コウタが、カップを持ったまま止まる。


 ほんの一瞬だけ。


 いい。


 たぶん、そう思っている顔だった。


 ハヤテの動きが、わずかに止まる。


 本当に、ほんの少しだけ。


 リトルスノーの呼吸が、少しだけ浅くなる。


「……」


 ヒナタは、続ける。


 考えていない。


 考えていないから、そのまま出る。


「ちゃんとしてるけど」


 少しだけ間。


「……触れてない」


 空気が、静かに崩れた。


 音はない。


 誰も大きく動いていない。


 それでも、さっきまでそこにあった形が、

 目に見えないところで歪んだのが分かった。


 ハヤテが、ゆっくりと手を離す。


 何も言わない。


 けれど、さっきと同じではない。


 リトルスノーが、視線を落とす。


 ほんの一瞬。


 それから、戻す。


 コウタが、静かにカップを置いた。


 陶器の音が、小さく響く。


 そして、さらっと言う。


「陛下なら、どうなさいますか」


 ヒナタが見る。


「なにを」


「同じ形ではなく」


 コウタは、平然としている。


「同じ距離を」


 ヒナタは、少しだけ考えた。


 意味は、全部は分からない。


 けれど、やることは分かった。


 ヒナタが、手を伸ばす。


 雑ではない。

 でも、綺麗でもない。


 手順をなぞるためではなく、

 ただ、そこにある手に届こうとする動きだった。


 リトルスノーの手を取る。


 距離が詰まる。


 近い。


 昨日より。

 今より。

 明らかに。


「……」


 ヒナタは、少しだけ迷う。


 一瞬。


 そのまま、手の甲に触れた。


 軽く。


 でも、距離が近い。


 形は同じはずだった。


 けれど、同じではなかった。


 呼吸が分かる。


 手の温度が分かる。


 ほんのわずかな揺れまで、分かる。


「……嫌なら、断ってもいい」


 リトルスノーの呼吸が、止まる。


 ほんの一瞬。


 ハヤテの視線が、静かに落ちる。


 コウタは、何も言わない。


 ただ、見ている。


「……」


 ヒナタが、手を離す。


 それから、小さく笑った。


 空気が、完全に変わった。


 戻らない。


 さっきまでの距離には。


 もう。



****


 静かになってから、気づいた。


 風の音が、さっきよりもはっきり聞こえる。


「……」


 庭には、もう誰もいない。


 白いテーブル。

 揃えられた椅子。

 飲みかけの紅茶。


 何も乱れていない。


 けれど、そこにあったはずの形だけが、

 どこかへ消えてしまったようだった。


「……」


 リトルスノーは、ゆっくりと息を吐く。


 乱れていないはずだった。


 声も。

 姿勢も。

 表情も。


 いつも通りに戻せばいい。


 そう思うのに、呼吸だけが少し浅い。


「……」


 視線を落とす。


 自分の手。


 何も変わっていない。


 白い手袋の上に、跡が残っているわけでもない。

 熱が見えるわけでもない。


 それなのに、そこだけが違う。


「……」


 ゆっくりと、目を閉じる。


 思い出す。


 ハヤテが手を取った時のこと。


 整えられた距離。

 正確な動き。

 間違いのない礼。


 綺麗だった。


 誰が見ても、そう言うだろう。


 正しい。

 整っている。

 この場にふさわしい。


 それでいいはずだった。


「……」


 けれど、もうひとつの感覚が消えない。


 近かった。


 少しだけ乱暴なくらい、まっすぐだった。


 正しいかどうかを確かめる前に、

 先に距離が消えていた。


 触れられた。


 そう思った瞬間、

 胸の奥が、ほんの少しだけ遅れて反応した。


「……触れてない」


 リトルスノーは、自分の声で繰り返す。


 小さく。


 陛下の言葉だった。


 けれど今は、

 自分の中から出てきた言葉みたいに聞こえる。


「……」


 もう一度、手を見る。


 同じ手。


 同じ指先。


 同じように戻せばいい。


 戻せるはずだった。


 けれど、戻らない。


 正しい距離の感覚が、少しだけずれてしまった。


「……」


 指先が、わずかに震える。


 ほんの少し。


 自分でも見逃してしまいそうなくらい。


 でも、確かに。


 違ってしまった。


 リトルスノーは、ゆっくりと顔を上げる。


 庭の奥。


 人のいない方向。


 もう、陛下の姿はない。


 ハヤテの姿もない。


 誰もいない。


 だからこそ、声がこぼれた。


「……ずるい」


 誰に向けた言葉かは、分かっている。


 でも、認めたくない。


 認めてしまえば、

 さっき変わったものに、名前がついてしまう。


「……」


 風が通る。


 さっきより、少しだけ冷たい。


 それでも消えない。


 残ったまま。


 触れたまま。


 形を持たないまま。


 そこにある。



****


 遅れは、なかった。


 歩幅も。

 距離も。

 時間も。


 すべて、いつも通りだった。


「……」


 廊下は静かだ。


 庭から戻る足音だけが、規則的に響いている。


 一歩。

 また一歩。


 乱れない。


 乱す必要もない。


 ハヤテは、まっすぐ前を見て歩いていた。


 さっきまでの庭の空気は、もう背後にある。

 白いテーブルも、紅茶の香りも、陛下の声も。


 すべて置いてきた。


 そのはずだった。


「……」


 それでも、ひとつだけ残っている。


 視線を落とす。


 自分の手。


 何も変わっていない。


 指先も。

 手袋の皺も。

 動かした時の感覚も。


 いつも通り、正確に動く。


 そうでなければならない。


「……」


 ほんのわずかに、足が止まった。


 さっきの動きが、頭の中に戻る。


 手を取る。

 距離を保つ。

 触れる。

 離す。


 同じ順序。


 同じ所作。


 同じ意味。


 間違ってはいなかった。


 むしろ、間違えないように動いた。


 この場にふさわしく。

 相手を乱さず。

 周囲にも乱れを見せず。


 そうすることに、迷いはなかった。


「……」


 それなのに。


 指先が、わずかに動く。


 無意識に。


 確かめるように。


 陛下の声が残っている。


 ――触れてない。


 短く、雑で、礼儀も何もない言葉。


 けれど、外してはいなかった。


「……距離」


 小さく、呟く。


 足が、ほんの一歩分だけ止まる。


 それから、また動いた。


 止めない。


 止める理由がない。


 崩す理由もない。


 ただ、確認する必要はある。


「……」


 ハヤテは、ゆっくりと息を吐く。


 整える。


 戻す。


 戻したうえで、残ったものを見る。


 綺麗だった。


 正しかった。


 けれど、遠かった。


 それを言われた。


 それを、見抜かれた。


「……」


 不快ではない。


 腹立たしいわけでもない。


 ただ、予定していなかった場所に、

 まっすぐ指を置かれたような感覚があった。


 陛下は、たぶん分かっていない。


 自分が何を言ったのかも。

 何を動かしたのかも。


 だからこそ、厄介だった。


「……」


 ハヤテは、目を伏せる。


 一瞬だけ。


 それから、開く。


 表情は変わらない。


 いつも通り。


 崩れていない。


 崩す必要はない。


 それが、自分の役割だから。


「……面白い」


 小さく、呟いた。


 声には、ほんの少しだけ笑いが混ざっていた。


 足を進める。


 同じ歩幅で。

 同じ速度で。


 何も変わっていないように。



****


「……呼んだ?」


 コウタが、顔を上げる。


 書類の山の向こうから、視線だけを動かした。


「呼んでない」


 即答だった。


 ヒナタは、扉のところで少しだけ止まる。


「……じゃあいい」


 そう言って、そのまま部屋に入ってくる。


 戻る気はないらしい。


 コウタは、止めなかった。


 止めたところで入ってくる。

 それはもう、分かっている。


 代わりに、持っていたペンを置いた。


「どうした」


 ヒナタは、近くの椅子に座る。


 許可を取る気はない。


 いつものことだった。


「……暇」


 雑な答え。


 コウタは、数秒黙った。


 机の上には、まだ片づいていない書類がある。

 確認しなければならない予定もある。


 暇、という言葉とは一番遠い場所にいるはずなのに、

 ヒナタは本気でそう言っている顔だった。


「仕事は」


「しらない」


 コウタは、軽く息を吐いた。


 この夢の中でも、ヒナタはヒナタだった。


 立場が変わっても。

 衣装が変わっても。

 呼ばれ方が変わっても。


 やることは変わらない。


「……で」


 コウタは、話を戻す。


「何か考えてるな」


 ヒナタが、少しだけ目を細めた。


「なんで分かる」


「分かる」


 いつもの答え。


 ヒナタは、少しだけ不満そうにする。


 けれど、否定はしなかった。


 否定しないということは、

 だいたい当たっている。


 コウタは、黙って待つ。


 急かさない。


 ヒナタが言葉を探している時は、

 下手に手を出すと、余計に雑になる。


「……」


 ヒナタは、少しだけ考えた。


 考えたというより、

 胸の奥に残っているものを、そのまま拾おうとしているようだった。


 広間。

 庭。

 黒髪。

 リトルスノー。


 ちゃんとしている距離。


 触れていない距離。


 触れた時の、近さ。


「……会いに行く」


 短く言った。


 コウタの動きが、止まる。


 ほんの一瞬。


「誰に」


 答えは分かっている。


 それでも、聞く。


 ヒナタは、即答した。


「リトルスノー」


 名前が、前より自然に出た。


 コウタは、ゆっくりと顔を上げる。


「……そうか」


 静かな声だった。


 驚いてはいない。


 むしろ、そうなるだろうと思っていた顔だった。


「止めないぞ」


 ヒナタが、少しだけ止まる。


「……なんで」


「面白いから」


 即答。


 ヒナタは、少しだけ目を細めた。


「……なんかムカつく」


 コウタは、笑わない。


 けれど、完全に楽しんでいる。


 こういう時のコウタは、だいたい余計なことを考えている。


 それも分かっている。


 でも、ヒナタは立ち上がった。


 止められても行く。

 止められなくても行く。


 なら、どちらでも同じだった。


「……行ってくる」


「はいはい」


 コウタは、軽く返す。


 ヒナタは、そのまま扉へ向かう。


 歩き方に迷いはない。


 理由は分からないままなのに、

 行き先だけは決まっている。


「……」


 扉が閉まる。


 部屋に、また静けさが戻った。


 コウタは、しばらく閉じた扉を見ていた。


 それから、机の上の書類へ視線を落とす。


 けれど、ペンはまだ取らない。


「……ひとつ、前に出た」


 小さく呟く。


 声には、少しだけ笑いが混ざっていた。


 予定通り、というほど単純ではない。


 けれど、予想から大きく外れてもいない。


 ヒナタは、たぶんまだ分かっていない。


 自分が何を選び始めているのかも。

 何の距離を変えようとしているのかも。


 それでも、足はもう動いている。


 コウタは、静かに笑った。


 面倒なことになる。


 きっと。


 だから、面白い。



****


 風が、通る。


 さっきと同じ庭。

 同じ光。

 同じ場所。


 けれど、昨日とまったく同じではなかった。


「……」


 リトルスノーは、一人で立っている。


 昨日も、ここにいた。


 同じように、風の中で。

 同じように、誰もいない場所で。


 けれど、今は違う。


 何が違うのかは、分かっている。


 手に残った感覚。

 呼吸が浅くなった一瞬。

 正しい距離では届かなかったもの。


 それが、まだ消えていない。


「……」


 足音が聞こえた。


 近づいてくる。


 止まらない。


 誰かを探すような足音ではない。

 もう見つけている人の足音だった。


 振り返る前に、分かる。


「……偶然」


 ヒナタの声。


 同じ温度。

 同じ短さ。


 昨日と同じように、何の前置きもなくそこに来る。


 リトルスノーは、ゆっくりと振り返った。


「……陛下」


 呼び方は変わらない。


 けれど、自分の声が、昨日より少しだけ遅れたことには気づいていた。


 ヒナタは、そのまま近づいてくる。


 止まらない。


 近づきすぎる前に止まるのではなく、

 必要な場所まで来てから、そこで止まる。


「……なんかさ」


 いきなり話す。


 前置きはない。


「昨日の、思い出してた」


 リトルスノーの呼吸が、ほんの少しだけ止まる。


「……」


 ヒナタは、その反応を見ている。


 でも、責めるわけでもない。

 探るわけでもない。


 ただ、自分の中に残っていたものを、そのまま置こうとしている。


「ちゃんとしてるって言ったやつ」


 リトルスノーは、何も言わなかった。


 待つ。


 ヒナタが言葉を探しているのが分かった。


 雑に言い切れる時と、そうではない時がある。

 今は、たぶん後者だった。


「……やっぱ違う」


 短く言う。


 リトルスノーの視線が、わずかに揺れる。


「……何が」


 ヒナタは、まっすぐ見る。


 逃げない。


「ちゃんとしてるのは、いいんだけど」


 そこで一度、言葉が止まる。


 風が通る。


 葉の音が、少しだけ近くなる。


「……それだけだと、足りない」


 リトルスノーの呼吸が、ほんの少し変わった。


 その言葉は、乱暴ではなかった。


 けれど、綺麗に包まれてもいなかった。


 まっすぐだった。


 だから、逃げる場所が少ない。


「……触れてる方がいい」


 昨日より、はっきりした声だった。


 庭の空気が、静かに止まる。


「……」


 リトルスノーは、答えられない。


 否定する言葉も、肯定する言葉も、どちらもすぐには出てこなかった。


 正しい距離。

 整えられた所作。

 崩れない関係。


 それらは、今も大切なもののはずだった。


 でも、陛下の言葉は、

 その外側からではなく、もっと近いところに触れてくる。


「……」


 ヒナタが、一歩近づく。


 距離が詰まる。


 昨日より。

 さらに。


「……試す?」


 リトルスノーの指が、わずかに動く。


「……嫌なら、断ってもいい」


 否定しない。

 肯定もしない。


 ただ、そこにいる。


 ヒナタは、それを見て、手を伸ばした。


 今度は、迷いがない。


 リトルスノーの手を取る。


 近い。


 昨日より近い。


 呼吸が分かる。


 指先の温度が分かる。


 触れる前から、もう距離が消えかけている。


「……」


 ゆっくりと。


 手の甲に触れる。


 昨日と同じ行為。


 でも、同じではない。


 形をなぞっているのではない。

 正しさを証明しているのでもない。


 ただ、近い。


 触れている。


「……」


 離れない。


 ほんの少しだけ、長く。


 その短い時間が、呼吸の中に落ちる。


 リトルスノーは、動けない。


 拒めないのではない。


 拒む理由を、うまく見つけられない。


「……ほら」


 ヒナタが、顔を上げる。


 距離が近いまま。


 視線が合う。


「こっちの方がいい」


 そう言って、笑う。


 リトルスノーの視線が、明確に揺れる。


 初めて、隠しきれないほどに。


「……」


 言葉が出ない。


 代わりに、小さく息を吸う。


 ヒナタは、それを見る。


 それで十分だった。


 無理に答えを求めない。


 ただ、置いていく。


「……また来る」


 軽く言う。


 けれど、その声には、さっきとは違う確信があった。


 リトルスノーは、答えない。


 でも、止めない。


 ヒナタは、ゆっくりと手を離した。


 離れたはずなのに、

 触れていた場所だけが残る。


「……」


 ヒナタは、背を向ける。


 歩き出す。


 昨日と同じように。

 何もしていないみたいに。


 けれど、残された空気はもう同じではなかった。


 リトルスノーは、その場に立ったまま動けない。


 風が通る。


 さっきより少し冷たい。


 それでも、手の感覚は消えない。


 距離も。

 温度も。

 言葉も。


 全部、残っている。


「……」


 小さく、こぼれる。


「……ずるい」


 今度は、はっきりと。


 誰に向けた言葉かは、もう分かっていた。



****


 違和感は、消えなかった。


 時間を置いても。

 場所を変えても。

 いつも通りに歩いても。


「……」


 ハヤテは、ゆっくりと廊下を進む。


 歩幅は乱れていない。


 急いでいるわけでもない。

 迷っているわけでもない。


 少なくとも、外からはそう見えるはずだった。


 けれど、思考だけが少しだけ違っている。


 同じ場所を、何度もなぞっている。


 陛下の言葉。


 ――触れてない。


 短い。

 雑。

 礼も順序もない。


 けれど、正確だった。


「……」


 ハヤテは、視線を落とす。


 自分の手。


 形は崩していない。

 所作も間違っていない。

 距離も、相手を乱さない範囲で保っていた。


 それでいいはずだった。


 それが、この場にふさわしい。


 それなのに。


「……」


 リトルスノーの呼吸が変わった瞬間を思い出す。


 陛下に触れられた時。

 近すぎるほど近い距離で、まっすぐ手を取られた時。


 あれは、礼ではなかった。


 整えられた形でもない。


 けれど、確かに届いていた。


「……厄介だな」


 小さく呟く。


 誰に向けた言葉かは、分かっていた。


 陛下に対してか。

 状況に対してか。

 それとも、少し揺れている自分に対してか。


 どれでもあって、どれでもない。


 問題は、ひとつ。


 どう動くか。


「……」


 足を止める。


 庭の入り口だった。


 木々の影が、石畳に細く落ちている。

 広間より静かで、廊下よりも息がしやすい。


 少しだけ、視線を上げる。


 リトルスノーは、そこにいた。


 昨日と同じように。

 けれど、まったく同じではない。


 立ち方は崩れていない。

 表情も、いつものように静かだった。


 それでも、どこかに残っている。


 さっき変わったものが。


「……」


 ハヤテは、歩き出す。


 足音に、リトルスノーが振り返る。


 ただし、ほんの少しだけ遅れた。


 見逃すほどの変化ではない。


 だからこそ、見逃さない。


「お一人で?」


 穏やかに聞く。

 いつも通りの声で。


 リトルスノーは、頷いた。

 けれど、その奥に、ほんの少しだけ迷いがある。


「……」


 間。


 風が通る。


 葉の擦れる音だけが、二人のあいだに落ちた。


 ハヤテは、一歩だけ近づく。


 自然に。


 違和感のない距離まで。


 けれど、その一歩の意味は、昨日までと少し違っていた。


「先ほどは、失礼いたしました」


 静かに言う。


 リトルスノーが、わずかに首を振る。


 それだけだった。


 否定でも、肯定でもない。


 ただ、受け止める動き。


「……少し、強引でしたね」


 ハヤテは、正確に認める。


 陛下が場を崩したことではない。


 その後、自分が距離を戻そうとしたこと。


 整えることで、何もなかったようにしようとしたこと。


 リトルスノーは、少しだけ視線を落とした。


「……」


 やはり、否定しない。


 ハヤテは、それを見る。


 確認する。


 ずれている。


 確実に。


 けれど、崩す必要はない。


 崩れたものをそのままにする必要もない。


「……」


 ハヤテは、ゆっくりと手を伸ばした。


 いつも通り。


 同じ動き。

 同じ順序。

 同じ温度で。


 リトルスノーの手を取る。


「……」


 今度は、止めない。


 そのまま、手の甲に触れる。


 正確に。

 美しく。


 礼として、どこにも間違いはない。


 触れて、離す。


 距離を戻す。


 完璧だった。


「……」


 リトルスノーは、動かない。


 ただ、そのまま立っている。


 ハヤテは、反応を待った。


 急かさない。


 言葉を引き出そうともしない。


 けれど、見ている。


 何が残るのかを。


「……」


 少しだけ、間。


 それから、リトルスノーが小さく息を吐いた。


 顔を上げる。


 視線が合う。


「……綺麗です」


 言葉は、自然に出たようだった。


 嘘ではない。


 迷いもない。


 ハヤテは、わずかに頷く。


 想定通りだった。


 その言葉は、受け取れる。


 けれど、その先が続かない。


「……」


 リトルスノーが、ほんの一瞬だけ迷う。


 その迷いが、沈黙になる。


 そして。


「……でも」


 空気が、止まった。


 ほんの一瞬。


 ハヤテは、動かない。


 待つ。


 リトルスノーは、視線を逸らさなかった。


「……遠いです」


 はっきりと言った。


 逃げなかった。


 その瞬間、ハヤテの視線がわずかに揺れる。


 初めて。


 本当に、ほんのわずかに。


「……」


 沈黙。


 風。

 葉。

 遠くの音。


 ハヤテは、ゆっくりと息を吐いた。


 整える。


 戻す。


 けれど、今度は戻すだけでは足りない。


「……そうですか」


 静かに受け取る。


 否定しない。


 逃げない。


 リトルスノーが、わずかに息を詰める。


「では」


 ハヤテは続けた。


 声は穏やかだった。


 けれど、さっきより少しだけ低い。


「近づけましょうか」


 距離を、わずかに詰める。


 同じ動き。


 けれど、ほんの少しだけ近い。


 リトルスノーの手を、もう一度取る。


 触れる。


 ――違う。


 ほんの少し変えただけなのに、

 空気の流れが変わる。


 距離を変えるだけで、意味が変わる。


 ハヤテは、わずかに目を細めた。


「……面白いですね」


 リトルスノーが、少しだけ目を細める。


「……何がですか」


 ハヤテは、すぐには答えない。


 そのまま視線を外す。


 庭の奥へ。


 誰もいない方向へ。


「……」


 けれど、分かっている。


 ここにはいないはずの影がある。


 陛下の声。

 陛下の距離。

 陛下が残していった、乱れたままの正しさ。


 それが、確かにそこにある。


 ハヤテは、リトルスノーの手を離した。


 ゆっくりと。


 さっきよりも少しだけ、名残を残して。


「……失礼」


 穏やかに言う。


 けれど、もう昨日と同じではない。


 リトルスノーも、それに気づいている。


 ハヤテも、気づいている。


 だからこそ、崩さない。


 まだ。


 ここから先は、

 もう少し慎重に動く必要がある。



****


「……来たな」


 コウタが、小さく呟いた。


 窓の外。


 庭の奥。


 木々の影が落ちる場所に、ハヤテとリトルスノーがいる。


 距離は近い。


 昨日よりも。

 さっきよりも。


 けれど、まだ整っている。


 崩れてはいない。


「……」


 コウタは、窓辺に立ったまま、視線を外さない。


 位置関係は、把握している。


 ハヤテの立ち位置。

 リトルスノーの向き。

 二人のあいだに残っている空白。


 全部。


 見える。


「……何してんの」


 隣で、ヒナタが言う。


 特に隠れているつもりはない。


 ただ、いつの間にかそこにいて、同じように外を見ている。


 コウタは、視線を外さない。


「観察です」


 即答。


 ヒナタは、少しだけ眉を寄せる。


「趣味悪い」


「否定はしません」


「しないんだ」


「面白いので」


 ヒナタは、数秒黙った。


 庭の向こうで、ハヤテがリトルスノーの手を取っている。


 動きは綺麗だった。


 昨日よりも少しだけ近い。

 でも、まだ綺麗すぎる。


「……」


 ヒナタの目が、少しだけ細くなる。


 コウタは、それを横目で見る。


 何も言わない。


 言わなくても、もう足は動く。


「……行く」


 ヒナタが言った。


 コウタが、わずかに口元を緩める。


「どうぞ」


 止めない。


 むしろ、歓迎している。


「……なんかムカつく」


「行かないんですか」


「行く」


 ヒナタは、そのまま窓辺を離れた。


 迷いはない。


 理由は、まだ分かっていない。


 それでも、向かう先だけは決まっている。


 風が通る。


 同じ庭。


 同じ場所。


「……」


 ハヤテとリトルスノーのあいだには、まださっきの空気が残っていた。


 近づいた距離。


 少しだけ変わった意味。


 それでも、形は保たれている。


 そこへ、足音が入る。


 止まらない。


 隠さない。


「……偶然」


 ヒナタの声。


 いつも通りだった。


 ハヤテの視線が動く。


 リトルスノーも、同時に振り返る。


「……陛下」


 二人の声が、ほとんど重なった。


 ヒナタは、頷く。


「うん」


 それだけ。


 距離を詰める。


 迷いがない。


 ハヤテとリトルスノーのあいだにあった空気へ、

 まっすぐ入ってくる。


「……何してんの」


 ヒナタが聞いた。


 雑に。


 ハヤテが、穏やかに答える。


「少し、話を」


 声は整っている。


 けれど、昨日とまったく同じではない。


 ヒナタは、少しだけ目を細める。


「……さっきのやつ?」


 直球。


 ハヤテは、一瞬だけ止まった。


 本当に、ほんの一瞬だけ。


 それから。


「ええ」


 肯定する。


 隠さない。


 リトルスノーは、動かない。


 ただ、二人のあいだで静かに息をしている。


 ヒナタは、頷いた。


 それから、そのまま言う。


「もう一回やって」


 空気が止まる。


 完全に。


 風の音だけが残った。


 ハヤテの視線が、ヒナタに向く。


 リトルスノーは、何も言わない。


「……」


 数秒。


 沈黙。


 ヒナタは、待つ。


 何かを試している顔ではない。


 ただ、見たいから言った。


 それだけの顔だった。


「……承知しました」


 ハヤテが、ゆっくりと息を吐いてから答える。


 逃げない。


 受ける。


 リトルスノーの手を取る。


 同じ動き。


 でも、今度は少しだけ近い。


 意識している。


 昨日よりも。

 さっきよりも。


 触れる。


 距離。

 温度。

 間。


 整えながら、少しだけ崩している。


「……」


 ヒナタは、それを見る。


 真正面から。


 逃げない。


 全部、見る。


 ハヤテの指。

 リトルスノーの呼吸。

 触れて、離れるまでのほんの短い時間。


 たしかに、さっきとは違う。


 でも。


「……」


 数秒。


 それから、ヒナタがぽつりと言った。


「……さっきよりいい」


 評価だった。


 そのままの。


 ハヤテの動きが、わずかに止まる。


 リトルスノーの呼吸も、同時に揺れた。


「……」


 ヒナタは、続ける。


「でも」


 その一言で、空気が張る。


 ハヤテの視線が変わる。


 リトルスノーの指が、わずかに動く。


「……まだ遠い」


 完全に言い切った。


 礼儀も、順序も、遠回しな言い方もない。


 ただ、見えたものをそのまま置く。


 ハヤテの表情が、静かに変わる。


 崩れはしない。


 けれど、受け止めたことだけは分かった。


「……」


 ヒナタは、構わない。


 そのまま、リトルスノーを見る。


「貸して」


 意味が通らない。


 けれど、通る。


 止められない。


 リトルスノーが、ほんの一瞬だけ息を止める。


 ハヤテは、何も言わなかった。


 ヒナタが、手を取る。


 リトルスノーの手を。


 今度は、迷いがない。


 距離が近い。


 明らかに。


「……」


 触れる。


 同じ行為。


 けれど、違う。


 形をなぞっているのではない。

 正しさを証明しているのでもない。


 近い。


 ただ、それだけで意味が変わる。


 時間が、少し長い。


 呼吸が、分かる。


 リトルスノーの視線が揺れる。


 隠しきれないほどに。


「……」


 空気が、完全に変わった。


 戻らない。


 ヒナタが、顔を上げる。


 そのまま言う。


「……これ」


 短く。


「こっちの方がいい」


 断言だった。


 静かで、逃げ場がない。


「……」


 沈黙。


 風すら、遠い。


 リトルスノーは、動けない。


 ハヤテは、その変化を見る。


 逃さない。


「……」


 ヒナタは、何も気にしていないような顔で、ゆっくりと手を離した。


「じゃ」


 軽く言う。


「また」


 それだけ。


 背を向ける。


 去る。


 いつも通りに。


 何も壊していないみたいに。


「……」


 残ったのは、完全に変わった空気だった。


 距離。

 温度。

 意味。


 どれも、さっきまでとは違う。


 リトルスノーは、動けないまま立っている。


 ハヤテは、ゆっくりと息を吐いた。


 整える。


 けれど、戻らない。


 数秒。


 それから、静かに言う。


「……陛下は」


 少しだけ間。


「厄介ですね」


 リトルスノーの肩が、わずかに揺れた。


 ほんの一瞬。


 それから、小さく答える。


 同意だった。


 でも、その声は、

 さっきまでと同じではなかった。



****


 夜は、静かだった。


 昼の熱も、庭のざわめきも、もう残っていない。


 窓の外には、月の光が薄く落ちている。

 整えられた庭も、昼間とは違って見えた。


「……」


 ハヤテは、窓の前に立っていた。


 灯りは落とされている。


 部屋の中は暗い。

 けれど、考えるにはそのくらいでよかった。


 整理は、終わっている。


 状況も。

 変化も。

 リトルスノーの反応も。


 そして、陛下が何を変えたのかも。


「……」


 あれは、無作法だった。


 順序もない。

 礼もない。

 踏み込み方も、正しくない。


 けれど、届いた。


 届いてしまった。


 それを見た。


 リトルスノーの呼吸が変わった瞬間を。

 視線が揺れた瞬間を。

 自分の所作では動かなかったものが、確かに動いた瞬間を。


「……必要なことも」


 小さく、呟く。


 迷いはなかった。


 ただ、方法を選んでいるだけだった。


 崩れるわけにはいかない。


 自分が崩れれば、形ごと壊れる。

 この場にある秩序も、リトルスノーが立っている場所も。


 けれど、遠いままでも届かない。


 なら。


「……」


 視線を上げる。


 決める。


 それだけでよかった。


 次の日。


 庭には、朝の光が静かに落ちていた。


 昨日と同じ場所。

 同じように整えられた道。

 同じように風を受ける木々。


「……」


 リトルスノーは、そこに来ていた。


 呼ばれたから来た。


 そう言えば、それだけのことだった。


 けれど、本当にそれだけなのかは、

 自分でもよく分からない。


 理由は分からないまま、足はここへ向いていた。


「……」


 風が通る。


 少しだけ冷たい。


 そのとき、足音がした。


 今度は、ゆっくり。


 まっすぐに近づいてくる。


 振り返る前に、分かる。


 ハヤテだった。


 いつも通りの歩幅。

 いつも通りの姿勢。

 いつも通りの表情。


 けれど、少しだけ違う。


「お待たせしました」


 穏やかに言う。


 距離を詰める。


 自然に。


 でも、昨日より迷いがない。


「……」


 リトルスノーは、動かない。


 そのまま受け止める。


「……少し、お時間を」


 ハヤテが言う。


 短く。


 はっきりと。


 リトルスノーは、頷いた。


 それだけ。


 間が落ちる。


 風。

 葉の音。

 遠くのかすかなざわめき。


 ハヤテは、一歩近づいた。


 距離が詰まる。


 昨日よりも。


 さらに。


「……」


 そのまま、手を取る。


 今度は、確認しない。


 迷わない。


 それでも乱暴ではない。


 形は保たれている。

 けれど、昨日と同じではない。


 近い。


 明確に。


 呼吸が分かる距離だった。


「……昨日のことですが」


 ハヤテが、静かに言う。


 リトルスノーが、わずかに反応する。


 あの庭。

 あの言葉。

 触れている方がいい、と言った陛下の声。


 思い出さないようにしていたものが、

 その一言で戻ってくる。


「確かに、遠かったのでしょう」


 ハヤテは、はっきり認めた。


 言い訳をしない。


 否定もしない。


 その声は穏やかなのに、逃げ場がなかった。


「……」


 リトルスノーは、何も言えない。


 遠かった。


 そう思ってしまった。


 それを、ハヤテ本人が認めている。


「……ですが」


 ハヤテの声が、ほんの少しだけ落ちる。


 視線は逸らさない。


「私が崩れるわけにはいきません」


 静かな言葉だった。


 けれど、その奥には、はっきりとした芯があった。


 崩れないこと。

 整えていること。

 距離を守ること。


 それは冷たさではなかった。


 役割だった。


 そして、選んできた形だった。


「……」


 リトルスノーの呼吸が、ほんの一瞬止まる。


 ハヤテは、そのまま動く。


 さらに距離を詰める。


 手の甲へ、触れる。


 同じ行為。


 でも、違う。


 時間が長い。


 距離が近い。


 礼としての形を保ったまま、

 昨日より確かに踏み込んでいる。


「……」


 離さない。


 ほんの一瞬。


 それから、ゆっくりと離す。


 視線は、近いまま。


 逸らさない。


「……近づけます」


 ハヤテが、静かに言う。


 短く。


 はっきりと。


 リトルスノーの視線が揺れた。


 明確に。


 初めて隠しきれないほどに。


「形も」


 ハヤテは続ける。


「距離も」


 少しだけ間。


「意味も」


 リトルスノーの呼吸が浅くなる。


 言葉が、ひとつずつ近づいてくる。


 正しさを捨てるのではない。

 遠いままにもしない。


 ハヤテは、そう言っている。


「あなたが望むなら」


 逃げ道を残す。


 でも、逃がしはしない。


「……」


 沈黙。


 風が通る。


 リトルスノーは答えない。


 答えられない。


 けれど、視線は逸らさなかった。


 そのとき。


 足音がした。


 軽い。


 迷いがない。


「……偶然」


 ヒナタだった。


 いつも通りの声で、いつも通りに現れる。


 空気が止まる。


 完全に。


 ヒナタは、二人を見る。


 距離。

 手の位置。

 視線。


 全部を見ている。


 それから、少しだけ目を細めた。


「……近くなってる」


 ぽつりと言う。


 正確に。


 ハヤテの視線が、ヒナタに向く。


 リトルスノーも、同時に。


「……」


 ヒナタは、そのまま二人を見た。


 昨日より近い。

 でも、崩れていない。


 綺麗なまま、少しだけ踏み込んでいる。


 それが、ちゃんと分かった。


「いいじゃん」


 軽く言う。


 それだけ。


 でも、その一言で、空気がまた変わった。


 違う方向に。


「……」


 正しいだけでは足りない。


 近いだけでも、終わらない。


 その間に、三人が立っている。


 均等ではない。


 けれど、確かに。


 もう同じ形ではなかった。



****

 

 静かだった。


 風の音だけが残っている。


 さっきまで確かに動いていた空気が、

 今は、どこにも行けずにその場に留まっている。


「……」


 三人の距離は近い。


 けれど、均等ではない。


 わずかに歪んでいる。


 正面に、ハヤテがいる。


 さっきより、確かに近い。

 形は崩れていない。

 それでも、遠いままではいないと示すように、そこに立っている。


 横に、ヒナタがいる。


 何も変わらない顔で。

 何かを勝ち取ったようでもなく、

 壊したことに気づいているようでもなく。


 ただ、そこにいる。


「……」


 リトルスノーは、動けないまま立っていた。


 息を吸う。


 浅い。


 胸の奥が、少しだけ苦しい。


 視線が揺れる。


 ハヤテを見る。


 正しい。


 そう思う。


 このまま進めば、崩れない。


 礼も、距離も、意味も、

 きっと美しく整えられる。


 ハヤテなら、それができる。


 遠かったものを、遠いままにしないで。

 近づきすぎたものを、乱れたままにもせず。


 形を保ったまま、近づける。


「……」


 足が動く。


 わずかに、ハヤテの方へ。


 正しい方へ。


 これでいい。


 そう思おうとした。


 けれど、止まる。


 胸の奥が、冷える。


 ほんの少し。


 でも、はっきりと。


「……」


 視線が逸れる。


 無意識に、ヒナタへ。


 ヒナタは何もしていない。


 呼んでもいない。

 手を伸ばしてもいない。

 選べとも言わない。


 ただ、そこにいる。


 それだけなのに。


 引かれる。


 あの言葉が残っている。


 触れてる方がいい。


 雑で。

 まっすぐで。

 逃げ場がなくて。


 そして、確かに近かった。


 ハヤテの声も残っている。


 近づけます。


 形も。

 距離も。

 意味も。


 どちらも間違っていない。


 だからこそ、苦しい。


「……」


 リトルスノーは、長く息を吐いた。


 もう一度、足を動かす。


 今度は慎重に。


 ハヤテの方へ。


 距離が縮まる。


 これが正しい。


 そう思う。


 そう思える。


 それなのに。


 胸の奥が、また軋む。


 違う、と。


 声にならない何かが、内側で止める。


「……」


 足が止まる。


 それ以上、進めない。


 正しい方へ進もうとすると、

 胸の奥だけが冷えていく。


 呼吸が乱れる。


 視線が戻る。


 ヒナタへ。


 迷いはない。


 ヒナタの方にあるのではなく、

 自分の中の迷いが、そこでだけ静かになる。


「……」


 深く息を吸う。


 足が動く。


 今度は止まらない。


 まっすぐ、ヒナタの方へ。


 距離が詰まる。


 近い。


 正しいかどうかを考える前に、

 もう手が届く。


 リトルスノーは、手を伸ばした。


 ヒナタの手を取る。


 触れる。


 その瞬間、距離が消える。


 呼吸が重なる。


 胸の奥の冷たさが、ほどける。


「……それでも」


 一度だけ止まる。


 言葉を選ぶ。


 逃げないために。


 誰かに決められたからではなく、

 流されたからでもなく、

 自分で選ぶために。


「……こっちがいい」


 はっきりと言った。


 空気が止まる。


 ハヤテの表情が、わずかに揺れる。


 本当に、一瞬だけ。


 けれど、確かに。


 ヒナタは、数秒黙っていた。


 取られた手を見る。

 それから、リトルスノーを見る。


 驚いたようでも、勝ち誇ったようでもない。


 ただ、受け取る。


「……うん」


 それだけ言う。


 リトルスノーの手に、わずかに力が入る。


 離さないためではない。


 自分が選んだことを、確かめるために。


「……」


 ハヤテが息を吐いた。


 静かに。


 整えるように。


 それから、わずかに笑う。


「……それも、悪くない」


 その声は、負けを認める声ではなかった。


 ただ、形が変わったことを受け入れる声だった。


 ヒナタは、少しだけ首を傾ける。


 意味は、たぶん分かっていない。


 遠くで、コウタが小さく笑う。


 予想通り、というように。


 風が通る。


 正しい距離より、

 触れている方を選んだ。


 そのことだけが、

 静かな庭に、確かに残っていた。



****


「……終わったな」


 コウタが、窓の外を見たまま言った。


 誰に向けたわけでもない。


 けれど、全部を見ていた声だった。


 庭には、もう三人の姿はない。


 風だけが残っている。


 さっきまで、確かにそこにあった距離も。

 選ばれた瞬間の沈黙も。

 ハヤテが静かに息を吐いた気配も。


 全部、見えなくなっている。


 それでも、消えたわけではない。


 形を変えて、残っている。


「……なにが」


 ヒナタが、隣で言う。


 いつの間に戻ってきたのか。


 自分でも、たぶん分かっていない。


 庭にいたはずなのに。

 リトルスノーの手を取られていたはずなのに。


 気づけば、コウタの隣にいる。


 そういうことが起きても、

 夢の中では、あまり不思議に思わない。


 ヒナタは、窓の外を見る。


 もう誰もいない庭。


 なのに、さっきの感覚だけは残っている。


 手。

 距離。

 リトルスノーの声。


 ――こっちがいい。


「……」


 コウタは、少しだけ視線を動かした。


 ヒナタを見る。


 何も分かっていない顔だった。


 けれど、何も感じていない顔ではない。


 そこが面倒だった。


「いろいろ」


 コウタは、雑にまとめる。


 ヒナタは、少しだけ眉を寄せた。


「いろいろって何」


「いろいろは、いろいろだ」


「雑」


「お前ほどじゃない」


 即答されて、ヒナタは黙る。


 少しだけ、間。


 窓の外の風が、庭の木を揺らしている。


 ヒナタは、それを見ながら、ぽつりと言った。


「……なんかさ」


 コウタは、待つ。


 こういう時、急かしても意味がない。


 ヒナタの言葉は、いつも足りない。


 でも、足りないまま芯を食う。


「あいつ……ちゃんとしてるよね」


 また、それだった。


 コウタが、わずかに笑う。


 否定はしない。


 ハヤテは、確かにちゃんとしていた。


 崩れずに、距離を変えようとした。

 形も、意味も、手放さずに近づこうとした。


 それは、簡単なことではない。


「……でも」


 ヒナタが続ける。


 少しだけ考えてから。


「……やっぱ遠い」


 結局、そこに戻る。


 コウタは、今度ははっきり笑った。


 ヒナタは、少しだけ不満そうに見る。


「なに」


「いや」


 コウタは、軽く肩をすくめる。


 それから、少しだけ真面目に言った。


「お前は、近すぎる」


 ヒナタが、止まる。


「……なにが」


「全部」


 さらっと言う。


 ヒナタは、数秒黙った。


 たぶん、反論を探している。


 でも、見つからない。


 ハヤテが遠いなら、

 自分は近すぎる。


 そう言われると、何となく嫌な感じがした。


 けれど、違うとも言い切れない。


「……めんどいな」


 いつもの言葉。


 コウタは、頷く。


「ええ」


 即答。


「かなり」


 ヒナタは、ため息をついた。


 長く。


 それから、考えるのを投げる。


 いつも通り。


 けれど、投げた先にも、まだ残っているものがある。


 庭。

 リトルスノー。

 選ばれた手。

 ハヤテの静かな声。


 それらが、まだ消えない。


「……」


 少しだけ、間。


 ヒナタが、ぽつりと言った。


「……また行く」


 コウタが、止まる。


 ほんの一瞬。


 それから、ゆっくりと頷く。


「ええ」


 止めない。


 もう。


 止めるところは、過ぎている。


「行くなら、ちゃんと自分で見ろよ」


 コウタが言う。


 ヒナタは、少しだけ目を細める。


「何を」


「お前が何を変えたのか」


「……分かんない」


「だろうな」


「うるさい」


 コウタは、笑う。


 けれど、茶化しきらない。


 ヒナタは、立ち上がった。


 そのまま、何も考えずに歩き出す。


 迷いはない。


 分かっていないのに、

 向かう先だけは決まっている。


「……」


 扉の前で、止まる。


 少しだけ振り返る。


「……コウタ」


 呼ぶ。


 珍しく。


 コウタが、視線を上げた。


 ヒナタは、少しだけ考える。


 言葉を探す。


 でも、うまく形にならない。


 だから、いつものように短くする。


「……なんか、ありがとう」


 雑だった。


 でも、ちゃんとした言葉だった。


 コウタが、わずかに目を細める。


 それから、小さく笑う。


「どういたしまして」


 ヒナタは、頷く。


 それだけで十分だった。


 そのまま、部屋を出ていく。


 足音が、遠ざかる。


「……」


 静かになる。


 さっきまでとは、違う静けさだった。


 コウタは、もう一度、窓の外を見る。


 庭には、誰もいない。


 白い光も、風も、木の影も、

 何も変わっていないように見える。


 でも。


 確実に、何かが変わっている。


「……」


 コウタは、小さく呟いた。


「面倒だな」


 それでも、口元は少しだけ笑っていた。



****


 低い音が、鳴っている。


 アンプの唸り。

 ドラムの軽いチェック音。

 乾いたスティックの跳ね返り。


 さっきまで聞こえていた風の音は、もうない。


 葉の擦れる音も。

 遠くの舞踏会のざわめきも。

 整えられた庭の静けさも。


 代わりに、見慣れた音が戻ってきている。


「……」


 ヒナタは、ゆっくり目を開けた。


 見慣れた天井。


 スタジオの、少しだけ汚れた白。


「……」


 数秒、何も考えられなかった。


 夢の輪郭だけが、まだ頭の奥に残っている。


 広間。

 玉座。

 黒髪の姫。

 金髪の王子。

 白いテーブル。

 風の通る庭。


 どれも遠い。


 遠いのに、手の感覚だけが妙にはっきりしている。


「……」


 視線を落とす。


 ギターケースが、足元にそのまま転がっている。


 思い出す。


 今日のスケジュールは、終わらせたはずだ。


 リハーサル。

 確認。

 打ち合わせ。


 身体は、ソファーに深く沈んでいる。

 いつの間にか毛布がかかっていた。


「お、起きた」


 コウタの声。


 ベースを肩にかけたまま、こちらを見ている。


「ぐっすり寝てたな」


 ヒナタは、数秒、何も言わない。


 ただ、天井を見たまま、

 夢と現実の境目を探す。


「……」


 それから、ゆっくりと視線を動かした。


 ドラムの方。


 ハヤテがいる。


 軽く叩きながら、こちらの様子を見ていた。


 いつものスタジオ。

 いつものハヤテ。

 いつもの距離。


「……」


 ヒナタは、そのまま見続ける。


 じっと。


 無言で。


「……?」


 ハヤテが視線に気づく。


「ん? どした?」


 スティックを止め、立ち上がって近づいてくる。


 自然に。


 そのまま、顔を覗き込む。


 距離が、近い。


 ヒナタの目が、少しだけ細くなる。


 ぼんやりしたまま。


 でも、どこか納得したように。


「……戻ってきた」


 ぽつりと、言う。


「は?」


 ハヤテが、眉を寄せる。


 コウタが、ベースを持ったまま止まる。


 その次の瞬間。


 ヒナタが、手を伸ばした。


 ハヤテの手を取る。


 迷いなく。


 夢の続きみたいに。


 そのまま、軽く口づけを落とす。


「……」


 時間が止まった。


 完全に。


 アンプの低い唸りだけが、かすかに残っている。


「……はあ?」


 ハヤテが、固まったまま言う。


「寝ぼけてんのか?」


 ヒナタは、少しだけ首を傾ける。


「……王子じゃないな」


 曖昧に返す。


 夢か。


 現実か。


 そのどちらでもいいような気がした。


 手を離す。


 何事もなかったように。


 コウタが、後ろで吹き出した。


「何言ってんだ」


 ヒナタは、少しだけ考える。


 正しい距離。

 触れている方。


 全部が、少しずつ遠ざかっていく。


「……夢でよかった」


 それだけ言って、背もたれにまた沈む。


 毛布が、肩の上で少し動いた。


「……」


 ハヤテは、まだ固まっている。


 自分の手を見たまま。


「……意味わかんねえ」


 小さく呟く。


 コウタが、肩をすくめる。


「顔洗って来い」


 ヒナタは、目を閉じる。


 低い音が、まだ鳴っている。


 ドラムの乾いた響き。

 ベースの余韻。

 遠くなっていく夢の残り。


 正しい距離より、

 触れている方がいい。


 その言葉だけが、

 目を閉じた奥に、静かに残っていた。

 


  了

2026.6.29 改稿



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