Snow flakes ‐ Prism YELLOW ‐ HAYATE
透明なリズム
ぐるりと高い塀に囲まれた家だった。
門を抜けると、広い日本庭園が広がる。
手入れの行き届いた松。
石灯籠。
庭の奥には、小さな池がある。
その上を、風が抜ける。
見上げると、鯉のぼりが泳いでいた。
一番上に、吹き流し。
鯉は三匹。
黒くて、大きい。
赤くて、まっすぐ。
青くて、小さい。
――ちびはハヤテだな。
そう言って笑う兄たちの言葉を、
なんとなく思い出す。
玄関の前には、車が一台、また一台と止まっていた。
父の仕事関係の大人たちが、朝から入れ替わりに出入りしている。
スーツ姿の男の人。
書類の入った鞄を抱えた人。
母に頭を下げて、奥の座敷へ通されていく人。
それは、ハヤテにとっては珍しいことではなかった。
人の声がして、車の音がして、玄関の戸が開いたり閉まったりする。
この家はいつも、少しだけ賑やかだった。
「こんにちは! おつかれさまです!」
ハヤテは、すれ違う大人たちに元気よく挨拶をする。
「お、坊」
「今日も元気だな」
頭をぐしゃりと撫でられる。
子ども扱いされている気はする。
でも、嫌ではない。
視線を上げると、同じ年頃の男の子が親の後ろについて歩いているのが目に入った。
この家に出入りするのは、父と仕事の話をする大人か、
兄たちと同じくらい年上の人ばかりだった。
だから、同じ年頃の男の子が親の後ろについて歩いているのを見つけたとき、
ハヤテは少しだけ嬉しくなった。
「こんにちは!」
ハヤテが声をかける。
返事はない。
男の子は、ちらりとこちらを見ると、
そのまま親の影に隠れるようにして歩いていった。
ハヤテは少しだけ首を傾げる。
庭にはまだ、蹴りかけのボールが転がっている。
そのまま庭に戻り、ひとりでボールを蹴って遊んだ。
石灯籠の影が長く伸びる。
気づけば、空が赤く染まりはじめていた。
「おなか、すいたな」
ハヤテはボールを拾い上げ、
そのまま家の中へ入っていく。
長い廊下を、音を立てないように歩く。
向こうから料理を運ぶ人が来ると、ハヤテは自然に廊下の端へ寄った。
「おつかれさまです」
小さく頭を下げる。
「はい、坊ちゃん。お腹すきました?」
「うん」
笑って返事をしながらも、邪魔にならないように一歩下がる。
襖の奥から、大人たちの笑い声が聞こえる。
料理を運ぶ人たちが、
静かに廊下を行き来していた。
いつものように、襖を少しだけ開けて顔を出す。
中の大人たちはすぐに気づき、
ハヤテを手招きした。
「坊、どうした」
父が、軽く膝を叩いて呼ぶ。
「もう、子どもじゃないんだからさ」
そう言いながらも、ハヤテは父の膝の上に収まる。
「子どもだろ」
父は軽く笑い、ハヤテの頭を撫でた。
料理をつまみながら、
ハヤテは学校であったことをぽつぽつ話す。
教室のこと。
友だちのこと。
ちょっと面白かったこと。
「今日、音楽の授業でさ」
大人たちは酒を飲みながら、笑ってその話を聞いている。
そのうち、誰かが思い出したように言った。
「そういえば、近々うちが協賛するコンサートがあるんだ」
向かいに座っていた大人が、箸を止めて頷く。
「ちょうど合う年頃だし、子どもたちで行ってきたらいい」
ハヤテは顔を上げた。
「ありがとう!」
誰かが廊下の方へ声をかけた。
「おーい、朔」
少しして、あの男の子が顔を出す。
その後ろに、
同じ年頃の子どももう一人、立っている。
目が合う。
ハヤテは嬉しくなってにこっと笑った。
「一緒に遊ぶ?」
「……うん」
小さな声が、返ってきた。
*
コンサートは、小さなホールで行われた。
入口で、黄色のリストバンドを渡された。
係の人に手首を取られて、くるりと巻かれる。
ハヤテは少しだけそれを見る。
特別な感じがして、なんだか少しだけ嬉しかった。
会場の明かりが落ちる。
子ども向けの演劇。
お話。
それから、歌。
たくさんの楽器が鳴り、
明るいリズムが会場いっぱいに広がる。
ハヤテは、身を乗り出して言った。
「すごいな」
隣に座る朔も、素直にうなずく。
「うん、楽しい」
ステージに合わせて、子どもたちが歌いはじめる。
ハヤテもつられて声を出す。
隣で歌う朔の声が、すっと響いた。
透明な声。
ハヤテは歌う朔を見て、小さく笑う。
「いいな」
朔が、照れたように笑った。
帰り道。
会場の音が、耳に残っている。
まだ胸が高鳴っていた。
空を見上げる。
小さな星が、いくつも瞬いていた。
*
石灯籠の影が長く伸びる。
気づけば、空が赤く染まりはじめていた。
少し、湿った風が通る。
玄関の方から、車の音がする。
また一台、門をくぐってきた。
スーツ姿の大人が降りる。
玄関先で、誰かが迎えに出る。
地域の人や、
父の仕事の関係者が出入りする。
ハヤテは庭の端に立ったまま、それを見ていた。
まだ、父の車は来ない。
ボールを軽く蹴る。
門の向こうを、もう一度だけ見る。
それから、肩をすくめた。
ハヤテはボールを拾い上げ、
そのまま家の中へ入っていく。
靴を脱ぎ、向きを揃える。
音を立てないように廊下を歩く。
台所をのぞくと、中にいた女の人と目が合った。
「坊っちゃん、おなかすいたの?」
差し出されたおやつを受け取る。
笑顔で礼を言い、
それを持ったまま、奥の部屋へ向かった。
子ども部屋では、数人の子どもが集まって遊んでいた。
ハヤテは、朔を見つけて隣りに座る。
「あのさ、ちょっと考えたんだけど」
朔は少し驚いて、ハヤテの顔を見た。
*
襖の奥から、大人たちの笑い声が聞こえる。
ハヤテはいつものように、
襖を少しだけ開けて顔を出した。
父はいつのまにか帰っていて、いつもの席についていた。
隣には、歳の離れた兄が静かに座っている。
黒い。
大きい。
大人と、同じくらい。
「ハヤテ」
兄がすぐに気づき、笑顔を見せた。
ハヤテは、ちょっと照れたように笑う。
「坊」
父は機嫌よく、
いつものように軽く膝を叩いてハヤテを呼ぶ。
ハヤテは父の膝の上に座り、
その顔を見上げて言った。
「この間のコンサート、すごく楽しかった!」
会場の様子や空気、
出し物の流れなどを、身振りを交えて話す。
大人たちは頷いた。
「それは良かった」
「ありがとうございました」
ハヤテは声の方向へ、ぺこりと頭を下げる。
「それでさ」
一拍。
「おれも、コンサートやってみたい」
父が少しだけ目を見開く。
だが、何も言わずにそのまま続きを待つ。
「歌のコンサート」
部屋に小さな笑いが起きた。
ハヤテはその反応をちらりと見てから、続ける。
「歌うのは、朔」
指をさされ、襖のそばに立っていた朔が小さく肩を震わせた。
「朔、すっごく歌がうまいんだ」
「……ハヤテは?」
兄が、ぽつりと呟く。
「おれは……」
ちょっと考えて。
「太鼓とか? 叩くし」
笑いが起きる。
「伴奏はどうする」
ハヤテが困っていると、朔の後ろから声がした。
「わたし、ピアノひける」
いつも朔と一緒にいる女の子。みちるだった。
「決まりだ」
ハヤテは、ぱっと笑った。
兄が、目を細めてハヤテを見る。
「……ドラムなら、昔使ったのが納屋にある」
大人たちからも、ぽつりぽつりと意見が出始めた。
「会場は、うちの病院の中庭がちょうどいい」
「地域貢献にもなりますね」
「終了後に、講演会を予定してはどうでしょう」
ハヤテは、父を見上げる。
父は少し考える。
それから、静かに言った。
「やってみるか」
*
最初のコンサートは、夏だった。
病院の中庭に設置された小さなステージ。
地域貢献の名目で、いくつかの出し物が用意されていた。
客はまばらで、
スタッフや入院患者が、ぽつぽつと席に座っている。
ハヤテたちはステージの裏で、出番を待っていた。
朔が、小さく息を吐く。
みちるは、その隣で静かに譜面を見ている。
ハヤテは、ぐるりと周りを見回した。
椅子の並び。
客の数。
ステージまでの距離。
それから、にっと笑う。
「次、準備いいですか?」
スタッフが顔を出す。
三人は頷いた。
ゆっくりと、ステージに上がった。
中庭に並べられた椅子。
白い建物の壁。
夏の夕方の光が、ステージの端に残っている。
ハヤテは客席を見渡す。
人は多くない。
入院患者。
スタッフ。
付き添いの家族。
それでも、みんなこちらを見ていた。
ハヤテはスティックを軽く鳴らす。
コツン。
合図のような、小さな音。
みちるが鍵盤に指を置く。
静かな伴奏が流れはじめた。
朔が、息を吸う。
最初の声が、まっすぐ空に伸びた。
透明な声だった。
中庭の空気が、少しだけ変わる。
ハヤテはリズムを刻む。
少し走った。
次の拍で、慌てて合わせる。
みちるがちらりと朔を見る。
朔はそのまま歌い続ける。
客席の誰かが、小さく体を揺らした。
誰かが、口ずさむ。
音は完璧じゃない。
でも、止まらない。
ハヤテは笑った。
歌が終わり、まばらな拍手が起こった。
三人は顔を見合わせ、
どこかくすぐったいように笑う。
ステージを降りると、
入院着を着た女の子が目を輝かせて言った。
「きれいな声だね」
朔が立ち止まり、目を丸くする。
「ずっと聴いていたいって思った。
また、やる?」
朔は少し考えてから、
「……うん。聴きに来て」
そう言って、小さく笑った。
ハヤテは、そのやり取りを横で聞きながら、
なぜか少し誇らしい気持ちになっていた。
大人たちからの評判も上々で、
冬には二回目のコンサートが開かれることになった。
曲数を増やす。
演出を少し変える。
段取りも見直す。
最初のコンサートを思い出しながら、
ハヤテはぽつぽつと意見を出していく。
「ここ、もう少し間があった方がいいかも」
「次の曲の前に、少し話すとか?」
大人たちは頷き、
それぞれ新しい案を出しはじめた。
「照明を少し落としてみようか」
「講演会の反応も上々だった」
「ゲストを呼んで対談形式にしてみては」
話は、自然と広がっていく。
ハヤテはそのやり取りを聞きながら、
頭の中で、次のコンサートの景色を思い描いていた。
*
冬のコンサートは、満席だった。
中庭にはクリスマスツリーが飾られ、
華やかな空気に包まれている。
ハンドベル。
地域サークルの出し物。
いくつかの演目のあと、
ハヤテたちの出番になった。
リズム。
伴奏。
歌。
最初のコンサートより、
ずっと良くなっている。
客席の反応も、はっきりと伝わってきた。
テレビ局のカメラが、
客席の後ろからステージを追っている。
曲が終わると、
大きな拍手が起きた。
ステージを降りる。
朔の周りに大人たちが集まった。
「きれいな声だね」
「どこかで習っているの?」
カメラが向けられる。
朔は、少し困ったように目を伏せた。
スタッフがすっと前に出る。
「今日はここまででお願いします」
やわらかく人を下げながら、
子どもたちの前に立った。
ざわめきは、ゆっくりと散っていく。
朔は、振り返って会場を見渡した。
けれど、
あの女の子の姿は、見えなかった。
*
襖の奥から、大人たちの声が聞こえる。
ハヤテは、いつものように少しだけ襖を開けた。
「父さん、いまいい?」
「坊」
父は笑い、軽く膝を叩いて呼ぶ。
ハヤテはその膝に座った。
朔とみちるも、後ろからそっと部屋に入り、
それぞれ父親の近くに座る。
話は自然と、コンサートのことになった。
三回目をやろう。
そんな声が、大人たちの間から自然と出はじめる。
「次は、もっとうまくできると思うんだ」
ハヤテが、思いついたことを次々と話す。
曲の順番。
ステージの立ち方。
客席の見え方。
大人たちは頷きながら聞き、
そこにまた新しい案が重なっていく。
部屋の空気は、明るかった。
そのとき。
朔の父が、ふいに口を開いた。
「遊びならいい」
静かな声だった。
「だが、もう十分だろう」
部屋が少し静まる。
「いやあ、でも」
大人の一人が笑う。
「朔くんの声は本当に良かった」
「将来が楽しみですね」
その言葉に、朔の父は首を横に振った。
「これ以上はやらない」
部屋が静まり返る。
朔が顔を上げた。
「おれ、歌いたい」
父は表情を変えない。
「音楽には進ませない」
はっきりと言う。
「病院の中庭も、もう使わせない」
朔は何か言おうとして、
言葉を飲み込む。
それでも、必死に言った。
「……歌いたい」
声が震える。
だが、朔の父は首を横に振る。
「父さん」
ハヤテは、自分の父を見る。
父は、何も言わない。
朔は赤い目のまま、拳を握っていた。
みちると目が合う。小さく、首を振る。
「ハヤテ」
その声に、ハヤテは少しだけ背筋を伸ばす。
「コンサートは、おしまいだ」
――なんで。
その言葉は、口には出さなかった。
ハヤテは小さく頷く。
父は、ハヤテの頭に手をのせて、軽く撫でた。
*
それから、朔は家について来なくなった。
連絡も、しない。
そのうち自然と、会うことも減っていった。
季節が、いくつも過ぎた。
気づけば、背が伸びている。
声も、少し低くなっていた。
受験が近い。
ハヤテも、机に向かう時間が増える。
静かな部屋。
問題集を開き、ペンを走らせる。
ふと、手が止まった。
指先で、机を軽く叩く。
トン。
トン、トン。
八つ。
少し速く。
もう一本、ペンを持つ。
右と左で、机を叩く。
トン、トン。
トン、トトン。
形が変わる。
リズムが重なる。
あのとき、止まった。
でも。
まだここに残っている。
ハヤテは、窓に映った自分の顔を見る。
胸の奥が、小さく鳴る。
透明なリズムが続いている。
「……うん」
一つ頷いて、
また問題集に目を落とした。
*
高校の合格通知が届いた。
季節が、変わる。
ハヤテは自分でピアスを開け、髪を金色に染めた。
反抗ではない。
ただ、やってみたかっただけ。
父はその姿を見て、一瞬目を丸くする。
だが、すぐに笑う。
「いいな」
そう言って、ハヤテの頭を軽く撫でた。
「だろ」
ハヤテは、まっすぐに父を見て、笑った。
止まったように見えたものも、
そのまま終わらせることはしない。
ハヤテは、
場の空気や、残った音を拾いながら、
少しずつ前に進めていく。
あのときのリズムも、声も、
形を変えたまま、まだ続いている。




