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Snow flakes ‐ Prism RED ‐ KOUTA

始まりのベース

作者: 山吹 ことり
掲載日:2026/06/13

 ショッピングモールの二階。

 書店の隣にある、小さな楽器店。


 コウタは、店のエプロンをつけたまま、

 アンプの前でしゃがみ込んでいた。


 床に伸びたシールドを手繰り寄せ、軽くまとめる。


 夕方の店内は、少しだけ静かだ。

 学校帰りの客が来る前の、短い時間。


 試奏スペースに行き、ベースを手に取る。

 軽く弦を弾くと、低い音が店の奥に転がった。


「悪くない」


 小さく笑って、ベースをラックに戻す。


 値札の向きを直し、

 レジ横の弦の箱を整える。


 また、仕事に戻る。


 しばらくして、

 試奏スペースの方から、ベースの音が聞こえた。


 まだ慣れていない指。

 低い音が、少し遅れて鳴る。


 手を止めて、そちらを見る。


 中学生くらいの男の子が、

 一本のベースを抱えている。


 値札を見て、少し迷う。

 また弦を弾く。


 まだ形にならない音。


 ゆっくり歩いて試奏スペースの横に立ち、

 コウタは男の子に声をかけた。


「気になってる?」


 男の子は少し驚いてから、頷いた。


「中古の方が安いんですけど……」


 ベースのボディを軽く見てから言う。


「楽器って、弾き込むと音が変わるんだ」


「育てると、愛着湧く」


 少しだけ笑う。


 男の子は、小さく頷き、

 もう一度ベースの弦を弾いた。


 ぎこちない低い音が、店の奥に転がっていく。


「……貯金、足りるかな」


 男の子が、小さく呟く。


 コウタは、その音を聞いてから、

 少しだけ目を細めた。


 思い出す。


 自分がこの店に初めて来たのも、

 中学生の頃だった。



*


 学校帰りのショッピングモール。


 外の空気が、少しだけ冷たくなっていた。

 制服の上に、薄い上着を羽織る。


 本屋で、気になっていた作家の新刊を探す。


 見つけて、すぐに手に取る。


 それから、受験用の参考書。

 ずしりと、重い。


 会計を済ませ、何気なく隣の楽器店を見る。


 奥から、低い音が響いてくる。


 CDコーナーを抜け、楽器コーナーへ回る。

 低い音が鳴る方へ、自然と足が向く。


 奥の試奏スペースで、

 店員がベースを弾いていた。


 黒い短髪に、赤いメッシュ。


 エプロンの下、襟のついたシャツの袖をまくり、

 楽しそうに音を鳴らしている。


 コウタは思わず立ち止まり、

 その様子を見た。


 ふと、

 目が合い、心臓が跳ねる。


 一拍、遅れて。

 

「気になる?」


 声をかけられ、慌てて目を逸らした。


「あ……」


 言葉が詰まる。


「大丈夫です」


 何が大丈夫なのか、自分でもよくわからない。

 小さく会釈をして、店を出る。


 歩くスピードが、自然に上がっていく。


 低い音。


 まだ、心臓が鳴っている。



*


 別の日。


 本屋に寄る。

 店内を見回す。


 新刊は出ていない。


 なんとなく、楽器屋に足が向く。

 

 試奏スペースでは、

 今日も店員がベースを弾いている。


 赤いメッシュの入った髪。

 襟のついたシャツ。

 低い音。


 派手だけど、音は主張しない。

 でも、その音が入ると、少しだけ世界が締まる。


 指は速くない。

 難しいことをしているようにも見えない。


 それでも、音が途切れない。


 コウタは、少しだけ体重を移して立った。


 帰ろうと思えば、すぐ帰れる。


 それでも、足が動かなかった。


 低い音が、店の奥にゆっくり転がっていく。

 その音を、もう少しだけ聞いていたかった。



*


 気づけば、

 学校帰りに何度も通っていた。


 コウタは今日も少し離れた場所に立ち、

 気づかれないように音を聞いていた。

 

 ディスプレイされたベースを見上げる。


 白いボディ。

 木目のままのもの。

 つやのある黒。


 形も少しずつ違う。

 丸いもの、細いもの、角ばったもの。


 そのまま、値札を見る。


 思っていたより、ずっと高い。


 視線を少し下げた。


 ラックの下段。

 中古のベースが並んでいる。


 少しだけ、傷。

 塗装の端が、少し曇っている。


 値札は、少しだけ安い。


 また上を見た。


 新品のベース。

 光を受けて、静かに並んでいる。


「新品でもいいと思うよ」


 不意の声に、心臓が跳ねる。


 ゆっくり振り返ると、

 赤いメッシュの店員が立っていた。


「楽器ってさ、弾くと変わるんだ。

 育てると、愛着湧く」


 そう言って、

 並んだベースに視線を向け、

 少し目を細めた。


「弾いてみる?」


 コウタは一瞬、息を止めた。

 

「……はい」


 考えるより先に、言葉が出ていた。



*


 店員は一本のベースを手に取った。


 コウタに差し出す。


 思っていたより、重い。


 ストラップを肩にかけてもらい、

 ベースの位置を少しだけ直される。


「ここ持って」


 左手を軽く動かされる。


「で、こっち」


 右手の指で弦を弾く仕草を見せる。


「難しいことしなくていいから」


 店員は少し笑った。


「一本、鳴らしてみて」


 弦に触れ、指を動かす。


 音は出ない。


 もう一度。


 今度は、少しだけ触れる。


 小さく、鈍い音。


 店員がアンプのつまみを少し回した。


「もう一回」


 コウタは弦を弾く。


 低い音が鳴った。


 店の奥まで、ゆっくり転がっていく。


 もう一度、弾く。


 さっきより、はっきり鳴る。


 店員は何も言わず、

 腕を組んでそれを見ていた。


 低い音が、身体に残る。

 胸の奥が、じんわりと熱い。


 帰り道。

 ショッピングモールの外は、もう暗い。


 ポケットの中で、

 指先が、少しだけしびれている。


 さっき弾いた弦の感触を思い出す。


 低い音が、

 まだ、耳の奥に残っている。


 そのまま、少しだけ進める気がした。



*


 家に帰り、いつも通り机に向かう。

 参考書を開き、黙々と問題を解いていく。


 いつもと同じ手順で、

 同じように式をなぞり、

 同じ場所で答えにたどり着く。


 間違えない。

 外さない。


 ただ、静かに積み上がっていく。


 机の上には、進学校のパンフレットと参考書が

 角をそろえて、きれいに積まれている。


 コウタは、鉛筆を持ったまま手を止めた。


 今日のベースを思い出す。


 腹に残る、低くてゆっくり転がる音。

 指に残った弦の感触。


 時計の秒針が規則正しい音を鳴らす。


 少しだけ考えて、

 また手を動かす。



*


 次に楽器屋へ行った時、

 ディスプレイのベースは、少し入れ替わっていた。


 それでも、光を受けて静かに並んでいる。


 店員が気づいて、少しだけ笑った。


「久しぶり。決めた?」


 コウタは、ひとつのベースを見る。


 小さく息を吸う。


「……これ」


 ツヤのある黒。

 店の照明が、ゆっくり滑る。


 店員は、ラックからベースを取り、頷く。


「いいと思う」


 赤いメッシュの入った髪が、少し揺れる。


「それ、ちゃんと鳴るやつだ」


 そう言って、目を細めて笑った。


 コウタは小さく頷き、

 受け取ったベースのネックをぎゅっと握った。


 店を出る。

 夜の空気は、思ったより冷たかった。

 息を吐くたびに、白くほどける。


 背中にはベースのケース。

 右手には、小さなアンプの箱。


 シールド。

 チューナー。

 予備の弦。


 細い紙袋の中で、かすかに触れ合い音が鳴る。


 貯金はもう、ほとんどない。


 少し、重い。


 でも、この重さが、ちょうどいい。



*


 自分の部屋。

 ドアを閉め、静かに息を吐く。


 背中のケースとアンプの箱を床に下ろし、

 紙袋の中身をゆっくりと、机の横に並べる。


 ケースの留め具に手をかけて、少し止まる。


 ゆっくりと、開ける。


 黒いベース。


 店の灯りじゃない。

 部屋の白い蛍光灯が、静かに映る。


 指で弦に触れる。


 まだ、鳴らさない。


 指先に、少しだけ力を入れる。


 低い音。


 小さく、転がる。

 部屋の中で、すぐ消える。


 思わず、小さな笑みがこぼれた。


 机の上には、高校のパンフレットと参考書がそのまま積まれていた。


 椅子に座り、参考書をパラパラと開いてから、

 コウタは少し考える。

 

 このまま、

 進学校へ行き、大学を出て、父親の会社に入る。


 誰かに決められたわけではない。

 でも、なんとなく、

 その流れから外れることはないような気がしていた。


 安定している。

 悪くない。


 参考書を閉じて、

 机の上のパンフレットを何枚か取る。


 大学進学率。

 就職実績。

 並んだ企業名。


 そこには整った言葉が並んでいる。


 その先にいる自分の姿も、

 なんとなく想像できた。


 でも。


 それで、いいのか。


 パンフレットを流し読みするうちに、

 そのうちの一枚で手が止まった。


 私立。


 偏差値も、そこそこ高い。

 でも、校風は自由。


 ――文化系活動が活発。


 コウタは、机の横を見る。


 黒いベース。


 店員を思い出す。


 赤いメッシュ。

 襟の整ったシャツ。

 少し笑った顔。


『それ、ちゃんと鳴るやつだ』


 パンフレットの山に視線を戻す。


 しばらくして、

 それをまとめて机の端に寄せた。


 一枚だけ、残す。


 参考書を開く。


 問題を解く。


 胸の奥が、静かに鳴る。

 さっきより、手が軽かった。



*


「こんにちは」


 店に通うようになっていた。


 最初は、弦を買うだけだった。


 レジで少しだけ話す。

 弦の太さ。

 切れにくい種類。


「一緒に、張り替えてみる?」


 軽く言われて、頷く。


 ペグを回す。


 思ったより固い。


 少しだけ力を入れると、急に軽くなる。


「うわ」


 弦が、ふっと緩む。


 指に当たって、少しだけ跳ねる。


「最初、そこ難しいよね」


 横から声がする。


 コウタは何も言わず、もう一度回す。


 今度は、ゆっくり。


 巻く。


 巻く。


 少しだけズレる。


 戻す。


 またズレる。


 無言のまま、やり直す。


「引っ張りながらやると、安定するよ」


 言われて、少しだけ弦を引く。


 張る。


 止まる。


 また巻く。


 今度は、さっきより揃う。


 音を鳴らす。


 低く、短く鳴る。


 コウタは少しだけそれを見て、

 もう一度、ペグに手をかけた。


 うっすら汗がにじむ。


 肩で、小さく息をつく。


「処分しておこうか?」


 店員が、緩んだ弦を軽く持ち上げる。


 コウタは首を振り、

 弦をまとめて、ポケットに入れた。


 次に来たときは、ケーブルを聞いた。


 音が変わるのか。


 店員は少し考えて、いくつか箱を並べる。


 試奏スペースから、低い音が流れる。


 一本ずつ差し替えてみても、

 違いがはっきりと分からない。


 それでも、もう一度弾く。


 弦を弾くたびに、

 店員の赤いメッシュが、光に透けた。


 コウタはなんとなく、それを見る。


 店に行くたびに、ベースを触る時間が長くなる。


 弾き方を聞く。

 アンプを少しだけ上げる。


 低い音が、ゆっくり転がる。


 何度も同じ音を鳴らした。


 約束はしていない。

 正解もない。


 それでも、また行く。


 弦を買う。

 ケーブルを見る。

 試奏スペースで、同じ音を何度も鳴らす。


 そのたび、

 赤いメッシュの店員は、

 軽く笑って何かを教えてくれた。


 ある日。


「俺、これから休憩入るんだけど」


 店員が、缶コーヒーを二本持って言う。


「よかったら、どう?」


 コウタは少しだけ目を瞬いてから、

 小さく頷いた。



*


 店の裏。


 ショッピングモールの搬入口近く。

 外気は少し冷たい。


 簡易的な喫煙スペースには、

 風よけの透明なパネルが立っていた。


 赤いメッシュの店員は、

 缶コーヒーを一本渡してから、

 ポケットに手を入れる。


 使い古された、銀色のZippo。


 蓋を開く。


 キン、と乾いた音。


 親指で火花を擦る。

 小さな火が揺れ、煙草の先が赤く灯った。


 煙が、ゆっくり空へ溶けていく。


 その様子を、コウタはひとつずつ目で追った。


「だいぶ上手くなったな」


 煙を吐きながら、店員が言う。


「そうですか」


「うん。音、前よりちゃんと残る」


 コウタは缶を持ったまま、

 少しだけ視線を落とした。


「……まだ、あんまりです」


 店員は少し笑う。


「でも、そういうやつの方が続くんだよな」


 煙草を指に挟んだまま、

 試すように空を見る。


「ベースって、いいよ」


 低い声。


「目立たないけど、

 いないと音が締まらない」


 煙が、白くほどける。


「なんかさ。

 整えてるって感じするんだよな」


 コウタは、黙って聞いていた。


 風が吹いて、

 煙と赤いメッシュが少し揺れる。


 Zippoの銀色だけが、

 夕方の光を細く反射していた。


 店員は缶コーヒーをひと口飲んで、

 誰に言うでもなく、小さく呟く。


「……この音で、世界行く」


 コウタは、缶コーヒーを持ったまま、

 少しだけ指先に力を入れた。


 何も言えなかった。


 ただ、

 夕日を反射するZippoの光と、

 赤く灯った煙草の先を見ていた。



*


 試験が近づく。


 机の上には、

 1枚のパンフレット。


 参考書と問題集が積まれていく。


 店には、

 少しずつ行かなくなった。


 行けないまま、

 冬が過ぎていく。


 それでも時々。


 低い音と、

 Zippoの乾いた音だけが、

 ふいに耳の奥で鳴る。


 春。


 高校の合格通知を机に置いたまま、

 久しぶりに店へ行った。


 扉を開ける。


 試奏スペースに、音はない。

 赤いメッシュの店員は、いなかった。


 コウタは少しだけ店内を見回す。


 レジの横。

 見慣れない色紙が一枚、飾られていた。


「辞めたよ」


 レジ奥から、店長が言う。


「え」


「前から決めてたみたい」


 店長はそう言ってから、

 ふと思い出したように引き出しを開けた。


 小さな銀色のZippo。


「これ、預かってた」


 コウタは、目を瞬いた。


「……俺に?」


「“あの子、たぶんまた来るから”って」


 店長は軽く笑う。


「使うかどうかは知らないけど、だって」


 コウタは、Zippoを受け取る。


 思っていたより、少し重い。


 親指で、蓋を押し上げる。


 キン。


 乾いた音。


 夕方の喫煙スペース。

 赤い火。

 低い声。


『ベースって、いいよ』


 コウタは、何も言わずに蓋を閉じた。


 何も言わず、

 ピックをひとつだけ買う。


 店を出る。


 そのまま、馴染みの店に髪を切りに行った。


 鏡に映った、自分の顔を見る。

 適度に整った、黒い髪。


 いつもと同じで、

 と言いかけて少し考える。


「……少しだけ、赤くできますか」


「赤?」


 美容師が、鏡越しに目を上げる。

 手を止めて、聞き返した。


「赤……茶色にしてください」


「赤茶でいいの?」


「うん。赤茶がいい」


 前を向く。

 鏡の中の自分と、目が合った。


 帰り道。


 染まった髪を、少しだけ触る。


 少しだけ、派手。

 でも、主張しすぎない。


 光が当たると、

 赤く透ける。


「悪くないな」


 そう言って、小さく笑った。



*


 春休みは、思ったより早く過ぎた。


 ベースを弾いて、

 勉強して、

 気づけば桜が咲いていた。


 入学式の朝。


 廊下の先から、

 一際目立つ新入生が歩いてくる。


 ――金髪。


 無意識に目で追った。


 すれ違う直前、

 自然と目が合う。


 金髪の新入生は足を止めて、

 人懐こそうに、にっと笑った。


「おはよ。これからよろしく!」


 軽く声をかけられて、

 コウタは少しだけ頷いた。


 教室の席は、出席番号順に並んでいた。


 後ろの席で、黒髪の男子が

 使い込まれた楽器ケースを静かに壁へ立てかけた。


 少しだけ振り返る。


「音楽、やるの?」


 何気なく聞いた。


「うん」


 それだけ。

 その男子は、そのまま窓の外を見る。


 会話は、広がらない。


 少しだけ気まずい。

 コウタは前を向き、黒板を見た。


 チャイムが鳴り、ざわめきが落ち着く。


 高校生活が始まる。



*


「決めた。これ、買います」


 男の子は、黒いベースを差し出して、言った。


 ツヤのある黒。

 店の照明が、静かに滑る。


 ベースを受け取り、小さく頷く。


「いいね」


「最初に選んだ一本は、大体当たり」


 男の子は、少しだけ照れた顔をしてから、頷いた。


「……はい」


 その声は、小さい。

 でも、迷いはなかった。


「アンプ、持ってる?」


 男の子は、首を横に振る。


 コウタは棚の方を指さした。


「最初は小さいのでいいと思う。

 家で鳴らすなら、このくらい」


 箱をひとつ取り出して並べる。


「あと、シールド。

 チューナーは……クリップ式でいいかな」


 棚からいくつか取って、カウンターに置く。


 男の子は、少し驚いた顔でそれを見ていた。

 その様子を少しだけ見てから並べた箱を軽く整える。


 ふと、思い出す。


 赤いメッシュ。

 目を細めて笑った顔。


 コウタは軽く笑う。


「最初はそれだけあれば弾ける」


 男の子は、小さく頷いた。


「それから、おまけ」


 コウタはレジ横の小皿から、ピックを一枚取った。


 男の子の手のひらに、そっと置く。


「最初は、なくしやすいから」


 男の子は、少しだけ目を丸くしてから、

 嬉しそうに笑った。


「……ありがとうございます」


 黒いベースのケースが、男の子の背中に収まる。


 扉が開き、店の外の空気が少しだけ流れ込んだ。


 男の子は振り返って、小さく頭を下げる。


 コウタは、片手を軽く上げて見送った。


 低い音が、まだ店の奥に残っている気がした。



*


 季節が、いくつか巡った。


 コウタは、いつものように店の奥でベースを弾いていた。


「こんにちは」


 試奏スペースに、

 黒いケースを背負った学生が入ってくる。


 手を止め、少しだけ笑う。


 学生は、来るたびに質問をした。


 弦の種類。

 ケーブルの違い。

 アンプの調整の仕方。


 弾き方を教える。


 アンプのつまみを少し回す。

 鳴らし方を、少しだけ直す。


 最初はただ低く響いていただけの音に、

 輪郭ができる。


 学生が、会釈をして帰っていく。

 その姿を、見えなくなるまで目で追った。



*


 その日の閉店後。


 コウタは、レジ横に立つ店長に声をかけた。


「店長」


 店長が顔を上げる。


「……決めました」


 少しだけ間を置く。


「ここ、辞めようと思います」


 店長はしばらく黙っていた。


 それから、小さく笑う。


「そうか」


「……長い間、お世話になりました」


 頭を下げると、

 店長は、少しだけ困った顔をする。


「なあ」


「ひとつ、お願いがあるんだけど」


 言いながら、レジの上の壁を指差した。


「Snow flakesのサイン、くれない?」


 コウタは、目を瞬いた。

 思わず、笑う。


「……はい」


 店長も、少しだけ笑う。


 それから、色紙を一枚取り出し、カウンターに置いた。


 コウタはそれを受け取り、言った。


「これ」


「三人で、書いて来ます」


 店長は、少しだけ目を細めた。


「楽しみにしてる」


 小さく頷く。


 壁には、

 少し色褪せた色紙が一枚、飾られている。


 それを、少しだけ目で追ってから、

 店の扉を開けた。


 外の空気が、静かに流れ込む。


 低い音が、まだ耳の奥に残っていた。

 

Snow flakes本編の外で、

その途中にあった小さな時間を、少しだけ置いています。


多くを語らないコウタの、

手元に残るものの話です。

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