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出禁

作者: 山吹 ことり
掲載日:2026/07/19


 ライブが終わったあとの物販は、いつも混んでいる。


 狭いロビーに客が並び、スタッフが声を張り上げ、テーブルの上ではCDやタオルが慌ただしく動いていく。


「ありがとうございました」


 差し出されたCDにサインを入れ、コウタが返す。


 受け取ろうとした女の指が、コウタの手の甲に重なった。


「あ、ごめんなさい」


 女は小さく笑った。


 コウタは何も言わず、次の客へ顔を向けた。


 その程度のことは、珍しくない。


 物を受け渡すときに指が触れることもある。

 写真撮影で距離が近くなることもある。

 人が多ければ、肩や腕がぶつかることもある。


 いちいち気にしていたら、きりがなかった。


 女は以前からライブに来ていた。


 名前は知らない。


 前方の、いつも同じあたりにいる。


 派手に声を上げるわけでもなく、演奏中はじっとコウタを見ていた。


 物販では必ずCDを一枚買い、短い言葉を交わして帰る。


「今日もよかったです」


「ありがとうございます」


「ベース、すごく聞こえました」


「そうですか」


 それだけだった。


 少なくとも、コウタはそう思っていた。


 二度目は、写真を撮ったときだった。


 三人の間に女が立ち、スタッフがスマートフォンを構える。


「もう少し中央へお願いします」


 声をかけられた女は、ヒナタ側ではなく、コウタの方へ身体を寄せた。


 腕と腕が触れる。


 コウタがわずかに位置をずらすと、女も同じだけ動いた。


 一枚目が終わる。


「もう一枚いいですか?」


 女が頼み、再びカメラが向けられる。


 今度は、女の手がコウタの背中に触れた。


 腰より少し上。


 服の上から、手のひらを添えるように。


 撮影のためだろう。


 そう考えて、コウタは動かなかった。


「ありがとうございました」


 スタッフが言う。


 女は手を離し、何事もなかったように笑った。


 物販が終わり、三人は裏口から外へ出た。


 夜の空気が、汗をかいた身体に冷たい。


 ハヤテが大きく伸びをする。


「腹減った」


「お前、始まる前も食ってただろ」


 ヒナタが呆れた声を出す。


「あれは本番前の飯。これは本番後の飯」


 コウタは二人の少し後ろを歩きながら、バッグの肩紐を直した。


「なあ」


 ハヤテが振り返る。


「さっきの人、知り合い?」


「誰」


「写真のとき、隣にいた人」


「知らない」


「そっか」


 ハヤテはそれ以上言わなかった。


 ヒナタだけが、ちらりとコウタの方を見る。


「何」


「別に」


 ヒナタは前を向いた。



 次のライブにも、女は来た。


 前回と同じ位置で、コウタだけを見ていた。


 演奏中、目が合った気がした。


 コウタが視線を外しても、女はずっとこちらを向いていた。


 終演後の物販で、女は小さな紙袋を差し出した。


「これ、差し入れです」


「ありがとうございます」


 受け取ろうとした瞬間、女の手がコウタの手首をつかんだ。


 強くはない。


 逃げられないほどでもない。


 ただ、渡すための動作にしては長かった。


 親指が、手首の内側を一度撫でる。


 コウタは女の顔を見る。


 女は笑っていた。


「疲れてます?」


「いえ」


「顔色、あまりよくないですよ」


 女の指はまだ離れない。


 コウタが紙袋を引くと、ようやく手がほどけた。


「ちゃんと食べてくださいね」


 次の客が後ろで待っている。


 コウタは返事をせず、紙袋をテーブルの下へ置いた。


 しばらくして、隣にいたヒナタが低い声で言った。


「今、何された」


「何も」


「つかまれてただろ」


「渡すときに触れただけ」


「そう?」


 コウタは答えなかった。


 ヒナタは女が帰っていった方向を見ていた。


 その横で、ハヤテもサインを書く手を止めていた。


 次に女が現れたのは、ライブ会場ではなかった。


 スタジオ近くのコンビニ。


 コウタが飲み物を取ってレジへ向かうと、雑誌売り場の前に女が立っていた。


 最初は分からなかった。


 帽子を深くかぶり、マスクをしていたからだ。


 すれ違う瞬間、女が顔を上げる。


「あ」


 驚いたような声だった。


「偶然ですね」


 コウタは足を止めた。


「ライブ、次も行きます」


「そうですか」


「今日、スタジオですか?」


 コウタは答えなかった。


 女は慌てたように手を振る。


「違います。ついてきたんじゃなくて、本当に偶然です」


 まだ何も聞いていない。


 女は笑いながら、コウタの腕を軽く叩いた。


 一度。


 それから、指先で袖をつまんだ。


「この服、よく着てますよね」


 コウタが腕を引く。


 女の指が離れた。


「触らないでもらえますか」


 一瞬だけ、女の笑顔が止まった。


 だが、すぐに困ったような顔になる。


「ごめんなさい。そんなつもりじゃなくて」


 コウタはそのままレジへ向かった。


 店を出て、振り返る。


 女はまだ雑誌売り場の前に立っていた。


 こちらを見てはいない。


 スマートフォンを操作している。


 偶然だ。


 スタジオの近くには飲食店も多い。

 ライブに来る客が、この辺りにいてもおかしくはない。


 そう考えながら、コウタは歩き出した。


 スタジオへ着くと、ヒナタとハヤテはすでに来ていた。


「遅い」


 ヒナタが言う。


「時間前だ」


「俺より遅いって意味」


「基準がお前なら問題ないな」


 コウタはバッグを置き、買ってきた飲み物を机に置いた。


 ハヤテが笑いながら振り返る。


「下に、あの人いなかった?」


 コウタの手が止まった。


「誰」


「最近よく来る女の人。コンビニに入ってくの見えたから」


「いた」


「話した?」


「少し」


 ヒナタが椅子から身体を起こす。


「何でここにいるんだよ」


「偶然だろ」


「あの人に触られた?」


 コウタは飲み物の蓋を開けた。


「何で」


「窓から見えた」


 沈黙が落ちた。


「袖、つかまれてただろ」


「すぐ離れた」


「そういう話じゃない」


 ヒナタの声が低くなる。


 ハヤテも笑っていなかった。


「前の物販でも触られてたよな」


「人が多かったから」


「その前の写真も」


 コウタは二人を見る。


 ハヤテは少し言いにくそうに続けた。


「毎回、コウタにだけ触ってる」


 手。

 腕。

 背中。

 手首。


 思い返そうとすると、いくつも浮かんだ。


 そのどれもが、人混みや撮影や受け渡しの中で起きていた。


 偶然だと説明できる程度の触れ方だった。


 けれど。


 毎回だった。


「次からスタッフに言おう」


 ハヤテが言う。


「まだ、そこまでじゃない」


 コウタは答えた。


「そこまでって、どこまで」


 ヒナタが聞く。


 コウタは答えられなかった。


 嫌だと言えばよかった。


 触らないでほしいと、もっと早く言えばよかった。


 けれど、それを口にすれば、自分が気にしていたことを認めるような気がした。


 触れられるたびに身体が固まったことも。


 次はどこに触れられるのかと考えていたことも。


 女の姿を探すようになっていたことも。


「大げさにしたくないだけ」


 コウタが言うと、ヒナタはしばらく黙っていた。


「お前が黙ってるから、向こうは嫌がってないと思ってる」


「分かってる」


「分かってない」


「ヒナタ」


 ハヤテが止める。


 その日の練習が終わる頃には、外は暗くなっていた。


 ハヤテが窓のブラインドを閉めようとして、手を止めた。


「……なあ」


 二人が顔を上げる。


「下にいる」


 窓の端から、道路が見える。


 街灯の下に、女が立っていた。


 スマートフォンを持ち、スタジオの入口を見ている。


「偶然?」


 ヒナタが言った。


 コウタは答えなかった。


 女が顔を上げる。


 距離があるのに、目が合った気がした。


 女は笑った。


 それから、スマートフォンを持っていない方の手を上げた。


 いつものように。


 親しい相手を迎えるように。


 ゆっくりと、コウタへ手を振った。


 ハヤテがブラインドを閉めた。


 薄い板が重なり、女の姿が見えなくなる。


「裏から出よう」


 ヒナタが言った。


「裏口、あるのか」


「搬入口がある」


 ハヤテがスタッフへ連絡を入れる。


 コウタは机の上に置いた飲み物を見た。


 蓋は開けたままだった。


 ほとんど減っていない。


「先に帰ってもいいぞ」


 コウタが言う。


 ヒナタが顔を上げる。


「何で」


「俺を待ってるなら、二人は関係ない」


「どういう意味」


「三人で出たら、余計に目立つ」


「一人で出すと思う?」


 ヒナタの声には、苛立ちが混じっていた。


 コウタは黙った。


 しばらくして、スタッフが部屋に入ってきた。


「確認しました。正面に女性が一人います」


「やっぱり、あの人ですか」


 ハヤテが聞く。


「物販に何度か来ている方ですね」


 スタッフは少し困ったような顔をした。


「声をかけたんですが、友達を待っているだけだと」


「誰の友達だよ」


 ヒナタが言う。


「名前は言いませんでした。ただ、待つのは自由でしょう、と」


 スタッフがコウタを見る。


「何か約束していますか?」


「してません」


「連絡先を教えたことは?」


「ないです」


「個人的に話したことは?」


「ライブの物販だけです」


 答えながら、コウタは妙な気分になった。


 何もしていないことを、ひとつずつ証明しているようだった。


「今日は搬入口から出ましょう。車をそちらに回します」


「そこまでしなくていいです」


 コウタが言うと、スタッフの表情が曇った。


「念のためです」


「ただ立ってるだけだし」


「スタジオの場所は公開していません」


 それを言われて、コウタは口を閉じた。


 女がここを知っている理由はない。


 ライブ会場からついてきたのか。


 以前から知っていたのか。


 誰かの投稿に映り込んだ看板や、窓の景色から特定したのか。


 考え始めると、どれもあり得るように思えた。


 機材を片づけ、三人はスタッフと一緒に搬入口へ向かった。


 廊下の照明は半分ほど落とされている。


 ヒナタが先を歩き、コウタは真ん中、ハヤテが後ろについた。


 搬入口の扉を開けると、冷たい夜風が入ってきた。


 車はすぐ近くに停まっていた。


「乗ってください」


 スタッフが周囲を確認する。


 ヒナタが助手席へ向かい、ハヤテが後部座席の扉を開けた。


 そのとき。


「コウタさん」


 声がした。


 正面ではない。


 建物の脇。


 暗い路地から、女が出てきた。


 コウタの足が止まる。


 女は小走りで近づいてきた。


「よかった。会えた」


 ヒナタがすぐに前へ出る。


「来るな」


 女は足を止めた。


 驚いたようにヒナタを見る。


「私、コウタさんに用があるんです」


「約束してないだろ」


「ヒナタさんには関係ないです」


 声は穏やかだった。


 怒鳴りもしない。


 ただ、本当に邪魔をされていると思っている顔だった。


「コウタさん」


 女がヒナタの肩越しに呼ぶ。


「今日、話せなかったから」


 コウタは答えなかった。


「少しだけでいいです」


「帰ってください」


 スタッフが間に入る。


「ここは関係者以外立ち入り禁止です」


「立ち入ってません。道路にいます」


「メンバーを待つ行為も控えてください」


「待ってません」


 女はすぐに否定した。


「偶然、通っただけです」


 誰も何も言わなかった。


 女はコウタを見る。


「本当に偶然です」


 その言葉を、コウタは今日すでに聞いていた。


 コンビニでも。


 スタジオの前でも。


 そして今、搬入口でも。


「コウタさん、これ」


 女はバッグから小さな封筒を出した。


「手紙です」


「スタッフが預かります」


「本人に渡したいです」


「こちらで預かります」


「前は受け取ってくれました」


 女の声が少しだけ強くなる。


「差し入れも、手紙も、ずっと受け取ってくれました」


 コウタは女の手を見た。


 白い封筒の端が、指の力でわずかに曲がっている。


「それは物販だったからです」


 コウタが言う。


 女の表情が明るくなった。


 ようやく自分に話しかけてもらえた、という顔だった。


「はい。だから今日も」


「今日は違います」


 コウタが続ける。


「ここで待たれると困ります」


 女の笑顔が止まった。


「待ってないです」


「じゃあ、帰ってください」


「どうしてですか」


「困るからです」


「何がですか」


 女は一歩近づいた。


 スタッフが腕を広げる。


「それ以上近づかないでください」


 女は立ち止まり、またコウタを見た。


「私、何かしました?」


 コウタは答えなかった。


 手首の内側に、触れられた感覚が戻ってくる。


 背中に置かれた手。


 袖をつまんだ指。


 物販で重なった手のひら。


「触られるのが嫌です」


 女の眉がわずかに動いた。


「いつですか」


「何度も」


「そんなつもりじゃないです」


「つもりの話はしてません」


 女は黙った。


 コウタ自身も、自分の声が思ったより冷たく出たことに驚いた。


「今後は、接触しないでください」


 女の目に涙が浮かんだ。


「でも、コウタさん、何も言わなかったじゃないですか」


「今、言ってます」


「前は嫌がってなかった」


「言わなかっただけです」


「でも」


 女の視線が、コウタからヒナタへ移る。


 次にハヤテ。


 そしてスタッフ。


「誰かに言わされてるんですか?」


 ヒナタが息を吐く。


「は?」


「コウタさんは、こんな言い方しません」


「コウタの何を知ってんだよ」


「ずっと見てきました」


 女ははっきりと言った。


「ヒナタさんより前から」


 その場の空気が止まった。


 ヒナタの顔から表情が消える。


 ハヤテが一歩前へ出た。


「それ、どういう意味ですか」


「そのままです」


「俺たちがバンドを組む前から知ってるってこと?」


 女は答えなかった。


 代わりに、コウタへ封筒を差し出す。


「これを読めば分かります」


「受け取りません」


「大事なことが書いてあります」


「いりません」


「読んでください」


「いりません」


 女の手が下がった。


 数秒間、誰も動かなかった。


 やがて女は封筒をバッグへ戻した。


「今日は帰ります」


 そう言って、一歩下がる。


 スタッフが警戒したまま見ている。


 女は深く頭を下げた。


「騒がせてすみませんでした」


 あまりにも素直な態度だった。


 一瞬、コウタは言いすぎたのではないかと思った。


 女は顔を上げる。


 目元には涙が残っていた。


「でも、コウタさん」


 穏やかな声だった。


「誤解だけは、解いておきたいです」


「何の」


「私、触ってません」


 コウタは女を見る。


「今日も、コンビニでも、ライブでも」


「触ったでしょう」


 ハヤテが言う。


 女は首を振った。


「袖に、ごみがついていたから取っただけです」


「手首は」


「差し入れを渡しただけです」


「背中は」


「写真の位置を直しただけです」


 女は一つずつ、迷わず答えた。


 すべてに理由が用意されていた。


 すべてが偶然で。


 すべてが親切で。


 すべてが誤解だった。


「だから」


 女はコウタだけを見る。


「嫌がられるようなことはしてません」


 そのまま女は路地の向こうへ歩いていった。


 角を曲がり、姿が見えなくなる。


 誰もすぐには動かなかった。


「乗ろう」


 ハヤテが言った。


 三人は車に乗り込んだ。


 走り出してからも、コウタは後ろを振り返らなかった。


 ヒナタも何も言わない。


 ハヤテはスマートフォンを握ったまま、窓の外を見ていた。


 十分ほど走ったところで、スタッフのスマートフォンが鳴った。


「何だろう」


 赤信号で停車し、スタッフが画面を見る。


 顔つきが変わった。


「どうした」


 ヒナタが聞く。


「公式アカウントに、メッセージが来ています」


「誰から」


「さっきの女性です」


 スタッフが画面を読み上げる。


「本日は、メンバーの皆さんにご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。今後は、コウタさんの負担にならないよう、今までどおり静かに見守ります」


 コウタは顔を上げた。


「今までどおり?」


 ハヤテが呟く。


 メッセージには画像が一枚添付されていた。


 スタッフが拡大する。


 スタジオの正面玄関。


 ブラインドを閉める前の窓。


 室内にいる三人が、遠くから撮影されている。


 コウタは机の前に立っていた。


 ヒナタは椅子に座っている。


 ハヤテは窓際にいた。


 写真の端には、撮影時刻が表示されていた。


 女が正面でスタッフと話していたはずの時間だった。


「これ、誰が撮ったんだ」


 ヒナタが言った。


 誰も答えられなかった。


 メッセージは、もう一通届いた。


「裏口から帰れてよかったです」


 コウタの背中に、冷たいものが走った。


 搬入口へ移動することを知っていたのは、あの部屋にいた人間だけだった。



 翌日、運営は女へ正式な警告を送った。


 入り待ち、出待ちをしないこと。


 公開されていない場所へ来ないこと。


 メンバーへ触れないこと。


 スタッフの指示に従わない場合、今後の入場を断ること。


 文面は事務的だった。


 感情を挟まず、確認された行為だけが並んでいた。


 女からの返事は、すぐに届いた。


「承知しました。誤解を招く行動をしてしまい、申し訳ありませんでした」


 それだけだった。


 言い訳もなかった。


 反論もなかった。


 スタッフは、しばらく様子を見ると言った。


 ヒナタは納得していなかった。


「来るだろ」


 スタジオのソファに座ったまま、低い声で言う。


「警告したんだから、次は対応できる」


 ハヤテが答えた。


「そういう意味じゃない」


 ヒナタはコウタを見る。


「来ると思うか」


「分からない」


「分かるだろ」


「決めつけても仕方ない」


「お前、まだ偶然だと思ってんの」


 コウタは机の上の資料を揃えた。


 端が少しずれていた。


 一度直し、それでも気になって、もう一度触る。


「思ってない」


 それだけ答えた。


 次のライブまで、女は現れなかった。


 公式アカウントにも連絡はない。


 スタジオの周辺でも見かけない。


 物販で渡された手紙も、差し入れも届かなかった。


 だから、当日は少しだけ安心していた。


 会場には、顔写真つきの注意事項が共有されていた。


 受付。


 物販。


 警備。


 舞台袖。


 関係するスタッフ全員が、女の顔を確認していた。


「今日は大丈夫そうですね」


 リハーサルのあと、スタッフが言った。


「開場してからも見かけていません」


 コウタは頷いた。


 ヒナタは客席を見たまま何も言わなかった。


 ハヤテが小さく息を吐く。


「さすがに来ないか」


 客席は暗かった。


 開演前のざわめき。


 照明の調整。


 スタッフが行き交う足音。


 どれもいつもと同じだった。


 ライブが始まる。


 一曲目。


 二曲目。


 三曲目。


 コウタは演奏に集中していた。


 客席を見る必要はない。


 けれど、途中で妙な視線を感じた。


 前方ではない。


 後方。


 壁際。


 帽子を深くかぶった人物が、一人で立っている。


 顔はよく見えない。


 髪も短い。


 服装も、女が普段着ていたものとは違う。


 それでも、コウタは目を逸らした。


 見間違いかもしれない。


 今度こそ、ただの思い込みかもしれない。


 演奏が終わる。


 ステージを降りる直前、もう一度だけ客席を見る。


 壁際にいた人物は、いなくなっていた。


 終演後の物販は、予定どおり行われた。


 スタッフが列を管理し、客を一人ずつ進める。


 コウタの前に立つ者は、全員確認されていた。


 女はいない。


 ハヤテが隣で小さく笑う。


「大丈夫そうだな」


 コウタは返事をしなかった。


 安心していいのか、自分でも分からなかった。


 列が残り少なくなった頃だった。


 黒いマスクをした女が、テーブルの前に立った。


 短い髪。


 眼鏡。


 帽子。


 顔のほとんどが隠れている。


「お願いします」


 低い声だった。


 差し出されたCDを受け取る。


 コウタがペンを持つ。


「お名前は」


 女は答えなかった。


 代わりに、少しだけ顔を近づけた。


「分からないんですね」


 その声で、コウタの手が止まった。


 女はマスクの下で笑っていた。


 スタッフがすぐに反応する。


「申し訳ありません。こちらへ」


「何でですか」


 女はとぼけた声を出した。


「本人確認をさせてください」


「ただのファンです」


「こちらへお願いします」


 スタッフが腕を伸ばす。


 女は一歩後ろへ下がった。


 その動きで、コウタとの間にテーブルがなくなる。


「コウタさん」


 女が呼ぶ。


「私、ちゃんと守ってました」


 ヒナタが立ち上がる。


「近づくな」


「触ってません」


「今までの話だろ」


「違います」


 女は首を振った。


「今日は、一度も触ってません」


 スタッフが女の進路を塞ぐ。


「退場してください」


「でも、入場できました」


「規則違反です」


「チケットを買いました」


「警告を受けています」


「顔が違うのに、私だって決めつけるんですか」


 女は眼鏡を外した。


 帽子も取る。


 短い髪は、かつらだった。


 その下から、見慣れた長い髪が落ちた。


 周囲の客がざわつく。


 女は気にしなかった。


 まっすぐコウタを見る。


「会えたから、もういいです」


 そう言って、スタッフに従うように身体の向きを変えた。


 誰もが、一瞬だけ気を緩めた。


 女が急に振り返った。


 テーブルの脇を抜ける。


 コウタが避けるより早く、女の両腕が身体へ回った。


 強く抱きつかれる。


 胸元に顔を押しつけられる。


 腰に回った手が、服の上を探るように動く。


「やっと触れた」


 耳元で、女が囁いた。


 コウタの身体が動かなかった。


 押し返すことも。


 声を出すことも。


 何もできなかった。


 女の手が背中を撫でる。


 肩甲骨から腰まで。


 何度も。


「痩せた」


 女が言う。


「やっぱり、痩せてる」


 ヒナタが女の腕をつかんだ。


「離せ」


 女は離れない。


「触らないで」


「離せ」


「ヒナタさんには関係ない」


 ハヤテとスタッフが加わり、ようやく女の身体が引き剥がされた。


 女の指が、最後までコウタの服をつかんでいた。


 布が引っ張られる。


 爪が滑る。


 首元に冷たい指先が触れた。


 女は床へ座り込んだ。


 押さえられながらも、コウタを見上げている。


「嫌じゃなかったですよね」


 コウタは答えなかった。


「本当に嫌なら、避けるはずだから」


 女は笑っていた。


「押し返さなかった」


 ヒナタが前へ出ようとする。


 ハヤテが肩をつかんで止める。


「今はやめろ」


「でも」


「コウタを見ろ」


 その言葉で、ヒナタが振り返った。


 コウタは立ったままだった。


 顔に表情はない。


 女に触れられた服の部分を、片手で押さえていた。


「コウタ」


 ハヤテが呼ぶ。


 返事はない。


「座れる?」


「大丈夫」


 すぐに答えた。


 声はいつもどおりだった。


 だからこそ、誰も大丈夫だとは思わなかった。


 女はスタッフに連れられていく。


 出口の前で、一度だけ振り返る。


「嫌なら、本人が言えばよかったんです」


 コウタは女を見た。


 喉が動く。


 けれど、声が出ない。


 ヒナタが代わりに言った。


「何回言わせるんだよ」


 女の顔から笑みが消えた。


「あなたじゃない」


「同じだ」


「違います」


「違わない」


 女は首を振り続けた。


「コウタさんは、私にそんなこと言わない」


 扉が閉まる。


 会場に、気まずい静けさが残った。


 スタッフが物販の中止を告げる。


 客が少しずつ外へ出ていく。


 何人かは、コウタを心配そうに見ていた。


 何人かは、スマートフォンを持っていた。


 コウタはその視線に気づき、背筋を伸ばした。


「控室に戻ろう」


 ハヤテが言う。


「まだ片づけが」


「いいから」


「俺は大丈夫だ」


「分かった」


 ハヤテは静かに答えた。


「大丈夫じゃなくても、戻ろう」


 コウタは何も言わなかった。


 控室へ入ると、ヒナタが鍵をかけた。


 ハヤテがカーテンを閉める。


 コウタは椅子に座り、首元へ手を伸ばした。


 女の指が触れた場所だった。


 一度。


 二度。


 服の上からこする。


「やめた方がいい」


 ハヤテが言う。


「何が」


「赤くなってる」


 コウタの手が止まった。


 ヒナタは部屋の隅に立っていた。


 壁を見たまま、拳を握っている。


「最初から気づいてた」


 突然、コウタが言った。


 二人が顔を上げる。


「何に」


「触られてること」


 声は静かだった。


「最初は偶然だと思った。でも、途中からは分かってた」


「何で言わなかった」


 ヒナタが聞く。


「言ったら、大げさになると思った」


「なっていいだろ」


「俺が避ければ済むと思った」


「済んでない」


「分かってる」


 コウタは両手を膝の上に置いた。


 指先がわずかに震えていた。


「触られたくらいで、って思ってた」


 誰も返事をしなかった。


「男だし。押し返せたし。嫌ならもっと早く言えた」


「それ、あの女と同じこと言ってる」


 ハヤテが言った。


 コウタが顔を上げる。


「押し返さなかったから嫌じゃないって、さっき言われただろ」


「……ああ」


「違うよ」


 ハヤテはコウタの正面へ座った。


「動けなかっただけだ」


 コウタは何も言わなかった。


 ヒナタが壁から離れる。


「次からは、俺らが気づいた時点で止める」


「次はない」


「そういう意味じゃない」


 ヒナタはコウタの近くまで来た。


「お前が何も言わなくても、止める」


「勝手に決めるな」


「勝手に決める」


 コウタがヒナタを見る。


「俺らも見てた」


 ヒナタの声が少しだけ低くなる。


「気づいてたのに、お前が平気そうだからって放ってた」


「放ってたわけじゃ」


「同じだろ」


 ヒナタはそこで言葉を切った。


「もう、見なかったことにしない」


 コウタは俯いた。


 しばらくして、スタッフが扉をノックした。


「警察へ連絡しました」


 部屋の空気が変わる。


「それと」


 スタッフは言いにくそうに続けた。


「今後、あの女性はすべての関連公演で出入り禁止にします」


 コウタは小さく頷いた。


 それで終わると思いたかった。


 会場へ入れなくなれば。


 近づけなくなれば。


 もう、触れられることもない。


 その夜。


 自宅へ戻り、コウタは着ていた服を脱いだ。


 洗濯機へ入れる。


 一度では足りない気がして、洗剤を多めに入れた。


 シャワーを浴びる。


 首。


 肩。


 背中。


 腰。


 触れられた場所を、順番に洗う。


 強くこすりすぎて、皮膚が赤くなった。


 湯を止める。


 静かになった浴室で、スマートフォンの通知音が鳴った。


 脱衣所に置いたままの画面が光る。


 知らないアカウントからだった。


 本文は一行だけ。


「今日の香水、いつもと違いましたね」


 コウタは画面を見たまま動かなかった。


 あの距離でなければ、分からないことだった。





 出入り禁止になってから、女はライブ会場の中には現れなくなった。


 少なくとも、スタッフが確認できる範囲では。


 受付にも来ない。


 物販の列にも並ばない。


 別の名前でチケットを取ろうとした形跡もなかった。


 公式アカウントへのメッセージも止まった。


 あの夜に届いた一通を最後に、知らないアカウントからの連絡もない。


 運営は、ひとまず対応が効いたのだろうと判断した。


 コウタも、そう思うことにした。


 ライブ当日は、これまでより早く会場へ入る。


 正面入口は使わない。


 移動するときは、必ずスタッフを一人つける。


 終演後も、客が帰るまで外には出ない。


 できる対策は増えた。


 その分、安心できるはずだった。


「今日はいなかったって」


 リハーサルを終えたハヤテが、スタッフから聞いた報告を伝えた。


「周辺も確認したけど、それらしい人はいないってさ」


「そりゃそうだろ」


 ヒナタがギターの弦を拭きながら言う。


「出禁になってまで来る方がおかしい」


 コウタは譜面を確認していた。


 話を聞いていないように見えたのか、ハヤテがもう一度呼ぶ。


「コウタ」


「聞いてる」


「大丈夫?」


「何が」


「いや」


 ハヤテはそれ以上聞かなかった。


 最近、二人とも同じような聞き方をする。


 大丈夫か。


 何か来ていないか。


 外で見かけていないか。


 コウタが大丈夫だと答えると、二人はそれ以上踏み込まない。


 けれど、信じてもいない。


 ライブは何事もなく終わった。


 物販にも女は現れなかった。


 撤収を終えた頃には、終電が近づいていた。


 車で送るとスタッフに言われたが、コウタは断った。


「駅まで近いので」


「念のため、送ります」


「毎回そこまでしなくて大丈夫です」


「でも」


「今日は周辺にもいなかったんでしょう」


 スタッフは迷っていたが、最終的には三人で駅まで歩くことになった。


 人通りの多い道を選ぶ。


 ヒナタが右側。


 ハヤテが左側。


 コウタはその間を歩いた。


「これ、逆に目立たない?」


 ハヤテが笑う。


「護送されてるみたい」


「お前が余計なこと言うからだろ」


「俺?」


「静かに歩け」


 ヒナタが言う。


 そのやり取りに、コウタも少しだけ笑った。


 久しぶりに、普通に帰っている気がした。


 駅に着く。


 改札前は、ライブ帰りの客と仕事帰りの人間で混み合っていた。


 三人は少し距離を空けて歩く。


 バンドのメンバーだと気づいた者が、何人か振り返った。


 声をかけてくる者はいない。


 改札を通り、階段を下りる。


 ホームには、電車を待つ列ができていた。


「俺、こっち」


 ハヤテが反対方向のホームを指す。


「じゃあな」


「着いたら連絡して」


 コウタが言うと、ハヤテが少し驚いた顔をした。


「コウタもな」


「何で俺が」


「言った本人がしろよ」


 ハヤテは手を振り、階段へ向かった。


 ヒナタとコウタは同じ電車に乗った。


 車内は混んでいた。


 座席はすべて埋まり、扉の近くにも人が立っている。


 二人は吊り革につかまり、少し離れて立った。


 電車が動き出す。


 コウタの背中に、誰かの身体が触れた。


 混んでいるから仕方がない。


 少し前へ詰める。


 背中に触れていたものも、同じだけ前へ動いた。


 コウタは振り返らなかった。


 次の揺れで、腰の辺りに手が当たった。


 すぐに離れる。


 鞄かもしれない。


 乗客が体勢を崩しただけかもしれない。


 今度は、肘の内側を指が滑った。


 手首まで。


 ゆっくりと。


 コウタは勢いよく振り返った。


 そこには、中年の男が立っていた。


 片手で吊り革を持ち、もう片方の手でスマートフォンを見ている。


 コウタとは目が合わない。


 その横には、制服姿の学生。


 買い物袋を持った女性。


 マスクをした会社員。


 あの女はいなかった。


「どうした」


 ヒナタが人の間から聞く。


「何でもない」


 コウタは扉の近くへ移動した。


 背中を壁につける。


 電車が駅に着き、何人かが降りる。


 人の流れに押され、コウタも一度ホームへ出た。


 降りる客を避け、再び乗ろうとした瞬間だった。


 すれ違った誰かの手が、コウタの胸元に触れた。


 服をつかむ。


 ほんの一秒。


 指先が鎖骨の下をなぞり、そのまま離れた。


 コウタは腕をつかもうとした。


 だが、人の流れに遮られる。


 黒い袖。


 長い髪。


 後ろ姿が、階段へ向かっていく。


「待て」


 声が出た。


 女は振り返らない。


 コウタが追おうとすると、扉が閉まり始めた。


「コウタ!」


 車内からヒナタが叫ぶ。


 コウタは電車へ戻らなかった。


 扉が閉まる。


 ヒナタを乗せた電車が、そのまま動き出した。


 コウタは階段へ走った。


 人を避けながら上る。


 長い髪が、曲がり角の先へ消える。


 改札へ向かう。


 ホームから上がってきた客が重なり、視界を塞いだ。


「すみません」


 人を押しのける。


 改札を出たところで、女の姿を見失った。


 コウタは立ち止まった。


 周囲を見渡す。


 黒い服を着た人間はいくらでもいる。


 長い髪の女性も、一人ではない。


 スマートフォンが鳴った。


 ヒナタからの着信だった。


「どこにいる」


 出ると同時に聞かれる。


「駅」


「何で降りた」


「いた」


「誰が」


 コウタは答えようとした。


 だが、確信がなかった。


 顔は見ていない。


 声も聞いていない。


 触れられた。


 それだけだった。


「たぶん、あの女がいた」


「たぶん?」


「追ったけど見失った」


「今から戻る。動くな」


「戻らなくていい」


「動くな」


 通話が切れた。


 コウタは柱の近くへ移動した。


 人目のある場所。


 駅員が見える場所。


 そう考えて選んだはずなのに、どこからでも見られている気がした。


 十分ほどして、ヒナタが階段を駆け上がってきた。


「何された」


「触られた」


「どこ」


「いいだろ、別に」


「よくない」


 コウタは胸元を押さえた。


 服には何も残っていない。


「顔は見た?」


「見てない」


「本当にあの女か」


「分からない」


 答えると、ヒナタは黙った。


「でも」


 コウタは続ける。


「あの触り方だった」


 自分で口にしてから、息が詰まった。


 あの触り方。


 女に何度も触られたから、分かる。


 身体が覚えている。


 ヒナタが周囲を見る。


「警察に言う」


「顔も見てない」


「駅のカメラがある」


「俺の勘違いだったらどうする」


「勘違いでも確認する」


「触っただけだ」


 ヒナタがコウタを見る。


「まだそれ言うのか」


 コウタは視線を逸らした。


 駅員へ事情を話し、警察にも連絡した。


 防犯カメラは、すぐには確認できなかった。


 どの車両に乗っていたのか。


 どの扉から降りたのか。


 触れた人物がどの方向へ進んだのか。


 質問に答えるたび、自信がなくなっていった。


 長い髪だった。


 黒い服だった。


 女だと思った。


 けれど、顔は見ていない。


「以前から被害に遭っている女性と同一人物だと思いますか」


 警察官に聞かれる。


「分かりません」


「何か特徴は」


「触り方が」


 そこまで言って、コウタは口を閉じた。


「触り方?」


「いえ」


 説明できなかった。


 同じように触られた。


 そう言ったところで、証拠にはならない。


 結局、その日は被害の相談として記録を残すだけになった。


 ヒナタとタクシーに乗る。


 後部座席に並んで座っても、会話はなかった。


 しばらくして、ヒナタが言った。


「家、一人?」


「ああ」


「今日、泊まる」


「来なくていい」


「聞いてない」


「お前がいる方が落ち着かない」


「じゃあハヤテ呼ぶ」


「もっと落ち着かない」


 ヒナタが少しだけ笑った。


 コウタも笑おうとしたが、うまくできなかった。


 自宅の最寄りでタクシーを降りる。


 周囲を確認してから、二人でマンションへ向かった。


 入口の前に人はいない。


 郵便受けにも異常はない。


 エレベーターへ乗り、部屋のある階へ上がる。


 扉が開いた瞬間、コウタは足を止めた。


 部屋の前に、紙袋が置かれていた。


 小さな白い袋。


 口は、赤いリボンで結ばれている。


 ヒナタがコウタを後ろへ下げた。


「触るな」


 袋の前に、カードが立てかけてあった。


 印刷された雪の結晶。

 手書きの文字が添えられている。


「電車で驚かせてごめんなさい」


 コウタは自分の胸元を見た。


 服の上に、何かが触れているような感覚が残っていた。


 カードには、もう一行書かれていた。


「でも、すぐに私だと分かってくれて嬉しかったです」





 ヒナタが、カードをスマートフォンで撮った。


 袋には触れない。


 廊下にも、周囲にも、女の姿はなかった。


 静まり返った共用廊下に、エレベーターの作動音だけが響いている。


「警察呼ぶ」


 ヒナタが言った。


「さっき話したばかりだろ」


「だからだよ」


「中身も分からない」


「分からないから呼ぶんだろ」


 ヒナタはすでに電話をかけていた。


 コウタは自宅の扉を見た。


 鍵はかかっている。


 傷もない。


 ドアノブにも、何か触られた形跡はない。


 それでも、自分の部屋ではないように見えた。


 この扉の向こうに入れば安全だと思っていた。


 女は、その扉の前まで来ていた。


 ここに立って。


 袋を置いて。


 カードを書いた。


 もしかしたら、コウタが帰るまで待っていたのかもしれない。


「中、入らない方がいいって」


 電話を終えたヒナタが言う。


「警察が来るまで、このまま待つ」


「近所迷惑だろ」


「今それ気にする?」


「声落とせ」


 ヒナタが何か言い返しかけて、やめた。


 二人はエレベーターホールの近くで待った。


 コウタは何度も階段の方を見た。


 誰かが立っている気がする。


 物音がするたび、身体が反応した。


 十五分ほどして、警察官が二人来た。


 紙袋とカードを確認し、写真を撮る。


 手袋をつけて、袋の中身を取り出した。


 透明な袋に包まれたマフラー。


 黒に近い紺色。


 コウタが以前、ライブで身につけていたものによく似ている。


 その下に、小さな香水の瓶が入っていた。


「これは知っているものですか」


 警察官が聞く。


「いえ」


「送り主に心当たりは」


「あります」


 コウタが答えるより先に、ヒナタが言った。


「今日、電車で触ってきた女です」


「顔は確認されていないんですよね」


「でもカードに書いてるでしょう」


「ヒナタ」


 コウタが止める。


 警察官は表情を変えず、カードを透明な袋に入れた。


「以前からの件と合わせて記録します」


「記録だけですか」


 ヒナタが聞く。


「現時点では、本人がまだ近くにいるか確認します。建物の防犯カメラについても、管理会社へ問い合わせが必要です」


「家まで来てるんですよ」


「分かっています」


「分かってるように見えない」


「やめろ」


 コウタが言う。


 ヒナタは口を閉じた。


 警察官はコウタへ向き直った。


「この住所を、相手へ伝えたことはありますか」


「ありません」


「荷物の送り先として公開している住所は」


「事務所です」


「自宅が映る投稿や、周辺が分かる写真を公開したことは」


「俺はしてません」


「ほかの方が撮影した可能性は」


 コウタはすぐに答えられなかった。


 バンドの写真。


 移動中の写真。


 ファンによる目撃情報。


 ライブ後に立ち寄った店。


 誰かが何気なく載せた駅名。


 自宅が直接映っていなくても、辿れるものはいくらでもある。


「分かりません」


「しばらく一人での行動は避けてください。帰宅時間や移動経路も変えた方がいいでしょう」


 警察官の言葉を聞きながら、コウタは自宅の鍵を握っていた。


 帰る時間を変える。


 道を変える。


 一人で歩かない。


 ライブがあるたびに送迎をつける。


 女が来なくなるまで、いつまで続ければいいのか。


「今日は別の場所に泊まった方がいい」


 ヒナタが言う。


「必要ない」


「この部屋、知られてるんだぞ」


「中まで入られたわけじゃない」


「入られてからじゃ遅い」


「鍵がある」


「合鍵持ってないって、何で言い切れる」


 コウタがヒナタを見る。


 その言葉だけは、聞き流せなかった。


「持ってるわけないだろ」


「じゃあ、住所はどうやって知ったんだよ」


「知らない」


「スタジオも知ってた。裏口も知ってた。電車にもいた。家も知ってる」


「分かってる」


「分かってないだろ」


 警察官が二人の間に入るように声をかける。


「今夜は、安全を優先してください」


 結局、コウタは部屋へ入らなかった。


 必要なものだけを警察官立ち会いのもとで取り、ヒナタの家へ向かった。


 玄関を開ける前に、室内を確認する。


 窓。


 ベランダ。


 寝室。


 浴室。


 異常はなかった。


 それでも、クローゼットを開けたとき、コウタの心臓は強く鳴った。


 誰もいない。


 当たり前だった。


 荷物をまとめ、部屋を出る。


 扉を閉める直前、コウタは一度だけ室内を振り返った。


 電気の消えた部屋。


 整えた家具。


 いつもと同じ位置に置かれたもの。


 どこにも異常はない。


 だから余計に怖かった。


 自分が気づいていないだけで、何かが変わっているような気がした。


 ヒナタの家へ着いた頃には、日付が変わっていた。


 ハヤテも来ていた。


「遅い」


 玄関を開けるなり言う。


「何でお前がいるんだ」


「ヒナタから聞いた」


「帰れ」


「嫌だね」


 ハヤテはコウタの荷物を受け取った。


「警察、何て」


「記録するって」


「防犯カメラは?」


「明日確認」


「袋の中身は」


「マフラーと香水」


 ハヤテの表情が変わる。


「香水?」


「俺が使ってたものとは違う」


「そうじゃなくて」


 ハヤテは一度言葉を切った。


「あの女、香水のこと言ってたよな」


 コウタは答えなかった。


 今日の香水、いつもと違いましたね。


 あのメッセージを思い出す。


 袋に入っていた香水は、女がコウタにつけてほしいと思ったものなのか。


 それとも、女自身が使っているものなのか。


「捨ててくださいって言った」


 コウタが言う。


「警察に渡したんだろ」


「ああ」


「よかった」


 三人はリビングへ移動した。


 ヒナタが飲み物を出す。


 ハヤテはテーブルの向かいに座り、コウタを見ていた。


「何」


「その女、いつから来てた?」


「知らない」


「最初に覚えてるのは」


「半年くらい前」


「本当に?」


 コウタは少し考えた。


 いつも前方にいる女。


 物販で必ず同じ言葉を言う。


 ベース、すごく聞こえました。


 今日もよかったです。


 最初に見た日が、思い出せない。


「もっと前かもしれない」


「手紙、残ってる?」


「事務所にあるかもしれない」


「差し入れは」


「食べ物はスタッフが確認してる」


「それ以外」


「覚えてない」


 ヒナタが向かいに座る。


「明日、全部調べる」


「全部って」


「手紙。プレゼント。物販の写真。スタッフが撮ってる映像。いつから来てたか」


「意味あるのか」


「あるだろ」


「来てた期間が分かっても、やってることは変わらない」


「お前のことをどこまで知ってるか分かる」


 コウタは黙った。


 知りたくなかった。


 住所だけではないかもしれない。


 仕事の時間。


 よく使う駅。


 買う飲み物。


 服。


 香水。


 どこまで見られていたのか確認することは、もう一度見られることに似ている気がした。


「今日は寝よう」


 ハヤテが言う。


「俺、ソファ使うから、コウタは部屋」


「帰れよ」


「一人になりたい?」


 すぐには答えられなかった。


「……どっちでもいい」


「じゃあいる」


 ヒナタが毛布を持ってくる。


 コウタは借りた部屋へ入った。


 扉を閉める。


 鍵はない。


 ベッドに座り、スマートフォンを見る。


 通知はなかった。


 知らないアカウントからのメッセージも来ていない。


 それなのに、画面を閉じることができなかった。


 来るかもしれない。


 来ないかもしれない。


 どちらも怖かった。


 しばらくして、ヒナタが扉をノックした。


「起きてる?」


「ああ」


「鍵、替えた方がいい」


「分かってる」


「明日、管理会社に連絡しろ」


「する」


「あと」


「何」


 扉の向こうで、ヒナタが少し黙った。


「お前が嫌がってるって、ちゃんと記録に残した方がいい」


「残してるだろ」


「そうじゃなくて」


 ヒナタは声を落とした。


「直接、もう一度言うことになるかもしれない」


「会えってこと?」


「違う。警察とか、運営を通して」


「もう言った」


「触るなって?」


「ああ」


「家に来るなって言った?」


 コウタは答えなかった。


 言っていない。


 スタジオに来るな。


 待つな。


 触るな。


 会場へ入るな。


 そのたびに女は、言われていない場所を探した。


「全部言っても、また別のことをする」


 コウタが言う。


「それでも残すんだよ」


「何で」


「向こうが、知らなかったって言えないように」


 ヒナタの声には怒りがなかった。


 ただ、疲れていた。


「今まで、全部そうだったろ」


 偶然だった。


 触っていない。


 待っていない。


 会場には入っていない。


 言われていないから、悪くない。


 女は毎回、境界線のすぐ外側に立っていた。


 コウタが何か言うたびに、その線を少しだけずらす。


「分かった」


 コウタは答えた。


 足音が遠ざかる。


 部屋が静かになる。


 コウタは横になった。


 目を閉じても眠れない。


 電車の中で触れられた感覚。


 服をつかまれた指。


 自宅の前に置かれた袋。


 何度も思い出す。


 午前二時を過ぎた頃、スマートフォンが震えた。


 知らない番号からの着信だった。


 コウタは画面を見たまま動かなかった。


 着信は切れた。


 すぐに、留守番電話の通知が届く。


 再生しない方がいい。


 そう思った。


 それでも指が動いた。


 雑音が流れる。


 遠くで車が走る音。


 風の音。


 女の声は、すぐには聞こえなかった。


 十秒ほどして、小さく息を吸う音が入る。


「コウタさん」


 静かな声だった。


「家にいないんですね」


 コウタは起き上がった。


 廊下へ出る。


「ヒナタ」


 声がうまく出ない。


 リビングの明かりがつく。


 ヒナタとハヤテが同時に顔を上げた。


「どうした」


 コウタはスマートフォンを差し出した。


 留守番電話は、まだ続いていた。


「心配しなくて大丈夫です」


 女は穏やかに話している。


「中には入りません」


 三人とも、動かなかった。


「今日は、ちゃんと言われたことを守っています」


 短い沈黙。


「部屋の前で待っているだけです」


 録音の向こうで、エレベーターの到着音が鳴った。


 コウタのマンションと同じ音だった。


「帰ってくるまで待っていますね」


 留守番電話が切れた。





 警察がコウタのマンションへ着いたとき、廊下には誰もいなかった。


 紙袋もない。


 カードもない。


 女が立っていた痕跡は、何も残されていなかった。


 管理人に連絡し、防犯カメラを確認する。


 映像には、帽子をかぶった女が映っていた。


 午後十一時十二分。


 女はエレベーターを降りると、迷わずコウタの部屋へ向かった。


 部屋番号を確認する様子もない。


 最初から知っていた。


 インターホンを押す。


 反応がない。


 もう一度押す。


 それから女は、扉のすぐ横に立った。


 スマートフォンを見ながら、ときどき廊下の奥へ顔を向ける。


 誰かを待っているように。


 午前零時を過ぎても、女は動かなかった。


 床に座る。


 立ち上がる。


 扉に耳を寄せる。


 ドアノブへ手を伸ばす。


 ゆっくりと下げる。


 鍵がかかっていることを確かめると、女は手を離した。


 そのあと、扉へ頬をつけた。


 目を閉じていた。


 映像を見ていた警察官が、そこで一度再生を止めた。


「この女性で間違いありませんか」


 ヒナタが答えた。


「間違いないです」


 コウタは画面を見たまま動かなかった。


 帽子とマスクで顔は半分ほど隠れている。


 それでも分かった。


 立ち方。


 首の傾け方。


 何かを見つけたときの、わずかな笑い方。


「このあと、午前二時七分に建物を出ています」


 留守番電話が入った時間と、ほぼ同じだった。


「どこから電話したんですか」


 ハヤテが聞く。


「映像では、廊下で電話を操作しています」


「じゃあ、本当に部屋の前にいたんだ」


 ヒナタが低い声で言う。


 警察官が再生を進める。


 午前二時。


 女は扉の前に立ち、スマートフォンを耳へ当てていた。


 留守番電話を吹き込んでいる。


 話し終えると、女はしばらく扉を見つめた。


 それから、小さく頭を下げた。


 誰もいない部屋へ挨拶をするように。


 エレベーターへ向かう。


 だが、途中で一度戻ってきた。


 再びドアノブへ触れる。


 今度は回さない。


 手のひらで包み込むだけだった。


 女は、その手を自分の頬へ当てた。


 数秒間、そのまま動かなかった。


 映像が終わった。


 部屋に沈黙が落ちる。


「今夜は戻らないでください」


 警察官が言った。


「管理会社へ相談して、鍵の交換もした方がいいでしょう」


 コウタは頷いた。


 ヒナタが横から確認する。


「また来る可能性はありますか」


「可能性がないとは言えません」


「見張ってもらうことは」


「まずは、これまでの記録を整理しましょう。メッセージや手紙、接触した日時が分かるものは、すべて残してください」


「手紙なら、事務所にあります」


 ハヤテが言った。


 コウタが顔を上げる。


「残ってるのか」


「ファンレターは、一定期間保管してるって聞いた」


「全部?」


「少なくとも最近のものは」


 翌朝、三人は運営事務所へ向かった。


 コウタは一度も眠れなかった。


 ヒナタもハヤテも、ほとんど眠っていないように見えた。


 事務所の奥に、ファンレターや贈り物を保管する棚があった。


 日付と公演名ごとに箱が分けられている。


 スタッフが女の名前を確認する。


「この方ですよね」


 画面に表示された名前を見て、コウタは頷いた。


「物販で名乗っていた名前です」


「同じ名前の手紙が、かなりあります」


 最初に出てきたのは、半年ほど前の封筒だった。


 白い便箋が二枚。


 ライブの感想。


 ベースの音がよかったこと。


 衣装が似合っていたこと。


 文章は丁寧で、特におかしいところはなかった。


 二通目。


 三通目。


 内容はほとんど同じだった。


 どれも、コウタの演奏を細かく書いている。


 四通目から、少しずつ内容が変わった。


「今日は少し眠そうでしたね」


「左手を気にしていたように見えました」


「最後の曲で一度だけハヤテさんを見ましたね」


 コウタ自身も覚えていないようなことが書かれている。


「よく見てるな」


 ヒナタが呟く。


 ハヤテは何も言わず、封筒の日付を並べていた。


「これ、ライブがない日だ」


「何が」


「この手紙の消印」


 ハヤテが一通を指さす。


 本文を読む。


「今日は雨だったので、黒い傘でしたね」


 三人とも黙った。


 その日は、公演もイベントもなかった。


 次の手紙には、こう書かれていた。


「駅で見かけました。声をかけると驚かせると思ったので、後ろから見守りました」


 さらに次。


「いつも同じ車両に乗るんですね」


「降りるときは、階段に近い扉を選ぶんですね」


「朝はコーヒーを買うけれど、夜は水だけなんですね」


 コウタは手紙を机へ置いた。


「読まなくていい」


「でも」


「もう十分だろ」


 ハヤテは手紙から目を離さなかった。


「十分じゃない」


「何が知りたいんだよ」


「いつから始まったのか」


「分かってどうする」


「どこまで知られてるか確認する」


 昨日と同じ言葉だった。


 コウタは椅子から立ち上がった。


 部屋を出ようとすると、ヒナタが扉の前に立つ。


「どけ」


「一人で行くな」


「トイレだ」


「ハヤテ、ついてけ」


「ふざけんな」


「ふざけてない」


 コウタはヒナタを睨んだ。


 ヒナタも退かなかった。


 数秒後、コウタの方が目を逸らした。


「ここにいる」


 椅子へ戻る。


 スタッフが、さらに古い箱を運んできた。


「同じ名前ではないんですが、筆跡が似ているものがあります」


 差出人の名前が違っていた。


 封筒の色も。


 便箋も。


 けれど、文字の癖は同じだった。


 日付は、一年半前。


 Snow flakesが今より小さな会場でライブをしていた頃だった。


「この頃から来てたのか」


 ハヤテが呟く。


 手紙には、バンド全体への感想が書かれている。


 ヒナタの声。


 ハヤテのドラム。


 そしてコウタのベース。


 最初は三人を同じように書いていた。


 数通進むと、コウタの話だけが増えた。


「コウタさんは、いつも端に立ちますね」


「人と話すとき、相手の目より少し下を見るんですね」


「ヒナタさんに触られるのは嫌がらないんですね」


 ヒナタの手が止まった。


「何だよ、これ」


「次」


 ハヤテが便箋をめくる。


「ハヤテさんには自分から触ることがあるんですね」


「次」


「女性スタッフに肩を触られていました。でも、避けませんでしたね」


 コウタは、机の下で手を握った。


「やめろ」


「あと少し」


「やめろって言ってるだろ」


 声が部屋に響いた。


 ハヤテの手が止まる。


 コウタが声を荒らげることは、ほとんどない。


 スタッフも、ヒナタも何も言わなかった。


「……悪い」


 ハヤテが手紙を伏せた。


 コウタは呼吸を整えた。


「俺が誰に触られたとか、誰に触ったとか」


 言葉が続かない。


「全部、見てたってことだろ」


 誰も否定しなかった。


 女は、突然距離を詰めたのではなかった。


 最初から見ていた。


 コウタが誰との接触を許すのか。


 どの程度なら避けないのか。


 人混みではどう反応するのか。


 驚いたときに動けなくなることまで。


 少しずつ確かめていた。


「この手紙」


 スタッフが、箱の底から一通を取り出した。


「写真が入っています」


 封筒の中には、何枚もの写真があった。


 ライブ中のコウタ。


 物販に立つコウタ。


 駅へ向かって歩くコウタ。


 コンビニから出るコウタ。


 スタジオの窓際に立つコウタ。


 自宅近くの交差点を歩くコウタ。


 最後の一枚で、コウタの手が止まった。


 自宅のベランダだった。


 カーテンが少し開いている。


 室内に、コウタの姿が写っている。


 撮影されたことに、まったく気づいていない。


 写真の裏に日付が書かれていた。


 九ヶ月前。


 その下に、短い文章があった。


「まだ、私のことを知らない頃」


 さらに小さな文字で続いている。


「この頃は、触っても気づきませんでしたね」


 コウタは写真を落とした。


 床へ落ちた写真を、誰もすぐには拾えなかった。


 最初に触れられたのは、半年前の物販ではなかった。


 女は、それよりずっと前から触っていた。


 電車で。


 人混みで。


 ライブ会場の出口で。


 コウタが偶然だと思い、振り返りもしなかった場所で。


 ヒナタが写真を拾った。


 裏面を読み直す。


 顔から表情が消えた。


「この女」


 声が震えていた。


「コウタに気づかれないように、練習してたんだ」


 ハヤテが、残った封筒を確認する。


 箱の一番下に、日付のない手紙があった。


 まだ開封されていない。


 スタッフが手袋をつけ、封を開けた。


 便箋は一枚だけだった。


「コウタさんが私を覚えてくれたので、次は名前を呼んでもらいたいです」


 その下に、女の本名が大きく書かれている。


 そして最後に、一行。


「呼んでくれるまで、毎日会いに行きます」


 手紙が届いたのは、女が出入り禁止になった翌日だった。


 誰も、言葉が出ない。


 その日から、コウタの移動には必ず誰かがつくことになった。


 ライブ会場。


 スタジオ。


 事務所。


 駅までの道。


 自宅には戻らず、しばらく別の場所で過ごす。


 電話番号も変えた。


 知らないアカウントから届いたメッセージは、すべて記録した。


 女の名前も、顔も、スタッフ全員へ共有された。


 できることは、ほとんどやった。


 それでも、女からの連絡は止まらなかった。


 公式アカウントへ届く。


 事務所の問い合わせフォームへ届く。


 ライブハウスへ電話がかかってくる。


 差出人の違う封筒が、毎日のように送られてくる。


 内容は、どれも同じだった。


「コウタさんと話をさせてください」


「本人の気持ちを確認したいです」


「周りの人が勝手に決めないでください」


 運営が返信することはなかった。


 警察からも、連絡を取らないように言われていた。


 それでも女は、返事がないことを拒絶とは考えなかった。


「返信できない事情があるのだと思います」


「コウタさんが自由に連絡できるようになるまで待ちます」


「私は怒っていません」


 それを最後に、手紙が止まった。





 最初に異変に気づいたのは、ハヤテだった。


 休憩中、スマートフォンを見ていた手が止まる。


「コウタ」


「何」


「これ」


 画面には、知らないアカウントの投稿が表示されていた。


 プロフィール画像はない。


 投稿数も少ない。


 そこに、見覚えのある写真が載せられていた。


 白い紙袋。


 プリンが四つ。


 テーブルの端に、女性の手が写っている。


 投稿には、短い文章が添えられていた。


「甘いものが好きなふりをして、近づく人もいる」


 コウタは画面を見たまま、何も言わなかった。


「これ、あかりちゃんだよな」


 ハヤテが言う。


 以前、恋人のあかりが事務所に差し入れを持ってきたときの写真だった。


 誰かが撮影し、関係者だけのグループへ送ったもの。


 公開されていないはずだ。


「どこから手に入れた」


 ヒナタが画面を覗き込む。


「分からない」


「投稿したやつは」


「スタッフの一人。でも、鍵のかかったアカウントだったと思う」


 コウタはスマートフォンを取り出した。


 あかりへ連絡をしようとして、指が止まる。


「何て言う」


「今どこにいるか聞け」


「不安にさせる」


「もう巻き込まれてる」


 ヒナタの言葉に、コウタは顔を上げた。


「言い方」


「優しく言えば巻き込まれてないことになるのか」


「ヒナタ」


 ハヤテが止める。


 ヒナタは黙った。


 コウタは一度深く息を吸い、あかりへ電話をかけた。


 三回目の呼び出しでつながった。


「もしもし」


 いつもと変わらない声だった。


「今、どこにいる」


「家ですけど」


「一人?」


「家族といます。どうしたんですか」


 コウタはすぐに答えられなかった。


 あかりの明るい声を聞くと、何も知らせずに済ませたくなる。


「知らない人から連絡、来てないか」


「知らない人?」


「女。俺のファンだと言ってるかもしれない」


 電話の向こうが静かになった。


「来てます」


 コウタの手に力が入った。


「いつから」


「少し前かな」


「何で言わなかった」


「変なメッセージだったので、無視すればいいかと思って」


「内容は」


「コウタさんとは、どういう関係ですかって」


「それだけ?」


 あかりが少し黙る。


「あと、昔働いてた店のことを聞かれました」


「返事した?」


「してません」


「ほかには」


「今日、写真が送られてきました」


「何の」


「私のです」


 コウタは目を閉じた。


「どこで撮られた」


「大学の前だと思います」


「今日の写真?」


「はい」


 コウタは立ち上がった。


 椅子が床を擦る。


「今、家にいるんだな」


「います」


「外に出るな」


「コウタさん」


「家族にも話して。知らない人が来ても出ないで」


「何があったんですか」


「説明するから、今は言ったとおりにして」


 自分でも、声が強くなっているのが分かった。


 あかりは少し間を置いてから答えた。


「分かりました」


「送られてきたものは消さないで」


「はい」


「今からスタッフと警察に連絡する」


「コウタさん」


「何」


「私、大丈夫です」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が冷たくなった。


 自分が何度も言ってきた言葉だった。


 大丈夫。


 触られただけ。


 まだ何もされていない。


「大丈夫かどうかは、あとで決めればいい」


 コウタは言った。


「今は、一人で判断しないで」


 通話を切る。


 ヒナタとハヤテが見ていた。


「大学まで行ってる」


 コウタが言う。


「今日、写真を撮られてる」


 ヒナタがすぐにスタッフへ連絡を入れる。


 ハヤテは投稿の保存を始めた。


「アカウント、ほかにも投稿してる」


 画面を下へ動かす。


「これ」


 次の投稿には、コウタとあかりが並んで歩いている写真が載っていた。


 かなり離れた場所から撮られている。


 二人とも、撮影されていることに気づいていない。


「日付は」


「半年前」


 女が物販でコウタへ触れ始めるより前だった。


 投稿には、こう書かれていた。


「この頃から、あの人はコウタさんの時間を盗んでいる」


 次の写真。


 あかりが店の前を掃除している。


「コウタさんを待つために働いている」


 さらに次。


 あかりが一人で地下鉄へ乗るところ。


「家まで調べれば、話を聞けると思う」


 コウタはスマートフォンをハヤテの手から取った。


「この投稿、いつ」


「今朝」


「家まで調べるって」


「まだ調べてないって意味かもしれない」


「そんなわけないだろ」


 声が大きくなる。


「俺の家を調べた女だぞ」


「分かってる」


「じゃあ何で」


「落ち着け」


「落ち着いてられるか」


 コウタが机を叩いた。


 資料がずれる。


 ペンが床へ落ちる。


 誰も拾わなかった。


「俺が黙ってたからだ」


 言葉が口から出た。


「最初に触られたとき、ちゃんと言ってれば」


「関係ない」


 ヒナタが即座に否定する。


「出禁になったあとも追ってくる女だぞ」


「でも、もっと早く」


「早く言ってたら、もっと早くあかりちゃんを調べてたかもしれない」


 コウタは黙った。


「お前の対応で、あの女の行動が決まったわけじゃない」


「でも俺が」


「コウタ」


 ハヤテが名前を呼ぶ。


 静かな声だった。


「今は、自分のせいにしてる場合じゃない」


 コウタは机へ両手をついた。


 呼吸が浅い。


 あかりの写真。


 大学。


 働いていた店。


 地下鉄。


 自分が知らない場所で、女はずっとあかりを見ていた。


 その日の夕方、警察から連絡があった。


 あかりの家の周辺には、女の姿は確認されなかった。


 大学の防犯カメラには、それらしい人物が映っていた。


 帽子とマスクで顔は隠れている。


 校門の外に立ち、学生が出てくるたびにスマートフォンを向けていた。


 その人物は、あかりが出てくると後を追った。


 駅まで。


 改札まで。


 同じ電車へ乗ったかどうかは、確認できなかった。


 あかりは家族に付き添われ、警察へ相談に行くことになった。


 コウタも同席しようとした。


 だが、運営と警察に止められた。


 女があかりを見張っているなら、コウタが現れることで危険が増す可能性がある。


 理屈は分かった。


 それでも、何もできないことが耐えられなかった。


「電話だけでも」


「今は家族と一緒にいます」


 スタッフが答える。


「必要な連絡はこちらで行います」


「俺から説明しないと」


「あなたが直接動かないことも、守るために必要です」


 コウタは何も言えなかった。


 夜になって、あかりから短いメッセージが届いた。


「警察で話をしてきました。今日は家族と一緒にいます。心配しないでください」


 最後に、いつもの笑顔の記号がついていた。


 コウタは返信を書いた。


「ごめん」


 送信する前に消す。


 代わりに、


「一人で出ないで。何かあったら、すぐに連絡して」


 と送った。


 すぐに既読がついた。


「分かりました。コウタさんも一人にならないでください」


 画面を見ていると、別の通知が届いた。


 公式アカウントへ、新しいメッセージが来ていた。


 スタッフが確認し、コウタたちへ転送した。


「私ではありません」


 女からだった。


「写真を撮ったのも、大学へ行ったのも私ではありません」


 ヒナタが画面を見る。


「また始まった」


 続けて、二通目が届く。


「証拠はありますか」


 三通目。


「何でも私のせいにするのはやめてください」


 四通目。


「私はコウタさんのために、あの人を調べただけです」


 ハヤテが顔を上げる。


「認めてるじゃん」


 五通目。


「危険な人ではないか確認しただけです」


 六通目。


「コウタさんは人を見る目がないから、私が代わりに見ています」


 そして最後に、画像が一枚届いた。


 あかりの自宅近くの道路だった。


 街灯の下。


 家の塀。


 閉じたカーテン。


 撮影された時刻は、数分前。


 文章はなかった。


 コウタが立ち上がる。


「行く」


 ヒナタが腕をつかんだ。


「どこに」


「あかりの家」


「行くな」


「今、近くにいる」


「警察に連絡してる」


「間に合わなかったら」


「お前が行ったら、あの女が喜ぶだけだ」


「離せ」


「行かせない」


「離せって言ってるだろ!」


 コウタが腕を振り払う。


 ヒナタも退かない。


「お前に会うために、あかりちゃんの家に行ってんだぞ」


 その言葉で、コウタの動きが止まった。


「お前が来ると思って、待ってる」


 女の目的は、あかりではない。


 あかりを怖がらせることでもない。


 コウタを動かすことだ。


「じゃあ、何もするなっていうのか」


「警察に任せる」


「それで逃げられたら」


「それでも、お前は行かない」


 コウタはヒナタを睨んだ。


 やがて力が抜け、椅子へ座る。


 十分後。


 警察から連絡があった。


 あかりの家の近くで、女が見つかった。


 声をかけると、女は逃げなかった。


 スマートフォンを持ち、道路に立っていた。


 理由を聞かれると、女はこう答えた。


「コウタさんを待っています」


 警察官が、コウタは来ないと伝えた。


 すると女は、不思議そうに首を傾げた。


「来ますよ」


 確信している声だった。


「私がここにいることを知れば、絶対に来ます」


 女は、自分が連れていかれる直前まで、道路の向こうを見ていた。


 コウタの姿を探して。


「まだですか」


 何度も、そう聞いていたという。


 その夜、女は警察署で事情を聞かれた。


 コウタたちは事務所で待った。


 日付が変わる頃、あかりから電話が来た。


「もしもし」


 声は落ち着いていた。


「大丈夫か」


「はい」


「本当に?」


「怖かったです」


 あかりは、はっきりと答えた。


「でも、家族もいます。警察の人も来てくれました」


「ごめん」


 今度は、言葉がそのまま出た。


「何でコウタさんが謝るんですか」


「俺のせいで」


「コウタさんのせいじゃないです」


「でも」


「その人が悪いんです」


 迷いのない声だった。


「触ったのも、ついてきたのも、写真を撮ったのも、その人が決めてやったことです」


 コウタは何も言えなかった。


「コウタさんが優しかったからでも、何も言わなかったからでもないです」


 あかりの声が、少しだけ震えた。


「だから、自分のせいみたいに言わないでください」


「……分かった」


「分かってない言い方です」


「分かるようにする」


「はい」


 通話を終えたあと、コウタはしばらくスマートフォンを見ていた。


 ヒナタもハヤテも、何も言わなかった。


 翌朝。


 女のスマートフォンから、数千枚の写真が見つかったと連絡があった。


 コウタの写真。


 あかりの写真。


 ヒナタ。


 ハヤテ。


 スタッフ。


 ライブ会場。


 スタジオ。


 自宅。


 保存された画像には、一枚ずつ名前がつけられていた。


「コウタさん 笑った」


「コウタさん 疲れている」


「コウタさん ヒナタに触られた」


「コウタさん ハヤテを見た」


「コウタさん あの女と歩く」


 そして、一番新しいフォルダ。


 その名前は、


「コウタさんが迎えに来る日」


 中には、あかりの家へ向かう道の写真が、順番に保存されていた。


 駅。


 交差点。


 コンビニ。


 住宅街。


 あかりの家。


 最後の一枚だけ、何も写っていなかった。


 暗い道路。


 女が立っていた場所から、道路の向こうを撮った写真。


 画像の名前には、こう書かれていた。


「ここから来る」





 女のスマートフォンが押収されてから、連絡は途絶えた。


 事務所にも。


 公式アカウントにも。


 あかりのもとにも。


 数日間、一通も届かなかった。


 警察からは、女が保存していた写真やメッセージの確認が続いていると説明された。


 コウタが明確に接触を拒否した記録。


 運営から送った警告。


 自宅前の防犯カメラ。


 大学付近で撮影された映像。


 どれも保管されていた。


 女は、悪意はなかったと繰り返しているらしい。


「守ろうとしただけです」


「危険がないか確認しただけです」


「コウタさんの生活を邪魔したことはありません」


 警察官が読み上げた言葉に、コウタは何も答えなかった。


 自宅へ戻る予定は、まだ決まっていない。


 鍵は交換した。


 管理会社にも事情を説明し、防犯カメラの確認範囲を広げてもらった。


 それでも、部屋の前に立つ女の映像を思い出すと、帰る気にはなれなかった。


 ライブは一本延期になった。


 運営は活動を休止することも提案したが、三人で話し合い、次の公演は予定どおり行うことにした。


「無理してやる必要ないからな」


 ハヤテが言った。


「無理はしてない」


 コウタは答えた。


「それ、最近何回聞いたと思う?」


「数えてない」


「俺は数えてる」


「暇だな」


 いつものように返すと、ハヤテは少しだけ笑った。


 ヒナタは何も言わず、弦を張り替えていた。


 以前なら、余計なことを言うなと口を挟んでいたはずだった。


 あれ以来、ヒナタはコウタへ触れなくなった。


 肩を叩かない。


 腕を引かない。


 物を渡すときも、手が重ならないように机へ置く。


 ハヤテも同じだった。


 気を遣われている。


 分かっていた。


 ありがたいと思う一方で、落ち着かなかった。


「ヒナタ」


「何」


「それ取って」


 コウタが足元のケーブルを指す。


 ヒナタは拾い上げ、机の上へ置いた。


 直接渡さない。


「普通に渡せばいいだろ」


 ヒナタの手が止まる。


「普通が分かんないから、置いた」


「前と同じでいい」


「コウタが嫌だったら」


「お前に触られるのと、あの女に触られるのは違う」


 言ってから、部屋が静かになった。


 ハヤテがこちらを見る。


 ヒナタはケーブルを持ったまま動かない。


「違う?」


「違うだろ」


 コウタが手を出す。


 ヒナタは少し迷ってから、ケーブルを渡した。


 指先が、一瞬だけ触れた。


 身体は固まらなかった。


 何も起きなかった。


 ただの受け渡しだった。


「これは平気」


 コウタが言う。


「いちいち申告すんの?」


「お前が分からないって言ったからだろ」


「面倒くさいな」


「お前がな」


 ハヤテが、ようやく息を吐いた。


「少し戻ったな」


「何が」


「二人とも」


 次のライブ当日。


 会場の警備は以前より厳しくなっていた。


 受付では本人確認が行われ、関係者通路には常にスタッフが立つ。


 入り口だけでなく、裏口や搬入口の周辺も確認された。


 女の姿はなかった。


 似た服装の客がいるたびに、身体が反応した。


 長い髪。


 黒い帽子。


 マスク。


 横顔。


 違うと分かっても、すぐには力が抜けなかった。


 それでも演奏が始まると、客席を見る余裕はなくなった。


 ベースの音。


 ドラム。


 ギター。


 三人の間にある音だけを聞く。


 最後の曲が終わった。


 照明が落ちる。


 歓声が響く。


 コウタは頭を下げ、ステージを降りた。


「お疲れ」


 ハヤテがスティックを持ったまま言う。


「どうだった」


「何が」


「客席」


「見てない」


「それが一番いいか」


 ヒナタがスタッフから水を受け取り、一つをコウタへ投げた。


 反射的に受け取る。


「投げるな」


「触らなくて済むだろ」


「そういう問題じゃない」


 ヒナタが笑った。


 その笑い方を見て、コウタも少しだけ息を抜いた。


 物販は行わなかった。


 客が全員退場してから、機材の片づけを始める。


 スタッフがベースケースを運んできた。


「これ、コウタさんのですよね」


「ああ」


「少し変な音がするんですけど」


「音?」


 ケースを床へ置く。


 スタッフが持ち上げ、軽く揺らす。


 中で、何か小さなものが動いた。


 ベース本体ではない。


 金属が転がるような音だった。


「ポケットに何か入れた?」


 ハヤテが聞く。


「予備の弦と工具だけ」


 コウタがケースを開ける。


 ベースを取り出す。


 表面には異常がない。


 ケースの外側。


 内側のポケット。


 ストラップ。


 予備のケーブル。


 何も落ちてこない。


 スタッフがケースをもう一度傾けた。


 音がした。


 内張りの下だった。


「開けない方がいい」


 ヒナタが言った。


 スタッフが警察へ連絡する。


 会場にいた人間は、その場から離された。


 しばらくして警察官が到着し、手袋をつけてケースを調べた。


 内側の布が、一か所だけわずかに浮いていた。


 縫い目をめくる。


 小さな黒い機器が出てきた。


 指先ほどの大きさ。


 位置情報を送信するためのものだと説明された。


 コウタは機器を見つめた。


「いつから入っていたか、分かりますか」


「すぐには分かりません」


「これで居場所を」


「追跡していた可能性はあります」


 スタジオ。


 駅。


 自宅。


 地方のライブ会場。


 女が、コウタの移動先へ先回りできた理由。


 偶然ではなかった。


 写真から特定しただけでもない。


 ずっと、ついてきていた。


 コウタがケースを持って歩くたびに。


 電車へ乗るたびに。


 家へ帰るたびに。


「ケース、いつ買った?」


 ハヤテが聞く。


「昔から使ってる」


「修理に出したことは」


「ない」


「誰かに預けたことは?」


「ライブではスタッフに渡す」


「客が触れる場所に置いたことは」


 コウタは考えた。


 物販の後。


 小さな会場。


 楽屋が狭く、機材を廊下へ置いた日。


 搬出中、ファンが残っていた日。


 思い当たる場面が多すぎた。


「分からない」


 警察官がケース全体を確認する。


「この機器だけではない可能性があります。普段持ち歩いている荷物も調べた方がいいでしょう」


 バッグ。


 コート。


 財布。


 機材。


 車。


 すべて確認することになった。


 結果として、もう一つ見つかった。


 コウタが普段使っている黒いバッグ。


 底板と布の間。


 外からは見えない位置に、同じような機器が入っていた。


 ベースを持たない日でも、女はコウタの居場所を知ることができた。


「二つも」


 ハヤテが呟く。


 コウタはバッグを見た。


 毎日使っていた。


 床へ置き。


 椅子へ掛け。


 自宅の寝室にも持ち込んだ。


 あかりと会った日も。


 三人で食事をした日も。


 一人で出かけた日も。


 すべて、女の画面に残っていたのかもしれない。


「触っていいですか」


 警察官がバッグを指す。


「はい」


 コウタは答えた。


 自分のものなのに、許可を求められる。


 自分の手元に戻ってきても、もう使える気がしなかった。


 その日の帰りは、三人ともスタッフの車に乗った。


 ベースケースもバッグも、証拠として預けた。


 コウタの手元には、スマートフォンと財布だけが残った。


「新しいの買おう」


 ハヤテが言う。


「何を」


「ケースとバッグ」


「まだ使える」


「使いたい?」


 コウタは答えなかった。


 ヒナタが助手席から振り返る。


「買いに行こう」


「今すぐ?」


「明日」


「仕事あるだろ」


「休む」


「勝手に休むな」


「じゃあ終わってから」


「別に一人で買える」


「一人で行かせると思う?」


 少し前なら、その言葉に苛立っていた。


 今は、否定できなかった。


 翌日。


 三人で楽器店へ行った。


 ベースケースを選ぶだけなのに、ハヤテは必要以上に時間をかけた。


「こっちの方が頑丈」


「重い」


「こっちはポケットが多い」


「多い方が嫌だ」


「じゃあ透明なやつにする?」


「そんなものないだろ」


 ヒナタがバッグ売り場から戻ってくる。


「これがいい」


「派手すぎる」


「見つけやすい」


「盗まれやすい」


「注文が多いな」


 結局、以前と似た黒いケースを選んだ。


 バッグは、ポケットの少ないものにした。


 会計を終え、店を出る。


 外は暗くなり始めていた。


 人通りの多い道を三人で歩く。


 背後から足音が近づく。


 コウタの肩が動いた。


 すれ違ったのは、買い物袋を持った男性だった。


 こちらを見もしない。


「大丈夫?」


 ハヤテが聞く。


「大丈夫」


 答えたあと、言い直す。


「今は」


「それでいい」


 駅へ着く。


 以前、女に触れられたホームとは違う駅だった。


 それでも、電車が来るまで壁際に立つ。


 ヒナタとハヤテが、少し前にいる。


 囲むのではなく。


 離れすぎない位置に。


 電車が到着した。


 扉が開く。


 人が降りる。


 乗り込もうとしたとき、後ろから誰かに腕が触れた。


 コウタの身体が固まる。


「すみません」


 若い女性が頭を下げた。


 大きな鞄が当たっただけだった。


 女性はそのまま別の扉へ向かう。


 コウタは動けなかった。


「乗らなくていい」


 ヒナタが言った。


「次にしよう」


 電車の扉が閉まる。


 三人はホームに残った。


「悪い」


「何が」


「一本遅れる」


「一本だけだろ」


 ハヤテが答える。


「次も無理なら、その次でいい」


 コウタは線路を見る。


 暗い窓に、自分の姿が映っていた。


 背後に、ヒナタとハヤテも映っている。


 それ以外に、人影はない。


「次は乗る」


「分かった」


 ヒナタもハヤテも、励まさなかった。


 大丈夫だとも言わなかった。


 ただ、同じ場所で待っていた。


 次の電車が来る。


 コウタは一度だけ後ろを確認した。


 それから、自分で一歩進んだ。


 車内へ乗る。


 ヒナタとハヤテも続く。


 扉が閉まる。


 電車が動き出した。


 コウタは新しいバッグを身体の前で持った。


 まだ誰にも触れられていない。


 自分で選んだものだった。


 数日後。


 警察から連絡が入った。


 女の自宅から、追跡機器の購入履歴と、複数の予備が見つかったという。


 写真。


 手紙。


 位置情報の記録。


 女がコウタへ近づかないよう、正式な対応が進められることになった。


 それを聞いても、コウタは安心したとは言わなかった。


 終わったとも思わなかった。


 女がいなくなっても、触れられた感覚は残っている。


 人混みでは身体が固まる。


 背後に立たれると振り返る。


 知らない通知が届くたび、呼吸が止まる。


 けれど、それを隠すことはやめた。


「今日は電車、無理かもしれない」


「じゃあ車」


「後ろに立たないで」


「分かった」


「触る前に言って」


「今から肩叩く」


「それはいらない」


 言えば、二人は止まった。


 理由を聞かないときもあった。


 いつまで続くかは分からない。


 元に戻るのかも分からない。


 それでも。


 黙って耐えることだけが、平気でいる方法ではなかった。


 次のライブの日。


 ステージへ出る前に、ハヤテが手を差し出した。


 三人で手を重ねる、いつもの合図。


 コウタは一瞬だけ、その手を見た。


「やめる?」


 ハヤテが聞く。


「いや」


 コウタは自分から手を重ねた。


 その上に、ヒナタの手が乗る。


 知っている手だった。


 離してほしいと言えば、離れる。


 触れていいか分からなければ、待つ。


 自分の言葉が届く相手の手だった。


「行くぞ」


 ヒナタが言う。


 三人は手を離した。


 ステージの向こうから、客の声が聞こえる。


 コウタは新しいベースケースを壁際に置いた。


 ポケットは空だった。


 位置情報を送るものも入っていない。


 スタッフが確認し、コウタ自身も確認した。


 それでも一度だけ振り返る。


 ケースは、置いた場所にある。


 誰も触れていない。


 コウタはステージへ向かった。


 背後から足音が二つ続く。


 今度は、振り返らなかった。


 誰の足音なのか、分かっていたから。


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