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白い音

作者: 山吹 ことり
掲載日:2026/04/30

 ヒナタと初めて手をつないだのは、

 駅までの帰り道だった。


 夜の空気は少し冷えていて、

 私は理由もなく手を伸ばした。


 ヒナタは一瞬だけ驚いて、


 それから

 少し笑った。


 たぶん、

 そのときからだったと思う。



 大学のキャンパスは、春の匂いがしていた。


 まだ少し寒いのに、

 芝生には人が座っていて、

 サークルの勧誘の声があちこちから聞こえる。


 新しく入った学生たちは、

 みんな少し浮かれているように見えた。


 たった一年前のことなのに、

 それがどこか懐かしく感じる。


 手に持ったチラシを、

 通り過ぎる新入生に配っていく。


「よかったらどうぞ」


 何人かは受け取って、

 何人かは軽く会釈して通り過ぎる。


 そんな中で、

 一人の学生が目に入った。


 黒いギターケースを背負っている。


 差し出したチラシを、

 その学生は普通に受け取った。


「……ありがとう、ございます」


 一瞬だけ、目が合う。


 そのまま立ち止まらず、

 静かに通り過ぎていった。


 丁寧に礼を言われたのが新鮮で、

 なぜか少しだけ気になった。



 次に彼を見つけたのは、

 そのことを忘れかけていた頃だった。


 木々が芽吹き、

 青葉が光に揺れている。


 昼休みのキャンパスは、

 どこか、のんびりしていた。


 工学部の建物の裏へ回る途中、

 ギターの音を聞いた。


 大きく鳴らすわけでもなく、

 ただ、指で弦をなぞるような音。


 木陰のベンチに、

 一人、座っている。


 何度かその音を聞いて、

 あのときの学生だと気づいた。


 昼休みになると、

 いつも、ここにいる。


 黒いギターケースを背負って。


 隣に座って、音を聴く。

 こちらを気にする様子はない。


 数日、それを繰り返した。

 彼は、変わらず音の中にいた。


 何も変わらない。

 

 ギターの音が自然に途切れるのを待ち、

 思い切って声をかけた。


「それ、曲ですか?」


 彼は少し驚いた顔をして、

 少し考えてから言った。


「……いや、まだ途中」


 それが、最初だった。


 ヒナタは、音の話をよくした。


 コードとか、

 リズムとか。


 分からない言葉ばかりだった。


「ここ、ちょっとだけコード変えるとさ」


 弦を軽く弾きながら、

 ヒナタは言う。


 音の話になると、

 少しだけ目が明るくなる。


「それって、どう違うの?」


「……説明、難しいな」


 少し考えてから、

 確かめるようにコードを鳴らす。


 ヒナタが、こちらを見る。


 そのまま「分からない」と言った。


 ヒナタは小さく笑って、

 新しいコードを鳴らす。


 隣で、ただ音を聴く。


 会話は多くない。

 でも、その時間は心地よかった。



 気づけば、

 ベンチに通うようになっていた。


 ヒナタは、なんでもない顔で

 ギターを鳴らす。


 その横に座って、

 ただ音を聴いていた。


 ヒナタはときどき急に黙る。

 考えごとをしているみたいに、遠くを見る。


 でも、それは

 気まずい沈黙ではなかった。


 隣で音を聴いて、

 分からないところだけ聞く。


 それだけだった。


 一緒にいる時間は

 不思議と疲れなかった。


 たぶん、

 気が合うというより、


 ペースが合っていたんだと思う。



 ある日、

 ベンチに座っていると、

 ヒナタがふと時計を見た。


「……もうこんな時間か」


 ギターをケースにしまう。


 私は立ち上がって、

 なんとなく一緒に歩き出した。


 建物を出て、

 キャンパスの門を抜ける。


 少し歩いたところで、

 ヒナタが言った。


「……同じ駅?」


「うん」


 ヒナタは小さく頷く。


 それから、

 並んで歩いた。


 ヒナタは途中から、

 また音の話を始めた。


 コードとか、

 リズムとか。


 音の話になると、

 ヒナタの目が少しだけ明るくなる。


 その顔を見るのが好きだった。


 駅の灯りが見えてくる頃、

 ヒナタがふと立ち止まる。


「……ごめん」


 少しだけ困った顔をする。


「つまんない話してるよな」


 私は首を振った。


「ううん。

 楽しそうだから、いい」


 目が合う。


 ヒナタは少し目を細めた。


 その瞬間、 

 私は理由もなく手を伸ばした。


 ヒナタは一瞬だけ驚いた顔をして、

 その手をゆっくりと受けた。


 そのまま、何も言わずに歩いた。


 たぶん、

 そのときからだったと思う。


 この人が、好きだ。



 それから、

 一緒に過ごす時間が少しずつ増えた。


 昼休みのベンチ。

 帰り道。

 ときどき、学食。


 ヒナタは相変わらず

 音の話をしていた。


 いつものようにギターを鳴らす。


 音を確かめるみたいに、

 何度か同じコードを弾く。


 そのまま、ぽつりと言った。


 「軽音の人にさ」


 弦を軽く鳴らしながら言う。


「バンドやらないかって

 言われてる」


「やるの?」


 ヒナタは少し考えてから、

 小さく笑った。


「……まだ分かんない」


 でもその頃から、

 ヒナタはときどき遠くを見るようになった。


 ギターを鳴らしながら、

 何かを探しているみたいだった。


 しばらくして、

 ヒナタはバンドを組んだ。


 軽音の人たちと、

 何度かライブに出たらしい。


 一度だけ見に行った。


 ステージの上のヒナタは、

 ベンチでギターを鳴らしていたときとは

 少し違って見えた。


 長くは続かなかった。


 メンバーの話を、

 ほとんどしなくなったから、

 なんとなく分かった。


 一人で曲を作るようになった。


 ベンチでギターを鳴らしていても、

 私の方を見ない。


 遠くを見たまま、

 同じフレーズを何度も繰り返す。


 私は、黙ったままその音を聴いていた。


 ある日、ヒナタが言った。


「今度、

 一人でライブ出る」


「見に行く」


 ヒナタは一瞬だけこちらを見て、

 小さく笑った。



 会場は、

 思っていたより小さかった。


 大学の学生向けイベントらしく、

 客席もどこか気楽な空気だった。


 少し後ろの席に座った。


 ヒナタの名前が呼ばれる。


 ステージに出てきたヒナタは、

 いつもより少しだけ静かに見えた。


 ギターを構えて、

 自分でカウントを取る。


 ギターが鳴る。


 いつものベンチの音より、

 少しだけ強く響いた。


 歌い出す。


 ドラムはいない。

 ベースもいない。


 一瞬だけ、

 ヒナタの手が止まる。


 小さな空白。


 それから、

 何もなかったみたいに弦を鳴らした。

 

 曲の後半。


 突然、

 横から音が重なった。


 ドラム。


 会場がざわめく。


 金髪のドラマーが、

 当然みたいな顔で叩いていた。


 ヒナタは一度振り向き、


 それから

 笑った。


 音が、

 急に広がっていく。


 その音を聞きながら、思った。


 ――ああ。


 行ってしまった。

 向こう側に。


 曲が終わる。


 拍手が起こる。


 ヒナタはステージを降りて、

 金髪のドラマーと何か話している。


 少しだけ迷ってから、

 席を立った。


 声をかけようと思った。


 足が止まる。


 少し離れた通路に、

 赤茶色の髪をした学生が立っていた。


 背中には楽器のケース。

 本を手に持ったまま、

 二人の方を見ている。


 ヒナタが何か言うと、

 金髪のドラマーが笑う。


 赤茶色の髪の学生も、

 ゆっくり近づいていく。


 気づくと、

 三人が並んでいた。


 三人で、何か話す。

 小さく笑う。


 そのまま、

 当然みたいに歩き出した。


 背中が、遠くなっていく。


 声をかけることができなかった。



 連絡が減る。

 約束もない。


 たまに会っても、

 ヒナタはどこか上の空だった。


 音の話をしているわけでもないのに、

 音のことを考えている顔だった。

 

 音で、いっぱいになっている。


 ずっと見てきたから、

 それがよく分かった。


 ――行ってしまった。


 きっと、

 もう戻らない。


「ヒナタは、

 私より音の方が大事なんだね」


 答えはわかっている。

 それでも、聞いた。


 ヒナタは一度だけ目を大きく開き、

 それから視線を逸らした。


 少しの、間。


「……そうかもしれない」


 それで、終わった。

 

 建物の裏のベンチに行ってみた。


 ヒナタはいなかった。


 ギターの音も

 もう、聞こえなかった。



 何年かして、

 駅前のライブハウスの前を通りかかった。


 壁に貼られたポスターに、

 ふと目が止まる。


 出演者の中に、

 見覚えのある顔があった。


 ヒナタ。


 少しだけ、足が止まる。


 まだ、音を続けているんだ。


 入口の前で、

 しばらく立っていた。


 当日券あります、

 と書かれた紙が見える。


 少し迷って、

 扉を開けた。


 受付で当日券を買い、

 客席の後ろへ回る。


 壁際に立つ。


 ステージは、

 思っていたより小さかった。


 ライトが落ちる。


 ドラムの前に、

 金髪。


 ベースを抱えた、

 赤茶色の髪。


 そして、

 真ん中にヒナタ。


 ――三人。


 ヒナタは、もう一人じゃない。


 そう思ったところで、

 SEが止まった。


 懐かしい声。


 音の話になると、

 少しだけ明るくなる目。


 温かかった、手。


「次、Little Snow」


 ワン。


 ツー。


 イントロが始まった瞬間、

 客席の空気が変わるのがわかった。


 音数は少ない。

 派手さもない。


 それなのに、

 誰も喋らなくなる。


 歌い出す。


 ヒナタの声が

 まっすぐに届く。


 でも、目は伏せない。



  静かに 静かに

  降り積もる リトルスノー


  この白さを

  君が ほどいてくれたら



 今まで聴いた音と

 どこか違う。


 ドラムが、一拍抜く。

 ベースの低音が、余韻を支える。


 その沈黙に、

 思わず息を飲んだ。


 胸が、ぎゅっと苦しくなる。


 そして、

 気づいてしまう。


 今のヒナタには、


 こんなにも

 想っている人がいるのだと。



  名前を呼ばずに

  君を 呼んでいた



 思わず、指先を握る。


 音の、余韻が残る。


 一拍。

 二拍。


 拍手が起きる。


 ヒナタは、マイクに近づく。


「……ありがとう」


 それだけ言って、深く頭を下げた。


 変わっていない。


 相変わらず、うまく言えないまま、

 音にまっすぐ。


 降り積もるような、

 白い音。


 私じゃ、

 きっと

 ほどけない。


 どうか、

 あの白い音が

 ヒナタを幸せにしますように。


 そう願って、静かに拍手を送った。


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