Snow flakes ‐ Prism BLUE ‐ HINATA
正しい距離より、触れている方がいい
音が、先にあった。
目を開けるより早く、耳の奥で弦が重なる。
軽やかなリズム。
遠くで揺れる拍手。
何人もの声が混ざった、柔らかいざわめき。
それらが、波のように近づいてきて、
ゆっくりと意識を押し上げる。
「……」
ヒナタは、目を開けた。
最初に見えたのは、高い天井だった。
白く磨かれた装飾が、光を受けて淡く反射している。
どこかのホール。
いや、そんな言葉では足りない。
広すぎる。
音が響いているのに、
妙に遠い。
「……ここ、どこだ」
小さく呟いた声は、
天井まで届く前に、空間の奥へ吸い込まれた。
背中に、硬い感触がある。
椅子、というより、
やけに大きく、重いもの。
身体は少し沈んでいるのに、
落ち着かない。
視線を落とす。
重い布。
きちんと整えられた衣装。
袖口の装飾。
指先まで、見慣れない。
「……」
自分の身体なのに、
自分のものではないみたいだった。
ヒナタは、ゆっくりと周囲を見る。
部屋、ではない。
広間。
そう呼ぶ方が、近い。
視界の下には、人の流れがあった。
色とりどりのドレス。
揃った礼装。
光を弾く髪飾り。
音楽に合わせて、円を描くように動く人々。
舞踏会。
その言葉が、少し遅れて浮かぶ。
「……」
現実感はない。
けれど、細部だけは妙にはっきりしている。
ドレスの裾が床を滑る音。
誰かが笑う気配。
グラスが触れ合う、ごく小さな響き。
夢なら、もっと雑でいい。
そう思うくらいには、
そこにあるものすべてが整いすぎていた。
「……夢か」
呟いてみる。
答えるものはない。
理解は、後回しにすることにした。
分からないものを、すぐに分かろうとするのは疲れる。
とりあえず、見えるものをそのまま受け取る。
ヒナタは、視線を下へ流した。
人の流れ。
音の流れ。
光の流れ。
その中心近くで、ひとつだけ引っかかる。
「……」
目が止まった。
長身の男。
金髪。
整いすぎているくらい、整った顔立ち。
動きに、無駄がない。
立っているだけで、周りの空気が少し変わる。
その向かいに、黒髪の姫がいた。
華やかではある。
けれど、派手ではない。
白い雪の下に、静かな夜があるみたいに、
そこだけ音の温度が違う。
「……」
視線が合った気がした。
いや、合ってはいない。
距離もある。
人の流れもある。
光も、音も、間に挟まっている。
それでも。
何かが、揃った。
ヒナタは、無意識に少し前へ身を乗り出す。
音楽が遠くなる。
周囲のざわめきも、拍手も、
広間の光さえ、少し薄くなる。
残るのは、その二人だけだった。
金髪の王子が、一歩近づく。
距離が詰まる。
近い。
けれど、踏み込んでいない。
侵さない。
乱さない。
決められた形の中で、自然に近づいている。
「リトルスノー」
低く、柔らかい声だった。
呼ばれた姫が、ほんのわずかに視線を落とす。
肯定でも、否定でもない。
ただ、その名を受け取るように。
王子が、その手を取る。
動きはゆっくりだった。
丁寧で、迷いがない。
無理がなく、綺麗で、どこにも引っかからない。
そのまま、手の甲へ。
そっと触れる。
口づけ。
軽く。
一瞬。
でも、確かにそこにあった。
「……何」
ヒナタは、思わず呟いた。
何かが引っかかる。
美しいとか、似合っているとか、
そういう言葉では片づかない。
ちゃんとしている。
たぶん、それが一番近い。
でも、ちゃんとしているからこそ、
どこか遠い。
「……」
視線が外れない。
理由は分からない。
ただ、妙に残る。
ヒナタは、ゆっくりと背もたれに戻った。
それでも、もう一度、下を見る。
二人はまだいる。
同じ位置に。
同じ距離で。
さっきと同じように、整ったまま。
音楽は続いている。
人々も、何もなかったように踊っている。
けれど、ヒナタの中には、
さっきの一瞬だけが残っていた。
金髪の王子。
黒髪の姫。
リトルスノーと呼ばれた人。
「……面倒だな」
誰にも聞こえない声で、そう呟いた。
分からないものが、ひとつ増えた。
それだけで、十分に面倒だった。
****
気づいたら、立っていた。
さっきまで座っていたはずなのに。
「……」
背中にあった硬い感触が消えている。
視線を落とすと、足元には数段の段差があった。
振り返れば、そこには大きな椅子がある。
玉座。
たぶん、そういうやつだ。
どうして自分がそこに座っていたのか。
どうして今、降りようとしているのか。
分からない。
ただ、身体はもう動いていた。
「……」
ヒナタは、ゆっくりと段差を降りる。
一段。
また一段。
靴底が床に触れるたび、音が変わる。
上から眺めていた時よりも、
広間の音が近い。
弦の響き。
衣擦れ。
小さな笑い声。
誰かの息遣い。
人の気配が、はっきりと肌に触れる。
「……」
止まらない。
そのまま、進む。
視線の先には、さっきの二人がいた。
金髪の王子。
黒髪の姫。
さっきと同じ場所にいる。
同じ距離で。
同じ温度で。
周囲の人の流れが、二人を避けるように動いている。
それとも、二人を中心に流れているのか。
よく分からない。
ただ、その場所だけが、妙に整っていた。
「……」
ヒナタは、少しだけ眉を寄せる。
理由は分からない。
でも、そのままにはしておけない気がした。
足は止まらない。
音楽が近くなる。
人の流れが、自然に分かれる。
誰も止めない。
誰も声をかけない。
むしろ、道ができていく。
それが当然みたいに。
「……」
距離が縮まる。
あと数歩。
そのとき、金髪の王子がわずかに顔を上げた。
視線が合う。
今度は、確実に。
整った表情。
崩れない姿勢。
こちらを見ても、少しも乱れない。
ヒナタは、止まらなかった。
最後の一歩を進む。
距離が、止まる。
「……」
無言。
王子を見る。
姫を見る。
もう一度、王子を見る。
どちらも、逃げない。
何かを待っているようにも見える。
何も待っていないようにも見える。
少しだけ、間が落ちた。
ヒナタは、そのまま口を開く。
「今の」
声は静かだった。
けれど、その場に落ちるには十分だった。
「なんだったの」
直球。
空気が、ほんの少し止まる。
周囲の音が、一瞬だけ遠のいた気がした。
金髪の王子が、ゆっくりと瞬きをする。
驚いてはいない。
ただ、こちらの言葉の置き場所を測っている。
「姫君への礼です」
低く、整った声だった。
何も乱れていない。
言葉の角度まで、きちんとしている。
ヒナタは、首を傾ける。
「いや、そうじゃなくて」
言葉を探す。
でも、うまく出ない。
綺麗だった。
似合っていた。
自然だった。
そういう言い方は、どれも少し違う。
「……なんか、ちゃんとしてた」
結局、出てきたのは雑な感想だった。
でも、たぶん外してはいない。
王子が、ほんのわずかに目を細める。
黒髪の姫は、何も言わない。
ただ、ヒナタを見ている。
まっすぐに。
「……」
ヒナタも、見る。
視線を外さない。
黒髪。
落ち着いた瞳。
派手ではないのに、目が離れない。
数秒。
無言。
周囲だけが流れている。
そのまま、ヒナタがぽつりと言った。
「名前」
順番も、礼儀もない。
ただ、必要だと思ったから聞いた。
王子が、先に口を開く。
「ハヤテと申します」
自然に。
迷いなく。
ヒナタは、頷く。
「そう」
それだけ。
次に、姫を見る。
待つ。
姫が、ほんの少しだけ間を置いた。
名乗ろうとした、その前に。
「リトルスノー?」
ヒナタが言った。
姫の動きが止まる。
ほんの一瞬。
そこに、わずかな驚きが混じる。
ハヤテが、少しだけ視線を動かした。
けれど、姿勢は崩れない。
「……ええ」
姫が答える。
静かに。
ヒナタは、また頷いた。
納得したように。
「そっちの方が合ってる」
また雑だった。
けれど、ヒナタの中ではそれで決まった。
黒髪の姫。
静かな立ち方。
雪みたいな名前。
たぶん、そっちの方がいい。
リトルスノーが、少しだけ目を細める。
警戒でも、拒絶でもない。
ただ、こちらを測っている。
「……」
ヒナタは、少しだけ息を吐いた。
まだ、引っかかりは消えない。
むしろ近くで見たせいで、さっきよりはっきり残っている。
「……もう一回やって」
空気が止まった。
今度は、さっきより分かりやすく。
ハヤテが、わずかに首を傾ける。
「……何を」
ヒナタは、即答する。
「さっきの」
リトルスノーが、ヒナタを見る。
少しだけ、困ったように。
ハヤテが、一度だけ目を伏せた。
それから、自然にリトルスノーの手を取る。
同じ動き。
同じ距離。
同じ温度。
手の甲へ、そっと触れる。
「……」
ヒナタは、それを見た。
今度は、近くで。
指の角度。
距離の取り方。
触れて、離れるまでの間。
全部が、きれいに整っている。
「……」
少しだけ、目が細くなる。
それから。
「……やっぱり、ちゃんとしてる」
同じ感想だった。
でも、さっきより少しだけ深い。
遠くから見た時より、近くで見た方が分かる。
これは、崩れていない。
誰も傷つけないように。
誰も踏み越えないように。
きちんと距離が決められている。
だから、ちゃんとしている。
だからこそ。
「……」
ヒナタは、少しだけ考えた。
短く。
「俺もやっていい?」
完全に場違いだった。
でも、真顔だった。
ハヤテが、ほんの一瞬だけ沈黙する。
それから、静かに言う。
「……陛下」
ヒナタは、首を傾ける。
「なに」
「これは、誓いの形です」
「うん」
「順序がございます」
冷静な声だった。
けれど、ほんの少しだけ困っている。
ヒナタは、少し考える。
「……そっか」
あっさり引いた。
引いたけれど、納得したわけではなかった。
周囲を見る。
華やかな広間。
整えられた音楽。
決められた立ち位置。
崩れない笑顔。
全部がちゃんとしている。
その分だけ、少し息苦しい。
「……面倒だな」
小さく呟く。
でも、すぐに視線は戻った。
もう一度、二人を見る。
ハヤテ。
リトルスノー。
並びは美しい。
距離も正しい。
それなのに、何かが残る。
「また来る」
それだけ言った。
許可も、確認もない。
ハヤテは、軽く一礼する。
リトルスノーは、静かにこちらを見ている。
ヒナタは、そのまま背を向けた。
来たときと同じように、人の流れが開く。
歩きながら、小さく呟く。
「……なんなんだよ」
自分でも分からない。
でも、さっきより少しだけ、はっきりしている。
あの姫が。
気になる。
****
「……どこ行ってたんだよ」
部屋に戻った瞬間、声が飛んできた。
間髪入れず。
まるで、扉が開く前から待っていたみたいだった。
ヒナタは、足を止める。
広間の音が、まだ耳の奥に残っている。
弦の重なり。
遠い拍手。
リトルスノーと呼ばれた黒髪の姫。
それらが、少し遅れて部屋の静けさに沈んでいく。
「……舞踏会」
そのまま答える。
コウタは、書類の前に立っていた。
この場所でのコウタが何者なのか、
ヒナタにはまだよく分からない。
けれど、表情だけは見慣れていた。
面倒なことを察した時の顔。
それも、かなり早い段階で察している顔だった。
「それは知ってる」
コウタが、無言で一歩近づく。
距離が、妙に正確だった。
詰めすぎない。
でも、逃がさない。
観察されている感じがする。
「その中で、何してきた」
声は低い。
怒っている、というより、
確認している。
すでに半分くらい答えを持っている人間の聞き方だった。
ヒナタは、少し考える。
何をしてきたのか。
見ていた。
近づいた。
話しかけた。
もう一回やらせた。
順番に並べてみると、
少しだけ面倒な気がした。
「……見てた」
「何を」
「……ちゃんとしてるやつ」
コウタが、一瞬だけ止まる。
「……は?」
ヒナタは、構わず続ける。
「金髪のやつ」
「ああ」
理解は早かった。
「ハヤテ王子」
ヒナタは、頷く。
「そう、それ」
名前を口にされて、少しだけ腑に落ちる。
あれは、ハヤテだった。
さっき名乗られたばかりなのに、
妙にもう知っているような気もする。
「それで」
コウタは、わずかに眉を寄せた。
嫌な予感が、もうしている顔だった。
「……話しかけた」
「だろうな」
即答。
ヒナタは、少しだけ目を細める。
「なんで分かるんだよ」
「分かる」
短い返事。
説明する気はなさそうだった。
ヒナタも、それ以上は聞かない。
聞いたところで、きっと似たような答えしか返ってこない。
少しだけ視線を外す。
それから、思い出したことをそのまま言う。
「……もう一回やらせた」
コウタの動きが止まった。
完全に。
空気まで一緒に止まったようだった。
「……何を」
「さっきの」
「だから何を」
ヒナタは、少しだけ手を動かす。
曖昧に。
自分でも、その動きをどう説明すればいいのか分からなかった。
「こう……手取って、キスするやつ」
コウタが、目を閉じた。
一瞬だけ。
深く息を吸う。
そして、ゆっくり吐く。
その間、ヒナタは黙っていた。
たぶん、今のはよくない反応だ。
でも、何がどのくらいよくないのかは分からない。
「……やらせたのか」
「うん」
「誰に」
「……」
沈黙。
少し長い。
広間での場面が、もう一度頭に浮かぶ。
ハヤテがリトルスノーの手を取る。
手の甲へ、そっと触れる。
綺麗で、正しくて、遠い。
コウタが、ゆっくり目を開けた。
静かに言う。
「それ、完全に無茶振りだ」
ヒナタは、首を傾ける。
「でもやってた」
「やるだろ」
コウタは即答した。
「断る場面じゃないからな」
ヒナタは、少しだけ考える。
そう言われれば、そうなのかもしれない。
でも、ハヤテの動きに無理はなかった。
困ってはいたかもしれない。
それでも、崩れてはいなかった。
ちゃんとしていた。
やっぱり、そう思う。
コウタは、じっとヒナタを見る。
数秒。
「……で」
続ける。
「それ見て、何思った」
ヒナタは、少しだけ視線を上げる。
答えは、最初からあまり変わっていない。
「……ちゃんとしてた」
コウタが、ほんの少しだけ顔をしかめる。
「語彙」
小さく呟く。
ヒナタは、無視した。
別に、言葉が足りないわけではない。
たぶん。
これが一番近いだけだ。
少しだけ間が空く。
「……あと」
コウタが、待つ。
ヒナタは、胸の奥に残っている感覚を探す。
綺麗だった。
正しかった。
でも、見終わっても消えなかった。
それは、感想というより、引っかかりだった。
「……なんか、引っかかる」
今度は、少しだけまともな答えになった。
コウタの表情が、わずかに変わる。
興味。
それから、理解。
「リトルスノー、って呼んでた」
ヒナタが続ける。
コウタは、すぐに反応した。
「黒髪の姫」
ヒナタは、止まる。
「……黒髪の、姫」
言葉を繰り返す。
その響きだけで、広間の光が少し戻ってくる。
黒髪。
静かな目。
リトルスノーという名前。
合っていると思った。
でも、合っていると思った理由は、まだ分からない。
コウタは、それを見る。
見逃さない。
「気になるのか」
さらっと聞く。
ヒナタは、すぐには答えなかった。
気になる。
そう言えば、そうなのかもしれない。
でも、それを認めるには、まだ何かが足りない。
「……分かんない」
正直に言う。
コウタは、軽く息を吐いた。
呆れたというより、
納得したような息だった。
「分かりやすいな」
と言う。
ヒナタが見る。
「なにが」
コウタは、少しだけ肩をすくめる。
説明しない。
ヒナタは、少しだけ眉を寄せた。
分からないものが増えていく。
ちゃんとしている距離。
引っかかる感じ。
どれも、まだ名前がつかない。
「……面倒だな」
また言う。
でも、さっきより少しだけ違う。
ただ面倒なのではない。
分からないのに、放っておけない。
それが、面倒だった。
コウタは、それを見て、
ほんの一瞬だけ口元を緩める。
「……とりあえず」
話を戻す。
「次からは、もう少し段階を踏め」
ヒナタは、即答した。
「嫌だ」
コウタが、間を置く。
「理由は」
「……この方が早い」
コウタは、無言になる。
数秒。
それから、諦めたように言う。
「……まあ、そうだな」
理解はしている。
納得はしていない。
そんな声だった。
ヒナタは、そのまま椅子に座る。
身体を預けると、広間の音が少し遠くなった。
けれど、リトルスノーの姿だけは、まだ消えない。
「……また行く」
ぽつりと言う。
コウタは、頷いた。
止めない。
止めても無駄だと、分かっている顔だった。
コウタは、ため息をついた。
静かに。
それから、少しだけ視線を外す。
****
庭は、静かだった。
舞踏会の音は、遠い。
さっきまで広間を満たしていた弦の音も、拍手も、人の声も、
扉をひとつ隔てただけで、別の世界のものみたいに薄くなっている。
残っているのは、風の音と、葉の擦れる音だけだった。
「……」
ヒナタは、何となく外に出ていた。
理由はない。
強いて言うなら、
音が、少しうるさかったから。
広間の音が嫌だったわけではない。
ただ、整いすぎた光と、整いすぎた人の流れの中にいると、息をする場所が少なくなる。
どこを見ても、正しい。
正しい立ち方。
正しい笑い方。
正しい距離。
その中で、さっき見た二人のことだけが、妙に残っていた。
「……」
ヒナタは、整えられた道を歩く。
手入れの行き届いた緑。
均等に並んだ花。
どこを見ても、綺麗すぎる。
少しだけ息を吐いた。
そのとき。
視界の端に、黒が入る。
足が止まる。
「……」
昼間よりも少し柔らかい光の中に、
黒髪の姫が立っていた。
リトルスノー。
広間にいた時と同じ空気をまとっている。
でも、少し違う。
周囲に音がないせいか。
人の流れがないせいか。
さっきより、輪郭が近い。
「……」
ヒナタは、特に迷わず歩いた。
そのまま、距離を詰める。
リトルスノーは、気づいている。
でも、動かない。
逃げるわけでもなく、
迎えるわけでもなく、
ただ、そこにいる。
「……偶然」
ヒナタが言う。
軽く。
挨拶みたいに。
リトルスノーが、ゆっくりと視線を上げた。
ヒナタは、少しだけ首を傾ける。
「一人?」
ヒナタは、少しだけ周りを見る。
本当に誰もいない。
ハヤテも。
コウタも。
広間にいた人たちも。
ここにはいない。
小さく言って、ヒナタは隣に立った。
近すぎない。
でも、さっきよりは少し近い。
「……」
しばらく、無言だった。
風だけが通る。
ヒナタは前を見る。
リトルスノーも、同じ方向を見る。
視線は合わない。
でも、同じものを見ている。
それだけで、広間にいた時よりも、少しだけ息がしやすかった。
「嫌じゃないの」
直球だった。
リトルスノーは、すぐには答えない。
少しだけ、間が空く。
風が通る。
庭の葉が、かすかに揺れる。
ヒナタは、少しだけ目を細める。
「あの距離で、いいの」
さらに直球。
リトルスノーが、少しだけ視線を向ける。
答えは、すぐには返ってこない。
また、少しだけ沈黙する。
風。
葉。
遠くの音。
「……でも」
ヒナタが続ける。
「見てて、変じゃなかったな」
言葉を選ぶ。
珍しく。
「……ちゃんとしてる、だけじゃなくて」
少しだけ探す。
広間の光。
ハヤテの手。
リトルスノーの視線。
崩れない距離。
綺麗だった。
でも、それだけじゃない。
「……合ってた」
リトルスノーの呼吸が、ほんの少しだけ変わる。
ほんの一瞬。
でも、確かに。
ヒナタは、それを見る。
「……なら」
少しだけ間を置く。
「これでいいのかも」
ヒナタは、頷く。
「うん」
それだけ。
また、静かになる。
さっきより、少しだけ距離が変わっている。
近づいたわけではない。
でも、遠くはなくなった。
「……」
ヒナタは、少しだけ伸びをした。
気の抜けた動き。
それから、そのまま歩き出す。
振り返らない。
でも、数歩進んでから、小さく止まる。
「……」
振り返らないまま。
「……リトルスノー」
呼ぶ。
リトルスノーが、わずかに視線を向ける。
ヒナタは、少しだけ間を置いた。
それから。
「名前、合ってる」
リトルスノーは、ほんの一瞬だけ驚いたように目を開く。
それから、
小さく笑った。
ヒナタは、軽く手を上げる。
背中を向けたまま、
そのまま、歩いていく。
庭の外へ。
音のある場所へ。
「……これでいいのかも」
残った風が、少しだけ動く。
さっきより、ほんの少しだけ、
庭は、静かじゃなくなっていた。
****
戻るつもりは、なかった。
少なくとも、自分ではそう思っていた。
庭を出て、音のある方へ歩いて、
そのまま別の場所へ行くつもりだった。
けれど、気づいたら、また広間の近くにいた。
「……」
音が近い。
さっきよりも、はっきりと聞こえる。
弦の重なり。
床を滑る足音。
誰かの笑い声。
拍手の名残。
整えられた音が、整えられた空間の中で流れている。
ヒナタは、少しだけ目を細めた。
面倒だと思いながら、
足はそのまま向いている。
「……」
視線を上げる。
探すまでもなかった。
見つかる。
同じ場所。
同じ流れ。
黒髪の姫と、金髪の王子。
リトルスノーと、ハヤテ。
二人は、さっきと同じように立っていた。
近すぎない。
遠すぎない。
誰が見ても不自然ではない距離。
きっと、あれが正しい。
そう思う。
並びも、立ち方も、視線の置き方も。
何も間違っていない。
「……」
ヒナタは、少しだけ息を吐いた。
さっき、自分で言ったばかりだ。
ちゃんとしてる。
合ってた。
きっと、これでいい。
そう思った。
でも。
「……」
まだ、引っかかる。
言葉にはできない。
できないまま、足が動く。
今度は、ゆっくり。
わざと。
近づいていることを、相手に気づかせるように。
人の流れが、また自然に開く。
誰かが振り返る。
誰かが軽く頭を下げる。
その中で、ハヤテが先に気づいた。
視線が動く。
ヒナタを見る。
それから、わずかに一礼する。
リトルスノーも、遅れて視線を向けた。
ほんの一瞬だけ。
庭での空気が、そこに残る。
「……偶然」
ヒナタが言う。
軽く。
誰に向けたわけでもない。
けれど、二人に向けた言葉だった。
ハヤテが、穏やかに口を開く。
「お戻りになられたのですね」
ヒナタは、頷く。
「なんか、戻ってた」
雑な答え。
でも、ハヤテは否定しない。
そのまま受け取る。
「それは何よりです」
綺麗に返ってくる。
言葉の置き方まで、きちんとしている。
ヒナタは、それを見る。
少しだけ。
やっぱり、ちゃんとしている。
「……」
次に、リトルスノーを見る。
さっきと同じ。
でも、少しだけ違う。
庭で話した分だけ、
広間で見た時より、遠くはない。
ヒナタは、少しだけ考える。
短く。
「さっき、庭」
リトルスノーが、わずかに頷く。
「風、よかったな」
会話は雑だった。
でも、ちゃんと繋がっている。
リトルスノーが、ほんの少しだけ目を細めた。
「……そうですね」
柔らかい。
広間の中で、そこだけ庭の空気が戻る。
風の音。
葉の擦れる音。
並んで、同じものを見ていた時間。
ハヤテが、それを見る。
「……」
ヒナタは、それも見ている。
全部。
でも、言語化はしない。
できない。
少しだけ間が空く。
ヒナタが、ぽつりと言った。
「……やっぱ、ちゃんとしてるな」
また、それ。
今度は、ハヤテに向けて。
はっきり。
ハヤテが、わずかに笑う。
「光栄です」
余裕がある。
崩れない。
その返し方まで、綺麗だった。
ヒナタは、少しだけ視線を逸らす。
それから。
「……でも」
続ける。
短く。
「ちょっと遠い」
空気が、わずかに止まった。
音楽は続いている。
人の流れも止まっていない。
それなのに、二人の周りだけ、
薄い膜が張ったみたいに静かになる。
ハヤテの視線が、わずかに揺れた。
リトルスノーも、同時に動く。
でも、どちらも崩れない。
「……そう見えますか」
ハヤテが、静かに返す。
ヒナタは、頷いた。
「うん」
理由は言わない。
言えない。
でも、確信だけはある。
ちゃんとしている。
合っている。
間違っていない。
それでも。
少しだけ遠い。
「……」
リトルスノーが、少しだけ視線を落とす。
さっきより少しだけ揺れていた。
ヒナタは、それを見る。
十分だった。
「……」
小さく息を吐く。
それから、一歩だけ近づいた。
距離を詰める。
「……リトルスノー」
さっきより、少しだけ近い声。
リトルスノーが、視線を上げる。
ヒナタは、少しだけ考えた。
ほんの一瞬。
それから。
「また、外行こう」
軽く言う。
空気が止まる。
ハヤテの視線が、わずかに動く。
リトルスノーは、少しだけ迷った。
ほんの一瞬。
その迷いが見えたことに、
ヒナタは自分でもよく分からないまま、少しだけ満足する。
「……後ほど」
リトルスノーが答える。
ヒナタは、頷く。
「うん」
それでいい。
十分だった。
「……じゃあ」
軽く手を上げる。
そのまま、また離れる。
来たときと同じように、
人の流れが自然に開く。
背中を向ける。
歩きながら、小さく呟く。
「……やっぱ、面倒だな」
でも、さっきより少しだけ分かっている。
何が引っかかるのか。
まだ言葉にはならない。
それでも、確かにそこにある。
ヒナタは、そのまま歩く。
音の中へ。
光の中へ。
****
「……なるほど」
コウタは、静かに頷いた。
話を聞き終えてから、数秒。
何も言わずに考えている。
その沈黙が、少し長い。
ヒナタは、椅子に座ったまま待っていた。
特に何かを期待しているわけではない。
ただ、コウタが考え始めた時は、
だいたい自分より先に何かを見つけている。
それは分かっていた。
「……」
コウタが、ゆっくりと顔を上げる。
「面白くなってきたな」
第一声がそれだった。
ヒナタは、少しだけ眉を寄せる。
「なにが」
コウタは、わずかに口元を緩める。
ほんの少しだけ。
「全部」
「雑」
「お前に言われたくない」
即答されて、ヒナタは黙る。
コウタは、そのまま机の上の紙を一枚脇へ寄せた。
仕事を中断する時の動きだった。
つまり、今の話はそれなりに重要らしい。
ヒナタには、その重要さがまだ分からない。
「整理するぞ」
コウタが、指を一本立てる。
癖みたいなものだった。
「まず、ハヤテ王子」
ヒナタは、頷く。
「ちゃんとしてるやつ」
「そう、それ」
雑な共通認識が成立する。
コウタは気にしない。
むしろ、そのくらいの方が話が早いと思っている顔だった。
「で、黒髪の」
ヒナタは、少しだけ間を置く。
「……リトルスノー」
言い慣れてきている。
自分でも、それに気づいた。
コウタも気づいたらしい。
少しだけ笑う。
「気に入ってるな、その呼び方」
ヒナタは、無視した。
「で」
コウタが続ける。
「その二人の関係を見て」
少しだけ間を置く。
「“遠い”と感じた」
ヒナタは、頷く。
「うん」
間違っていない。
ちゃんとしている。
合っている。
でも、遠い。
自分の中にある感覚を、コウタが勝手に言葉にしていく。
少し腹が立つ。
でも、外れていないから余計に面倒だった。
コウタが、もう一本指を立てる。
「その上で」
さらに間を置く。
「リトルスノーを外に誘った」
ヒナタは、また頷く。
「うん」
それも事実だった。
深く考えたわけではない。
ただ、また外に行けばいいと思った。
庭の方が、広間より息がしやすかったから。
「……完全に触れに行ってる」
コウタが、断言した。
ヒナタが止まる。
「なにに」
「距離に」
言い切られて、少し沈黙する。
「……いや」
ヒナタは、雑に否定した。
「違う」
コウタが、少しだけ首を傾ける。
「どこが」
「……別に」
言葉が出ない。
否定はしたい。
でも、どこが違うのかと聞かれると分からない。
コウタは、すぐに補足する。
「無自覚か」
ヒナタが見る。
「なにが」
コウタは、少しだけ楽しそうに言った。
「全部」
ヒナタは、無言になる。
嫌な感じがする。
自分の知らない場所で、話が勝手に進んでいる。
でも、否定できる材料がない。
「いいか」
コウタが、軽く一歩近づく。
距離が詰まる。
「今の状態」
指で空中に線を引くように示す。
「ハヤテ王子と、リトルスノー」
一本の線。
「その距離に」
もう一本。
「お前が、横から触れている」
ヒナタは、少しだけ顔をしかめる。
「……なんか嫌な言い方」
「事実だろ」
即答。
コウタの声に迷いはない。
「で」
続ける。
「一番問題なのは」
ヒナタは、黙って待つ。
コウタが、はっきり言う。
「お前が、それを“面倒くさいと思いながらやっている”こと」
ヒナタが止まる。
「……」
図星だった。
面倒だと思っている。
分からないから。
言葉にならないから。
でも、放っておけないから。
だから面倒だ。
「……だって、めんどいし」
言い訳は、雑だった。
コウタが少しだけ笑う。
「だろうな」
否定しない。
むしろ肯定する。
それが、さらに嫌だった。
「でも」
コウタが続ける。
「やめない」
ヒナタは、言葉に詰まる。
「……」
数秒。
それから、仕方なく頷く。
「……うん」
やめるつもりはなかった。
それだけは、はっきりしている。
コウタは、満足そうに頷いた。
「分かりやすいな」
ヒナタが睨む。
「うるさい」
コウタは、軽く肩をすくめる。
それから、少しだけ声の温度を落とした。
「で、どうする」
ヒナタは、少し考える。
「……なにが」
コウタは、あえてはっきり言う。
「近づくのか」
間。
「見てるだけにするのか」
ヒナタの呼吸が、わずかに変わった。
ほんの一瞬。
コウタは、それを見ている。
逃がさない。
ヒナタは、少しだけ視線を外した。
「……分かんない」
正直に言う。
取りに行く、という言葉がしっくりこない。
引く、という言葉もしっくりこない。
ただ、あの距離が気になる。
それだけだった。
コウタは、頷く。
「だろうな」
想定内の声だった。
少しだけ笑う。
「じゃあ、試してみるか」
ヒナタが見る。
「なにを」
コウタは、さらっと言う。
「軽く揺らしてみる」
ヒナタが止まる。
「……なにを」
コウタは、同じ温度で返す。
「距離」
ヒナタは、完全に無言になった。
言っていることは分かる。
分かるけれど、
それをそんなに簡単に言うのはどうなのかと思う。
「ちょうどいい」
コウタは、机の上の予定表を見た。
「明日、庭でお茶会がある」
ヒナタが、顔を上げる。
「……なんで知ってるの」
「参謀役なので」
平然と答える。
この夢の中でも、コウタはコウタだった。
立場が変わっても、
やることはあまり変わっていない。
ヒナタは、ため息をつく。
「……で」
コウタが、続ける。
「そこに三人とも来る」
ヒナタの表情が、わずかに動く。
「……三人」
「お前と、ハヤテ王子と、リトルスノー」
少しだけ間。
「いい感じに揺れるんじゃないか」
コウタの声は穏やかだった。
けれど、内容はまったく穏やかではなかった。
ヒナタは、数秒黙る。
「……ほんと、めんどい」
でも、止めない。
止める気がないことを、コウタも分かっている。
コウタは、それを見て静かに笑った。
****
庭は、昼の光に満ちていた。
白いテーブル。
整えられた椅子。
香りの強すぎない花。
すべてが、決められた位置に置かれている。
風が通っても、乱れない。
花びらが揺れても、形は崩れない。
そういう場所だった。
「……」
ヒナタは、そこに座らされている。
座り心地は悪くない。
悪くないのに、落ち着かない。
広間よりは静かだ。
けれど、庭にも庭の正しさがある。
カップの位置。
皿の向き。
椅子と椅子の距離。
どれもきちんとしている。
「……なんでこれ」
小さく呟く。
向かいで、コウタが穏やかに紅茶を注いでいた。
手つきは慣れている。
こういう場にいるコウタは、やけに自然だった。
「社交です」
即答。
ヒナタは、カップを見る。
薄い色の液体。
湯気。
甘い香り。
「……飲むの?」
「飲みます」
当たり前のように返される。
ヒナタは、少し考えてからカップを持った。
ひと口飲む。
「……甘い」
コウタが、わずかに笑う。
「そういうものです」
ヒナタは、もう飲まなかった。
そのまま、カップを置く。
音は小さかった。
けれど、庭の静けさの中では、少しだけはっきり聞こえた。
風が通る。
「……来た」
ヒナタが言う。
視線の先。
金髪の王子と、黒髪の姫。
ハヤテとリトルスノーが、並んで歩いてくる。
同じ歩幅。
同じ距離。
同じ空気。
近すぎない。
遠すぎない。
見ている者が安心するような距離だった。
「……」
ヒナタは、少しだけ目を細める。
コウタは、それを横目で見る。
何も言わない。
ただ、観察する。
ハヤテが、先に一礼した。
「お招きいただき、ありがとうございます」
完璧だった。
姿勢も。
声も。
言葉の間も。
無駄がない。
ヒナタは、頷く。
「うん」
雑だった。
でも、それで足りた。
リトルスノーも、軽く頭を下げる。
「お時間をいただき、ありがとうございます」
整っている。
けれど、ほんの少しだけ、昨日の庭の空気が残っている。
広間にいた時より、声が遠くない。
ヒナタは、それを見る。
そのまま。
「座って」
短く言う。
ハヤテとリトルスノーが、向かいに座る。
位置が決まる。
距離が生まれる。
テーブルを挟んで、四人。
その形だけ見れば、何もおかしくない。
コウタが、静かに紅茶を差し出す。
「どうぞ」
完璧に進行する。
ヒナタは、何もしない。
ただ、見ている。
ハヤテがカップを取る。
リトルスノーが、少し遅れて同じように手を伸ばす。
動きは揃っていない。
でも、乱れてはいない。
それぞれが、それぞれの位置で整っている。
「……」
少しだけ、間。
コウタが、自然に口を開いた。
「昨日の舞踏会、見事でした」
ハヤテに向けて。
話を振る。
ヒナタが、少しだけ視線を動かす。
ハヤテは、穏やかに答える。
「光栄です」
短い。
無駄がない。
コウタが、続ける。
「特に、手の取り方」
わざと具体的だった。
ヒナタの指が、ほんの少しだけ動く。
ハヤテは、崩れない。
「基本に忠実なだけです」
リトルスノーは、静かに聞いている。
表情は変わらない。
けれど、昨日と同じ話題だと分かっている。
コウタが、ちらりとヒナタを見る。
それから、言った。
「陛下も、興味をお持ちのようで」
投げる。
ヒナタに。
ヒナタは、少しだけ間を置いた。
否定する理由はなかった。
「うん」
正直に頷く。
リトルスノーの視線が、わずかに動く。
ハヤテも、同じ。
その小さな反応を、ヒナタは見ている。
「……もう一回見たい」
ヒナタが続ける。
完全に直球だった。
空気が、ほんの一瞬だけ止まる。
庭の風さえ、少し遠くなる。
ハヤテは、静かに応じた。
「承知しました」
迷いがない。
リトルスノーの手を、自然に取る。
昨日と同じ動き。
同じ順序。
同じ角度。
同じ温度。
そして、手の甲に軽く触れる。
「……」
ヒナタは、それを見る。
今度は真正面から。
逃げない。
手の取り方。
距離。
触れて、離れるまでの短い時間。
全部が整っている。
正しい。
綺麗だ。
間違っていない。
「……」
数秒。
それから、ぽつりと言った。
「……やっぱ遠い」
静かな声だった。
けれど、その場を揺らすには十分だった。
コウタが、カップを持ったまま止まる。
ほんの一瞬だけ。
いい。
たぶん、そう思っている顔だった。
ハヤテの動きが、わずかに止まる。
本当に、ほんの少しだけ。
リトルスノーの呼吸が、少しだけ浅くなる。
「……」
ヒナタは、続ける。
考えていない。
考えていないから、そのまま出る。
「ちゃんとしてるけど」
少しだけ間。
「……触れてない」
空気が、静かに崩れた。
音はない。
誰も大きく動いていない。
それでも、さっきまでそこにあった形が、
目に見えないところで歪んだのが分かった。
ハヤテが、ゆっくりと手を離す。
何も言わない。
けれど、さっきと同じではない。
リトルスノーが、視線を落とす。
ほんの一瞬。
それから、戻す。
コウタが、静かにカップを置いた。
陶器の音が、小さく響く。
そして、さらっと言う。
「陛下なら、どうなさいますか」
ヒナタが見る。
「なにを」
「同じ形ではなく」
コウタは、平然としている。
「同じ距離を」
ヒナタは、少しだけ考えた。
意味は、全部は分からない。
けれど、やることは分かった。
ヒナタが、手を伸ばす。
雑ではない。
でも、綺麗でもない。
手順をなぞるためではなく、
ただ、そこにある手に届こうとする動きだった。
リトルスノーの手を取る。
距離が詰まる。
近い。
昨日より。
今より。
明らかに。
「……」
ヒナタは、少しだけ迷う。
一瞬。
そのまま、手の甲に触れた。
軽く。
でも、距離が近い。
形は同じはずだった。
けれど、同じではなかった。
呼吸が分かる。
手の温度が分かる。
ほんのわずかな揺れまで、分かる。
「……嫌なら、断ってもいい」
リトルスノーの呼吸が、止まる。
ほんの一瞬。
ハヤテの視線が、静かに落ちる。
コウタは、何も言わない。
ただ、見ている。
「……」
ヒナタが、手を離す。
それから、小さく笑った。
空気が、完全に変わった。
戻らない。
さっきまでの距離には。
もう。
****
静かになってから、気づいた。
風の音が、さっきよりもはっきり聞こえる。
「……」
庭には、もう誰もいない。
白いテーブル。
揃えられた椅子。
飲みかけの紅茶。
何も乱れていない。
けれど、そこにあったはずの形だけが、
どこかへ消えてしまったようだった。
「……」
リトルスノーは、ゆっくりと息を吐く。
乱れていないはずだった。
声も。
姿勢も。
表情も。
いつも通りに戻せばいい。
そう思うのに、呼吸だけが少し浅い。
「……」
視線を落とす。
自分の手。
何も変わっていない。
白い手袋の上に、跡が残っているわけでもない。
熱が見えるわけでもない。
それなのに、そこだけが違う。
「……」
ゆっくりと、目を閉じる。
思い出す。
ハヤテが手を取った時のこと。
整えられた距離。
正確な動き。
間違いのない礼。
綺麗だった。
誰が見ても、そう言うだろう。
正しい。
整っている。
この場にふさわしい。
それでいいはずだった。
「……」
けれど、もうひとつの感覚が消えない。
近かった。
少しだけ乱暴なくらい、まっすぐだった。
正しいかどうかを確かめる前に、
先に距離が消えていた。
触れられた。
そう思った瞬間、
胸の奥が、ほんの少しだけ遅れて反応した。
「……触れてない」
リトルスノーは、自分の声で繰り返す。
小さく。
陛下の言葉だった。
けれど今は、
自分の中から出てきた言葉みたいに聞こえる。
「……」
もう一度、手を見る。
同じ手。
同じ指先。
同じように戻せばいい。
戻せるはずだった。
けれど、戻らない。
正しい距離の感覚が、少しだけずれてしまった。
「……」
指先が、わずかに震える。
ほんの少し。
自分でも見逃してしまいそうなくらい。
でも、確かに。
違ってしまった。
リトルスノーは、ゆっくりと顔を上げる。
庭の奥。
人のいない方向。
もう、陛下の姿はない。
ハヤテの姿もない。
誰もいない。
だからこそ、声がこぼれた。
「……ずるい」
誰に向けた言葉かは、分かっている。
でも、認めたくない。
認めてしまえば、
さっき変わったものに、名前がついてしまう。
「……」
風が通る。
さっきより、少しだけ冷たい。
それでも消えない。
残ったまま。
触れたまま。
形を持たないまま。
そこにある。
****
遅れは、なかった。
歩幅も。
距離も。
時間も。
すべて、いつも通りだった。
「……」
廊下は静かだ。
庭から戻る足音だけが、規則的に響いている。
一歩。
また一歩。
乱れない。
乱す必要もない。
ハヤテは、まっすぐ前を見て歩いていた。
さっきまでの庭の空気は、もう背後にある。
白いテーブルも、紅茶の香りも、陛下の声も。
すべて置いてきた。
そのはずだった。
「……」
それでも、ひとつだけ残っている。
視線を落とす。
自分の手。
何も変わっていない。
指先も。
手袋の皺も。
動かした時の感覚も。
いつも通り、正確に動く。
そうでなければならない。
「……」
ほんのわずかに、足が止まった。
さっきの動きが、頭の中に戻る。
手を取る。
距離を保つ。
触れる。
離す。
同じ順序。
同じ所作。
同じ意味。
間違ってはいなかった。
むしろ、間違えないように動いた。
この場にふさわしく。
相手を乱さず。
周囲にも乱れを見せず。
そうすることに、迷いはなかった。
「……」
それなのに。
指先が、わずかに動く。
無意識に。
確かめるように。
陛下の声が残っている。
――触れてない。
短く、雑で、礼儀も何もない言葉。
けれど、外してはいなかった。
「……距離」
小さく、呟く。
足が、ほんの一歩分だけ止まる。
それから、また動いた。
止めない。
止める理由がない。
崩す理由もない。
ただ、確認する必要はある。
「……」
ハヤテは、ゆっくりと息を吐く。
整える。
戻す。
戻したうえで、残ったものを見る。
綺麗だった。
正しかった。
けれど、遠かった。
それを言われた。
それを、見抜かれた。
「……」
不快ではない。
腹立たしいわけでもない。
ただ、予定していなかった場所に、
まっすぐ指を置かれたような感覚があった。
陛下は、たぶん分かっていない。
自分が何を言ったのかも。
何を動かしたのかも。
だからこそ、厄介だった。
「……」
ハヤテは、目を伏せる。
一瞬だけ。
それから、開く。
表情は変わらない。
いつも通り。
崩れていない。
崩す必要はない。
それが、自分の役割だから。
「……面白い」
小さく、呟いた。
声には、ほんの少しだけ笑いが混ざっていた。
足を進める。
同じ歩幅で。
同じ速度で。
何も変わっていないように。
****
「……呼んだ?」
コウタが、顔を上げる。
書類の山の向こうから、視線だけを動かした。
「呼んでない」
即答だった。
ヒナタは、扉のところで少しだけ止まる。
「……じゃあいい」
そう言って、そのまま部屋に入ってくる。
戻る気はないらしい。
コウタは、止めなかった。
止めたところで入ってくる。
それはもう、分かっている。
代わりに、持っていたペンを置いた。
「どうした」
ヒナタは、近くの椅子に座る。
許可を取る気はない。
いつものことだった。
「……暇」
雑な答え。
コウタは、数秒黙った。
机の上には、まだ片づいていない書類がある。
確認しなければならない予定もある。
暇、という言葉とは一番遠い場所にいるはずなのに、
ヒナタは本気でそう言っている顔だった。
「仕事は」
「しらない」
コウタは、軽く息を吐いた。
この夢の中でも、ヒナタはヒナタだった。
立場が変わっても。
衣装が変わっても。
呼ばれ方が変わっても。
やることは変わらない。
「……で」
コウタは、話を戻す。
「何か考えてるな」
ヒナタが、少しだけ目を細めた。
「なんで分かる」
「分かる」
いつもの答え。
ヒナタは、少しだけ不満そうにする。
けれど、否定はしなかった。
否定しないということは、
だいたい当たっている。
コウタは、黙って待つ。
急かさない。
ヒナタが言葉を探している時は、
下手に手を出すと、余計に雑になる。
「……」
ヒナタは、少しだけ考えた。
考えたというより、
胸の奥に残っているものを、そのまま拾おうとしているようだった。
広間。
庭。
黒髪。
リトルスノー。
ちゃんとしている距離。
触れていない距離。
触れた時の、近さ。
「……会いに行く」
短く言った。
コウタの動きが、止まる。
ほんの一瞬。
「誰に」
答えは分かっている。
それでも、聞く。
ヒナタは、即答した。
「リトルスノー」
名前が、前より自然に出た。
コウタは、ゆっくりと顔を上げる。
「……そうか」
静かな声だった。
驚いてはいない。
むしろ、そうなるだろうと思っていた顔だった。
「止めないぞ」
ヒナタが、少しだけ止まる。
「……なんで」
「面白いから」
即答。
ヒナタは、少しだけ目を細めた。
「……なんかムカつく」
コウタは、笑わない。
けれど、完全に楽しんでいる。
こういう時のコウタは、だいたい余計なことを考えている。
それも分かっている。
でも、ヒナタは立ち上がった。
止められても行く。
止められなくても行く。
なら、どちらでも同じだった。
「……行ってくる」
「はいはい」
コウタは、軽く返す。
ヒナタは、そのまま扉へ向かう。
歩き方に迷いはない。
理由は分からないままなのに、
行き先だけは決まっている。
「……」
扉が閉まる。
部屋に、また静けさが戻った。
コウタは、しばらく閉じた扉を見ていた。
それから、机の上の書類へ視線を落とす。
けれど、ペンはまだ取らない。
「……ひとつ、前に出た」
小さく呟く。
声には、少しだけ笑いが混ざっていた。
予定通り、というほど単純ではない。
けれど、予想から大きく外れてもいない。
ヒナタは、たぶんまだ分かっていない。
自分が何を選び始めているのかも。
何の距離を変えようとしているのかも。
それでも、足はもう動いている。
コウタは、静かに笑った。
面倒なことになる。
きっと。
だから、面白い。
****
風が、通る。
さっきと同じ庭。
同じ光。
同じ場所。
けれど、昨日とまったく同じではなかった。
「……」
リトルスノーは、一人で立っている。
昨日も、ここにいた。
同じように、風の中で。
同じように、誰もいない場所で。
けれど、今は違う。
何が違うのかは、分かっている。
手に残った感覚。
呼吸が浅くなった一瞬。
正しい距離では届かなかったもの。
それが、まだ消えていない。
「……」
足音が聞こえた。
近づいてくる。
止まらない。
誰かを探すような足音ではない。
もう見つけている人の足音だった。
振り返る前に、分かる。
「……偶然」
ヒナタの声。
同じ温度。
同じ短さ。
昨日と同じように、何の前置きもなくそこに来る。
リトルスノーは、ゆっくりと振り返った。
「……陛下」
呼び方は変わらない。
けれど、自分の声が、昨日より少しだけ遅れたことには気づいていた。
ヒナタは、そのまま近づいてくる。
止まらない。
近づきすぎる前に止まるのではなく、
必要な場所まで来てから、そこで止まる。
「……なんかさ」
いきなり話す。
前置きはない。
「昨日の、思い出してた」
リトルスノーの呼吸が、ほんの少しだけ止まる。
「……」
ヒナタは、その反応を見ている。
でも、責めるわけでもない。
探るわけでもない。
ただ、自分の中に残っていたものを、そのまま置こうとしている。
「ちゃんとしてるって言ったやつ」
リトルスノーは、何も言わなかった。
待つ。
ヒナタが言葉を探しているのが分かった。
雑に言い切れる時と、そうではない時がある。
今は、たぶん後者だった。
「……やっぱ違う」
短く言う。
リトルスノーの視線が、わずかに揺れる。
「……何が」
ヒナタは、まっすぐ見る。
逃げない。
「ちゃんとしてるのは、いいんだけど」
そこで一度、言葉が止まる。
風が通る。
葉の音が、少しだけ近くなる。
「……それだけだと、足りない」
リトルスノーの呼吸が、ほんの少し変わった。
その言葉は、乱暴ではなかった。
けれど、綺麗に包まれてもいなかった。
まっすぐだった。
だから、逃げる場所が少ない。
「……触れてる方がいい」
昨日より、はっきりした声だった。
庭の空気が、静かに止まる。
「……」
リトルスノーは、答えられない。
否定する言葉も、肯定する言葉も、どちらもすぐには出てこなかった。
正しい距離。
整えられた所作。
崩れない関係。
それらは、今も大切なもののはずだった。
でも、陛下の言葉は、
その外側からではなく、もっと近いところに触れてくる。
「……」
ヒナタが、一歩近づく。
距離が詰まる。
昨日より。
さらに。
「……試す?」
リトルスノーの指が、わずかに動く。
「……嫌なら、断ってもいい」
否定しない。
肯定もしない。
ただ、そこにいる。
ヒナタは、それを見て、手を伸ばした。
今度は、迷いがない。
リトルスノーの手を取る。
近い。
昨日より近い。
呼吸が分かる。
指先の温度が分かる。
触れる前から、もう距離が消えかけている。
「……」
ゆっくりと。
手の甲に触れる。
昨日と同じ行為。
でも、同じではない。
形をなぞっているのではない。
正しさを証明しているのでもない。
ただ、近い。
触れている。
「……」
離れない。
ほんの少しだけ、長く。
その短い時間が、呼吸の中に落ちる。
リトルスノーは、動けない。
拒めないのではない。
拒む理由を、うまく見つけられない。
「……ほら」
ヒナタが、顔を上げる。
距離が近いまま。
視線が合う。
「こっちの方がいい」
そう言って、笑う。
リトルスノーの視線が、明確に揺れる。
初めて、隠しきれないほどに。
「……」
言葉が出ない。
代わりに、小さく息を吸う。
ヒナタは、それを見る。
それで十分だった。
無理に答えを求めない。
ただ、置いていく。
「……また来る」
軽く言う。
けれど、その声には、さっきとは違う確信があった。
リトルスノーは、答えない。
でも、止めない。
ヒナタは、ゆっくりと手を離した。
離れたはずなのに、
触れていた場所だけが残る。
「……」
ヒナタは、背を向ける。
歩き出す。
昨日と同じように。
何もしていないみたいに。
けれど、残された空気はもう同じではなかった。
リトルスノーは、その場に立ったまま動けない。
風が通る。
さっきより少し冷たい。
それでも、手の感覚は消えない。
距離も。
温度も。
言葉も。
全部、残っている。
「……」
小さく、こぼれる。
「……ずるい」
今度は、はっきりと。
誰に向けた言葉かは、もう分かっていた。
****
違和感は、消えなかった。
時間を置いても。
場所を変えても。
いつも通りに歩いても。
「……」
ハヤテは、ゆっくりと廊下を進む。
歩幅は乱れていない。
急いでいるわけでもない。
迷っているわけでもない。
少なくとも、外からはそう見えるはずだった。
けれど、思考だけが少しだけ違っている。
同じ場所を、何度もなぞっている。
陛下の言葉。
――触れてない。
短い。
雑。
礼も順序もない。
けれど、正確だった。
「……」
ハヤテは、視線を落とす。
自分の手。
形は崩していない。
所作も間違っていない。
距離も、相手を乱さない範囲で保っていた。
それでいいはずだった。
それが、この場にふさわしい。
それなのに。
「……」
リトルスノーの呼吸が変わった瞬間を思い出す。
陛下に触れられた時。
近すぎるほど近い距離で、まっすぐ手を取られた時。
あれは、礼ではなかった。
整えられた形でもない。
けれど、確かに届いていた。
「……厄介だな」
小さく呟く。
誰に向けた言葉かは、分かっていた。
陛下に対してか。
状況に対してか。
それとも、少し揺れている自分に対してか。
どれでもあって、どれでもない。
問題は、ひとつ。
どう動くか。
「……」
足を止める。
庭の入り口だった。
木々の影が、石畳に細く落ちている。
広間より静かで、廊下よりも息がしやすい。
少しだけ、視線を上げる。
リトルスノーは、そこにいた。
昨日と同じように。
けれど、まったく同じではない。
立ち方は崩れていない。
表情も、いつものように静かだった。
それでも、どこかに残っている。
さっき変わったものが。
「……」
ハヤテは、歩き出す。
足音に、リトルスノーが振り返る。
ただし、ほんの少しだけ遅れた。
見逃すほどの変化ではない。
だからこそ、見逃さない。
「お一人で?」
穏やかに聞く。
いつも通りの声で。
リトルスノーは、頷いた。
けれど、その奥に、ほんの少しだけ迷いがある。
「……」
間。
風が通る。
葉の擦れる音だけが、二人のあいだに落ちた。
ハヤテは、一歩だけ近づく。
自然に。
違和感のない距離まで。
けれど、その一歩の意味は、昨日までと少し違っていた。
「先ほどは、失礼いたしました」
静かに言う。
リトルスノーが、わずかに首を振る。
それだけだった。
否定でも、肯定でもない。
ただ、受け止める動き。
「……少し、強引でしたね」
ハヤテは、正確に認める。
陛下が場を崩したことではない。
その後、自分が距離を戻そうとしたこと。
整えることで、何もなかったようにしようとしたこと。
リトルスノーは、少しだけ視線を落とした。
「……」
やはり、否定しない。
ハヤテは、それを見る。
確認する。
ずれている。
確実に。
けれど、崩す必要はない。
崩れたものをそのままにする必要もない。
「……」
ハヤテは、ゆっくりと手を伸ばした。
いつも通り。
同じ動き。
同じ順序。
同じ温度で。
リトルスノーの手を取る。
「……」
今度は、止めない。
そのまま、手の甲に触れる。
正確に。
美しく。
礼として、どこにも間違いはない。
触れて、離す。
距離を戻す。
完璧だった。
「……」
リトルスノーは、動かない。
ただ、そのまま立っている。
ハヤテは、反応を待った。
急かさない。
言葉を引き出そうともしない。
けれど、見ている。
何が残るのかを。
「……」
少しだけ、間。
それから、リトルスノーが小さく息を吐いた。
顔を上げる。
視線が合う。
「……綺麗です」
言葉は、自然に出たようだった。
嘘ではない。
迷いもない。
ハヤテは、わずかに頷く。
想定通りだった。
その言葉は、受け取れる。
けれど、その先が続かない。
「……」
リトルスノーが、ほんの一瞬だけ迷う。
その迷いが、沈黙になる。
そして。
「……でも」
空気が、止まった。
ほんの一瞬。
ハヤテは、動かない。
待つ。
リトルスノーは、視線を逸らさなかった。
「……遠いです」
はっきりと言った。
逃げなかった。
その瞬間、ハヤテの視線がわずかに揺れる。
初めて。
本当に、ほんのわずかに。
「……」
沈黙。
風。
葉。
遠くの音。
ハヤテは、ゆっくりと息を吐いた。
整える。
戻す。
けれど、今度は戻すだけでは足りない。
「……そうですか」
静かに受け取る。
否定しない。
逃げない。
リトルスノーが、わずかに息を詰める。
「では」
ハヤテは続けた。
声は穏やかだった。
けれど、さっきより少しだけ低い。
「近づけましょうか」
距離を、わずかに詰める。
同じ動き。
けれど、ほんの少しだけ近い。
リトルスノーの手を、もう一度取る。
触れる。
――違う。
ほんの少し変えただけなのに、
空気の流れが変わる。
距離を変えるだけで、意味が変わる。
ハヤテは、わずかに目を細めた。
「……面白いですね」
リトルスノーが、少しだけ目を細める。
「……何がですか」
ハヤテは、すぐには答えない。
そのまま視線を外す。
庭の奥へ。
誰もいない方向へ。
「……」
けれど、分かっている。
ここにはいないはずの影がある。
陛下の声。
陛下の距離。
陛下が残していった、乱れたままの正しさ。
それが、確かにそこにある。
ハヤテは、リトルスノーの手を離した。
ゆっくりと。
さっきよりも少しだけ、名残を残して。
「……失礼」
穏やかに言う。
けれど、もう昨日と同じではない。
リトルスノーも、それに気づいている。
ハヤテも、気づいている。
だからこそ、崩さない。
まだ。
ここから先は、
もう少し慎重に動く必要がある。
****
「……来たな」
コウタが、小さく呟いた。
窓の外。
庭の奥。
木々の影が落ちる場所に、ハヤテとリトルスノーがいる。
距離は近い。
昨日よりも。
さっきよりも。
けれど、まだ整っている。
崩れてはいない。
「……」
コウタは、窓辺に立ったまま、視線を外さない。
位置関係は、把握している。
ハヤテの立ち位置。
リトルスノーの向き。
二人のあいだに残っている空白。
全部。
見える。
「……何してんの」
隣で、ヒナタが言う。
特に隠れているつもりはない。
ただ、いつの間にかそこにいて、同じように外を見ている。
コウタは、視線を外さない。
「観察です」
即答。
ヒナタは、少しだけ眉を寄せる。
「趣味悪い」
「否定はしません」
「しないんだ」
「面白いので」
ヒナタは、数秒黙った。
庭の向こうで、ハヤテがリトルスノーの手を取っている。
動きは綺麗だった。
昨日よりも少しだけ近い。
でも、まだ綺麗すぎる。
「……」
ヒナタの目が、少しだけ細くなる。
コウタは、それを横目で見る。
何も言わない。
言わなくても、もう足は動く。
「……行く」
ヒナタが言った。
コウタが、わずかに口元を緩める。
「どうぞ」
止めない。
むしろ、歓迎している。
「……なんかムカつく」
「行かないんですか」
「行く」
ヒナタは、そのまま窓辺を離れた。
迷いはない。
理由は、まだ分かっていない。
それでも、向かう先だけは決まっている。
風が通る。
同じ庭。
同じ場所。
「……」
ハヤテとリトルスノーのあいだには、まださっきの空気が残っていた。
近づいた距離。
少しだけ変わった意味。
それでも、形は保たれている。
そこへ、足音が入る。
止まらない。
隠さない。
「……偶然」
ヒナタの声。
いつも通りだった。
ハヤテの視線が動く。
リトルスノーも、同時に振り返る。
「……陛下」
二人の声が、ほとんど重なった。
ヒナタは、頷く。
「うん」
それだけ。
距離を詰める。
迷いがない。
ハヤテとリトルスノーのあいだにあった空気へ、
まっすぐ入ってくる。
「……何してんの」
ヒナタが聞いた。
雑に。
ハヤテが、穏やかに答える。
「少し、話を」
声は整っている。
けれど、昨日とまったく同じではない。
ヒナタは、少しだけ目を細める。
「……さっきのやつ?」
直球。
ハヤテは、一瞬だけ止まった。
本当に、ほんの一瞬だけ。
それから。
「ええ」
肯定する。
隠さない。
リトルスノーは、動かない。
ただ、二人のあいだで静かに息をしている。
ヒナタは、頷いた。
それから、そのまま言う。
「もう一回やって」
空気が止まる。
完全に。
風の音だけが残った。
ハヤテの視線が、ヒナタに向く。
リトルスノーは、何も言わない。
「……」
数秒。
沈黙。
ヒナタは、待つ。
何かを試している顔ではない。
ただ、見たいから言った。
それだけの顔だった。
「……承知しました」
ハヤテが、ゆっくりと息を吐いてから答える。
逃げない。
受ける。
リトルスノーの手を取る。
同じ動き。
でも、今度は少しだけ近い。
意識している。
昨日よりも。
さっきよりも。
触れる。
距離。
温度。
間。
整えながら、少しだけ崩している。
「……」
ヒナタは、それを見る。
真正面から。
逃げない。
全部、見る。
ハヤテの指。
リトルスノーの呼吸。
触れて、離れるまでのほんの短い時間。
たしかに、さっきとは違う。
でも。
「……」
数秒。
それから、ヒナタがぽつりと言った。
「……さっきよりいい」
評価だった。
そのままの。
ハヤテの動きが、わずかに止まる。
リトルスノーの呼吸も、同時に揺れた。
「……」
ヒナタは、続ける。
「でも」
その一言で、空気が張る。
ハヤテの視線が変わる。
リトルスノーの指が、わずかに動く。
「……まだ遠い」
完全に言い切った。
礼儀も、順序も、遠回しな言い方もない。
ただ、見えたものをそのまま置く。
ハヤテの表情が、静かに変わる。
崩れはしない。
けれど、受け止めたことだけは分かった。
「……」
ヒナタは、構わない。
そのまま、リトルスノーを見る。
「貸して」
意味が通らない。
けれど、通る。
止められない。
リトルスノーが、ほんの一瞬だけ息を止める。
ハヤテは、何も言わなかった。
ヒナタが、手を取る。
リトルスノーの手を。
今度は、迷いがない。
距離が近い。
明らかに。
「……」
触れる。
同じ行為。
けれど、違う。
形をなぞっているのではない。
正しさを証明しているのでもない。
近い。
ただ、それだけで意味が変わる。
時間が、少し長い。
呼吸が、分かる。
リトルスノーの視線が揺れる。
隠しきれないほどに。
「……」
空気が、完全に変わった。
戻らない。
ヒナタが、顔を上げる。
そのまま言う。
「……これ」
短く。
「こっちの方がいい」
断言だった。
静かで、逃げ場がない。
「……」
沈黙。
風すら、遠い。
リトルスノーは、動けない。
ハヤテは、その変化を見る。
逃さない。
「……」
ヒナタは、何も気にしていないような顔で、ゆっくりと手を離した。
「じゃ」
軽く言う。
「また」
それだけ。
背を向ける。
去る。
いつも通りに。
何も壊していないみたいに。
「……」
残ったのは、完全に変わった空気だった。
距離。
温度。
意味。
どれも、さっきまでとは違う。
リトルスノーは、動けないまま立っている。
ハヤテは、ゆっくりと息を吐いた。
整える。
けれど、戻らない。
数秒。
それから、静かに言う。
「……陛下は」
少しだけ間。
「厄介ですね」
リトルスノーの肩が、わずかに揺れた。
ほんの一瞬。
それから、小さく答える。
同意だった。
でも、その声は、
さっきまでと同じではなかった。
****
夜は、静かだった。
昼の熱も、庭のざわめきも、もう残っていない。
窓の外には、月の光が薄く落ちている。
整えられた庭も、昼間とは違って見えた。
「……」
ハヤテは、窓の前に立っていた。
灯りは落とされている。
部屋の中は暗い。
けれど、考えるにはそのくらいでよかった。
整理は、終わっている。
状況も。
変化も。
リトルスノーの反応も。
そして、陛下が何を変えたのかも。
「……」
あれは、無作法だった。
順序もない。
礼もない。
踏み込み方も、正しくない。
けれど、届いた。
届いてしまった。
それを見た。
リトルスノーの呼吸が変わった瞬間を。
視線が揺れた瞬間を。
自分の所作では動かなかったものが、確かに動いた瞬間を。
「……必要なことも」
小さく、呟く。
迷いはなかった。
ただ、方法を選んでいるだけだった。
崩れるわけにはいかない。
自分が崩れれば、形ごと壊れる。
この場にある秩序も、リトルスノーが立っている場所も。
けれど、遠いままでも届かない。
なら。
「……」
視線を上げる。
決める。
それだけでよかった。
次の日。
庭には、朝の光が静かに落ちていた。
昨日と同じ場所。
同じように整えられた道。
同じように風を受ける木々。
「……」
リトルスノーは、そこに来ていた。
呼ばれたから来た。
そう言えば、それだけのことだった。
けれど、本当にそれだけなのかは、
自分でもよく分からない。
理由は分からないまま、足はここへ向いていた。
「……」
風が通る。
少しだけ冷たい。
そのとき、足音がした。
今度は、ゆっくり。
まっすぐに近づいてくる。
振り返る前に、分かる。
ハヤテだった。
いつも通りの歩幅。
いつも通りの姿勢。
いつも通りの表情。
けれど、少しだけ違う。
「お待たせしました」
穏やかに言う。
距離を詰める。
自然に。
でも、昨日より迷いがない。
「……」
リトルスノーは、動かない。
そのまま受け止める。
「……少し、お時間を」
ハヤテが言う。
短く。
はっきりと。
リトルスノーは、頷いた。
それだけ。
間が落ちる。
風。
葉の音。
遠くのかすかなざわめき。
ハヤテは、一歩近づいた。
距離が詰まる。
昨日よりも。
さらに。
「……」
そのまま、手を取る。
今度は、確認しない。
迷わない。
それでも乱暴ではない。
形は保たれている。
けれど、昨日と同じではない。
近い。
明確に。
呼吸が分かる距離だった。
「……昨日のことですが」
ハヤテが、静かに言う。
リトルスノーが、わずかに反応する。
あの庭。
あの言葉。
触れている方がいい、と言った陛下の声。
思い出さないようにしていたものが、
その一言で戻ってくる。
「確かに、遠かったのでしょう」
ハヤテは、はっきり認めた。
言い訳をしない。
否定もしない。
その声は穏やかなのに、逃げ場がなかった。
「……」
リトルスノーは、何も言えない。
遠かった。
そう思ってしまった。
それを、ハヤテ本人が認めている。
「……ですが」
ハヤテの声が、ほんの少しだけ落ちる。
視線は逸らさない。
「私が崩れるわけにはいきません」
静かな言葉だった。
けれど、その奥には、はっきりとした芯があった。
崩れないこと。
整えていること。
距離を守ること。
それは冷たさではなかった。
役割だった。
そして、選んできた形だった。
「……」
リトルスノーの呼吸が、ほんの一瞬止まる。
ハヤテは、そのまま動く。
さらに距離を詰める。
手の甲へ、触れる。
同じ行為。
でも、違う。
時間が長い。
距離が近い。
礼としての形を保ったまま、
昨日より確かに踏み込んでいる。
「……」
離さない。
ほんの一瞬。
それから、ゆっくりと離す。
視線は、近いまま。
逸らさない。
「……近づけます」
ハヤテが、静かに言う。
短く。
はっきりと。
リトルスノーの視線が揺れた。
明確に。
初めて隠しきれないほどに。
「形も」
ハヤテは続ける。
「距離も」
少しだけ間。
「意味も」
リトルスノーの呼吸が浅くなる。
言葉が、ひとつずつ近づいてくる。
正しさを捨てるのではない。
遠いままにもしない。
ハヤテは、そう言っている。
「あなたが望むなら」
逃げ道を残す。
でも、逃がしはしない。
「……」
沈黙。
風が通る。
リトルスノーは答えない。
答えられない。
けれど、視線は逸らさなかった。
そのとき。
足音がした。
軽い。
迷いがない。
「……偶然」
ヒナタだった。
いつも通りの声で、いつも通りに現れる。
空気が止まる。
完全に。
ヒナタは、二人を見る。
距離。
手の位置。
視線。
全部を見ている。
それから、少しだけ目を細めた。
「……近くなってる」
ぽつりと言う。
正確に。
ハヤテの視線が、ヒナタに向く。
リトルスノーも、同時に。
「……」
ヒナタは、そのまま二人を見た。
昨日より近い。
でも、崩れていない。
綺麗なまま、少しだけ踏み込んでいる。
それが、ちゃんと分かった。
「いいじゃん」
軽く言う。
それだけ。
でも、その一言で、空気がまた変わった。
違う方向に。
「……」
正しいだけでは足りない。
近いだけでも、終わらない。
その間に、三人が立っている。
均等ではない。
けれど、確かに。
もう同じ形ではなかった。
****
静かだった。
風の音だけが残っている。
さっきまで確かに動いていた空気が、
今は、どこにも行けずにその場に留まっている。
「……」
三人の距離は近い。
けれど、均等ではない。
わずかに歪んでいる。
正面に、ハヤテがいる。
さっきより、確かに近い。
形は崩れていない。
それでも、遠いままではいないと示すように、そこに立っている。
横に、ヒナタがいる。
何も変わらない顔で。
何かを勝ち取ったようでもなく、
壊したことに気づいているようでもなく。
ただ、そこにいる。
「……」
リトルスノーは、動けないまま立っていた。
息を吸う。
浅い。
胸の奥が、少しだけ苦しい。
視線が揺れる。
ハヤテを見る。
正しい。
そう思う。
このまま進めば、崩れない。
礼も、距離も、意味も、
きっと美しく整えられる。
ハヤテなら、それができる。
遠かったものを、遠いままにしないで。
近づきすぎたものを、乱れたままにもせず。
形を保ったまま、近づける。
「……」
足が動く。
わずかに、ハヤテの方へ。
正しい方へ。
これでいい。
そう思おうとした。
けれど、止まる。
胸の奥が、冷える。
ほんの少し。
でも、はっきりと。
「……」
視線が逸れる。
無意識に、ヒナタへ。
ヒナタは何もしていない。
呼んでもいない。
手を伸ばしてもいない。
選べとも言わない。
ただ、そこにいる。
それだけなのに。
引かれる。
あの言葉が残っている。
触れてる方がいい。
雑で。
まっすぐで。
逃げ場がなくて。
そして、確かに近かった。
ハヤテの声も残っている。
近づけます。
形も。
距離も。
意味も。
どちらも間違っていない。
だからこそ、苦しい。
「……」
リトルスノーは、長く息を吐いた。
もう一度、足を動かす。
今度は慎重に。
ハヤテの方へ。
距離が縮まる。
これが正しい。
そう思う。
そう思える。
それなのに。
胸の奥が、また軋む。
違う、と。
声にならない何かが、内側で止める。
「……」
足が止まる。
それ以上、進めない。
正しい方へ進もうとすると、
胸の奥だけが冷えていく。
呼吸が乱れる。
視線が戻る。
ヒナタへ。
迷いはない。
ヒナタの方にあるのではなく、
自分の中の迷いが、そこでだけ静かになる。
「……」
深く息を吸う。
足が動く。
今度は止まらない。
まっすぐ、ヒナタの方へ。
距離が詰まる。
近い。
正しいかどうかを考える前に、
もう手が届く。
リトルスノーは、手を伸ばした。
ヒナタの手を取る。
触れる。
その瞬間、距離が消える。
呼吸が重なる。
胸の奥の冷たさが、ほどける。
「……それでも」
一度だけ止まる。
言葉を選ぶ。
逃げないために。
誰かに決められたからではなく、
流されたからでもなく、
自分で選ぶために。
「……こっちがいい」
はっきりと言った。
空気が止まる。
ハヤテの表情が、わずかに揺れる。
本当に、一瞬だけ。
けれど、確かに。
ヒナタは、数秒黙っていた。
取られた手を見る。
それから、リトルスノーを見る。
驚いたようでも、勝ち誇ったようでもない。
ただ、受け取る。
「……うん」
それだけ言う。
リトルスノーの手に、わずかに力が入る。
離さないためではない。
自分が選んだことを、確かめるために。
「……」
ハヤテが息を吐いた。
静かに。
整えるように。
それから、わずかに笑う。
「……それも、悪くない」
その声は、負けを認める声ではなかった。
ただ、形が変わったことを受け入れる声だった。
ヒナタは、少しだけ首を傾ける。
意味は、たぶん分かっていない。
遠くで、コウタが小さく笑う。
予想通り、というように。
風が通る。
正しい距離より、
触れている方を選んだ。
そのことだけが、
静かな庭に、確かに残っていた。
****
「……終わったな」
コウタが、窓の外を見たまま言った。
誰に向けたわけでもない。
けれど、全部を見ていた声だった。
庭には、もう三人の姿はない。
風だけが残っている。
さっきまで、確かにそこにあった距離も。
選ばれた瞬間の沈黙も。
ハヤテが静かに息を吐いた気配も。
全部、見えなくなっている。
それでも、消えたわけではない。
形を変えて、残っている。
「……なにが」
ヒナタが、隣で言う。
いつの間に戻ってきたのか。
自分でも、たぶん分かっていない。
庭にいたはずなのに。
リトルスノーの手を取られていたはずなのに。
気づけば、コウタの隣にいる。
そういうことが起きても、
夢の中では、あまり不思議に思わない。
ヒナタは、窓の外を見る。
もう誰もいない庭。
なのに、さっきの感覚だけは残っている。
手。
距離。
リトルスノーの声。
――こっちがいい。
「……」
コウタは、少しだけ視線を動かした。
ヒナタを見る。
何も分かっていない顔だった。
けれど、何も感じていない顔ではない。
そこが面倒だった。
「いろいろ」
コウタは、雑にまとめる。
ヒナタは、少しだけ眉を寄せた。
「いろいろって何」
「いろいろは、いろいろだ」
「雑」
「お前ほどじゃない」
即答されて、ヒナタは黙る。
少しだけ、間。
窓の外の風が、庭の木を揺らしている。
ヒナタは、それを見ながら、ぽつりと言った。
「……なんかさ」
コウタは、待つ。
こういう時、急かしても意味がない。
ヒナタの言葉は、いつも足りない。
でも、足りないまま芯を食う。
「あいつ……ちゃんとしてるよね」
また、それだった。
コウタが、わずかに笑う。
否定はしない。
ハヤテは、確かにちゃんとしていた。
崩れずに、距離を変えようとした。
形も、意味も、手放さずに近づこうとした。
それは、簡単なことではない。
「……でも」
ヒナタが続ける。
少しだけ考えてから。
「……やっぱ遠い」
結局、そこに戻る。
コウタは、今度ははっきり笑った。
ヒナタは、少しだけ不満そうに見る。
「なに」
「いや」
コウタは、軽く肩をすくめる。
それから、少しだけ真面目に言った。
「お前は、近すぎる」
ヒナタが、止まる。
「……なにが」
「全部」
さらっと言う。
ヒナタは、数秒黙った。
たぶん、反論を探している。
でも、見つからない。
ハヤテが遠いなら、
自分は近すぎる。
そう言われると、何となく嫌な感じがした。
けれど、違うとも言い切れない。
「……めんどいな」
いつもの言葉。
コウタは、頷く。
「ええ」
即答。
「かなり」
ヒナタは、ため息をついた。
長く。
それから、考えるのを投げる。
いつも通り。
けれど、投げた先にも、まだ残っているものがある。
庭。
リトルスノー。
選ばれた手。
ハヤテの静かな声。
それらが、まだ消えない。
「……」
少しだけ、間。
ヒナタが、ぽつりと言った。
「……また行く」
コウタが、止まる。
ほんの一瞬。
それから、ゆっくりと頷く。
「ええ」
止めない。
もう。
止めるところは、過ぎている。
「行くなら、ちゃんと自分で見ろよ」
コウタが言う。
ヒナタは、少しだけ目を細める。
「何を」
「お前が何を変えたのか」
「……分かんない」
「だろうな」
「うるさい」
コウタは、笑う。
けれど、茶化しきらない。
ヒナタは、立ち上がった。
そのまま、何も考えずに歩き出す。
迷いはない。
分かっていないのに、
向かう先だけは決まっている。
「……」
扉の前で、止まる。
少しだけ振り返る。
「……コウタ」
呼ぶ。
珍しく。
コウタが、視線を上げた。
ヒナタは、少しだけ考える。
言葉を探す。
でも、うまく形にならない。
だから、いつものように短くする。
「……なんか、ありがとう」
雑だった。
でも、ちゃんとした言葉だった。
コウタが、わずかに目を細める。
それから、小さく笑う。
「どういたしまして」
ヒナタは、頷く。
それだけで十分だった。
そのまま、部屋を出ていく。
足音が、遠ざかる。
「……」
静かになる。
さっきまでとは、違う静けさだった。
コウタは、もう一度、窓の外を見る。
庭には、誰もいない。
白い光も、風も、木の影も、
何も変わっていないように見える。
でも。
確実に、何かが変わっている。
「……」
コウタは、小さく呟いた。
「面倒だな」
それでも、口元は少しだけ笑っていた。
****
低い音が、鳴っている。
アンプの唸り。
ドラムの軽いチェック音。
乾いたスティックの跳ね返り。
さっきまで聞こえていた風の音は、もうない。
葉の擦れる音も。
遠くの舞踏会のざわめきも。
整えられた庭の静けさも。
代わりに、見慣れた音が戻ってきている。
「……」
ヒナタは、ゆっくり目を開けた。
見慣れた天井。
スタジオの、少しだけ汚れた白。
「……」
数秒、何も考えられなかった。
夢の輪郭だけが、まだ頭の奥に残っている。
広間。
玉座。
黒髪の姫。
金髪の王子。
白いテーブル。
風の通る庭。
どれも遠い。
遠いのに、手の感覚だけが妙にはっきりしている。
「……」
視線を落とす。
ギターケースが、足元にそのまま転がっている。
思い出す。
今日のスケジュールは、終わらせたはずだ。
リハーサル。
確認。
打ち合わせ。
身体は、ソファーに深く沈んでいる。
いつの間にか毛布がかかっていた。
「お、起きた」
コウタの声。
ベースを肩にかけたまま、こちらを見ている。
「ぐっすり寝てたな」
ヒナタは、数秒、何も言わない。
ただ、天井を見たまま、
夢と現実の境目を探す。
「……」
それから、ゆっくりと視線を動かした。
ドラムの方。
ハヤテがいる。
軽く叩きながら、こちらの様子を見ていた。
いつものスタジオ。
いつものハヤテ。
いつもの距離。
「……」
ヒナタは、そのまま見続ける。
じっと。
無言で。
「……?」
ハヤテが視線に気づく。
「ん? どした?」
スティックを止め、立ち上がって近づいてくる。
自然に。
そのまま、顔を覗き込む。
距離が、近い。
ヒナタの目が、少しだけ細くなる。
ぼんやりしたまま。
でも、どこか納得したように。
「……戻ってきた」
ぽつりと、言う。
「は?」
ハヤテが、眉を寄せる。
コウタが、ベースを持ったまま止まる。
その次の瞬間。
ヒナタが、手を伸ばした。
ハヤテの手を取る。
迷いなく。
夢の続きみたいに。
そのまま、軽く口づけを落とす。
「……」
時間が止まった。
完全に。
アンプの低い唸りだけが、かすかに残っている。
「……はあ?」
ハヤテが、固まったまま言う。
「寝ぼけてんのか?」
ヒナタは、少しだけ首を傾ける。
「……王子じゃないな」
曖昧に返す。
夢か。
現実か。
そのどちらでもいいような気がした。
手を離す。
何事もなかったように。
コウタが、後ろで吹き出した。
「何言ってんだ」
ヒナタは、少しだけ考える。
正しい距離。
触れている方。
全部が、少しずつ遠ざかっていく。
「……夢でよかった」
それだけ言って、背もたれにまた沈む。
毛布が、肩の上で少し動いた。
「……」
ハヤテは、まだ固まっている。
自分の手を見たまま。
「……意味わかんねえ」
小さく呟く。
コウタが、肩をすくめる。
「顔洗って来い」
ヒナタは、目を閉じる。
低い音が、まだ鳴っている。
ドラムの乾いた響き。
ベースの余韻。
遠くなっていく夢の残り。
正しい距離より、
触れている方がいい。
その言葉だけが、
目を閉じた奥に、静かに残っていた。
了
2026.6.29 改稿




