Under tone
ライブハウスを出たときには、もう日付が変わりかけていた。
搬入口の重い扉が閉まる。
ガシャン、と金属の噛み合う音がして、その向こうに、さっきまでの熱が閉じ込められた。
照明。
アンプ。
歓声。
拍手。
耳の奥にはまだ、いくつかの音が残っている。
今夜も、Snow flakesは三人でステージに立った。
歌ってギターを鳴らすヒナタ。
ドラムを叩くハヤテ。
ベースを弾くコウタ。
何年も、この三人で音を鳴らしてきた。
けれど、ライブハウスの外へ出てしまえば、街はもう別の時間だった。
夜風は思ったより冷たい。
汗の引きかけた首筋に触れて、コウタは無意識に肩をすくめた。
三人で駅へ向かう。
ハヤテの手には、途中のコンビニで買った袋がぶら下がっていた。歩くたび、中でペットボトルと何かがぶつかって、小さく音を立てる。
「腹減った」
ハヤテが言った。
コウタは横を見る。
「さっき食っただろ」
「ラーメンは別腹」
「それ、甘いものに使うやつだから」
「じゃあラーメンは甘いものってことで」
「無理あるだろ」
いつもの会話だった。
ライブの出来がどうだったとか。
次の予定がどうだとか。
そういう話をすることもある。
でも、終わった直後は案外こんなものだ。
腹が減ったとか。
眠いとか。
コンビニに寄りたいとか。
少し前を歩いていたヒナタは、会話には入らず、黙って歩いている。
それも、いつも通りだった。
コウタは何気なく足元を見る。
三人分の足音。
自分。
ハヤテ。
ヒナタ。
アスファルトの上を、不規則に重なりながら続いている。
数えるつもりはなかった。
ただ、一度気づいてしまうと、耳が勝手に拾う。
コツ。
コツ。
少し遅れて、
コツ。
――もうひとつ。
コウタは眉を寄せた。
けれど、足は止めなかった。
車が通っただけかもしれない。
後ろを歩く誰かの音が混ざったのかもしれない。
そういうものを、いちいち確かめない方がいい。
最近は、そう思う。
意味を探せば、形になる。
形になれば、残る。
そのことを、少しだけ知ってしまった。
右手の中指に、硬い感触がある。
黒い石のついたシルバーリング。
外そうと思ったことは、何度かある。
けれど、結局そのままだった。
気に入っているわけではない。
似合うと思っているわけでもない。
ただ。
外す理由が、見つからない。
「……ん」
前を歩いていたヒナタが、突然足を止めた。
ハヤテが危うくぶつかりそうになって、半歩横へずれる。
「何?」
ヒナタは答えない。
道路の脇を見ていた。
そこには、細い路地がある。
古いビルと、色の褪せた壁の間。
街灯の光が途中までしか届かない、暗い道。
コウタも足を止めた。
見覚えがある。
というより。
忘れようとしても、妙に残っていた。
「あ」
ハヤテも気づいたらしい。
「あそこじゃん」
軽い言い方だった。
けれど、その一言で、コウタの指が無意識にリングへ触れた。
冷たい。
あのときと同じ感触。
知らないはずの音。
黒い石。
選ばなかったはずのもの。
そして。
――それで、よかったの?
声ではない何かが、頭の奥をかすめる。
コウタはすぐに指を離した。
「……行くの?」
自分でも、少し嫌そうな声になったと思う。
ハヤテが路地を見る。
「せっかくだし?」
「何がせっかくなんだよ」
「またあるか確認したくない?」
コウタは答えなかった。
ヒナタも答えない。
ただ、路地の奥を見ている。
前に来たときと同じように。
何かを探しているというより、
そこに何かがあることを知っているみたいに。
「……行く?」
ハヤテがもう一度言った。
軽い声。
誰も、すぐには返事をしなかった。
夜の街では、車が走っている。
遠くで誰かが笑っている。
コンビニの自動ドアが開いて、電子音が鳴った。
普通の音ばかりだった。
その中で。
路地の奥だけが、
妙に静かだった。
ヒナタが、一歩踏み出す。
コウタは止めようとして、
やめた。
ハヤテがその後ろについていく。
結局、コウタも歩き出す。
三人分の足音が、暗い路地へ入っていく。
コツ。
コツ。
コツ。
少し遅れて。
もうひとつ。
コウタは、今度も振り返らなかった。
路地に入る。
ほんの数歩進んだだけだった。
それなのに、背後の街が少し遠くなった気がした。
さっきまで聞こえていた車の音。
誰かの笑い声。
コンビニの電子音。
どれも消えたわけではない。
ただ、一枚向こう側へ移ったみたいに薄い。
代わりに、足音だけが近くなる。
コツ。
コツ。
コツ。
三人分。
そのあとに。
コツ。
コウタは前を向いたまま、眉を寄せた。
聞き間違いだと思うことにする。
さっきからそうしている。
確かめなければ、それ以上にはならない。
「……こんな長かったっけ」
ハヤテが辺りを見回した。
左右には古い壁。
室外機。
ひび割れたアスファルト。
前に来たときと、何も変わっていない。
はずだった。
「いや」
コウタは短く返す。
前に歩いたときも、同じことを思った気がする。
距離がおかしい。
見えている場所まで、なかなか辿り着かない。
歩いているのに、景色の方が少しずつ後ろへ下がっていくような。
気のせいだ。
そう思ったとき。
隣にいたはずのヒナタが、いつの間にか少し前を歩いていた。
コウタは無意識に歩幅を速める。
「また、音聞こえる?」
ハヤテが冗談っぽく聞いた。
「聞こえない」
ヒナタは振り返らない。
答えだけが返ってくる。
「じゃあ何で迷わず行くんだよ」
コウタが言う。
ヒナタは少しだけ首を傾けた。
「……ある気がするから」
「何が」
「店」
「それ、ほぼ勘だろ」
「うん」
迷いなく返されて、コウタは黙った。
ヒナタのこういうところは昔から変わらない。
理由を聞いても、大抵理由になっていない。
けれど、本人の中ではそれで足りている。
また、足音が重なる。
三人。
そして。
ひとつ。
コウタはリングに触れそうになって、やめた。
「……なあ」
二人の背中を見る。
「やっぱり戻らない?」
「え?」
ハヤテが振り返る。
「何で」
「何でって……」
そこから先が出てこない。
嫌だから。
それだけでは、説明にならない。
あの店で何かされたわけではない。
黒く見える石を受け取った。
リングになった。
それだけだ。
それなのに。
頭の奥で、声がする。
――それで、よかったの?
コウタの指先が、中指のリングに触れる。
黒く見える石。
街灯の光が届くたび、その内側に薄い煙のような色が浮かぶ。
完全な黒ではない。
見る角度によって、少しだけ表情が変わる。
あの店から持ち帰ったもの。
外そうと思えば、いつでも外せる。
なのに、まだ指にある。
「ま、何か面白いの増えてるかもしれないし」
ハヤテが笑う。
「増えてたら嫌だろ」
「何で」
「何ででも」
コウタは前を向く。
そのとき。
路地の奥に、小さな白い灯りが見えた。
さっきまではなかった。
少なくとも、コウタには見えていなかった。
ヒナタが足を止める。
少しだけ目を細めた。
「……あった」
その声と同時に。
どこかで、小さく鈴が鳴った気がした。
まだ、店の扉には触れていないのに。
店の前に立つ。
前に来たときと、ほとんど変わっていない。
小さな白い灯り。
少し曇ったガラス。
古びた扉。
けれど。
コウタは、すぐに違和感を覚えた。
「……こんなだったっけ」
ガラス越しに店の中を見る。
棚がある。
その奥にも、棚。
前に来たときより、明らかに物が増えていた。
小さな箱。
吊るされた鍵。
古いレコード。
用途の分からない金属の道具。
見覚えのないものばかりが、隙間を埋めるように並んでいる。
「なんか増えてない?」
ハヤテがガラスに顔を近づけた。
「増えてる」
コウタは即答する。
「覚えてんの?」
「全部じゃないけど」
前に何がどこにあったか。
そこまで正確に覚えているわけではない。
それでも分かる。
見落としていた、という感じではなかった。
前にはなかった。
今は、ある。
ただそれだけなのに、妙に引っかかる。
店の中だけが、少しずつ物を増やしながら、別の時間を過ごしていたみたいだった。
ヒナタは何も言わない。
ガラスの向こうではなく、入口の横を見ている。
「……これ」
「何?」
ヒナタが指した先に、小さな木のプレートが掛かっていた。
コウタもそちらを見る。
「こんなのあったか?」
「なかった」
ヒナタが言う。
古びた木の板。
そこに、手書きの文字がある。
『置いていった音を返しています』
三人とも、しばらく黙った。
意味が分からない。
分からないはずなのに。
コウタの指先が、またリングに触れそうになる。
置いていった音。
返す。
何を。
誰に。
「……何それ」
ハヤテが先に笑った。
「中古屋みたいなノリで言うことじゃないだろ」
軽い声だった。
でも、コウタは笑えなかった。
言葉だけが、妙に残る。
置いていった。
それは、なくしたのとは少し違う。
捨てたのとも違う。
自分でそこに残してきたもの。
そんな言い方に聞こえた。
ヒナタが扉の前に立つ。
くすんだ金色の取っ手に手をかける。
「入る?」
ハヤテが聞いた。
「それ、もう開ける気だろ」
コウタが言う。
ヒナタは一度だけ振り返る。
「入らないの」
問いというより、確認だった。
「……」
帰ろうと思えば、まだ帰れる。
路地を戻ればいい。
普通の街へ戻って。
駅へ向かって。
今日はもう終わりにすればいい。
そのはずなのに。
コウタは動かなかった。
ヒナタが扉を開ける。
チリン。
小さな鈴が鳴る。
一度だけ。
前と同じ音だった。
ハヤテが先に入る。
「行こうぜ」
続いてヒナタ。
コウタは一拍だけ、その場に残った。
ガラスに自分の姿が映っている。
赤い髪。
黒い服。
右手のリング。
その後ろに。
何かが立っているような気がした。
コウタは振り返らない。
そのまま扉をくぐる。
チリン。
鈴が鳴る。
少し遅れて。
もう一度。
チリン。
コウタの足が止まった。
店の中は、外よりも暗かった。
棚のあちこちに置かれた小さなランプが、必要な場所だけを照らしている。
古い木の匂い。
紙の匂い。
どこかで金属が触れたような、ごく小さな音。
さっき二度鳴った鈴の余韻だけが、まだ耳の奥に残っている。
コウタは扉の前で立ち止まったまま、店内を見渡した。
前にも来た。
確かに、この場所にいた。
なのに。
記憶の中の店と、少しだけ合わない。
棚の位置なのか。
物の数なのか。
それとも、もっと別の何かなのか。
うまく言葉にできない。
店の奥に、人がいた。
カウンターの向こう。
白い髪が、ランプの光を薄く拾っている。
コウタは眉をひそめた。
前に来たとき。
もっと年上だった気がする。
少なくとも、自分たちよりずっと。
落ち着いた声で。
年齢の分からない顔をしていた。
でも、今は。
同じくらいに見える。
いや。
もう少し若いかもしれない。
目を離して、もう一度見る。
今度は少し違う。
どこが、と聞かれても答えられない。
顔はちゃんと見えている。
白い髪も。
目も。
口元も。
それなのに、一度視線を外すと、どんな顔だったか思い出せなくなる。
「なあ」
コウタは小さく声を落とした。
「やっぱり――」
「……鳴ってる」
ヒナタが言った。
コウタは口を閉じる。
「また?」
ハヤテが笑う。
ヒナタは答えない。
すでに店の奥へ歩き出していた。
「おい」
止めても聞かない。
ハヤテが小さく息を吐く。
「まあ、そうなるよな」
そう言って、ヒナタの後を追う。
コウタだけが、その場に残った。
足が動かない。
怖い。
というのとも少し違う。
ここに入った瞬間から、何かに見られている気がする。
いや。
もっと前から。
ずっと。
自分でも見ないようにしていた場所を、静かに覗かれているような。
胸の奥がざわつく。
そのとき。
――迷っているな。
声がした。
コウタは顔を上げる。
誰も、こちらを見ていない。
ヒナタは棚の前。
ハヤテは、その隣。
店主はカウンターの奥にいる。
――そろそろ、選ぶか。
別の声。
前にも聞いた。
夕方の商店街。
二枚のカード。
触れかけた指先。
そして。
――それで、よかったの?
今度は、もっと近い。
老人の声にも聞こえる。
女の声にも。
若い男の声にも。
ひとつではない。
けれど、重なっているわけでもない。
順番もなく。
耳元でもなく。
頭の奥に、音だけが残っていく。
コウタは無意識にリングを握った。
冷たい。
その感触だけが、はっきりしている。
ふと。
視線を感じた。
カウンターの奥。
白い髪の隙間から。
店主がこちらを見ている。
――ような気がした。
目が合ったわけではない。
それでも。
見られた。
そう思った。
店主の口元が、ほんの少し動く。
「……また、来ると思ってた」
コウタは眉を寄せる。
「……俺?」
返事はない。
店主は視線を外し、カウンターの横へ手を伸ばした。
カサ、と紙が擦れるような音がする。
古びた箱が置かれる。
白い縁。
擦れた角。
長い間、何度も開け閉めされた跡。
蓋が開く。
中にはカードが入っていた。
コウタは、それを見た瞬間に指を止める。
見たことのない絵柄。
なのに。
知っている気がする。
「選べ」
店主が言った。
「急だな」
ハヤテが笑う。
ヒナタは何も言わない。
ただ、カードを見ている。
コウタは動けなかった。
選ぶ。
その言葉だけが、妙に重い。
店主が一枚、また一枚とカードを並べる。
乾いた音。
そのたびに、何かが少しずつ近づいてくる。
「今鳴っているものは」
店主の指が止まる。
ランプの光が、カードの端を照らした。
「隠せない」
コウタは、並べられたカードから目を離せなかった。
「一枚?」
ハヤテが聞いた。
店主は頷く。
「今のを見たいなら」
「占いってこと?」
「好きに呼べばいい」
ハヤテが笑う。
「じゃ、俺から」
迷いなく一枚取った。
裏返す。
カードには、風の中を走る人影が描かれていた。
手には、細い棒のようなもの。
どこか、スティックにも見える。
「……俺っぽくない?」
「自分で言うなよ」
コウタが呆れる。
カードの下には、小さく文字がある。
『走る鼓動』
店主がカードを見る。
「止まる理由より、進む理由」
「いいじゃん」
ハヤテは満足そうに笑った。
「めちゃくちゃ俺じゃん」
「だから自分で言うなって」
「次」
店主の視線が動く。
ヒナタだった。
「俺も?」
「……嫌なら断ってもいい」
ヒナタは少しだけカードを見る。
それから、一枚取った。
裏返す。
夜の窓。
その前に立つ、ひとりの後ろ姿。
『遠い窓』
ヒナタは黙って見ている。
「少し離れて見える景色」
店主が言った。
「……ふうん」
それだけだった。
興味がないようにも見える。
でも、カードはすぐには戻さなかった。
最後に。
店主の視線がコウタへ向く。
「俺はいい」
「まだ何も言ってない」
「顔が言ってる」
ハヤテが横から笑う。
「引けって」
「お前は黙ってろ」
コウタはカードを見る。
引きたくない。
理由は分からない。
ただ。
選ぶ、という行為そのものが嫌だった。
前にもそうだった。
二枚のカード。
選ばなかった方。
指先に、あの冷たさが戻る。
「……一枚だけだからな」
誰に言い訳しているのか分からないまま、手を伸ばす。
真ん中より少し右。
一枚を抜く。
裏返した。
上下が逆だった。
カードに描かれているのは、何かを差し出す手。
その先に、もうひとつの手。
『置いた手』
コウタは眉を寄せる。
「逆さだけど」
「それも意味がある」
店主が言う。
少しだけ間を置いて。
「気持ちと答えが、重なっていない」
コウタの指が止まる。
「……何それ」
「書いてある通りだ」
「そんなこと書いてないだろ」
店主は答えない。
ハヤテが横からカードを覗く。
「当たってんじゃない?」
「うるさい」
コウタはカードを伏せた。
乾いた音がする。
たったそれだけなのに。
何かを見透かされたような気がした。
「占いなんて、こんなもんだろ」
吐き捨てるように言う。
店主は何も言わず、カードを重ねていく。
カサ。
薄い紙が擦れる音。
一枚ずつ揃えて、古びた箱へ戻す。
最後のカードを押し込んだとき。
カリ。
硬いものが、箱の内側を擦ったような音がした。
コウタは顔を上げる。
「……今の」
店主は蓋を閉じる。
それ以上、同じ音はしなかった。
店を出る頃には、さっきまでの静けさが嘘みたいに、街の音が戻っていた。
車の走る音。
遠くの信号機。
どこかの店から漏れる話し声。
コウタは一度だけ、後ろの扉を見る。
さっき並べられたカードが何だったのか。
店主が何を見ていたのか。
結局、よく分からないままだった。
「見てこれ。買っちゃった」
ハヤテの声に、コウタは前を向く。
手のひらに、妙なものが乗っていた。
丸い目。
笑っているような口。
何を模したのかも分からない、小さなマスコット。
「……何だそれ」
「かわいくない?」
「怖すぎるだろ」
「そう?」
ハヤテは不満そうにマスコットを持ち上げる。
ヒナタも横から一度だけ見る。
「趣味悪い」
「ひどくない?」
ハヤテが笑った。
「二人とも分かってないな」
「分かりたくない」
コウタが返す。
ハヤテは気にした様子もなく、指先でマスコットをくるくる回しながら前を歩く。
その姿を見ていると。
さっきまでいた店が、本当にそんなにおかしな場所だったのか分からなくなる。
「変な店だったな」
ハヤテが言った。
「お前、そこでそれ買ってるけどな」
「だから面白いんじゃん」
少しだけ間が空く。
ヒナタが歩きながら、小さく息を吐いた。
「……でも、悪くない」
コウタは横を見る。
ヒナタは前を向いたままだった。
「お前、本当にあの店好きだな」
「別に」
「音聞こえるから?」
「……知らない」
それ以上、ヒナタは何も言わない。
コウタも聞かなかった。
少し歩く。
路地の出口が近づいてくる。
街灯の光が強くなって、三人の影が足元に伸びた。
コウタは、ふと足を緩める。
振り返る。
路地の奥。
小さな白い灯りは、まだ点いていた。
曇ったガラス。
古い扉。
さっきまで自分たちがいた店。
ちゃんと、そこにある。
そのとき。
――まだ、迷ってる?
耳元で声がした。
コウタの背筋が、わずかに強張る。
反射的に振り返った。
誰もいない。
ハヤテとヒナタは、少し先を歩いている。
もう一度、店を見る。
ランプの灯りの奥。
カウンターの向こうに、白い髪が見えた。
店主。
こちらを見ている。
距離がある。
声なんて届くはずがない。
それなのに。
口元が、ほんの少し動いた気がした。
――きっと、また来る。
コウタは目を逸らす。
「コウタ?」
ハヤテが振り返っていた。
「何してんの」
「……何でもない」
足を速める。
二人に追いつく。
三人で、また歩き出す。
コツ。
コツ。
コツ。
足音が重なる。
コウタは数えない。
そのまま前を向く。
それでも。
少し遅れて、
もうひとつ。
足音が聞こえた気がした。
***
HAYATE
数日後。
仕事を終えたハヤテは、いつものバーを出た。
ドアが閉まると、店の中の話し声と音楽が急に遠くなる。
カクテルの甘い香りが、まだ少しだけ服に残っていた。
夜風が気持ちいい。
街はもう静かになり始めている。
閉まりかけた店のシャッターが下りる音。
遠くを走る車。
信号が変わる電子音。
ハヤテはポケットに手を入れて、駅とは少し違う方向へ歩いた。
急いで帰る理由もない。
街灯の下。
壁際に並んだ自転車。
誰かが落としたレシート。
細い路地。
気になるものがあるたび、少し覗いて。
また歩く。
そうしているうちに。
足が止まった。
「……あ」
薄暗い路地の先。
見覚えのある白い灯り。
その向こうに、小さな看板が見える。
Under tone
──ひとつ多い音に、気づく場所。
別に、ここへ来ようと思って歩いていたわけではない。
少なくとも。
ハヤテはそのつもりだった。
「また来ちゃった」
ひとりで笑う。
コウタなら絶対に嫌がるだろう。
ヒナタは、何も言わずに入る気がする。
そんなことを考えながら、扉を開けた。
チリン。
鈴が鳴る。
「……ども」
軽く手を上げる。
店の奥には、相変わらず店主がいた。
白い髪。
ハヤテには、どう見ても子どもにしか見えない。
なのに。
カウンターの奥に座っている姿だけは、妙に馴染んでいる。
「……」
返事はない。
歓迎もされない。
追い返されもしない。
「相変わらずだな」
ハヤテは気にせず、棚を見始めた。
透明な石。
小さな鈴。
古い鍵。
文字の消えかけた箱。
何に使うのか分からないものが、今日もいくつも並んでいる。
一つ、鈴を手に取った。
軽く振る。
チリ。
思ったより小さい音だった。
「これ、鳴るんだ」
当たり前のことを言って、元に戻す。
次に、半透明の石をランプへかざした。
中に細い線のようなものが見える。
「なあ」
石を見たまま聞く。
「この店、なんなの」
少しだけ間があった。
「……ひとつ多い音を置いている」
「音?」
ハヤテは笑った。
「ヒナタみたいなこと言うな」
意味が分かるようで、分からない。
でも。
そういう答えが返ってくる店なのだろう。
それ以上は聞かなかった。
棚へ石を戻そうとしたとき。
店主の視線が止まった。
「……それ」
「ん?」
ハヤテは自分の手を見る。
「交換してやってもいい」
「何と?」
ポケットを探る。
指先に紙が触れた。
出てきたのは、さっきのバーでもらったコースターだった。
「あ、これ?」
店主の前に出す。
「嫌だよ。これ、地味に集めてんだ」
「違う」
「ん?」
「逆」
店主が見ているのは、コースターではなかった。
ハヤテのもう片方の手。
そこに、小さな石ころが乗っている。
「……あ、こっち?」
さっき路地に入る前。
なんとなく目について、拾ったものだった。
白とも灰色とも言えない。
そのへんに落ちていても、たぶん誰も気にしないような石。
「見せて」
ハヤテは素直に渡した。
店主はカウンターの下から、小さなルーペを出す。
石を光へかざす。
角度を変える。
じっと見る。
「何、宝石?」
返事はない。
「めっちゃ高いやつだったりする?」
やっぱり返事はない。
店主は細い道具を取り出し、石の表面に当てた。
少し力を入れる。
パキ。
小さく欠けた。
「あ」
ハヤテが身を乗り出す。
「割った」
「削っただけ」
欠けた断面を、またルーペで見る。
しばらくして。
「……悪くない」
「え、面白」
何が悪くないのかは分からない。
でも、急にただの石ではなくなった気がした。
ハヤテはカウンターに近づく。
「なあ」
「……」
「名前なんていうの」
店主は答えない。
「これから通うならさ」
ハヤテは笑う。
「覚えといた方がいいじゃん?」
少し沈黙が続いた。
それから。
「……ナギ」
「ナギ」
ハヤテは確かめるみたいに繰り返した。
「へえ」
そのままカウンターの前に座る。
肘をついて、身を乗り出す。
「何歳?」
「……」
「彼女いる?」
「……」
「好きな食べ物は?」
「……」
「店、繁盛してる?」
「……」
「歌とか好き?」
「……」
ナギは黙ったままだった。
ハヤテも気にしない。
さっき欠けた石の小さな欠片を、指先で転がす。
「こういうのってさ」
「……」
「カラスとか拾っていくのかな」
ナギが、ようやく顔を上げる。
「……お前」
ほんの少し。
笑ったように見えた。
「距離詰めるの早すぎだろ」
「そう?」
ハヤテが笑う。
店の中で。
小さな鈴が、風もないのに一度だけ鳴った。
***
深夜。
路地裏は、前に来たときより少し湿っていた。
昼間の熱がまだ残っているのか、空気はぬるい。
どこかで、猫が鳴いている。
白い猫だった気がする。
姿は見えない。
ハヤテはもう迷わず、Under toneの扉を開けた。
チリン。
「よお」
奥にいるナギへ軽く手を上げる。
「……また、お前か」
「少しは歓迎しろよ」
ハヤテは笑いながら店へ入った。
ナギはそれ以上何も言わない。
いつの間にか、これがいつもの流れになっていた。
練習が終わる。
いつものバーで一杯だけ飲む。
それから帰る途中で、この店に寄る。
毎回、何かひとつ。
役に立つのかどうかも分からないものを買って帰る。
「今日はこれかな」
棚から手に取ったのは、傷だらけのヨーヨーだった。
赤だったのか、青だったのか。
色もほとんど剥げている。
「これ使える?」
「知らない」
「売ってる本人が言う?」
ナギは手を差し出した。
ハヤテは意味を察して、財布を出す。
札と小銭をいくつか置いた。
「あと、これ」
ポン、と。
その横へ、小さなチョコレートをひとつ置く。
ナギの手が止まった。
「差し入れ余ってさ。めちゃくちゃ美味いよ」
「……子どもじゃない」
ナギが視線を逸らす。
ハヤテは、その顔をしばらく見る。
「なんでかな」
「俺には、子どもに見えるよ」
ナギが黙る。
最初に三人で来たときから、そうだった。
背丈も。
顔つきも。
声も。
どう見ても、自分よりずっと年下に見える。
けれど。
話していると、ときどき分からなくなる。
ひどく古い人間と喋っているような瞬間がある。
ハヤテは柔らかく笑った。
「ナギ」
「……何」
「ずっと呼んでたんだろ。俺たちのこと」
ナギの表情は変わらない。
否定もしない。
ハヤテはヨーヨーを指に引っかけた。
軽く落とす。
糸が伸びる。
ガタ、と少し歪な音を立てて。
それでも、ちゃんと戻ってきた。
「なんかさ」
もう一度落とす。
「ほっとけなくて」
糸が伸びる。
戻る。
ポン、と手の中に収まる。
ナギは何も言わなかった。
ただ。
カウンターの上に置かれたチョコレートを見ている。
「食わないなら返して」
「……いる」
「いるんじゃん」
ハヤテが笑う。
ナギはチョコレートを手元へ引き寄せた。
その動きだけが、妙に子どもっぽく見えた。
***
夜が深くなっていた。
街の音が、ひとつずつ減っていく。
遠くでシャッターが下りる。
誰かの笑い声が通り過ぎる。
それも、しばらくすると聞こえなくなった。
Under toneの灯りだけが、変わらず点いている。
ハヤテはカウンターに肘をついて、棚の奥を眺めていた。
並んだ石。
古い瓶。
見たことのない形の鍵。
来るたびに見ているはずなのに、まだ知らないものがある。
ナギは向かいで、小さな布を使って石を磨いていた。
「眠くないの」
ハヤテが聞く。
「……」
「寝ないの?」
ナギは手を止めない。
「店がある」
「深夜でも?」
「……来るやつがいる」
ハヤテは少し黙った。
深夜にしか来られない人。
深夜だから、来られる人。
昼間なら言えないことを、こんな時間なら話せる人。
たぶん。
そういう誰かが、この店へ来る。
「俺もそっちか」
ナギが少しだけ顔を上げる。
答えない。
でも。
目だけが、わずかに笑ったように見えた。
チリン。
突然、鈴が鳴った。
ハヤテが扉を見る。
誰も入ってこない。
閉じた扉があるだけだった。
「風かな」
ナギは何も言わない。
ハヤテも、それ以上は気にしなかった。
「なあ」
「……」
「ここに置いてある音って」
ナギの手が、ほんの少し遅くなる。
「何の音なの」
しばらく返事はなかった。
布が石の表面を擦る。
かすかな音だけが続く。
やがてナギは、磨いていた石を棚へ戻した。
「言えなかったやつ」
「……え?」
「その時に、言えなかった音」
ハヤテは黙る。
そのとき。
ふ、と。
誰かの笑い声が聞こえた。
ほんの一瞬。
明るい声。
楽しそうに笑う、誰かの声。
ハヤテは振り返る。
店の中には、ナギしかいない。
外だろうか。
そう思って、耳に手をやる。
指先が、ピアスに触れた。
淡い黄色の石。
前にこの店で受け取ったもの。
「……?」
もう一度触れてみる。
何も聞こえない。
「何」
ナギが言う。
「いや」
ハヤテは手を離した。
「なんか、笑い声した気がして」
ナギは何も答えない。
その沈黙が少し気になったけれど、ハヤテはそれ以上追わなかった。
「……返せるの」
少しだけ静かな声で聞く。
ナギは考えるように間を置く。
「返すんじゃない」
「じゃあ?」
「置いておく場所を作るだけだ」
夜風が窓を小さく揺らした。
ランプの灯りも、わずかに揺れる。
ハヤテは無意識に、もう一度ピアスへ触れた。
今度は。
何も聞こえなかった。
「……そっか」
小さく言う。
全部を解決するわけじゃない。
元に戻すわけでもない。
ただ。
置いておける。
それなら。
「悪くないな」
ナギは何も返さなかった。
ハヤテも、もう聞かなかった。
静かな店の中で。
布が石を擦る音だけが、また小さく鳴り始めた。
ハヤテはカウンターに肘をついたまま、ぼんやりと棚を眺めていた。
さっきから、ナギはほとんど喋らない。
石を磨いて。
棚へ戻して。
また別の石を手に取る。
その繰り返し。
不思議と、沈黙は気にならなかった。
「俺さ」
ハヤテが、ぽつりと言う。
「三人兄弟なんだよ」
ナギは顔を上げない。
「一番下」
返事がなくても、そのまま続ける。
「上の兄貴、一回り上で」
「真ん中の兄貴も七つ上」
自分で言って、少し笑った。
「結構離れてるだろ」
「……」
「二人とも家のこと背負っててさ」
棚の端に置かれていた、小さな兜の人形を指先でつつく。
「おかげで俺は、好きにやらせてもらってた」
音楽をやると言っても。
バンドを続けると言っても。
止められた記憶は、ほとんどない。
「……今考えると」
ハヤテは人形から手を離した。
「恵まれてたのかな」
ランプの灯りが、小さく揺れた。
ナギは何も言わない。
ハヤテも、答えを求めているわけではなかった。
「子どもの頃さ」
少しだけ間を置く。
「親に、音楽続けるの反対されてたやつがいて」
今度は棚にあった星形のオブジェを手に取る。
表面が少しくすんでいる。
指先で転がすと、光の当たり方だけが変わった。
「同じくらいの歳だったのに」
ハヤテはそれを見ながら言う。
「なんか、一人で家背負ってたんだなって」
当時は、そんなふうに考えたこともなかった。
自分と同じ歳で。
同じように音楽が好きで。
同じように笑っていたから。
「今になって思う」
星をゆっくり棚へ戻す。
「俺は好き勝手やってたのに」
視線はそのまま。
「最初に誘ったの、俺だったんだけど」
『おれも、コンサートやってみたい』
『歌うのは、朔』
あの頃は、それくらい簡単なことだと思っていた。
「急に、終わって」
「気づいたら、会わなくなってて」
少し笑う。
「そのまま疎遠になった」
ナギの手だけが動いている。
布が石の表面を擦る。
小さな音。
一定の速さ。
「なんかさ」
ハヤテは目を伏せる。
「ずっと残ってんだよね」
何が。
とは言わなかった。
自分でも、うまく名前をつけられない。
後悔なのか。
引っかかりなのか。
もっと何かできたんじゃないかという、今さらな気持ちなのか。
「でも」
ハヤテは続ける。
「こないだ久々に会ってさ」
そのときの顔を思い出す。
昔より少し大人になって。
でも、笑い方はあまり変わっていなかった。
「感謝してる、って言われて」
ハヤテは困ったように笑った。
あの言葉を聞いたとき。
嬉しいより先に、戸惑った。
「何もしてやってなんか、ないのにな」
ナギが、少しだけ顔を上げる。
「そいつが納得してるなら」
磨いていた石を棚へ戻す。
「それでいい」
ハヤテは黙った。
窓が小さく揺れる。
外から入った風が、ランプの火をかすかに揺らした。
「……うん」
それだけ答える。
しばらく、店の音だけが続いた。
石を置く音。
布を畳む音。
古い木が、わずかに軋む音。
ハヤテは足元のカバンへ手を伸ばした。
中を探る。
「あ」
小さな箱を取り出す。
「なあ、チョコ食う?」
ひとつ摘まんで差し出した。
ナギが眉を寄せる。
「……子どもじゃないって言ってるだろ」
「知ってる知ってる」
そう言いながら。
ナギは、ちゃんとチョコレートへ手を伸ばした。
ハヤテは笑う。
「毎回食うじゃん」
ナギは答えない。
包みを開く、小さな音だけがした。
***
ライブの帰り道。
三人で駅へ向かって歩く。
夜の空気が少し冷たい。
ハヤテはカバンを肩へ掛け直した。
「最近さ」
少し前を歩きながら言う。
「あの店、通ってんだよ」
コウタが眉を寄せる。
「あの店って」
「Under tone」
「……マジで?」
「帰りに寄るの、もうルーティンになっててさ」
ハヤテが笑う。
「気づいたら毎回なんか買ってる」
「また変なの増えてそう」
「失礼だな」
「ヨーヨーとか買ってるやつに言われたくない」
「ちゃんと戻ってくるぞ、あれ」
「そういう問題じゃないだろ」
ハヤテが笑った。
「面白くてさ」
「何あった」
横から声がした。
ヒナタだった。
ハヤテが一瞬止まる。
「珍し」
「何が」
「お前から聞くの」
ヒナタは前を向いたまま。
「別に」
「古いレコードとか」
ハヤテは指を折る。
「CDとか。プレイヤーもあったな」
少し考える。
「あと、カセットとか」
「……ふうん」
それだけ。
けれど。
ヒナタの歩幅が、ほんの少し変わった。
ハヤテはそれに気づいたけれど、何も言わない。
「俺は行かないけどな」
コウタが短く言った。
「え、なんで」
「……なんか嫌なんだよ」
「何が」
「分かんないけど」
ハヤテは横目でコウタを見る。
「まだ気にしてんの?」
「何を」
「いつだかの夢の話」
「……別に」
返事が少し早い。
ハヤテは笑う。
「そのリングだって、なんだかんだ気に入ってるじゃん」
コウタは反射的に右手を隠した。
「これは」
言いかけて、やめる。
親指で、中指のリングに触れる。
カリ。
爪先が、石の縁を擦ったような音がした。
黒く見える石。
その内側で、薄い煙のような色が揺れた。
――それで、よかったの?
また。
あの声。
コウタの指が止まる。
「……うるさい」
「え?」
ハヤテが振り返る。
「何でもない」
コウタは手をポケットへ入れた。
そのまま前を向く。
少し先では、ヒナタが黙って歩いている。
けれど。
さっきより、ほんの少しだけ速い。
まるで。
もう、次に寄る場所を決めているみたいだった。
***
HINATA
ライブが終わって。
打ち上げも終わった。
店を出る頃には、もうかなり遅い時間になっていた。
「お疲れ。今日はもうダメ」
ハヤテが肩を回しながら言う。
「正直、俺もそう思う」
コウタも軽く笑った。
「お疲れ」
ヒナタが短く返す。
三人はそのまま路地で別れた。
ハヤテとコウタが駅の方へ歩いていく。
ヒナタは少しだけ反対方向へ進み、コンビニへ入った。
身体は疲れている。
肩も重い。
耳の奥には、まだライブの音が残っている。
それでも。
まっすぐ帰る気にはならなかった。
冷蔵ケースの前で、酒を二、三缶選ぶ。
適当にカゴへ入れる。
少し歩いて。
プリンの棚を見る。
「……」
一度止まったけれど。
結局、取らなかった。
会計を済ませて外へ出る。
夜風はぬるい。
さっきまで人の多い場所にいたせいか、深夜の街が余計に静かに感じられた。
車の走る音。
風の音。
自分の足音。
コツ。
コツ。
少し遅れて。
コツ。
たまに、数が合わない。
ヒナタは振り返らなかった。
気にした時点で、そっちに寄る。
前にも、そんなことを言った気がする。
今も同じだった。
ライブの熱。
ギターの音。
客の歓声。
そっちの方が、まだ身体の中に強く残っている。
歩きながら、何気なくスマートフォンを見る。
通知がいくつか並んでいた。
未読のままの仕事の連絡。
確認待ちのスケジュール。
重なり始めた予定。
最近は、Snow flakes以外で音に関わる仕事も増えている。
個人名義での楽曲制作。
曲を作ってほしいという依頼。
ありがたいとは思う。
断る理由もない。
けれど。
画面を見ているうちに、さっきまで残っていたライブの熱が少しずつ冷えていく。
急に、現実へ戻されたような気がした。
ヒナタは小さく息を吐く。
Snow flakesは、三人のバンド。
それは変わらない。
変わらないはずなのに。
自分だけの名前で作る音が、少しずつ増えている。
スマートフォンの画面を消す。
ポケットへ戻した。
そのとき。
音がした。
ヒナタの足が止まる。
「……」
曲。
と呼ぶほど、形はない。
ほんの短いフレーズ。
遠くで誰かが、思いつくまま楽器を鳴らしているような音。
ひとつ。
また、ひとつ。
不規則に落ちてくる。
でも。
ただ適当に鳴らしているのとは少し違う。
ヒナタは耳を澄ませた。
そのとき。
胸元で、かすかに音がした。
「……?」
指先でネックレスに触れる。
深い青の石。
以前、この店で受け取ったもの。
ふ、と。
誰かが歌ったような気がした。
声というほど、はっきりしていない。
短い旋律だけが。
今聞こえている楽器の音へ、薄く重なる。
ヒナタは足を止めた。
もう一度、石に触れる。
今度は何も聞こえない。
ただ。
遠くで鳴っているフレーズだけが続いている。
あとひとつ。
どこかに音を置けば。
何かになりそうなのに。
その手前で止まっている。
続きを待っているみたいに。
「……鳴ってる」
こんな時間に。
こんな場所で。
誰が鳴らしているのか。
考えるより先に。
ヒナタの足は、その音のする方へ向いていた。
音の鳴る方へ歩いていく。
路地の奥。
見覚えのある白い灯り。
Under tone。
扉を開ける。
チリン。
店の中は静かだった。
けれど。
奥から、さっきの音が聞こえている。
一音。
少し間が空いて。
また、一音。
ヒナタはそのまま店の奥へ進んだ。
突き当たり。
カウンターの中で、店主が楽器を鳴らしている。
見たことのない形だった。
弦のようなものがある。
でも、ギターとも違う。
鍵盤でもない。
どこをどう鳴らしているのか、よく分からない。
ただ。
音は綺麗だった。
さっき外で聞いた、途中で止まったフレーズ。
ヒナタが一歩近づく。
その瞬間。
音が止まった。
「なあ、これ」
店主が顔を上げる。
ヒナタを見る。
「このコード、ちょっと変えるとさ」
一音。
さっきとは違う響きが落ちる。
ヒナタは少しだけ目を細めた。
「……いいな」
「だろ」
もう一度。
音が鳴る。
ヒナタは黙って聞く。
そのまま、少し考えた。
「そこ、下げてもいいかも」
「どこ」
「その前」
「ああ」
店主が鳴らす。
一音。
もう一音。
「……そっちか」
「違う」
「じゃあ、こっち?」
また鳴る。
「……それ」
今度は、さっきより自然だった。
空いていた場所へ、音がひとつ置かれる。
それだけで。
短かったフレーズに、続きを作れそうな気がした。
ヒナタはもう少し近づく。
「その次、抜いてもいい」
「抜く?」
「入れすぎると重い」
「じゃあ、ここは」
ポロン。
「そこは残す」
「細かいな」
「そっちが聞いたんだろ」
店主が少し笑う。
ヒナタも、気づけば笑っていた。
そこから。
音の話は、なかなか終わらなかった。
あの音はどうだとか。
ライブで鳴らすなら、どこを変えるとか。
置く音。
抜く音。
余る音。
音を増やすより。
どこに置かないかの方が難しい。
そんな話をしていたはずなのに。
ふと。
ヒナタは自分の手元を見る。
コンビニの袋。
「あ」
酒を買ったままだった。
少し考える。
袋を持ち上げた。
「……飲む?」
店主が袋を見る。
少しだけ笑った。
「飲む」
「何」
「何でもいい」
「それ一番困るやつ」
適当に一本取り出して渡す。
プシュ。
小さく炭酸の抜ける音がした。
ヒナタも一本開ける。
そこからは。
音のこと。
ライブのこと。
好きな曲のこと。
知らないバンドのこと。
気づけば、話は続いていた。
誰かと話しているというより。
音を置いて。
返ってきて。
また置く。
そんな感じだった。
時間の感覚だけが、いつの間にか消えていた。
ふと。
窓の向こうが、少し白くなっている。
ヒナタはそこで初めて気づいた。
「……やば」
思わず笑う。
もう朝だった。
コウタも。
ハヤテもいないのに。
こんなに喋ったのは、久しぶりな気がする。
ヒナタは立ち上がった。
「……帰らなきゃ」
「ちゃんと寝ろよ」
「そっちも」
店主は何も言わない。
ヒナタは空になった缶をまとめる。
それから。
一度だけ振り返った。
名前を聞こうとは、思わなかった。
必要なら。
そのうち分かる。
今は。
音が鳴ることだけで、十分だった。
***
スタジオ。
ヒナタのギターが、少し軽い。
いつもより。
置く音が少し前へ出る。
テンポも、ほんの少しだけ揺れている。
「なんか、いいことあった?」
ハヤテが軽く聞いた。
「別に」
そう言いながら。
ヒナタはもう一度鳴らす。
さっきと同じフレーズ。
でも。
少しだけ、笑っている。
コウタが眉を寄せた。
「ちゃんと寝た?」
「……まあ」
「その間は何」
「寝た」
「何時間」
「覚えてない」
「寝てないだろ」
ヒナタは答えず、ギターを置いた。
ハヤテがテーブルの上にあるスケジュールを開く。
「じゃ、今日の確認な」
ホワイトボードに視線が向く。
「ヒナタ、午後から楽曲制作の打ち合わせ」
「俺、ライブの打ち合わせ」
「コウタ、雑誌の取材」
ページをめくる。
「あ、あとヒナタ」
「夜、レコーディング」
コウタが顔を上げた。
「……多くない?」
「ちゃんと休んでる?」
「……まあ」
ヒナタは笑って流す。
「まあ、じゃないだろ」
「大丈夫」
「それ信用ならないやつ」
ハヤテが笑う。
ヒナタも、それ以上は何も言わなかった。
仕事を終える頃には、夜はすっかり深くなっていた。
外へ出ると、昼より冷えた空気が頬に触れる。
ヒナタは歩き出した。
考えるまでもない。
足は、あの路地へ向かっていた。
昨日までなら。
少しくらい迷ったかもしれない。
今日は違う。
白い灯りが見える。
扉へ手を掛ける。
チリン。
そのまま奥へ進む。
音の鳴る方へ。
「お疲れ」
「うん」
店主は、昨日と同じ場所にいた。
何かを鳴らしている。
ヒナタはコンビニの袋を持ち上げた。
「……飲む?」
「飲む」
昨日と同じ返事。
それだけで少し笑う。
缶を一本置いてから、店内を歩く。
石。
古いレコード。
形の違う鍵。
見たことのない道具。
昨日より、少しだけ店の中が見える気がした。
ふと。
棚の端で手が止まる。
カセットテープ。
少し色の抜けたケース。
何のラベルも貼られていない。
ヒナタは手に取る。
「……これ、聞ける?」
「わかんない」
奥から返事が飛んでくる。
「その辺にプレーヤーなかった?」
楽器を鳴らす手は止まらない。
「その辺ってどこ」
「その辺」
「雑だな」
棚を見る。
箱をずらす。
古い機械をひとつ手に取る。
違う。
もうひとつ。
これも違う。
「ないけど」
「あると思う」
「思うって」
返事がない。
ヒナタがもう一度棚を覗き込む。
そのとき。
いつの間にか、店主が隣に立っていた。
一緒になって棚の奥を見る。
「あー」
小さなプレーヤーをひとつ取り出す。
「これじゃなかったっけ」
ヒナタが受け取る。
見る。
「……違う」
「あれ」
「カセット入らない」
「ほんとだ」
「自分の店だろ」
「全部覚えてない」
「どういう店だよ」
ヒナタはもう一度カセットを見る。
ケースの中。
少し古びたテープ。
聞けると思っていたわけではない。
なのに。
「……聞けないか」
思ったより、声が落ちた。
「何」
店主が横から顔を覗き込む。
「珍しい顔してる」
「してない」
「してる」
「してない」
「してる」
「……うるさい」
店主が笑う。
ヒナタはカセットを棚へ戻そうとして。
少しだけ、手を止めた。
***
それからも。
ヒナタは、深夜になると店へ通った。
仕事が早く終わった日も。
遅くなった日も。
気づけば、あの路地へ向かっている。
店の奥では、いつも何かしら音が鳴っていた。
最初は形のなかったフレーズも。
少しずつ、曲らしくなってきている。
「いいな」
ヒナタが言う。
「うん。あと少し」
店主が楽器を鳴らす。
ポロン。
ヒナタは、その上に適当にハミングを乗せた。
声が重なる。
楽器の音が追う。
一度、少し崩れて。
また戻る。
うまくいかなければ、もう一度。
違えば、やめる。
良ければ、そのまま残す。
そんなことを繰り返しているうちに。
どちらが先に出した音なのかも、分からなくなっていた。
合間に酒を飲む。
くだらないことで少し笑う。
また鳴らす。
ヒナタは胸元へ手をやった。
青い石が、指先に触れる。
その瞬間。
ほんの短く。
誰かの歌声が、今の旋律へ重なった気がした。
「……」
店主を見る。
「何」
「いや」
もう一度、石へ触れる。
今度は何も聞こえない。
ヒナタはそれ以上気にせず、手を離した。
一人で作る曲なら、最近は増えていた。
依頼されて作るもの。
自分の名前で出すもの。
それはそれで、嫌ではない。
むしろ、音を作れる場所が増えたこと自体は嬉しかった。
でも。
今ここで鳴っているものを聞いていると、自然にその先が浮かぶ。
この隙間には、低い音が欲しい。
ここは、少し走るリズムがいい。
誰に頼むかなんて、考えるまでもなかった。
「これさ」
店主を見る。
「そのうち、ちゃんと歌えよ」
楽器を鳴らしていた手が止まる。
「ドラムとベースも入れて」
ポロン。
一音だけが落ちた。
「いいの」
「いいよ」
少し間が空く。
ヒナタは缶を持ったまま、少しだけ笑った。
「だってさ」
まだ完成していない曲。
誰のものとも決めていなかった音。
「これ、もう俺たちの曲だろ」
店主の手が止まる。
すぐには、何も返ってこなかった。
ただ。
さっきまで鳴っていた音の余韻だけが、店の奥に残っている。
「……そっか」
小さく返す。
「そうだよ」
ヒナタはそれ以上、何も言わなかった。
***
数日後。
スタジオ。
ヒナタはアンプの横へスマートフォンを置いた。
「これ」
「なに?」
ハヤテが覗き込む。
「途中」
ヒナタが再生する。
静かな音から始まった。
少し遅れて、別の音が入る。
重なる。
少し崩れる。
それでも、また戻ってくる。
いつものヒナタの曲とは、少し違った。
決められた場所へ収まるというより。
音の方が、勝手に動いていく。
最後まで。
誰も話さなかった。
音が止まる。
一瞬の間。
「へえ」
ハヤテが先に笑った。
「面白い」
スマートフォンを見たまま続ける。
「なんか、変わったな」
「何が」
「前より動く」
「動く?」
ヒナタが眉を上げる。
「うまく言えないけど」
ハヤテは少し考える。
「勝手にどっか行きそう」
「……何それ」
「でも、いい」
笑ったまま言う。
「こういうの好き」
ヒナタは小さく笑った。
それから。
視線だけをコウタへ向ける。
「……どうした」
コウタは答えない。
スマートフォンの画面を見たまま。
少しして。
「……誰と作った?」
一瞬だけ。
ヒナタの動きが止まった。
でも。
何も言わない。
代わりに缶を持って、一口飲む。
ハヤテが笑った。
「なにそれ」
「怪しすぎるだろ」
コウタが何か言いかけた、そのとき。
ハヤテが立ち上がる。
「合わせてみようぜ」
もうスティックを指先で回している。
「途中なんだろ?」
「だったら、ちょうどいいじゃん」
笑ったまま。
コウタを見る。
「コウタ」
「……は?」
「ベース」
コウタが眉を寄せる。
「いや、待って」
「まだ何も――」
最後まで言う前に。
ヒナタがギターを持った。
一度。
音を鳴らす。
もう一度。
タン。
ハヤテが入る。
少し遅れて。
コウタも弦へ指を置いた。
余った場所へ。
低い音を置く。
崩れない。
初めて合わせたはずなのに。
何度もやったみたいに。
最初から、そこに入る場所を知っていたみたいに。
音が重なる。
ハヤテが笑った。
「うわ」
「面白」
ヒナタも少しだけ笑う。
コウタだけが、動かなかった。
弦に置いた指が止まっている。
「……どうした」
ヒナタが聞く。
コウタは少し黙った。
「いや」
一度、言葉を探す。
「……気持ち悪い」
「は?」
ハヤテが吹き出した。
「ひどいな」
「違う」
コウタは眉を寄せる。
「普通、ちょっとズレるだろ」
「入る場所とか」
「間とか」
自分の指先を見る。
「……なのに」
言葉が止まる。
ヒナタは何も言わない。
ただ。
弦の上へ指を置いたまま、少しだけ目を細めた。
「……知ってたみたいに」
一拍。
「合う」
***
相変わらず、夜だった。
ヒナタは店へ向かう。
いつも通りの道。
いつも通りの路地。
もう、白い灯りを探す必要もない。
足が覚えている。
けれど。
扉を開けた瞬間、いつもと少し違うことに気づいた。
チリン。
鈴の音だけが、静かな店内へ落ちる。
「……?」
店主がいない。
いつもの場所。
いつもの灯り。
棚も、カウンターも、そのままなのに。
音だけが、少し残っている。
さっきまで誰かがここにいたような、薄い余韻。
ヒナタはそのまま奥へ進んだ。
カウンターの上に、小さなものが置かれている。
足が止まる。
「……これ」
カセットテープ。
前に見つけた、あの色の抜けたやつだった。
ラベルは、相変わらず何もない。
その横に、走り書きのメモが一枚。
『聞ける時に、聞け』
数秒、黙って読む。
それから、少し笑った。
「だから、聞けないんだって」
返事はない。
店の奥も静かなままだった。
ヒナタはもう一度、カセットを見る。
前に見つけた時と、何も変わっていない。
中に何が入っているのかも分からない。
いつ録られたものなのかも。
誰のものなのかも。
それでも。
今度は棚へ戻そうとは思わなかった。
カセットをポケットへ入れる。
かわりに。
バッグの中を探って、USBをひとつ取り出した。
カウンターの上へ置く。
ここで作り始めた曲。
その続きを、スタジオでハヤテとコウタと三人で鳴らした音が入っている。
この店で鳴らしていた時には、まだ途中だった。
けれど。
ベースが入って。
ドラムが入って。
音は、ちゃんと先へ進んだ。
ヒナタはUSBを指先で少し押した。
「……これ、置いとく」
返事はない。
それでも、そのまま置いていく。
聞けない音をひとつ持って帰って。
今、鳴っている音をひとつ残す。
それでいい気がした。
帰り道。
夜の空気が少し冷たい。
ヒナタは途中のコンビニへ寄った。
冷蔵ケースの前で少し止まる。
前は取らなかったプリン。
今日は二つ取った。
会計を済ませ、また歩き出す。
ポケットの中には、なんとなく拾った石と、聞けないカセットテープ。
歩くたび、中でぶつかって小さく音が鳴る。
足音は、自分のだけが響いている。
ライブの日程。
仕事の連絡。
バンドの話。
明日になれば、全部また戻ってくる。
なにも変わっていない。
予定が減ったわけでもない。
何かが解決したわけでもない。
それでも。
路地を出る前に、一度だけ振り向いた。
白い灯り。
Under toneは、まだそこにある。
「……鳴ってる。今も」
誰に言うでもなく呟く。
返事はない。
ヒナタは前を向いた。
帰る道は、変わっていない。
でも。
ポケットの重みの分だけ。
少しだけ何かが軽くなった気がした。
***
KOUTA
ハヤテが、いつも以上にチョコレートを持ち帰る。
ヒナタが、よく笑う。
新しい曲が、妙にきれいに合う。
どれも、少しずつ違和感があった。
いや。
ヒナタが笑っているのは、別にいい。
そこだけは、すぐに思い直す。
最近、寝不足なくせに機嫌がいいのも。
帰りが遅い日が増えたのも。
それ自体は、どうでもいい。
問題は、音だった。
ヒナタが持ってきた新しい曲には、まだ歌詞がない。
短いギターのフレーズと、大まかな構成だけ。
最初に聴かされた時も、まだ「曲」と呼ぶには少し足りないくらいだった。
それなのに。
ハヤテがスティックを鳴らした瞬間、何の相談もなくリズムが入った。
ヒナタのギターが、その上へ乗る。
コウタもベースを構えた。
どこから入るか。
考える必要がなかった。
指が勝手に動く。
低い音をひとつ置いて。
少し空ける。
次を鳴らす。
間違っていない。
むしろ、気持ち悪いくらい自然だった。
次にヒナタがどこへ行くのか分かる。
ハヤテがどこで少し前へ出るのかも。
どこで落とすのか。
どこを空けるのか。
そこへ、自分が何を置けばいいのかまで。
最初から知っていたみたいに、分かる。
さっき、自分で言った言葉が頭に残っていた。
――知ってたみたいに。
弦を押さえる。
鳴らす。
合う。
また鳴らす。
やっぱり合う。
いつもなら、それでいいはずだった。
三人で音を出していて、何も言わなくても噛み合う瞬間はある。
何年も一緒にやってきた。
ヒナタの癖も。
ハヤテの癖も。
知っている。
だから合う。
そういうものだと思えばいい。
なのに。
耳の奥に、何かが引っかかる。
コウタは眉を寄せたまま、音を追った。
ギター。
ドラム。
自分のベース。
ひとつずつ拾う。
数えるように。
その瞬間。
ぞわ、と腕の内側が冷えた。
音が、ひとつ多い。
「……」
指は止めない。
もう一度、聴く。
ヒナタ。
ハヤテ。
自分。
それだけのはずだ。
スタジオには三人しかいない。
アンプのランプも、いつも通り点いている。
隣の部屋の音が混じっているわけでもない。
それでも。
自分のベースにぴたりと重なるように、もう一本、低い音がある。
ほんの少しだけ先に。
自分が次に触れる場所を、先に知っているみたいに。
コウタは顔を上げなかった。
聞き間違いだと思いたかった。
そのまま弾く。
音はズレない。
むしろ、弾けば弾くほど合っていく。
自分がその音を追っているのか。
その音が自分についてきているのか。
だんだん分からなくなる。
喉の奥が乾いた。
一度だけ。
本当に一度だけ。
指を止めてみようかと思った。
馬鹿らしい。
止めれば分かる。
自分のベースが消える。
それだけだ。
なのに。
できなかった。
もし。
止めても消えなかったら。
そんな考えが浮かんだ瞬間、指先がわずかに冷えた。
今、自分が手を止めても。
たぶん。
この曲は、そのまま進む。
理由もないのに、そう思った。
胃の奥が落ちるような感覚がした。
「……」
それでも、最後まで鳴らした。
曲が止まる。
残響だけがスタジオに薄く残った。
いつもなら、終わった瞬間に少し息が抜ける。
今日は違った。
音が止まったはずなのに、耳だけがまだ何かを探している。
「……いいじゃん」
ハヤテがスティックを指先で回しながら言った。
「なんか、合ったな」
ヒナタが小さく息を吐く。
「うん」
二人とも普通だった。
それが妙に遠く見えた。
コウタはベースから手を離す。
左手の指先が、少し冷えていた。
「悪い」
短く言う。
「今日は帰る」
「え?」
ハヤテが顔を上げた。
「体調悪い?」
「別に」
嘘ではない。
頭が痛いわけでも、熱があるわけでもない。
ただ。
今ここでもう一度あの曲を鳴らすのが、少しきつかった。
ケースを開け、ベースをしまう。
いつもより金具の音が大きく聞こえた。
「甘いの持ってけ」
ハヤテがテーブルの上にある差し入れを指さす。
「……気分じゃない」
「いいから」
袋を適当に漁って、小さな包みをひとつ投げてよこす。
コウタは反射で受け取った。
「雑」
「取れてんじゃん」
「そういう問題じゃない」
返す気力もなく、そのままポケットへ入れる。
ヒナタはギターの弦を軽く鳴らしながら、こちらを見た。
「……無理するなよ」
「してない」
少し早く返してしまった。
ヒナタはそれ以上言わなかった。
その方がありがたかった。
スタジオを出る。
扉が閉まると、さっきまで鳴っていた音が急に遠くなった。
廊下の白い照明。
空調の低い音。
自販機のコンプレッサー。
どれも、普通の音だった。
外へ出る。
夜の空気が、思ったより冷たい。
コウタは一度だけ深く息を吸った。
帰るつもりだった。
駅へ向かうつもりだった。
足も、最初はそちらへ向いていた。
けれど。
交差点をひとつ過ぎたところで、気づく。
「……は?」
駅とは違う。
見覚えのある路地。
白い灯り。
Under tone。
立ち止まる。
「……なんで」
自分でも分からない。
むしろ、来たくなかった。
あの店に入れば、また何か聞こえる気がする。
余計なことを考える気がする。
なのに。
帰ろうとは思わなかった。
ポケットの中で、ハヤテにもらった包みが小さく鳴る。
コウタはしばらく扉を見た。
それから。
言葉とは逆に、手はドアノブへ伸びていた。
チリン。鈴が鳴った。
たまたま近くを通ったから。
それだけ。
そういうことにしておく。
チリン。
扉が閉まってから、少し遅れてまた鈴が鳴った。
店内は静まり返っている。
外の車の音も、ここまで来るとずいぶん遠い。
コウタは入口の近くで一度立ち止まった。
何をしに来たのか、自分でも分からない。
買いたいものがあるわけじゃない。
誰かに会いたいわけでもない。
ただ。
帰ろうとすると、さっきの音が頭に戻ってくる。
ヒナタのギター。
ハヤテのドラム。
自分のベース。
それから。
ひとつ多かった音。
「……」
考えるのをやめる。
なんとなく棚へ目を向けた。
メトロノーム。
古い懐中時計。
用途の分からない金具。
小さな箱。
その隣。
見覚えのある形に目が止まった。
パズル。
「……懐かしい」
思わず手に取る。
手のひらに収まるくらいの大きさだった。
いくつかの部品が組み合わさって、一つの形になっている。
子どもの頃、似たようなものを触ったことがある。
どう外して、どう戻すか。
一度分かってしまえば、それほど難しくない。
カチ。
一つ動かす。
カチ。
次をずらす。
カチ。
引っかかっていたところが外れる。
ほとんど考えていなかった。
ここが空けば、次が動く。
こっちを先にずらせば、そこが通る。
そういう順番が、見れば分かる。
「それ、解き方わかんなくてさ」
「……っ」
不意に声がして、コウタの指が止まった。
振り返る。
「……え?」
少年がいた。
カウンターの奥でもなく、入口でもない。
棚の横に、いつからいたのか分からないまま立っている。
こんな時間に。
小学生くらいだろうか。
コウタは店の奥を一度見た。
親らしい人間はいない。
店員も見当たらない。
「どうやるの」
少年がパズルを見る。
「……これ?」
「うん」
警戒する様子もない。
コウタは少し迷ってから、手元へ視線を戻した。
「ここを、こうして……」
一つずらす。
「先にこっち空けると、これが動くから」
カチ。
形が変わる。
少年が覗き込む。
「次は?」
「ここ」
「なんで?」
「なんでって……」
コウタは手を止めた。
説明しようとして、少し考える。
別に法則を覚えていたわけじゃない。
見れば分かる。
空いている場所がある。
そこへ動かせるものがある。
その先に、また空きができる。
「……そうなるから」
「ふうん」
ひどく雑な説明だったが、少年は気にしていないらしい。
もう一度。
カチ。
部品が収まる。
少年は変わった形を眺めた。
「へえ」
それから。
少しだけ考えるように首を傾げる。
「……解けるんだ」
「……」
たったそれだけだった。
褒めているのかも分からない。
驚いているだけかもしれない。
なのに。
その言葉だけが、妙に耳に残った。
解ける。
さっきの曲もそうだった。
次が分かる。
入る場所が分かる。
何を置けば形が整うのかも。
「……別に」
誰に言うでもなく呟いて、パズルを棚へ戻した。
最後まで解いたわけではない。
途中まで。
元の形とは少し違う状態で置く。
少年は何も言わなかった。
行き場を失った手をポケットへ入れる。
カサ。
指先に、小さな包みが触れた。
「……あ」
ハヤテに押しつけられたクッキー。
そのまま入れっぱなしだった。
取り出す。
自分で食べる気は、まだしない。
少年を見る。
こんな時間に子どもが一人でいることの方が、よほど気になる。
聞こうとして。
やめた。
代わりに、クッキーを少し持ち上げる。
「……食べる?」
少年はコウタの顔ではなく、手の上の包みを見た。
数秒。
それから。
静かに笑った。
***
店にいた少年のことが、少し気になっていた。
あのパズルも。
「解けるんだ」と言った声も。
別に、大したことではない。
そう思っていたのに。
気づけば、またあの路地へ来ていた。
扉の前で足を止める。
今日は、昨日より少しだけ迷った。
それでも。
手を掛ける。
チリン。
店へ入った瞬間、タバコの匂いがした。
少し苦い。
服に残りそうな匂い。
嫌いではなかった。
コウタは店内を見回す。
昨日の少年はいない。
代わりに。
店の奥で、男が何かを鳴らしていた。
年齢はよく分からない。
少年よりずっと上なのは確かだが、店の暗さのせいか、顔までははっきり見えない。
手にしているものも、楽器なのかどうかすら分からなかった。
弦があるようにも見える。
管のようなものもある。
けれど。
どこを弾いているのか。
どこから音が出ているのか。
見ていても分からない。
低い音。
少し遅れて、高い音。
間が空く。
また重なる。
コウタは少し離れたところに立ったまま、その音を聴いた。
綺麗だった。
まとまっている。
それなのに。
どこかに、小さく引っかかるものがある。
耳の奥が勝手に探し始める。
何だ。
どこだ。
低い音のあとか。
高い音が入る前か。
違う。
分からない。
気づけば、呼吸まで浅くなっていた。
少しして。
音が止まる。
急に静かになると、それまで鳴っていたものの輪郭だけが残った。
男は楽器から手を離す。
それから、少し離れたところに立っているコウタへ視線を向けた。
最初からそこにいることに気づいていたらしい。
目が合う。
男は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
タバコの煙をゆっくり吐く。
「お前らのライブ」
コウタが顔を上げる。
「聴いたことがある」
「……いつ」
男は答えない。
煙だけが、ランプの明かりの中で薄く揺れる。
「良いよ」
一拍。
「ああいう音」
また少し間が空く。
「好きだな」
「……」
コウタは返事をしなかった。
何と言えばいいのか分からない。
ありがとうございます、と言うほど素直な気分でもない。
誰だよ、と聞くのも今さらな気がした。
男はそれを気にした様子もなく、視線を落とした。
それから。
「聴かせてよ、それ」
「……は?」
顎で示した先。
背中に背負っているベース。
コウタは反射的にストラップへ手を掛けた。
嫌だ。
最初にそう思った。
理由は分からない。
この男の前で鳴らしたくない。
そんな感覚だけが先に立つ。
なのに。
気づけば、ベースを構えている。
ストラップの位置を直す。
アンプには繋がない。
生の弦が震える、頼りない低音。
いつもならほとんど気にならない小ささなのに。
今日は、ひどく近く聞こえた。
一音。
少し空ける。
もう一音。
店の中では、余計な反響が少ない。
だからこそ。
指の迷いまで全部聞こえる気がした。
考えない。
ただ鳴らす。
低い音。
少し置く。
また鳴らす。
男は何も言わなかった。
面白そうに、コウタの指先だけを見ている。
その視線が少し鬱陶しい。
コウタは顔を上げないまま弾いた。
すると。
「……聞こえるか?」
指がわずかに止まる。
「……何」
思ったより声が詰まった。
男は、何でもないことみたいに言った。
「ひとつ多い音」
「……」
呼吸が止まる。
どん。
頭の奥で何かが鳴った。
心臓なのか。
低い音なのか。
分からない。
どん。
どん。
どん。
「……っ」
指だけ動かす。
一度、位置を迷う。
戻る。
止まる。
鳴らす。
さっきまで普通にできていたことが、急にぎこちなくなる。
聞こえる。
鳴っている。
また。
自分の音のすぐ横。
ほんの少しだけ先にある何か。
追おうとすると、消える。
無視すると、残る。
コウタは奥歯を噛んだ。
「なあ」
指が止まる。
男が軽く手を上げた。
「……迷ってるならさ」
その指先が、コウタのベースのあたりを指す。
「そこの音」
一拍。
「もらってもいい?」
意味が分からなかった。
いや。
言葉の意味自体は分かる。
分かるから、余計に気持ちが悪い。
「何言っ……」
男は気にせず続けた。
「お前、そこ埋めるの上手いから」
埋める。
「空いてるとこ、見つけるの」
喉が鳴った。
さっきまで店にあったタバコの匂いが、急に濃くなった気がした。
何か言い返したい。
なのに。
言葉が出ない。
頭に浮かんだのは、全然違う場所だった。
ライブ。
客席の奥。
止めたはずの音。
消えなかった余韻。
自分より、わずかに先にあったもの。
黒い影。
それから。
ヒナタの声。
『気にするとさ』
『そっちに寄るだろ』
胸の奥が冷えた。
――危ない。
何が危ないのかは分からない。
でも。
これ以上、聞いたら。
これ以上、あの音を探したら。
何かがずれる。
そんな気がした。
コウタはベースのネックを少し強く握った。
指の関節が白くなる。
男は何も言わない。
ただ。
こちらを見ている。
コウタは視線を逸らした。
その瞬間。
中指のリングが、弦に触れた。
カリ。
小さな音。
あまりにも近くて。
コウタは反射的に、手を止めた。
***
次に三人でスタジオに入った時も、あの男の言葉は頭に残っていた。
それを振り払うように、コウタは何度目か分からないフレーズを繰り返していた。
低い音。
少し置く。
また鳴らす。
さっきより、少しだけ強い。
もう一度。
同じ場所。
同じ長さ。
同じはずなのに。
鳴らすたび、どこかが違う。
「……ん?」
ハヤテが顔を上げた。
「どした?」
コウタは視線を上げない。
「何が」
「いや、なんか」
ハヤテは少し笑う。
「別に」
隣で弾いていたヒナタが手を止めた。
「……音、尖ってる」
一瞬。
コウタの指が止まる。
ほんの一瞬だけだった。
すぐに、また弦へ戻す。
「そう?」
自分でも分かっていた。
強く弾いている。
いつもより、少しだけ。
音の頭が固い。
余計なものを押し返すみたいに。
頭の奥で、あの声がまた浮かぶ。
『そこの音』
『もらってもいい?』
「……」
無意識に、ベースのネックを強く握る。
意味が分からない。
そこの音って、どこだ。
何をもらうんだ。
何で。
自分の音を。
考えたくないのに、勝手にそこへ戻る。
空いているところ。
そこを見つけるのが上手い。
それが何だ。
悪いのか。
誰かが前へ出るなら、その下を支える。
空けば入る。
詰まれば引く。
その方が曲がまとまるなら、そうする。
ずっとそうしてきた。
なのに。
あの男に言われた瞬間から、それが別のものみたいに聞こえる。
妙に悔しい。
「……今日、早めに上がる」
ハヤテが顔を上げる。
「ん」
それだけだった。
理由も聞かない。
ヒナタも、またギターへ視線を戻した。
「……無理するな」
「してない」
また、少し早く返す。
ヒナタは何も言わない。
「甘いの、もってけ」
ハヤテがテーブルの上の差し入れ袋を漁る。
「はい」
こちらを見もしないで、小さな包みを投げてきた。
コウタは反射で受け取る。
「相変わらず、雑だな」
「ちゃんと取ったじゃん」
「そういう問題じゃない」
ハヤテが笑う。
その顔を見て。
ほんの少しだけ。
肩の力が抜けた。
ハヤテも、ヒナタも変わらない。
いつも通りだった。
変わったのは、たぶん自分の方だ。
そう思うと、余計にどうしていいのか分からなかった。
***
スタジオを出たあと、今度は迷わなかった。
駅とは逆へ曲がり、そのままあの路地へ向かう。
何か一言、言わないと気が済まなかった。
『そこの音』
『もらってもいい?』
あれは何だったのか。
ふざけるな、と。
今度こそ言う。
白い灯りが見えてくる。
店の前まで来ると、一度だけ息を吐いた。勢いのまま入った方がいい気もしたが、そこで少しだけ呼吸を整える。
それから、ドアノブを押した。
チリン。
鈴の音が、静かな店内へ落ちる。
今日は棚を見る気にはならなかった。
メトロノームも、懐中時計も、パズルもそのまま通り過ぎる。
奥に人影が見えた。
背中を向けている。
コウタはそこへ向かいながら、無意識に中指のリングへ親指を触れた。冷たい銀の感触を確かめるように一度なぞって、すぐに手を離す。
「あの」
声を掛けた。
返事はない。
店の中が静かなせいで、自分の声だけが妙に残った。
コウタは少し待つ。
もう一度呼ぼうかと思ったが、そこで言い直すのも何となく癪だった。
結局、そのまま黙って相手が振り返るのを待った。
しばらくして、人影がゆっくり振り返った。
コウタは眉を寄せたまま、その顔を見る。
女性だった。
さっきまで当然のように、あの男がいるつもりで声を掛けていた。だから、頭の中で用意していた言葉が、その瞬間に全部止まった。
「……え」
「何?」
タバコの匂いもしない。年齢も違うし、声も違う。
それなのに、彼女はここにいるのが当たり前みたいな顔で、本を片手にこちらを見ていた。
コウタは何か言わなければと思ったが、さっきまで何を言うつもりだったのかさえ一瞬分からなくなる。
視線だけが逃げるように、彼女の手元へ落ちた。
開いた本。
ページの端に置かれた指。
「……本、好きなんですか」
口にした瞬間、自分でも何を聞いているんだと思った。
ふざけるな、と言いに来たはずだった。あの男の言ったことを問いただして、一言言うつもりだった。
なのに、出てきたのはそれだった。
その場にしゃがみ込みたい気持ちをどうにか堪えていると、彼女は本から顔を上げ、コウタを下から上まで一度眺めた。
少し間を置いて。
「好き」
「……」
一瞬だけ、胸の奥が別の方向に跳ねた。
コウタはそれを聞かなかったことにした。
「この間」
間を埋めるように、勝手に口が動く。
「ここで本を買って」
彼女は少しだけ目を細めた。
「良かったでしょ」
「……はい」
コウタも、つられるように少し肩の力を抜く。
「ずっと探してたけど、もう手に入らなかったやつで」
「そう」
言ってから、何でこんな話をしているんだと思う。
けれど彼女は変に踏み込んでこないし、話を切ることもしなかった。その距離感が妙に楽で、気づけば、さっきまで胸の中にあった苛立ちが少しだけ遠のいている。
彼女が小さく笑う。
「座れば?」
「……」
断る理由を探した。
見つからない。
結局、そのまま椅子へ座る。
一言言いに来たはずなのに。
知らない女性と、本の話をしている。
しかも、気づけばコーヒーまで出てきていた。
カップの縁から細い湯気が上がっている。
コウタはそれを見ながら、いつこうなったんだと思う。
会話は妙に続いた。
本の装丁。
絶版になった理由。
作者の別作品。
どうでもいい話まで、途切れそうで途切れない。
普段なら、知らない相手とこんなに話さない。けれど彼女は、必要以上に聞かないし、沈黙を埋めようともしない。
だからなのか。
むしろ、話しやすかった。
「あ」
ふと思い出し、コウタはポケットを探った。
「これ」
ハヤテに投げられた焼菓子の包みを取り出す。
彼女はそれを見て、少し目を細めた。
「焼菓子」
「はい」
包みを見たまま、彼女が言う。
「好きなんだ」
「……俺じゃないです」
言ってから、別に否定する必要もなかったなと思う。
彼女は少し笑った。
「置いていけば」
「勝手に?」
「勝手に来たんでしょ」
「……」
何も言い返せない。
コウタは包みをテーブルの端へ置いた。
カサ、と軽い音がする。
彼女は本へ視線を戻したまま、小さく言った。
「ここ、そういうものは残るから」
残る。
その一言で。
さっきまで少し遠のいていたものが、また戻ってきた。
コウタの手が、無意識にベースケースのストラップへ触れる。
音。
言葉。
置いたもの。
残る。
『そこの音』
『もらってもいい?』
あの男の声まで、はっきり蘇る。
指先に少し力が入った。
それが、嫌だった。
「……あの人は」
口にしてから止める。
彼女が顔を上げた。
「誰」
「……いや」
タバコの匂いのする男。
そう言えばいいだけなのに、なぜかうまく言葉にならない。
コウタは視線を逸らした。
彼女もそれ以上は聞かなかった。
ただ、ページを一枚めくる。
その時。
チリン。
入口の鈴が鳴る。
コウタは反射的に振り返った。
誰もいない。
扉も閉じたままに見える。
「……?」
しばらく入口を見てから、ゆっくり前へ戻る。
彼女は顔も上げずに言った。
「コーヒー、冷めるよ」
「……はい」
カップへ手を伸ばす。
一口飲む。
苦い匂いがした。
タバコとは違う。
それでも、なぜか少しだけ似ている気がした。
***
また店に来ていた。
子ども。
見たこともない楽器を鳴らす男。
本を読んでいた女性。
来るたびに、店にいる人間が違う。
それなのに。
どこか同じ場所に触れられているような感じだけが残る。
気持ち悪い。
そう思うのに、足はまたここへ向いていた。
あの男がいたら、今度こそ何か言うつもりだった。
何を言うのかは、まだはっきり決まっていない。
それでも。
あのままにはしておけなかった。
『そこの音』
『もらってもいい?』
思い出すたび、腹の奥がざらつく。
勝手に人の音を見つけたみたいな顔をして。
勝手に意味をつけて。
一言くらい言い返せたら、少しはスッキリするはずだ。
今日こそは。
そう思って、扉を開ける。
チリン。
店内は静かだった。
タバコの匂いはしない。
聞いたことのない楽器の音もない。
本をめくる音も聞こえない。
あの男の姿も、見当たらなかった。
「……」
言いに来た言葉が、そのまま行き場をなくす。
コウタは店の奥をしばらく見たあと、諦めて棚の前に立った。
メトロノーム。
懐中時計。
その隣に、前に触ったパズルがある。
やりかけのまま。
自分が置いた時とほとんど変わっていない。
コウタは無意識にそれを手に取った。
ここを、こうして。
次に、こっちを動かす。
指先が迷わず進む。
カチ。
ひとつ。
カチ。
もうひとつ。
分かる。
解ける。
あと一手。
そこで指が止まった。
入る場所はある。
ここへ動かせば完成する。
なのに。
最後の一つを入れると、形が少し変わる。
今まで綺麗に整っていたものが、わずかに歪む。
完成するのに。
見慣れていた形からは、少し外れる。
それでも、なぜか。
その歪んだ方が、本当の形に見えた。
「それ、最後まで解くの」
「……っ」
後ろから声がして、コウタは振り返る。
この間の少年がいた。
「……いたのか」
少年は悪びれた様子もなく笑う。
「解けるんでしょ」
「解けるなら、解くだろ」
そう言って、もう一度パズルへ視線を戻す。
でも。
指は動かない。
少年も、それを見ていた。
「じゃあ、解いたあとは?」
「……」
答えられなかった。
解いたあとは。
形は整う。
完成する。
もう、動かす必要もなくなる。
それだけだ。
「完成させたいの」
「……別に」
すぐに返す。
「でも、直そうとした」
コウタは黙った。
少年は責めるような口調ではない。
ただ、見たままを言っているだけだった。
「空いてるところ、見つけるの上手いよね」
胸の奥が、わずかに硬くなる。
同じ言葉だった。
タバコの匂いと一緒に残っている、あの男の声。
『お前、そこ埋めるの上手いから』
『空いてるとこ、見つけるの』
指先に力が入る。
勝手に。
また。
頭の中へ、スタジオの音が戻ってきた。
ヒナタがフレーズを見失った時。
ハヤテのリズムが少し走った時。
自分の音が前へ出すぎると思って、一度引っ込めた時。
三人の音が崩れないように。
空いた場所を探して、そこへ入れる。
必要なら鳴らす。
いらないなら引く。
前に出すぎない。
誰かの音を潰さない。
そうしてきた。
それで、まとまった。
それでよかった。
そう思っていた。
「でもさ」
少年の声は軽い。
軽いままだから、余計に逃げ場がなかった。
「空いてるところを埋めたんじゃなくて」
少し間が空く。
「本当は、自分がそこに入るのをやめただけじゃないの」
指が止まった。
違う。
最初に浮かんだのは、それだった。
反射みたいに。
でも、声にはならない。
喉の奥で何かが引っかかる。
違う。
そんな簡単な話じゃない。
ヒナタが迷えば、そのぶんを支えた。
ハヤテが前へ出れば、ぶつからないところへ引いた。
自分のフレーズが邪魔だと思えば、消した。
そうした方が三人の音になるから。
そうしたかったから。
それなのに。
少年の一言だけで。
全部、自分が逃げただけみたいに聞こえた。
胸の内側が急に熱くなる。
言い返せ。
そう思うのに。
言葉がうまく出てこない。
少年は笑ってもいない。
責めてもいない。
ただ、こちらを見ている。
その視線が余計に腹立たしかった。
手の中には、最後の一手を残したパズル。
入れれば変わる形。
完成する場所は分かっている。
なのに。
動かせない。
少年が静かに言う。
「ねえ」
一拍。
「それで、よかったの?」
その瞬間。
何かが切れた。
「……良かったに決まってるだろ」
声は、自分でも驚くほど低く出た。
少年は何も言わない。
それが、さらに腹に触る。
「俺が出なかったから、まとまったんだよ」
言葉が止まらない。
「俺が空いてるところを埋めたから、あの音になったんだ」
言いながら、自分でも苦しくなる。
それでも、もう引っ込められなかった。
胸の奥に溜まっていたものが、次々に口から出る。
「……勝手に決めんなよ」
少年はまだ黙っている。
喉の奥が熱い。
指にも力が入る。
いつもなら、ここで一度飲み込む。
言いすぎたと思えば戻す。
角が立たないところまで下げる。
でも。
今は、それができなかった。
「俺の音を、勝手に触るな!」
声が、店の中へぶつかった。
棚の間を抜けて。
壁に当たって。
自分のところまで返ってくる。
静かだった店が、一瞬だけ別の場所みたいになった。
言った直後。
体の熱が、一気に引いた。
あ、と思う。
目の前にいるのは子どもだ。
少年は黙ってこちらを見ていた。
怒っていない。
泣きそうでもない。
驚いてすらいない。
ただ、まっすぐ見ている。
それが、余計に刺さった。
謝らなきゃ。
すぐにそう思った。
大人気なかった。
子ども相手に、何を言っているんだ。
分かっている。
なのに。
口を開いても、声が出ない。
「……」
悪かった。
そう言えばいい。
いつもなら、言える。
言って。
少し引いて。
その場が収まるところへ自分を戻せばいい。
でも今それをしたら。
さっきの言葉まで引っ込めることになる気がした。
怒ったことも。
腹が立った理由も。
全部なかったことにして、また空いているところへ戻るみたいで。
それができなかった。
コウタは視線を落とす。
手の中のパズルを見る。
最後の一手は、まだ残っている。
入れないまま、棚へ戻した。
カチ。
小さな音がした。
何も言わずに出口へ向かう。
少年は止めなかった。
扉へ手を掛けた時。
背中に声が落ちる。
「それで、よかったの?」
コウタは振り返らない。
ドアを開ける。
チリン。
少し遅れて、鈴が鳴る。
外の空気は冷たかった。
さっきまで熱かった喉に、その冷たさが刺さる。
歩き出しても。
耳の奥には、まだ残っていた。
パズルの音でもない。
少年の声でもない。
自分が出してしまった、大きな声だけが。
***
昨日の声が、まだ耳の奥に残っていた。
『勝手に決めんなよ』
『俺の音を、勝手に触るな』
思い返すたびに、喉の奥が少し重くなる。
あんな大きな声を出すつもりはなかった。
まして、子ども相手に。
謝らなきゃ、とは思った。
その場で。
すぐに。
でも、言えなかった。
大声を出したことより、そのあと何も言えなかったことの方が、ずっと引っかかっている。
今日もいるだろうか。
あの少年が。
今さら謝ったところで遅い気もする。
それでも、何もしないままよりはましだった。
駅前まで来たところで、ケーキ屋の前に足が止まった。
ガラスのショーケースには、いちご、チョコ、チーズ、モンブラン。照明を受けたクリームが、妙にきれいに並んでいる。
コウタは少しの間、その前に立った。
何が好きかなんて知らない。
そもそも、あの少年が甘いものを好きなのかどうかも分からない。
それでも。
手ぶらで行って「昨日は悪かった」とだけ言うよりは、少しましな気がした。
「……これと、これ」
いちごとチョコを指す。
店員が確認する。
「二点ですね」
「はい」
返事をしてから、隣に並んでいるチーズケーキへ目が止まった。
「あ、それも」
「三点ですね」
「……はい」
言ってから、少しだけ眉を寄せる。
三つ。
別に、ハヤテとヒナタに買っていくわけでもないのに。
最近、三つ選ぶことに慣れすぎているらしい。
白い箱を受け取る。
細いリボンがかかっていて、持ってみると思ったより軽い。
それなのに。
店へ近づくほど、手に持っているものだけが妙に目立つ気がした。
Under toneの前で、一度だけ足を止める。
謝るだけだ。
昨日は悪かった。
大きな声を出した。
それだけ言えばいい。
頭の中で一度組み立ててから、ドアを開けた。
チリン。
鈴の音が、静かな店内へ落ちる。
棚の上には、昨日と同じものが並んでいた。
メトロノーム。
懐中時計。
パズル。
最後の一手を残したままのパズルも、同じ場所にある。
けれど。
少年はいなかった。
「……」
コウタは店の中をもう一度見回した。
少しだけ肩の力が抜ける。
安心したのか。
がっかりしたのか。
自分でもよく分からない。
ただ、頭の中で何度か練習した「昨日は悪かった」という言葉だけが、また行き場をなくした。
カウンターの奥に、人影がある。
顔を上げる。
男がいた。
前に見た、あの男とは少し違って見える。
もっと年上で、落ち着いている。
父親と同じくらいだろうか。
近くまで来ると、わずかに煙草の匂いがした。
少し苦い。
その匂いと横顔に、一瞬だけ見覚えを感じる。
いつか。
路地裏でカードを差し出してきた男。
「……」
似ている。
そう思ってから、すぐに打ち消した。
似ているだけだ。
たぶん。
ここへ来るたび、店にいる人間が違う。
そのたびに考えていたらきりがない。
コウタは何となく気まずくなって、少し離れた棚の前へ移動した。
何かを見るふりをする。
メトロノーム。
懐中時計。
パズル。
昨日までは普通に見ていたものなのに、今日はどれも妙に目に入ってこない。
片手に持った白い箱のせいだった。
謝罪用に買ったケーキを持って、謝る相手がいない。
どう考えても居心地が悪い。
コウタは箱を持ち直した。
その時。
視線を感じた。
横を見る。
男が、ケーキの箱を見ている。
「……?」
かなり見ている。
コウタは何となく箱を反対側へずらした。
男の視線も、その分だけ動いた。
「……」
見るなよ。
そう思ったけれど、もちろん言えるわけがない。
隠すには、もう遅い。
かといって、
「子どもに謝ろうと思ってケーキを買ってきたんです」
なんて説明するのも、もっと変だ。
コウタはしばらく黙って箱を見た。
それから。
もう一度、男を見る。
まだ見ている。
「……食べます?」
言った瞬間。
また変なことを言った、と思った。
普通に考えれば、知らない客が持ってきたケーキを店主が食べるわけがない。断られる前提でいたのに、男は白い箱を見たまま、あっさり頷いた。
「食べる」
「……食べるんですか」
「聞いたのはそっちだろ」
「……そうですけど」
何も言い返せない。
男は奥から皿を二枚、フォークを二本持ってきた。その動きがあまりに自然で、最初からこうなると分かっていたみたいだった。
コウタはテーブルの上で箱を開ける。
いちご。
チョコ。
チーズ。
男は迷わずチョコへ手を伸ばす。
「……それでいいんですか」
「いい」
短い。
コウタは残った二つを見比べて、結局チーズを取った。
いちごのケーキだけが、白い箱の中に残る。
向かい合って座る。
会話はなかった。
さっきまで箱を凝視していたくせに、いざ食べ始めると男は何も言わない。
コウタも話題を探す気にはならなかった。
フォークが皿へ触れる。
カチ。
少し置いて。
また、カチ。
その小さな音を聞いているうちに、ふと別のテーブルが頭に浮かんだ。
昔。
父がケーキを買ってきた日のこと。
誕生日でもなかった。
何かの祝いでもない。
その日、コウタは進路の話を避けた。
食卓で何か聞かれたわけではない。ただ、話がそちらへ向きそうになるたび曖昧に返して、結局最後まで自分から何も言わなかった。
家の空気が、少しだけ重くなった夜だった。
父は帰りに駅前のケーキ屋へ寄ったらしい。
何も言わず、箱をテーブルへ置いた。
『食べるか』
それだけだった。
理由も聞かれなかった。
どうするつもりだ、とも。
本当にそれでいいのか、とも。
向かい合ってケーキを食べた。
フォークが皿に触れる音。
冷蔵庫の低い駆動音。
音量を絞ったまま流れていたテレビのニュース。
その間も、父は何も言わなかった。
コウタはずっと、その沈黙を自分なりに受け取っていた。
たぶん。
がっかりされたんだと思っていた。
自分には、もっと分かりやすい道があった。
誰かに「そうしろ」と言われたわけではない。
それでも。
そういう道があることくらいは、分かっていた。
そして、自分はそちらを選ばなかった。
その時も、父は怒らなかった。
反対もしなかった。
ただ、少しだけ黙った。
その間を、コウタはずっと覚えている。
フォークを持つ手が止まった。
「……迷っているな」
突然、男が言った。
コウタは顔を上げる。
「何が」
「音」
男はチョコレートケーキの端を崩しながら続ける。
「置く場所」
喉の奥が少し詰まった。
「……何」
言いかけて止まる。
昨日、自分が店の中へぶつけた声が戻ってきた。
『俺の音を、勝手に触るな!』
あの大きさまで、一緒に。
コウタは視線を落とした。
「……昨日」
口にしてみる。
でも、その先が続かない。
本当は少年に謝るつもりで来た。
そのためにケーキまで買った。
なのに、目の前にいるのはこの男だ。
少年でもない。
前に楽器を鳴らしていた男とも違う。
誰に謝ればいいのか分からない。
そもそも、同じ店にいるというだけで関係があるのかも分からない。
男は何も聞かなかった。
「昨日、何があった」とも。
「誰に何をした」とも。
ただ、箱の中へ視線を落とす。
「それ」
「……はい」
「置いておくのか」
コウタも箱を見る。
いちごのケーキ。
三つ買って。
二つ選ばれて。
ひとつだけ残ったもの。
でも、捨てたわけではない。
「……あとで食べます」
男は小さく頷いた。
「じゃあ、置いておけ」
「……」
その言い方が。
なぜか少しだけ、父に似ていた。
何も決めつけない。
食べろとも。
今すぐ選べとも言わない。
ただ、そこに置いておく。
コウタは何も言えないまま、残ったケーキから目を離した。
皿の上で、フォークが小さく鳴る。
カチ。
その音は、すぐには消えなかった。
いちごのケーキは、まだ箱の中に残っていた。
食べないわけではない。捨てるつもりもない。
ただ、今は手を伸ばす気になれなかった。
向かいでは、男がチョコレートケーキをゆっくり食べている。
さっきから会話はほとんどない。
気まずいはずなのに、席を立ちたいとも思わなかった。
フォークが皿を擦る小さな音と、店の奥にある何かの駆動音だけが、ときどき沈黙の中へ落ちる。
昔も、こんな時間があった。
父と向かい合って、何も話さずケーキを食べた夜。
聞かれなかった。
どうするつもりだ、とも。
本当にそれでいいのか、とも。
その時は、聞かれなかったから何も言えなかったのだと思っていた。
けれど今は。
目の前の男が何も聞かないことが、妙に落ち着かなかった。
「……何も言わないんですね」
気づけば口にしていた。
男は顔を上げない。
「何を」
「いや」
コウタはフォークを皿へ置いた。
「普通、聞くじゃないですか」
「何を」
「何で来たのか、とか」
男がようやく少しだけ目を上げる。
「聞いてほしいのか」
「……別に」
反射で返した。
返した直後に、嘘だと思った。
聞かれたいわけじゃない。
聞かれたら、たぶん困る。
でも、誰にも聞かれないままなら、自分の中にずっと残る。
それも面倒だった。
自分でも、ずいぶん勝手だと思う。
男はそれ以上何も言わなかった。
急かさない。
続きを促しもしない。
ただ、またケーキへ視線を戻す。
その沈黙に耐えきれなくなったのは、結局コウタの方だった。
「……進路、決める時」
思っていたより声が小さくなった。
男の手は止まらない。
「たぶん、あったんです」
一度、言葉を切る。
「ちゃんとした道、みたいなの」
その言葉に、あの黒い髪の自分がふいに重なった。
揺れのない姿勢。
迷わず先へ触れていく指。
自分より少し先に、正しい場所へ収まっていく音。
コウタは一度だけ瞬きをして、視線を皿へ戻した。
進学校へ行く。
成績を落とさず、そのまま進む。
大学へ行く。
その先には、父の会社がある。
誰かにそうしろと言われたわけではない。
父も言わなかった。
母も。
妹も。
それでも、そういう道があることくらいは分かっていた。
家の中で地図を広げられたわけでもないのに、そこだけは最初から道が引かれていたように思えた。
進めば、たぶん迷わない。
少なくとも、今よりはずっと。
「俺、私立に行ったんです」
口にしてみると、思ったより簡単だった。
「音楽やりたくて」
男は黙っている。
コウタは皿の上へ視線を落としたまま続けた。
「そのあとも、結局そっちに行った」
「安定してる方じゃなくて」
言葉にすると、ずいぶん単純に聞こえる。
選択肢が二つあって、片方を選んだだけみたいに。
実際には、そんなにきれいではなかった。
「一回、戻ろうとしたこともあったんですけど」
一度だけ、笑おうとした。
けれど、うまくいかなかった。
「……戻れなかった」
コウタは少しだけ視線を落とす。
「父親は、何も言わなかった」
その言葉だけは、少し喉に引っかかった。
「反対もされなかったし、怒られもしなかった」
それなら、もっと楽でよかったはずなのに。
何も言われなかったからこそ、ずっと分からなかった。
許されたのか。
好きにすればいいと思われたのか。
それとも。
もう何も期待されなくなったのか。
コウタはフォークの柄を指先で少し動かした。
「……がっかりさせたんだと思ってました」
声は思ったより静かに出た。
「期待に応えられなかったんだって」
そこまで言って、ようやく男が顔を上げた。
「期待って」
短い問いだった。
コウタは答えようとして、止まる。
「……分からないです」
自分で言ってから、その答えの頼りなさに少しだけ眉を寄せる。
本当に、分からなかった。
父が何を期待していたのか。
会社へ入ることだったのか。
安定した生活をすることだったのか。
そもそも、そんな期待が本当にあったのか。
何も知らない。
聞かなかった。
聞けなかった。
ただ。
父が黙った、その短い時間だけを覚えていて。
そこへ自分で意味を足した。
「会社に入ることだったのか」
男が言う。
コウタは顔を上げる。
「安定することだったのか」
少し間が空いた。
男のフォークが皿へ触れる。
カチ。
「それとも」
視線が合う。
「自分で選ぶことだったのか」
息が止まった。
「……そんなの」
分からない。
そう続けるつもりだった。
けれど、言葉が出なかった。
分からないんじゃない。
考えたことがなかった。
父が何も言わなかったことを、ずっと失望だと思っていた。
期待に応えなかった自分への沈黙。
そう決めていた。
けれど。
別の意味があった可能性なんて、一度も考えなかった。
何も言わなかったことにも。
何かを選ばせるための余白があったのかもしれない。
そこまで考えて。
すぐに打ち消す。
都合がよすぎる。
今さら自分に都合のいいように読み替えているだけかもしれない。
父に聞かなければ、結局何も分からない。
「迷っているな」
男が言った。
また胸の奥へ直接触れられたような感じがした。
でも。
昨日ほど腹は立たなかった。
「……何を」
「置く場所」
男は箱の中へ視線を落とす。
いちごのケーキ。
「食べるなら食べる」
次に棚を見る。
最後の一手を残したパズル。
「入れるなら入れる」
最後に。
コウタを見る。
「鳴らすなら鳴らす」
「……」
どれも。
置く場所は見えている。
選べと言われれば、選べるはずだった。
コウタはそういうことが得意なはずだった。
空いた場所を見つけて。
形が崩れないように置く。
正しい位置を探す。
なのに。
自分のことになると、途端に分からなくなる。
男は静かに続けた。
「そろそろ、選ぶか」
その声は父には似ていなかった。
声も。
話し方も。
全然違う。
それなのに。
何も言わずにケーキの箱を置いた父の手を思い出した。
聞かなかった声。
聞けなかった言葉。
あの時も、父は答えを置いていかなかった。
コウタは箱の中を見る。
いちごのケーキは、まだ残っている。
食べていないだけで。
なくなったわけではない。
「……今じゃないです」
ようやく言った。
男は少しだけ笑った。
「そうか」
それだけだった。
責められなかった。
急かされもしなかった。
正しいとも。
間違っているとも言われない。
それが少しだけ苦しくて。
同時に。
少しだけ、楽だった。
男は空になった皿を重ねた。
チョコレートケーキがあった場所には薄くクリームの跡だけが残り、コウタの皿にも食べかけのチーズケーキが少し残っている。
白い箱の中には、いちごのケーキがひとつ。
まだ、そこにあった。
「……ごちそうさま」
男はそれだけ言って皿を持ち、店の奥へ入っていった。
コウタは箱を閉じるでもなく、しばらく中を眺めていた。
『食べるなら食べる』
『入れるなら入れる』
『鳴らすなら鳴らす』
『そろそろ、選ぶか』
簡単なことみたいに言う。
けれど、本当に簡単なら、こんなに長く引っかかっていない。
奥から、紙の擦れる音がした。
ページをめくる音。
コウタが顔を上げると、カウンターの向こうに女性がいた。
この間、本を読んでいた人だ。
さっきまでいた男は見当たらない。
いつ入れ替わったのかと思ったが、この店でそれを考え始めると、たぶん余計に分からなくなる。
コウタは何も聞かなかった。
女性も本から目を離さないまま、箱の中へちらりと視線を寄こす。
「それ、嫌いなの」
「……嫌いじゃないです」
「じゃあ、なんで食べないの」
コウタは少し考えた。
「最後に残してるだけです」
「好きだから?」
「……別に」
答えてから、たぶん嘘だと思った。
いちごのケーキは嫌いではない。
むしろ、好きな方だ。
けれど、わざわざ「好き」と言うほどのものでもない気がして、口にするのは何となく気恥ずかしい。
女性が小さく笑う。
「好きなものって、面倒だよね」
コウタは顔を上げた。
「何がですか」
「理由がいるから」
ページが一枚、静かにめくられる。
「どうして好きなのか」
「いつから好きなのか」
「それを選んで、どうするつもりなのか」
淡々とした声だった。
「本当は、好き、だけでいいのに」
その一言だけが、妙に近く聞こえた。
コウタは箱の中へ目を戻す。
音楽を始めた時も。
ベースを選んだ時も。
あの学校へ行きたいと思った時も。
最初から、誰かに説明できるような立派な理由があったわけではない。
ただ、そちらへ行きたかった。
それだけだった。
「……好きだけで選べるものじゃないでしょう」
思っていたより、小さな声になった。
女性が本を閉じる。
「選べないの」
「選べないというか」
コウタは言葉を探しながら、指先でフォークを少し動かした。
「選んだあとが、あるから」
「うん」
「選んだら、変わるし」
「うん」
「戻れないし」
「うん」
女性は否定もせず、ひとつずつ受け取るように頷く。
それが少しずるいと思った。
何か言い返してくれれば、こっちも言葉を止められるのに。
「でも」
女性の視線が、箱の中へ落ちた。
「残したままでも、変わるよ」
コウタもいちごのケーキを見る。
白いクリーム。
赤い果実。
買った時より、スポンジの端がほんの少し沈んでいた。
さっきまでと同じ場所にある。
それでも、まったく同じではない。
「……本って」
コウタは、ふと思い出したように口を開いた。
「最初から読むものじゃないんですか」
女性が首を傾げる。
「そういう本もある」
「そうじゃない本もある」
開いた本を指先で軽く叩く。
「好きなページから読んでもいい」
「それ、話分かるんですか」
「分からないところは、あとで戻ればいい」
当たり前のことみたいに言われて、コウタは少し眉を寄せた。
「戻れるんですか」
「本ならね」
女性は少し間を置いた。
「人は、同じ場所には戻れないけど」
コウタは黙る。
さっき自分で言った言葉と重なった。
『……戻れなかった』
「でも」
女性が続ける。
「置いた場所には、また触れられる」
すぐには意味が分からなかった。
それでも、その言葉だけが胸のどこかへ残った。
置いたままのもの。
触らなくなったもの。
選ばなかったもの。
なくなったわけではなく、ただそこへ置いてきただけのもの。
コウタは無意識に中指のリングへ触れかけて、やめた。
「……食べれば」
女性が言う。
「今ですか」
「今じゃないなら、また残るよ」
責めるような言い方ではなかった。
だから余計に、コウタは箱の中をしばらく見た。
それから、いちごのケーキを取り出す。
皿はもう下げられている。
「……皿」
「ないね」
「……」
仕方なく、箱の端でフォークを入れた。
クリームが少し崩れる。
ひと口食べる。
甘い。
思っていたより、ずっと甘い。
いちごの酸味より先に、クリームの甘さが舌に残った。
子どもっぽい味だと思った。
でも、嫌いではない。
女性は何事もなかったように、また本を開く。
「好き?」
コウタはフォークを持ったまま、少しだけ黙った。
「……嫌いじゃないです」
女性が笑う。
「そう」
それ以上は聞かなかった。
好きだと言わせようともしない。
どうして好きなのかも聞かない。
コウタはもうひと口、ケーキを食べた。
甘さはまだ口の中に残っている。
今度は、それを消そうとは思わなかった。
コウタはフォークを置く。
カチ。
小さな音がした。
その音で、父と向かい合ってケーキを食べた夜を思い出す。
何も言わなかった父。
何も聞けなかった自分。
ずっと、その沈黙を失望だと思っていた。
けれど。
責められた記憶ではない。
許された記憶でもない。
ただ、一緒にケーキを食べた。
あれが何だったのかは、今でも分からない。
分からないままでも。
あの沈黙を、ひとつの意味だけで決めなくてもいい気がした。
コウタが顔を上げる。
いつの間にか、カウンターの向こうに女性の姿はなかった。
本もない。
店内には、静けさだけが戻っている。
棚の上に、やりかけのパズルがあった。
最後の一手を残したまま。
コウタは立ち上がり、その前へ行く。
手に取る。
ここを動かして。
次に、こっちをずらす。
もう迷わない。
解き方は分かっている。
最後の一つが入る場所も。
そこへ入れれば、完成する。
形は少し変わる。
綺麗に揃っていたものが、わずかに歪む。
それでも、その方が本当の形に見える。
指先で最後の一つを持つ。
入れかけて。
止まった。
『それで、よかったの?』
少年の声。
『そろそろ、選ぶか』
男の声。
『置いた場所には、また触れられる』
女性の声。
コウタは小さく息を吐いた。
黒い髪が、一瞬だけ頭をよぎる。
迷わず、先へ行く指。
きれいに揃っていく音。
コウタは手の中の一つを見る。
入る場所は分かっている。
それでも。
今は、入れなかった。
最後の一つを、パズルのすぐ横へ置く。
カチ。
小さな音がした。
完成した音ではない。
けれど、失敗した音にも聞こえなかった。
ただ。
そこに置いただけの音だった。
それでいい、とまではまだ思えない。
でも。
今は、無理にどこかへ入れなくてもいい。
今は、それくらいでよかった。
視線を落とすと、テーブルの上に空になったケーキの箱がある。
白い底に、クリームが少し残っていた。
少年に謝ろうと思って、ここまで来た。
昨日は言えなかった。
今日も、まだ会えていない。
コウタは少しだけ迷ってから、誰もいない店の中へ声を落とした。
「……昨日」
返事はない。
「大きな声、出して悪かった」
言ってしまえば、それだけだった。
声は店の中に静かに落ちて、そのまま消える。
誰に届いたのかは分からない。
少年が聞いているのかも。
もうここにはいないのかも。
それでも、言えなかったままではなくなった。
コウタは空になった箱を持つ。
出口へ向かう前に、一度だけ振り返った。
棚の上のパズル。
完成していない。
崩れてもいない。
最後の一つは、そのすぐ横に置いてある。
コウタはそれをしばらく見てから、扉を開けた。
チリン。
鈴が鳴る。
外の空気は冷たかった。
昨日と同じように、吐いた息が白くなる。
でも。
今日は、それを少しだけ長く見ていられた。
***
スタジオを出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。
冬の空気は冷たく、吐いた息が街灯の下で白く浮かぶ。三人で駅の方へ歩きながら、コウタはふと思い出した。
「あの店ってさ」
「うん」
「家族経営かなんか?」
ハヤテが吹き出した。
「何それ」
「いや」
コウタは少し眉を寄せる。
「子どもいただろ」
「いた?」
ヒナタが首を傾げる。
「楽器鳴らしてる男もいた」
「うん?」
ハヤテが眉を寄せる。
「本読んでる女の人も」
そこで少し考える。
「あと、妙に渋いおっさん」
ハヤテはしばらくコウタの顔を見ていた。
それから、また笑う。
「いや、最初から一人しかいないだろ」
コウタは足を止めかけた。
「……一人?」
「ナギ」
「ナギ?」
聞き返してから、今度は別の意味で眉を寄せる。
「それ、名前?」
「知ってるだろ、普通」
「知らない」
「聞けよ」
「聞くタイミングなかった」
少し前を歩いていたヒナタが、振り返りもせずに言った。
「名前なんて知らなくていい」
ハヤテが笑う。
「いや、知ってた方がいいだろ」
「必要なら向こうから言う」
「それはそれで怖いな」
コウタは黙った。
子ども。
見たこともない楽器を鳴らす男。
本を読んでいた女性。
父親と同じくらいに見えた、煙草の匂いのする男。
全部、一人。
「……」
考えてみる。
やっぱり分からない。
コウタは早々に諦めた。
「変な店だった」
「でも、悪くない」
ヒナタが言う。
「こういう変な店ってさ」
「うん」
「気づいたら記憶から抜けてたり、いつの間にか存在が消えてたりするもんじゃないのか」
ハヤテがまた吹き出した。
「本読みすぎだろ」
ヒナタも小さく笑う。
「そんなわけない」
「……分かってるよ」
コウタも少しだけ笑った。
あの店は、まだ路地の奥にある。
鈴の音も。
薄い灯りも。
棚の上に置いた、完成していないパズルも。
たぶん、そのまま。
「今日、寄る?」
ハヤテが言った。
コウタは少し考える。
以前なら、どうして行くのか自分でも分からなかった。
気になったから。
腹が立ったから。
言いたいことがあったから。
今は、別に答えをもらいに行きたいわけではない。
ただ。
まだそこにあるなら、寄ってもいいと思った。
「……コンビニ寄りたい」
ヒナタが即座に言う。
「何で」
「あいつ、ビール好きだから」
「ビール?チョコだろ」
ハヤテが首を傾げる。
「クッキーじゃなくて?」
コウタが顔を上げた。
三人の足が止まる。
ビール。
チョコ。
クッキー。
「……全然違うじゃん」
ハヤテが笑った。
「じゃあ全部買えばいい」
「誰が持つんだよ」
「コウタ」
「何で」
「一番通ってるから」
「通ってない」
反射的に否定してから、少し黙る。
否定しきれなかった。
何度も行った。
そのたび、何かを言って。
何かを言えなくて。
また行った。
ハヤテが先に歩き出し、ヒナタもその隣へ並ぶ。
コウタもあとを追った。
車が濡れた路面を走っていく。
遠くで信号機の音がして、ハヤテが何かくだらないことを言っている。
親指が、ふと中指のリングへ触れた。
カリ。
小さな音がした。
足は止まらなかった。
前なら、今のは何だったのかと耳を澄ませていたかもしれない。
コツ、コツ。
後ろから別の足音が近づいてくる。
リングの音も、その足音も、ハヤテの声やヒナタの足音、通りを走る車の音に混ざっていく。
聞こえなくなったわけではない。
そこにある。
それだけだった。
コウタはリングから指を離した。
少し前を歩く二人を見る。
もし、別の道を選んでいたら。
今ここを歩いていたかは分からない。
正しかったのかも、まだ分からない。
たぶん、これからも分からない。
「……それでよかったんじゃなくて」
小さく呟く。
ヒナタが振り返った。
「何」
「別に」
「何だよ」
コウタは視線を逸らした。
「ここがよかったんだなって」
ハヤテが一瞬黙る。
すぐに笑った。
「何それ」
「うるさい」
ヒナタは何も言わなかった。
ただ、少しだけ口元を緩めて、また前を向く。
路地の奥に、小さな明かりが見えた。
店はまだ、そこにある。
チリン。
誰かが先に、ドアを開けた音がした。




