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Snow flakes ‐ Prism RED ‐ KOUTA

ひとつ多い音

作者: 山吹 ことり
掲載日:2026/05/15

【残っている音】


 夜のファミレスは、時間だけがゆっくりと流れているようだった。

 窓の外はすでに暗く、街灯の光がガラスにぼんやりと滲んでいる。


 店内には数組の客しかおらず、どの席も互いに干渉しない距離を保っていた。


 注文を終え、料理が来るまでの、わずかな間。


 冷房の風が一定のリズムで天井を撫で、

 グラスの中で氷が、時折、乾いた音を立てる。


 コウタは、そのグラスを指で軽く押した。


 水面が揺れる。


 わずかな波紋が広がり、すぐに収まる。

 それを、もう一度繰り返す。


 理由は特にない。

 ただ、手を止めると、考えがまとまりすぎる気がした。


「最近さ、変な夢ばっかり見る気がして」


 言葉は、静かに落ちた。


 誰かに聞いてほしいわけでも、

 はっきり伝えたいわけでもない。


 ただ、黙っているには少しだけ重い。


「なにそれ」


 ハヤテはストローを口にくわえたまま、顔も上げずに返す。

 興味がないわけではないが、深く踏み込む気もない。


「同じ場所なんだよな、毎回」


 コウタは視線を落としたまま続ける。


 夢の中の風景を思い出そうとすると、

 輪郭だけが先に浮かび、細部はすぐに溶けていく。


「知らないはずなのに、知ってる感じがしてさ」


 言いながら、自分でも納得できていないことが分かる。


 説明がつかないものを、

 言葉にしようとしている感覚。


「疲れてんのかな……」


 原因らしいものを一応置いてみる。


 けれど、それで終わる話ではないことも、どこかで分かっている。


「夏だしな」


 ハヤテはすぐに返す。


 ヒナタは、窓の外を見たまま。


「まあ、あるかもな」


 遅れて、短く返す。


「幽霊的なやつ?」


 ハヤテが、軽く笑いながら言う。


「わかんない、なんか……」


 コウタは言葉を切る。

 一度、考えるのをやめるように。


 それでも、残る感覚がある。


「音だけ残ってる、みたいな」


 小さく、付け足す。


 その瞬間、空気がわずかに止まる。


 何かが起きたわけではない。

 ただ、さっきまでと同じではない。


「霊感、強いとか?」


 ハヤテが肩をすくめる。


「そういうの、ある?」


 コウタは顔を上げないまま返す。


 自分の言葉を、外側から確認するように。


「俺は多分ねえな」


 ハヤテは短く言って、ストローを指で回す。


 ヒナタは、すぐには口を開かない。


 会話を受け取ってから、

 ほんの一拍だけ遅れて考える。


 何を言うかではなく、

 どこまで言うかを測るような間。


「……見えてても、多分気にしない」


 強くも弱くもない声。

 ただ、揺れていない。


 コウタが顔を上げる。


「どういう意味?」


 今度は、はっきりと聞く。


 ヒナタは少しだけ目を細める。


「気にした時点で、そっちに寄るだろ」


 当たり前のことのように言う。


 説明はない。

 補足もない。


 コウタの指が止まる。


 グラスの中の水は、まだわずかに揺れている。


「……寄るって、なにに」


 問いは小さいが、引っかかりは消えない。


 ヒナタは答えない。

 代わりに、グラスの縁に触れる。


 指先で、水面をなぞる。


 その動きはゆっくりで、無意識に近い。


 波紋が消える。


 ぴたりと、止まる。


 それ以上、何も起きない。


 音も、変化もない。

 ただ、止まっただけ。


 ヒナタは、その水面を一瞬だけ見ている。


 確かめるみたいに。


 それから、何もなかったように指を離した。


 その動作を見て、コウタだけが、わずかに顔をしかめる。


 理由は分からない。

 分からないまま、残る違和感。


「なんか損してる気がする」


 小さく息を吐く。


 拾わない選択をしていることが、

 何かを見逃している気がする。


「むしろ得だろ」


 ハヤテがすぐに返す。


 迷いなく。


「拾わなくていいもん、拾わないで済むし」


 軽く言い切る。

 そこに疑いはない。


 コウタは曖昧に頷く。


 納得はしていない。

 けれど、否定もしない。


 そのまま、もう一度グラスを見る。


 さっき止まったはずの水面が、


 ほんのわずかに、


 遅れて揺れた気がした。


 誰も触れていないのに。



【遅れてくる音】


 コウタは、グラスから目を離した。


 さっき見た揺れを、これ以上追わないように。


 見続けてしまえば、理由を探してしまう気がした。

 意味を与えた瞬間に、戻れなくなる。


 一度だけ、ゆっくり瞬きをする。


「……気のせいだよな」


 誰に向けたわけでもない声が、テーブルの上に落ちる。


「そういうのは大体、気のせいだろ」


 ハヤテが軽く返す。


 それで終わるはずの会話だった。

 そこで切れていれば、何も残らなかったはずだった。


 ヒナタが、グラスを置く。


 小さく、乾いた音が鳴る。


 その音が、ほんのわずかに遅れて聞こえた気がして、

 コウタの肩が、無意識に強張る。


 遅れた、というより、

 あとから追いついてきたような感覚。


 今の一瞬が、二重に重なったような。


 ふと、視線が合う。ヒナタは、何も言わない。


「……なあ」


 思わず口を開く。

 止めるより先に、言葉が出る。


「今の音」


「今?」


 ハヤテが首を傾げる。


 反応はいつも通りで、

 そこに引っかかりはない。


「いや……なんでもない」


 言い切って、引っ込める。


 口にした瞬間に、形になる気がした。


 ヒナタは何も言わない。

 ただ、テーブルの上を一度だけ指で叩く。


 コツ、と音が鳴る。


 短く、乾いた音。


 今度は、ちゃんと一度だけ。


 遅れも、重なりもない。


 何もおかしくない。

 何も起きていない。


 はずなのに。


 コウタの中にだけ、

 さっきの違和感が残っている。


 音が、少しだけ遅れて、

 あとから追いついてくる感覚。


 消えきらずに、

 そこに留まっているみたいな。


「……やっぱ、変だわ」


 小さく呟く。


「夢の続き、起きてても見てるみたいな感じする」


 言葉にしても、ぴったりはこない。

 それでも、近い形を選ぶしかない。


 ハヤテは少しだけ黙る。


 すぐに返さず、

 コウタの様子を一度だけ見る。


「それ、寝不足じゃねえの」


 軽く言う。


 いつもの調子に戻しながら。

 それ以上踏み込まないための言い方。


 ヒナタが、ふとコウタを見る。


「……その夢」


 声は低く、揺れない。


「終わるとき、どうなってるの」


 コウタは少し考える。


 記憶を手繰るように、ゆっくりと。


 夢の終わりは、いつも曖昧で、

 はっきり掴めたことがない。


「……わからない」


「気づいたら、終わってる」


 言いながら、自分でも曖昧さをなぞる。


「でも、いつも」


 そこで言葉が止まる。


「なんだよ」


 ハヤテが軽い調子のまま、続きを待つ。

 

 コウタは少しだけ迷う。


 言うほどのことかどうかを、一瞬だけ考えてから。


「最後、誰かいる気がする」


 空気が、ほんのわずかに沈む。


 静かに、重さだけが増える。


「顔は?」


「見えない」


 即答だった。


「でも、音だけ残るんだよ」


 さっきと同じ言葉。

 同じ言い方。


 繰り返されたことで、少しだけ輪郭が濃くなる。


 ヒナタはそれを聞いて、

 ほんのわずかに視線を落とす。


 何かを考えたようで、

 何も言わない。


 そのまま、テーブルの上に残った水滴を指で払う。


 小さな水の粒が、形を崩す。


 音もなく、消える。


 それを見て、コウタはふっと息を吐く。


 理由は分からない。

 ただ、張っていたものが少しだけ緩む。


「……やっぱ、損してる気がする」


 さっきと同じ言葉を、もう一度口にする。


 拾わないことのほうが楽だと分かっていても、

 どこかで取りこぼしている気がする。


 ハヤテが笑う。


「だから、得だって」

「気にしなきゃ、来ないもんもあるだろ」


 あくまで軽く。

 けれど、少しだけ様子を見ながら。


 コウタは答えない。


 言い返す言葉はあるのに、

 それを選ばない。


 ただ、グラスに手を伸ばして、

 視界から外すように少しだけ遠ざける。


 さっきの水面を、


 もう一度見てしまうのを、避けるように。



【ずれている数】


 別の日。


 昼過ぎのファミレスは、夜とは違う種類の騒がしさで満ちていた。

 家族連れの声、食器が触れる音、店員の足音。


 どれも特別ではない。

 どれも均一で、途切れない。


 ひとつひとつを意識しなければ、ただの背景になる音。


 コウタはドリンクバーの前に立つ。


 カップを傾けて、氷を落とす。


 カラン、と鳴る。


 乾いた、はっきりした音。


 遅れも、重なりもない。

 そのことに、少しだけ安心する。


 肩の力が抜ける。

 余計なものは、何もついてこない。


 席に戻ると、ハヤテがちょうどメニューを閉じるところだった。


「遅い」


 顔も上げずに言う。


「混んでた」


 コウタは適当に返す。


 グラスをテーブルに置く。


 音は、普通に鳴る。


 ヒナタは窓の外を見ている。


 昼の光をそのまま受け止めるように、

 視線を動かさずに。


 何も言わない。

 何も拾っていないように見える。


「夢、まだ見る?」


 ハヤテが何気なく聞く。


 話題としては軽い。

 昨日の続きというほどでもない調子。


 コウタはストローに指をかける。


 くるくると回す。


「……見てない」


 一拍置く。


「多分」


 その言い方に、自分でも引っかかる。


 ヒナタは反応しない。


 外を見たまま、

 ほんの少しだけ視線を横に流す。


「多分ってなんだよ」


 ハヤテが笑う。


「起きたとき、覚えてないだけかもしれない」


 コウタはそれ以上続けない。


 説明しようとすれば、

 またあの感覚を引き寄せる気がした。


 ストローを回す指だけが、

 少しだけ速くなる。


「それ、終わったやつじゃねえの」


 ハヤテが軽く言う。


「飽きたとか」


「そういうもんか?」


「大体そんなもんだろ」


 コウタはグラスに口をつける。


 氷が触れる。


 冷たい。


 普通だ。


 温度も、音も、

 どこにも違和感はない。


 はずなのに。


 一瞬だけ、音が遠くなる。


 周りの声も、食器の音も、

 ほんの少しだけ、後ろに下がる。


 すぐに戻る。


 何も変わらない。


 今の一瞬があったことすら、

 証明できないくらいに。


 ヒナタがグラスを持つ。


 音はしない。


 持ち上げるときも、

 置いたときも、鳴らない。


 不自然ではない。


 ただ、音がなかっただけ。


 コウタはそれを見る。


 何も言わない。


「なに」


 ハヤテが気づく。


 視線だけで問いかける。


「いや」


 コウタは目を逸らす。


 言葉にするほどのものじゃない。

 言葉にした瞬間に、形になってしまう。


 ヒナタはゆっくり水を飲む。


 その動きは滑らかで、無駄がない。

 見続ける理由がないのに、見続けてしまいそうになる。


「……やっぱさ」


 ぽつりとこぼす。


「夢じゃなかった気がする」


 自分でも、意味ははっきりしていない。

 ただ、そういう言い方しかできない。


 ハヤテが少しだけ眉を動かす。


「なにが」


「わかんないけど」


 それ以上は続かない。言えない、の方が近い。


 ヒナタがグラスを置く。


 今度は、音が鳴る。


 一度だけ。


 遅れない。

 重ならない。


 ただ、それだけの音。


 コウタはそれを聞く。

 そのまま、自分のグラスには手を伸ばさない。


 触れたくない理由は、はっきりしない。


 店を出る。


 外の空気は、少しだけ重い。


 昼の明るさはそのままなのに、

 音だけが薄い。


 車の走る音も、人の話し声も、

 どこか一枚遠い。


「帰る?」


 ハヤテが軽く聞く。


「……うん」


 コウタは短く答える。


 それ以上の言葉は選ばない。


 三人で歩き出す。


 足音が揃う。


 一定のリズム。


 いつも通り。


 そのはずなのに。


 どこかで一歩だけ、ずれる。


 わずかな違い。


 気にしなければ、気づかない程度の。


 誰も何も言わない。


 ヒナタだけが、少し後ろを歩く。


 距離を測るでもなく、

 ただ自然に。何も気にしていない顔で。


 交差点で止まる。


 信号待ち。


 車の音、人の声、風。


 全部、普通にある。


 コウタはそれを一つずつ確かめる。


 聞こえているかどうかを、

 確かめるみたいに。


 大丈夫だと、思う。


 思おうとする。


「なあ」


 小さく声を出す。


「この前さ」


 ヒナタは反応しない。


 ただ、ほんの少しだけ視線を上げる。


「夢の話」


 コウタは続ける。


「やっぱ、変だった」


 ハヤテが横で「あー」とだけ返す。


「まだ引きずってんの?」


「……わかんないけど」


 そこで言葉が止まる。


 信号が変わる。


 歩き出す。


 横断歩道の白線を踏む。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 その間、


 足音が、ひとつ多い気がする。


 コウタは足を止める。


 反射的に。


 後ろを見る。


 誰もいない。


「どうした」


 ハヤテが振り返る。


「……いや」


 コウタは首を振る。


 言葉にするほどの確信がない。


 また歩き出す。


 今度は数えない。


 数えないようにする。


 ヒナタが横に並ぶ。

 いつの間にか、前に出ている。


「気にするな」


 短く言う。


 コウタが顔を向ける。


「何を」


 ヒナタは答えない。

 そのまま前を見る。


 少しだけ間を置いて、


「さっきの」


 それ以上は続けない。


 コウタは、何も返せない。

 聞き返すこともできない。


 ハヤテが軽く笑う。


「ほらな、考えすぎ」


 いつも通りの調子。


 それで会話は終わる。


 終わるはずなのに。


 コウタは一度だけ、後ろを見る。


 さっきの場所。

 横断歩道の白線。


 何もない。


 何もないのに。


 踏んでいないはずの位置が、

 ひとつだけ、わずかに濡れている気がした。


 光のせいかもしれない。

 見間違いかもしれない。


 それ以上、確かめない。


 ヒナタは振り返らない。



【手の中にあるもの】


 その夜。


 部屋は静かだった。


 音がない、というより、

 音が遠い。


 窓は閉めている。

 カーテンも引いている。


 それでも、どこかで風の音がする。


 隙間から入ってくるわけでもなく、

 外の音として届くわけでもない。


 ただ、そこにあるような音。


 コウタはベースケースを壁に立てかける。


 いつも通りの動き。

 重さも、角度も、変わらない。


 そのまま、ポケットに手を入れる。


 鍵を出すつもりだった。


 けれど、指先が止まる。


 何かに触れる。


 硬い。

 小さくて、冷たい。

 鍵とは違う感触。


 ゆっくりと取り出す。


 小さな石だった。

 丸くて、少し黒い。


 表面は滑らかで、

 どこかだけ、わずかに欠けている。


「……なんで」


 声は小さく、部屋に落ちる。

 返ってくるものはない。


 昼の店を思い出す。


 テーブル。

 グラス。

 水面。


 揺れていた光。


 拾った覚えはない。

 手に取った記憶もない。


 ないはずなのに。


 今、手の中にある。


 しばらく見つめる。


 意味を探そうとするほど、

 何も見えてこない。


 ただの石にしか見えない。

 それ以上でも、それ以下でもない。


 コウタは視線を切る。


 それ以上考えないように。


 テーブルに置く。


 乾いた、小さな音。


 それだけ。

 それ以上は、何も起きない。


 はずなのに。


 部屋の音が、一段落ちる。


 もともと静かだったはずの空間が、

 さらに奥に沈む。


 コウタは、石から目を外す。


 見続けていると、

 何かが起きる気がした。


 理由はない。


 ただ、そういう感覚だけがある。


 スマホが震える。


 現実の音。

 それだけで、少しだけ意識が戻る。


 画面を見る。


『帰った?』


 ヒナタらしい、短い文字。


 余計な言葉がない。


『今』


 コウタはすぐに返す。


 既読がつく。


 少しだけ間が空く。

 その間が、やけに長く感じる。


『大丈夫?』


 コウタは、石を見ない。

 視界の端にも入れないようにする。


 見ないまま、


『うん』


 少しも迷わず、送る。


『ならいい』


  それ以上は、来なかった。 

  来ないことが、少しだけ重い。


 コウタはスマホを置く。


 部屋を見渡す。


 壁。

 机。

 ベースケース。


 いつもと同じ配置。

 何も変わっていない。


 テーブルの上も、同じ。

 さっきと同じはず。


 同じはずなのに。

 石の位置だけが、少し遠く感じる。


 触っていない。

 動かしていない。


 置いたときの距離は覚えている。


 それなのに、

 今の方が離れて見える。


 視線の問題かもしれない。

 気のせいかもしれない。


 コウタは近づかない。


 確かめようとしない。


 確かめた瞬間に、

 何かが変わる気がした。


 そのとき。


 窓ガラスに、何かが映る。


 黒い影。


 一瞬だけ。


 自分の動きとは、少しずれた位置。


 コウタは振り返る。


 反射的に。


 何もいない。


 空気も、配置も、変わらない。


 もう一度、窓を見る。


 自分だけが映っている。

 それ以外は、何もない。


 コウタは、石を見ない。

 見ないまま、電気を消す。


 部屋が暗くなる。


 輪郭が溶けて、

 物の境目が曖昧になる。


 そのまま、動かない。


 音を待つわけでもなく、

 ただ、そこにいる。


 暗くなったあとで。


 さっき置いたはずの音が、


 もう一度だけ、


 遅れて鳴った気がした。



【触れないまま】


 三人で店に入る。


 外の光がそのまま流れ込んで、店内はやけに明るかった。

 昼の空気が残ったまま、甘い匂いだけが重なっている。


 ショーケースの前に並ぶ。


 ガラスの中には、整えられたケーキが並んでいる。


 白いクリームは均一で、

 果物の色は不自然なくらい鮮やかで、

 どれも同じように綺麗に見える。


 触れなければ崩れない形。

 選ばれなければ、そのまま残り続ける形。


「甘いのいく?」


 ハヤテの声は軽い。


 コウタは一瞬だけ止まる。


 ほんのわずかな間。


 言葉は決まっているのに、

 その前に、何かを確かめるような時間が入る。


 視線が、ガラスに触れる。


 自分の姿が映る。


 少し歪んだ輪郭。

 光に滲んだ色。


 その後ろに、


 黒い影がある。


「ヒナ……タ……?」


 無意識に、名前が出る。


 けれど、すぐに違うと分かる。


 輪郭が、わずかにずれている。


 立ち方が違う。

 重心の置き方が違う。


 余計な力がどこにも入っていない。


 整いすぎている。


 ヒナタではない。

 自分とも、少し違う。


「先、座ってるわ」


 ハヤテが軽く言う。

 ヒナタも何も言わずに動く。


 二人はそのまま離れていく。


 振り返らない。


 コウタだけが、その場に残る。


「どれにしますか?」


 店員の声。


 近くで聞こえているはずなのに、

 一瞬だけ距離がある。


 コウタは視線を外す。


 見続ける理由がないのに、

 見続けてしまいそうになるから。


「……これで」


 適当に指をさす。


 名前は見ていない。

 味も考えていない。


 決めるという行為だけを終わらせる。


 注文を伝え、支払いを済ませる。

 トレイを受け取る。

 手に重さが乗る。


 それで、少しだけ現実に戻る。


 顔を上げる。


 ショーケースのガラスは、よく磨かれていた。


 照明が柔らかく反射して、

 ケーキの輪郭がわずかに滲んでいる。


 その中に、自分が映る。


 ――そのはずだった。


 少しだけ、違う。


 光のせいだと思う。

 角度の問題だと思う。


 視線を動かす。


 それでも、変わらない。


 向こうの自分は、そこにいる。

 黒い髪のまま、静かに立っている。


 揺れていない。


 こちらの呼吸とは関係なく、

 別の時間で立っているみたいに。


 店内には音がある。


 フォークの触れる音。

 小さな笑い声。

 ガラスケースを開け閉めする、軽い金属音。


 全部、ちゃんと聞こえている。


 なのに。


 向こう側だけ、少し遠い。


 ガラス一枚のはずなのに、

 そこだけ音が届いていない。


 目が合う。


 逸らさない。


 こちらが外すまで、

 ずっと。


 そのまま、口が動く。


 何かを言っている。


 音はない。

 聞こえない。


 それでも、


 意味だけが落ちてくる。


 ――それで、よかったの?


 言葉として聞いたわけではない。

 それでも、確かに理解できてしまう。


 指先に、わずかに力が入る。


 トレイが、ほんの少し揺れる。

 皿が、かすかに触れる。


 その音で、意識が戻る。


 瞬きをする。

 そこには、いつもの自分がいる。


 赤い髪。

 少しだけ崩れた立ち方。


 トレイの重さを、ちゃんと受けている手。


「コウタ?」


 少し離れた席から、ハヤテの声。


 現実の距離。


 手を振っている。


 ヒナタは、すでに座っている。

 何も変わっていない位置に。


 コウタは一度だけ、ガラスを見る。


 何もいない。


 ただの反射。

 それ以上でも、それ以下でもない。


 そのまま歩き出す。


 席に着く。

 トレイを置く。

 フォークを持つ。


 動作はすべて、いつも通り。


 甘い匂いも、

 周りの音も、

 全部、同じ。


 何も変わっていない。


 はずなのに。


 さっきの言葉だけが、

 どこにも消えずに残っている。

 

 声だけが、まだ、内側に残っていた。



【選ばなかった方】


 地方の商店街は、夕方を過ぎると急に静かになる。


 昼のざわめきが、そのまま抜け落ちたように消えて、

 通りには閉まりかけのシャッターと、点々と残る明かりだけが並んでいた。


 人の気配が薄くなるほど、音は整理されていく。


 遠くで何かが動く音。

 看板が風に触れる音。


 そして、足音だけが、やけに近くなる。


 三人で歩いているはずなのに、

 そのリズムがどこかで引っかかる。


 揃っているようで、わずかに噛み合っていない。


 ほんの半拍だけ、ずれている。


 意識しなければ気づかない程度の、

 けれど一度気づくと無視できないズレ。


 コウタは、それを気のせいだと思った。


 考えても仕方のない違和感だと、

 意識の外へ押し出そうとする。


 こういうものは、拾った時点で形になる。

 形になれば、消えなくなる。


 それでも、完全には消えないまま残る。


 足の裏に、ほんのわずかに引っかかる感覚。


 靴紐が解けていることに気づき、

 コウタは一歩だけ遅れる。


「……ちょっと待って」


 そう言ってしゃがみ込み、紐を結び直す。


 見慣れた靴。

 見慣れた動作。


 何度も繰り返してきたはずなのに、

 指に伝わる感触が、ほんの少しだけ遠い。


 紐のざらつき。

 締めたときの抵抗。


 どれも確かにあるはずなのに、

 一枚、何かを挟んで触れているような鈍さがある。


 結び終えて軽く引く。


 いつもなら、そこで「締まった」と分かるはずなのに、

 その確かさが、どこか曖昧だった。


 顔を上げようとしたとき。


 どこかで、小さく鈴が鳴った気がした。


「迷っているな」


 すぐ横から声がした。


 距離の感覚が、一瞬だけ崩れる。


 近い。


 近いはずなのに、

 そこに至るまでの過程が抜けている。


 振り向くと、そこに人が立っている。


 さっきまで何もなかった場所に、

 影と同じ濃さで、自然に混ざるように存在していた。


 最初からいたみたいに。


 輪郭がはっきりしない。


 光の中にあるのに、

 どこかだけ光を受けていない。


 コウタはゆっくり立ち上がり、

 無意識に半歩だけ距離を取る。


 その半歩で、ようやく呼吸が戻る。


「……なんですか」


 声は出たが、

 自分のものではないみたいに少し遅れる。


 相手は答えない。


 ただ、手を持ち上げる。


 二枚のカードが差し出される。


 裏返されたままのカード。


 揃っているはずなのに、

 ほんのわずかに位置がずれている。


 左右で、呼吸が違うみたいに。


「そろそろ、選ぶか」


 押しつけるでもなく、

 ただそこに選択だけを置く声だった。


 強制はない。


 けれど、逃げ道もない。


 コウタはカードを見る。


 どちらも同じに見える。

 違いはわからない。


 裏返されているせいなのか、

 それとも本当に差がないのか、判断がつかない。


 どちらかを選べば、何かが決まる。


 理由もなく、そう思う。


 それは当たり外れではない。

 もっと、戻れなくなる方向の選択。


 選んだあとでは、

 選ばなかった方に戻れなくなる感覚。


 ――確かに、迷っている。


 今も。

 それ以前から、ずっと。


 安定か。

 それとも、戻れない方か。


 言葉にした瞬間に、

 どちらかへ傾いてしまいそうで、

 コウタはその先を考えないようにする。


 それでも。


 指先だけが、わずかに前へ出る。

 体より先に、選ぼうとしている。


 周りの音が、少し遠い。


 ハヤテとヒナタの足音も、

 もう聞こえない。


 自分の呼吸だけが、やけに近い。


 さっきまで歩いていた道の続きなのに、

 ここだけ切り取られて、

 別の時間に置かれているみたいだった。


 ほんの一瞬。


 指先がカードの縁に触れる。


 冷たい。

 硬い。

 確かに、そこにある。


「コウタ!」


 少し先からハヤテの声が飛ぶ。


 一気に距離が戻る。

 空気がつながる。

 音が流れ込む。


 コウタはハッとして、すぐに手を引く。


 何も持っていない。

 何も選んでいない。


 ――そのはずだ。


「……やめとく」


 短く言って、その場を離れる。


 足を踏み出した瞬間、

 さっきまで止まっていた時間が、

 遅れて動き出したような感覚があった。


 通りの空気が戻る。


 遠くでシャッターの下りる音がして、

 どこかの店先から、微かな話し声が流れてくる。


 さっきまでなかったはずの音が、

 何事もなかったみたいに並び始める。


 それでも。


 一度切り離された感じだけが、

 うまく戻らないまま残っている。


 コウタは二人の背中を追う。


 歩き出してから、数歩で追いつくはずだった。

 けれど、その数歩がわずかに長く感じられる。


 距離が、少しだけ伸びている。

 詰めても、ぴたりと揃わない。


 半歩分のズレ。

 そのまま残り続ける距離。


 そのとき、ポケットに小さな違和感を覚える。


 布越しに、指先に触れる硬さ。

 覚えのある感触。


 コウタは、そこで初めて思い出す。


 取り出す。


 掌の上に、重さが乗る。

 小さな黒い石が、そこにあった。


 何も選ばなかったはずなのに、


 何かだけが、まだ残っていた。



【呼ばれる方】


 コウタは、わずかに歩幅を上げる。


 さっきまで遠く感じていた二人の背中に、

 少しずつ距離が詰まっていく。


 数歩で追いつくはずの距離。


 それなのに、

 踏み出した分だけ、ほんの少しだけ遠くなる。


 目に見えるほどではない。

 けれど、確かに揃わない。


 半拍だけ、遅れる。

 それでも、もう一歩踏み出す。


 もう一歩。


 その繰り返しで、ようやく距離が揃う。


 コウタは二人の横に並ぶ。


 呼吸も、足音も、

 今度はちゃんと重なる。


 リズムが戻る。


 さっきまでのズレが、なかったことになる。


 ――はずだった。


 その瞬間。


 ヒナタがふと、足を止める。


 振り返るわけでもなく、

 前を見たまま。


 動きだけが、切り離される。


「……鳴ってる」


 小さな声だったが、

 空気の流れがそこで止まる。


 音の重なりが、わずかにほどける。


「なにが」


 コウタが聞き返す。


 さっき揃ったはずの呼吸が、

 またわずかにずれる。


 ヒナタはすぐには答えない。


 聞いているというより、

 確かめている間。


「音」


「またそれ?」


 ハヤテが軽く笑う。

 空気を戻すような言い方。


 ただ、少しだけ足が遅れる。


 一瞬だけ、止まりかけて。

 それでも、完全には止まらない。


「……そっち」


 ヒナタは言い切らないまま、前へ進む。


「おい」


 コウタは思わず声をかける。


 ヒナタは振り返らない。


 距離は近いはずなのに、

 どこかで噛み合わない。


 手を伸ばせば届くはずの距離。


 それなのに、

 指先だけが少し足りない。


「ヒナタ」


 声を重ねる。


 音は届いているはずなのに、

 届いた実感がない。


 空気の中で、一度薄くなる。


「待てって」


 歩幅を上げる。

 追いつこうとする。


 それでも、距離は一定のまま。


 コウタは一瞬だけ迷い、後ろを振り返る。


「……ハヤテ」


 距離は変わっていない。


 呼べば届く位置。


 それなのに、


 視線が一度だけコウタの横を通り過ぎる。


 何もないはずの場所を、

 確かめるように。


 ほんの一瞬だけ。


 そこから遅れて、目が合う。


 何事もなかったみたいに、

 ハヤテは笑う。


「ん?」


 いつも通りの声。


 コウタは、何も言えない。


 言葉にした瞬間に、

 今の違和感が確定してしまいそうで。


 ヒナタはすでに路地に入っている。


 見覚えのない道。


 明かりは少なく、

 奥にいくほど暗くなる。


 足音だけが残る。


 不揃いなまま。


 ヒナタは一つの店の前で止まる。


「……ここ」


 確認するでもなく、

 ただ辿り着いた場所みたいに。


 そのまま扉に手をかける。


「おい――」


 言いかけたところで、扉が開く。


 鈴が鳴る。


 小さく、乾いた音。

 ひとつだけ。


 ハヤテが笑う。


「行くか」


 軽い声。


 いつもと変わらない調子で、

 そのまま中へ入っていく。


 コウタは一拍だけ遅れる。


 扉をくぐる。


 鈴が鳴る。

 さっきと同じ音。


 そのあとで、


 わずかに遅れて、もう一度鳴る。


 ヒナタは止まらない。


 足を緩めることもなく、

 まっすぐ奥へ進んでいく。


 店の中は静かだった。

 外の通りとは切り離されたみたいに、音がひとつずつ薄く、遠い。


 床を踏む感触だけが残る。


 奥に、人。


 視界の中に入っているのに、

 存在として結びつくまでに遅れがある。


 最初は輪郭が曖昧で、

 そこに“いる”と認識するまでに、わずかな間があった。


 ヒナタが、止まる。


 その瞬間、空気がわずかに締まる。


「珍しい客だ」


 静かな声。


 ヒナタはすぐには答えない。


 聞き返すでもなく、

 否定するでもなく、


 一拍だけ、間を置く。


 その間に、何かを測っているように。


「……鳴ってる」


 小さく言う。

 確信ではない。


 けれど、迷いもない。


 店主はゆっくり頷く。


「そうか」


 それだけ。


 説明も、驚きもない。


 最初からそこにあった流れを、

 ただ受け取るみたいに。


 ヒナタの視線が、ゆっくり動く。

 視線の先が、先に決まっているみたいに。


 棚の一角で止まる。


 青い石のついたネックレスが、

 光を受けて、わずかに揺れている。


 ヒナタは動かない。


 時間が、わずかに遅れる。


 それから、

 遅れて手が伸びる。


「……これだ」


 確かめるように言う。


 誰に向けるでもなく、

 ただ言葉として落とす。


 ヒナタは石を覗き込む。


 距離を詰める。


 近づけば分かると知っているみたいに。


 コウタには、何も聞こえない。


 店の中は静かなまま。


 空気も、音も、

 どこにも変化はない。


 ただ、ヒナタだけが、そこに何かを受け取っている。


 店主が静かに言う。


「気に入ったかい」


 ヒナタは、否定も肯定もしない。

 ただ、手にしたまま動かない。


 離す理由がないように。


「持っていくといい」


 店主の声は変わらない。


 強制はない。

 けれど、選択肢もない。


 ヒナタは頷かない。

 返事もしない。


 それでも。


 そのまま受け取る。


 決めたわけではない。

 けれど、もう決まっているみたいに。



【揃ってしまうもの】


 店主の視線が動く。


 ゆっくりと、迷いなく、

 ハヤテの方へ向く。


 選ばれているというより、

 順番が最初から決まっているみたいに。


「……俺も?」


 ハヤテは少しだけ手を止める。


 迷っているようで、

 その実、どこかで決まっているような間。


 視線が一度だけ止まる。


 黄色い石のついたシンプルなピアス。


「これかな」


 店主は何も言わない。


 肯定も否定もない。


 その沈黙が、

 それでいいという合図みたいにそこにある。


 最後に、視線が動く。


 コウタの方へ。


 逃げ場を残さない速度で。


 コウタは動かない。


 棚も見ない。


 視線を向ければ、

 何かを選んでしまう気がした。


 それでも、銀色のリングが目に留まる。


 他のものと違って、

 選ばれずに残った形。


 石が外れ、中央にはくぼみだけ。

 何かがあった痕跡だけが残っている。


「いくらですか?」


 ハヤテが聞く。


 現実に引き戻すような声。


「もう受け取っている」


 店主が言う。

 静かに、確定だけを置く声。


 ハヤテがコウタを見る。


 コウタは首を振る。


 そんな覚えはない。


 払った記憶も、

 差し出したものも、思い当たらない。


「さっき、触れただろう」


 その声を、どこかで聞いた気がした。


 店主がリングを差し出す。


 ゆっくりと。

 逃げられない距離まで。


 コウタは手を出さない。


 視線だけがリングに落ちる。

 触れていないのに、指先に感触が浮かぶ。


 冷たさ。

 わずかな硬さ。


 思い出すというより、

 そこに残っている感覚。


 もう一度、差し出される。


 距離が、ほんのわずかに縮まる。


 コウタは躊躇う。


「……」


 小さな重みが、少し遅れて掌に乗ってくる。

 今、受け取ったのだと、あとから理解する。


「これで、揃う」

 

「……あ」


 ポケットの中の、黒い石。

 リングの、何かを待っているような、くぼみ。


 指先が、確かめるように力を込める。

 カチリ、と小さな音がした気がした。


 ほんの一瞬、店主と視線が合う。


「……選んだな」


 その言葉は、

 誰に向けたものでもないみたいに落ちる。


 終わりを告げるでもなく、

 始まりを示すでもなく、


 ただ、区切りだけがそこにある。


 リングは、指にピタリとはまる。


 さっきまで空だったくぼみに、

 黒い石がはまっている。


 隙間がない。

 違和感がない。


 最初からそこにあったみたいに、

 指に馴染んでいる。


 ハヤテが笑う。


「いいじゃん」


 軽く言う。


「揃ってる」


 その言葉に、迷いはない。


 外に出ると、夜はさらに静まり返っていた。


 さっきまであったはずの音が、

 一段奥へ引いたように遠い。


 三人で歩く。


 足音が一定のリズムを刻む。


 今度は揃っている。


 ずれていない。


 ヒナタが、ふと立ち止まる。


 ほんの一瞬だけ。

 確かめるみたいに。


 それから、何もなかったみたいに歩き出す。


 コウタはその横顔を見る。


 ヒナタの指が、無意識に何かをなぞっている。


 弦の上をなぞるみたいに。


 音は出ていない。

 けれど、動きだけが、はっきりと形になっている。


 ヒナタの胸元には、青い石が光る。


 わずかに揺れる。

 呼吸とは別のリズムで。


 コウタは、目を逸らす。


 それ以上は見ない。



【最初からあった音】


 スタジオは、いつも通りの明るさだった。


 外の時間とは関係なく、

 同じ温度で保たれている空間。


 昼でも夜でも変わらない光。

 窓のない箱の中で、時間だけが切り離されている。


 アンプの電源音と、

 わずかな機材のノイズだけが、静かに流れている。


 コウタは、ケースからベースを出す。


 ストラップをかける。

 位置を整える。


 何度も繰り返してきた動作。

 迷いも、引っかかりもない。


 弦を軽く弾く。


 一音。


 音は、いつも通り。

 太さも、伸びも、変わらない。


 何も変わっていない。


 変わっていないはずの場所。


 扉が開く。


 ヒナタが入ってくる。


 足音は小さい。

 それでも、空気がわずかに動く。


 何も言わない。

 視線も合わせない。


 コウタの方を見ないまま、

 そのままギターを手に取る。


 ストラップをかける。


 チューニングもそこそこに、指を置く。


 準備というより、

 すでに続きに入っているみたいな動き。


 ほんの一瞬だけ、止まる。


 それから、弾く。


 一音。


 空気が、わずかに変わる。


 音の輪郭が、

 ほんの少しだけ、前に出る。


 コウタの指が止まる。


 今の音。


 聞いたことがないはずなのに、

 知っている。


 どこで、ではない。


 いつかでもない。


 ただ、そこにあったものを、

 今、触れた感覚。


 ヒナタは止まらない。

 そのまま続ける。


 フレーズが繋がる。


 流れていく。

 迷いがない。


 作っている音ではない。


 なぞっている。


 すでに置かれていたものを、

 順番に拾い上げているだけのように。


 コウタは、音を追う。


 合わせる。


 考える前に、指が動く。


 自然に、合ってしまう。


 初めてのはずなのに、

 ズレない。


 合わせようとする余地がない。


 そのことの方が、違和感になる。


 遅れて、ハヤテが入ってくる。


 耳には、黄色い石のピアスが光っている。


 光を受けて、わずかに揺れる。


「お、始まってる?」


 いつもと変わらない調子。


 スティックを回しながら、

 そのまま椅子に座る。


 ヒナタの音を聞く。


 一拍だけ、間。


 何かを測るような短い沈黙。


 それから、何でもない顔で入る。


 リズムが乗る。

 重なる。


 揃う。


 あまりにも自然に。


 三人の音が重なる。


 その瞬間。

 コウタは、わずかに指を止める。


 何かが、噛み合いすぎている。


 ベースでもない。

 ギターでもない。

 ドラムでもない。


 どれにも当てはまらない。


 それでも、どれにも外れていない。


 音の隙間が、埋まっている。


 本来なら残るはずの空白が、

 最初からなかったみたいに消えている。


 呼吸の余白。

 間の余白。


 それが、存在していない。


 数えようとする。


 三つ。


 はずなのに。


 どこかで一つ分だけ、

 厚みがずれている。


 増えているわけではない。

 減っているわけでもない。


 ただ、合っていない。


 はっきりとは掴めない。

 それでも、消えない。


 曲が終わる。


 余韻だけが残る。


 音は止まっているのに、

 空気の中にはまだ続きがある。


 誰もすぐに動かない。

 時間が少しだけ遅れる。


 ハヤテが、ふっと笑う。


「いいじゃん」


 軽い声。


「なんか、最初からあったみたい」


 その言い方が、少しだけ正しい。


 コウタは、何も言わない。


 ヒナタを見る。


 ヒナタは、指を止めたまま、

 弦の上に手を置いている。


 さっきと同じ位置。


 わずかに、なぞる。


 音は出ない。


 でも、そこにまだ続きがあるみたいに。


 触れれば鳴る、ではなく、

 もう鳴っているものに触れているような動き。


 コウタは、視線を落とす。


 自分の手。


 弦。


 その先。


 ポケットの中のリングが、

 わずかに重い。


 存在を主張するでもなく、

 ただ、そこにある重さ。


 あのとき、選ばなかったはずのもの。


 それでも、持っている。


 外した覚えも、しまった覚えもないのに。


「タイトルどうする?」


 ハヤテが言う。


 軽い調子で。


 いつもの流れの中で。


 ヒナタは、少しだけ間を置く。


「……まだ」


 短く言う。


 コウタは、その言葉を聞いて、

 わずかに息を止める。


 まだ、ではない。


 たぶん。


 そのとき。


 スタジオの外を、誰かが歩く音がする。


 足音。


 一定のリズム。


 コツ、コツ、と続く。


 一拍、遅れて。


 何かが、重なる。


 同じリズムで、

 少しだけ遅れて。


 重なったはずなのに、

 数えると合わない。


 コウタだけが、顔を上げる。


 音の方へ視線を向ける。


 誰も気にしない。


 ヒナタはギターを持ったまま。

 ハヤテはスティックを回している。


 外の音と、中の音。


 本来なら分かれるはずのものが、

 切れていない。


 境目がない。

 つながっている。


 コウタは、何も言わない。


 言えば、形になる気がした。


 ただ、もう一度だけ弦に触れる。


 さっきの音をなぞる。

 ぴたりと合う。


 ズレない。


 最初から、そこにあったみたいに。


 外の足音は、まだ続いている。

 中の音と、同じ距離で。


 区別がつかない。


 つかないまま、重なっている。



【揃いすぎる音】


 会場は、それほど大きくない。


 天井も低く、音が逃げにくい箱だった。


 壁に当たった音が、そのまま戻ってくる。

 人の熱も、呼吸も、照明の温度も、狭い空間の中に少しずつ溜まっていく。


 客のざわめきは、始まる直前になると、自然にひとつにまとまっていく。


 笑い声。

 小さな話し声。

 足元で何かを動かす音。


 ばらばらだったはずのものが、開演が近づくにつれて、少しずつ同じ方向を向く。


 その流れは、いつもと同じだった。


 特別な日ではない。


 ただの一本。

 ただのライブ。


 ステージに上がる。

 照明が落ちる。

 暗転の中で、機材のランプだけが浮かぶ。


 ヒナタは何も言わない。


 ギターを持ったまま、いつもと同じ位置に立つ。


 その立ち方は静かで、余計な力がない。

 けれど、今日は少しだけ、そこに置かれているようにも見える。


 コウタはベースを構えながら、一度だけ客席を見る。


 暗くて、顔はよく見えない。


 それでも、そこに“いる”数だけはわかる。


 熱。

 視線。

 息をひそめる気配。


 その密度が、いつもより少しだけ揃っている気がした。


 最初の曲に入る。


 いつも通り。

 問題はない。


 音も、流れも、すべて予定通りに進む。


 ベースの位置も、ドラムの入りも、ギターの鳴りも、何も外れていない。


 むしろ、よく合っている。


 それが、少しだけ気になる。


 数曲終わって、短い間が空く。


 ハヤテがスティックを軽く回す。


「次、新しいやついく?」


 軽い声。


 観客には聞こえていない、三人だけの距離の声。


 ヒナタは、わずかに頷く。


 コウタは何も言わない。


 でも、わかっている。


 あの曲だ。


 ヒナタが、指を置く。

 あの日と同じ場所に。


 ほんの一瞬、止まる。


 考えている間ではない。

 迷っている間でもない。


 そこにあるものを、もう一度確かめるような間。


 それから。


 一音。


 空気が、わずかに揃う。

 音が広がるより先に、空間の方が整う。


 客席のざわめきが、一拍分だけ遅れる。

 それから、消える。


 静かになったのではない。

 揃ったのだと、コウタは思う。


 弾きながら、客席の方を見る。


 暗い。


 でも、見える。


 動きが、揃っている。


 揺れ方。

 呼吸。

 視線。


 全部が、同じタイミングで止まっている。


 誰か一人ではない。


 全体が、そうなっている。


 ハヤテが入る。

 リズムが重なる。

 ぴたりと合う。


 いつも以上に、正確に。


 その正確さに、わずかに引っかかる。


 合いすぎている。

 ズレがない。


 いつもなら、ほんの少しだけ残る揺れがある。

 人が鳴らしているからこその、遅れや癖がある。


 それが、今日は見つからない。


 なのに。


 数えようとすると、どこかで合わない。

 三人のはずなのに、厚みだけがひとつ分ずれている。


 増えているわけではない。

 誰かが足されているわけでもない。


 それでも、音の奥に、もう一枚ある。


 はっきりとは掴めない。

 それでも、消えない。


 観客はそれを、違和感としてではなく、完成した音として受け取っている。


 曲が進む。

 止まらない。

 ヒナタは迷わない。

 最初から最後まで、すでに決まっているみたいに弾く。

 その横顔に、表情はほとんどない。


 ただ、指だけが動いている。

 どこかから流れてくる音を、遅れずに拾っているみたいに。


 コウタは、それに合わせる。

 合わせられてしまう。

 考える前に、指が動く。

 どこにもズレがない。


 サビに入る。


 その瞬間。

 客席の奥で、わずかに動くものがある。


 人の動きではない。

 けれど、そこに“立っている”。


 客の隙間に紛れているのではなく、客席そのものの奥に重なっている。


 ただ、いる。


 コウタは目を逸らす。


 見ない。

 見れば、変わる気がした。


 見なければ、まだ何も起きていないことにできる。


 曲が終わる。

 音が止まる。


 余韻だけが残る。


 その余韻が、少しだけ長い。


 消えきらない。


 アンプのノイズとも違う。

 会場の反響とも違う。


 音が終わったあとに、まだ音の形だけがそこに残っている。


 拍手が起こる。


 タイミングが、揃いすぎている。

 一斉に始まり、一斉に止む。


 誰かが合わせているわけではないのに、全部が同じ動きをする。


 その正しさが、少し怖い。


 ハヤテが笑う。


「いいじゃん」


 軽い声。


「今日、めっちゃ揃ってる」


 ヒナタは何も言わない。


 ギターを持ったまま、指をわずかに動かす。


 音は出ていない。


 でも、まだ続きがあるみたいに。

 弦に触れていないのに、そこだけが鳴っているみたいに。


 コウタは、客席を見る。


 さっきまであったはずの違和感が、もう見えない。

 最初からいなかったみたいに、消えている。


 暗い客席。

 揃った視線。

 整った沈黙。


 何もおかしくない。


 おかしくないことが、いちばん引っかかる。


 ポケットの中のリングが、重い。

 あの日と同じ重さ。


 それ以上でも、それ以下でもない。


 ただ、外せない重さ。


 コウタは、小さく息を吐く。


 違和感は、残ったまま。


 それでも、


 もう、外せない。



【残り続ける音】


 ライブのあと、スタッフから映像データが共有された。


 終演後の、いつも通りの流れ。

 特別なことは何もない。


 固定カメラの映像。

 ライン録りの音。


 現場で起きたことを、そのまま閉じ込めた記録。


 ただ、それだけのはずだった。


 コウタは自宅でそれを流す。


 部屋は静かで、外の音もほとんど入らない。


 壁に囲まれた、音が逃げない空間。


 さっきまでいたライブハウスと、どこか似ている。


 再生ボタンを押す。


 わずかなクリック音。


 それを合図に、画面が切り替わる。


 映像が始まる。


 ステージ。

 照明。

 客席。


 すべて、見慣れた光景。


 見てきたものと、ほとんど同じ。


 最初の数曲は問題なかった。


 音も映像も、

 違和感はない。


 バランスも良い。

 ミスもない。


 普通に、良い出来だと思う。


 そのまま流す。


 時間が進む。


 例の曲に入る。


 一瞬だけ、

 画面の明るさが揺れる。


 ほんのわずか。


 気のせいで済ませられる程度の変化。


 コウタは何も操作しない。


 そのまま見る。


 音が入る。


 最初の一音。


 コウタの指が止まる。


 スピーカーから鳴っているはずなのに、

 部屋の空気の方が、先に変わる。


 音が届く前に、

 空間がそれを受け入れているような感覚。


 続く。


 フレーズが流れる。


 スタジオで弾いたときと同じ。

 ライブで感じたものと同じ。


 違和感も、そのまま。


 音の奥に、もう一枚ある。


 数えようとする。


 三人。


 のはずなのに。


 どこかで一つ分だけ、厚みが合わない。


 増えているわけではない。


 それでも、重なっている。


 消えていない。


 全部と噛み合っている。


 そのこと自体が、少しだけおかしい。


 コウタは、再生を止めようとして、


 指を止める。


 画面の端。


 客席の奥。


 暗いままのはずの場所に、


 一つだけ、形がある。


 人影。


 動かない。


 観客の誰とも重ならない位置。


 それなのに、そこに“いる”。


 誰も気づいていない。

 最初から背景の一部だったみたいに。


 顔は見えない。

 距離もある。


 それでも。


 姿勢だけが、やけにわかる。


 無駄がない。

 揺れない。

 ブレがない。


 ただ立っているだけで、

 全部が揃っている。


 コウタは、少しだけ目を細める。


 画面の光が変わる。


 見え方が、わずかにずれる。


 髪の色。

 黒い。


 照明の反射ではない。


 影の落ち方でもない。


 その色だけが、

 他と混ざらずに残っている。


 動きがない。

 呼吸の揺れもない。


 それでも、


 そこにいる。


 画面の中の音と、完全に重なっている。


 映像の外ではなく、

 音の中に立っているみたいに。


 コウタは、視線を逸らせない。


 そのまま、

 無意識に手が動く。


 髪に触れる。

 整えるように、軽くなぞる。


 いつもの癖。


 指先の感触が、少しだけ違う気がする。


 髪の流れ。

 触れたときの抵抗。


 わずかに、ずれている。


 そこで、止まる。


 ゆっくりと手を下ろす。


 もう一度、画面を見る。


 同じ映像が流れている。


 人影は、動いていない。

 最初からそうだったみたいに。


 変化はない。

 何も起きていない。


 はずなのに。


 コウタは、再生を止める。


 画面が暗くなる。

 光が消える。

 部屋が静かになる。

 何も鳴っていない。

 スピーカーも、空気も、止まっている。


 はずなのに。


 さっきの音が、残っている。


 頭の中ではない。

 記憶でもない。

 空間のどこかに、そのまま続いている感じがする。


 音が消えきらずに、

 そこに留まっている。


 コウタは、ゆっくりとポケットに手を入れる。


 リングの石に触れる。


 指先に、重さが返ってくる。


 冷たいはずなのに、

 わずかに温度がある。


 体温とも違う、残り方。


 あの日と同じ重さ。

 変わっていない。


 それなのに、

 少しだけ馴染んでいる。


 スマホに通知が入る。


 短い振動。

 現実の音。


 ハヤテからだった。


「さっきの映像見た?」


 少し間があって、もう一通届く。


「なんかさ」


 そこで一度切れる。

 入力の途中で止まったみたいに。


 それから。


「音、いい感じに増えてない?」


 コウタは、画面を見たまま止まる。


 指も、呼吸も、そのまま。


 返信はしない。


 できない。


 何を返せばいいのか、

 言葉が浮かばない。


 部屋は静かだ。


 何も変わっていない。


 机も、壁も、光も、

 すべてそのまま。


 それでも。


 音は、まだ続いている。


 消えていない。


 終わっていない。



【揃いきる前】


 音は続いている。


 揃っている。

 ズレない。

 それはもう、確認するまでもない。


 コウタは、ゆっくりと視線を上げる。


 ドアの方。

 さっき見えた影。

 もう一度、確かめるみたいに。


 ノブが、わずかに動く。


 開く。


 スタッフが顔を出す。


「すみません、次――」


 そこで言葉が止まる。


 一瞬だけ、視線がコウタの横にずれる。


 ほんのわずかに。


 それから、自然に戻る。


「……あ、大丈夫です」


 何もなかったみたいに続ける。


 ドアが閉まる。


 音が、ぴたりと合う。


 コウタは動かない。


 今の視線。


 ズレていた。

 確実に。


 自分を見ていなかった。


 その隣。

 そこに、何かがある前提で。


 コウタは、ゆっくりと横を見る。


 黒い髪。


 立っている。


 さっきと同じ距離で。

 同じ姿勢で。

 同じ高さで。


 そこにいる。


 消えない。

 反射ではない。

 音の中でもない。


 ただ、そこにいる。


 コウタは、息を止める。


 理解が、少し遅れて追いつく。


 ――見えている。


 自分だけじゃない。

 普通に。

 最初からいたみたいに。


 ヒナタは止まらない。

 ハヤテも、何も変わらない。


 音はそのまま続く。

 揃っている。


 黒い方も、同じように弾いている。

 コウタと、同じ音を完全に重ねて。


 ゆっくりと視線を落とす。


 自分の手。

 弦の上。


 その隣。


 もう一つの手が、同じ位置にある。


 触れている。


 先に。

 正確に。


 コウタは、何も言わない。


 言えない。


 そのまま、音をなぞる。


 ぴたりと合う。

 ズレない。


 もう、

 どちらが弾いているのか分からないまま。



【最初から、そうだったみたいに】


 音は、止まらない。


 コウタの指が動く前に、

 次の位置がそこにある。


 それはもう、確かめるまでもない。


 ヒナタは変わらず弾き続けているし、

 ハヤテも、止めずにリズムを刻んでいる。


 いつも通りのはずの時間。


 それでも、

 コウタの中だけが、わずかに遅れている。


 ほんの半拍。


 その遅れを埋めるように、

 もう一つの動きが先にある。


 視線を上げる。


 アンプの反射。

 黒髪の自分。


 同じ高さで、同じ姿勢で、

 そこに立っている。


 消えない。


 コウタは、何も言わない。

 ただ、その動きを見る。


 一度だけ指を止める。


 止めたはずの音が、止まらない。


 そのまま続いている。

 

 わずかに。

 でも、確かに。


 ヒナタは止まらない。

 ハヤテも止めない。


 音は欠けない。


 むしろ、

 さっきよりも整っている。


 コウタは、自分の手を見る。


 動いていない。

 それでも音は揃っている。


 そこで、分かる。


 ――逆だ。


 自分が遅れているんじゃない。


 あれが、先にある。


 揺れのない方。

 迷いのない方。

 選ばなかった方。


 それに、

 自分が追いついている。


 もし、俺の音が。

 このまま、なくなっても。


 コウタは、ゆっくりと息を吐く。


 止める理由は、浮かばない。

 外す理由も、見つからない。


 ヒナタの音と、

 ハヤテのリズムと、

 黒髪の自分の低い音が、


 同じものとして重なっていく。


 コウタは、顔を上げない。

 確かめようともしない。


 そのまま、音をなぞる。


 ぴたりと合う。

 ズレない。


 最初から、そうだったみたいに。


 選ばなかったはずの音が、一歩先に鳴る。

 その中に、意味だけが落ちてくる。



  ――それで、よかったの?

 


 コウタは、ゆっくりと息を吐く。


 それ以上は、確かめない。


 理由も、まだ考えない。

 考えれば、形になってしまう気がした。


 まだ、触れずに置いておく。


 今は、疲れているだけだ。


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