第五章 Under tone
三つの音が重なったあと、録音機は沈黙した。
鞄の中も静かだった。
澪はしばらく動けなかった。
コウタの声。
ハヤテの声。
ヒナタの声。
録音された時刻を確認する。
三人が会議室を出たあと。
扉が閉まり、足音が遠ざかったあと。
それでも、声だけが残っている。
今日、静かだったな。
あの人が持ってたから。
そっち行ってたんだ。
何が。
どこから。
誰のところへ。
聞きたいことはいくつもあった。
だが、三人へ連絡する気にはなれなかった。
彼らが知っているのかどうかも分からない。
録音の会話が、本当に三人のものなのかさえ判断できない。
澪はデータを消さず、録音機の電源だけを切った。
鞄の中の黒い箱には触れなかった。
編集部へ戻ると、机の引き出しは開いていた。
鍵をかけたはずだった。
中に入れていた三つの箱。
スモーキークオーツ。
シトリン。
カイヤナイト。
机の上にもない。
床にも落ちていない。
「誰か、私の引き出し開けました?」
周囲へ声をかける。
近くの編集者が顔を上げた。
「開いてたよ」
「中のもの、知りませんか」
「何入れてたの?」
「取材資料です」
「見てない」
澪は鞄を開いた。
底には、会議室で見つけた黒い箱がある。
その横に、小さな封筒。
さらに奥には、細長い箱。
三つとも、そろっていた。
澪はしばらく、そのまま見つめた。
それから、何も言わずに鞄を閉じた。
「大丈夫?」
編集者が心配そうに聞いた。
「少し疲れてるだけです」
「石の取材?」
「はい」
「怖いやつ?」
澪は答えなかった。
Snow flakesの取材資料を机へ置く。
Under tone。
検索しても、それらしい店は出てこなかった。
楽器店。
古書店。
天然石。
アクセサリー。
どの組み合わせでも該当する店はない。
地図にも記録がない。
過去の電話帳を確認しても見つからなかった。
ハヤテたちが店へ行った時期も、場所も曖昧だった。
駅の近く。
地下だったかもしれない。
歩いているうちに見つけた。
探して入ったわけではない。
必要なら、たぶん見つかる。
取材ノートには、それだけしか残っていない。
澪は三件の記録を並べた。
一件目の女性。
古い店。
場所の説明は毎回違った。
二件目の三浦佳奈。
姉の遺品だと言っていた。
購入先についての証言はない。
三件目の柴崎冬馬。
楽器と本が置かれた店。
選んだと思っていた。
三件とも、Under toneという名前は出ていない。
それでも、同じ店だと思った。
根拠はなかった。
ただ、三人のアクセサリーと並べた瞬間から、その可能性しか考えられなくなっていた。
澪は取材音声をもう一度再生した。
『Under tone』
ハヤテの声。
『古い店です。楽器も、本も、アクセサリーもあった』
コウタ。
『必要なら、たぶん見つかりますよ』
もう一度。
『必要なら』
必要。
自分には、いま必要なのだろうか。
三つの石を返すために。
音を止めるために。
それとも、続きを聞くために。
澪は録音を止めた。
その日の仕事を終え、編集部を出たのは午後八時を過ぎていた。
外はまだ少し明るい。
駅へ向かう人の流れに入り、澪は鞄を肩へ掛け直した。
三つの石は静かだった。
引っかく音も。
笑い声も。
歌も聞こえない。
地下鉄の入口へ向かう。
信号を渡る。
コンビニの角を曲がる。
そこで、澪は足を止めた。
知らない路地があった。
毎日通っている道だった。
そこに道があることくらい、知っていてもよかった。
ビルとビルの間。
人ひとりが通れるほどの細い路地。
奥は薄暗く、どこへ続いているのか見えない。
入口の壁に、小さな看板が掛かっていた。
Under tone。
白い文字。
装飾もない。
澪は周囲を見た。
誰も路地を気にしていない。
通行人は看板の前をそのまま通り過ぎていく。
鞄の中から、カリ、と音がした。
続いて、右耳で短い笑い声。
最後に、低い旋律。
三つとも、路地の奥へ向いている気がした。
澪は歩き出した。
路地は思ったより長かった。
街の音が少しずつ遠ざかる。
車。
信号機。
人の話し声。
角を一つ曲がると、すべて聞こえなくなった。
その先に、店があった。
古い木製の扉。
曇ったガラス。
店内には暖色の明かりが点いている。
ドアノブへ手を掛ける。
扉の向こうで、ベルが鳴った。
まだ開けていない。
澪は手を離した。
少し待つ。
中から足音が近づいてきた。
扉が内側から開く。
「いらっしゃい」
男が立っていた。
年齢は分からない。
若くも見える。
それなりに年を重ねているようにも見える。
柔らかい声。
穏やかな顔。
怖い印象はなかった。
「佐伯さんですね」
澪は何も言えなかった。
「どうして、名前を」
「聞いていますから」
「誰から?」
男は澪の鞄へ視線を落とした。
「ずいぶん賑やかですね」
澪は鞄を押さえた。
「あなたが、ナギさんですか」
「そう呼ばれています」
「Snow flakesのハヤテさんから聞きました」
「元気でしたか」
あまりに普通に尋ねられ、澪は一瞬答えに詰まった。
「はい」
「それならよかった」
ナギは扉を大きく開けた。
「どうぞ」
澪は店へ入った。
楽器。
本。
古いレコード。
小さな置物。
壁際には、天然石を使ったアクセサリーが並んでいる。
リング。
ピアス。
ネックレス。
同じ石を使った品が、いくつもあった。
スモーキークオーツのリングだけでも、十本近くある。
台座の形は少しずつ違う。
シトリンのピアスも、片耳用と一組のものが並んでいる。
カイヤナイトのネックレスは、石の長さも金具もそれぞれ違った。
Snow flakesの三人が持っていた品と似たものもある。
澪の手元にある三つと似たものも。
だが、同じものは一つもなかった。
「このアクセサリーは、全部こちらのものですか」
「ここにあるものは」
「同じ石を使ったものが、たくさんありますね」
「石ですから」
ナギは穏やかに答えた。
「同じ種類のものは、いくつもあります」
「では、私が持っているものも」
「見せていただけますか」
店の奥に小さなテーブルがあった。
ナギが椅子を引く。
澪は腰を下ろし、鞄から三つの箱を出した。
最初にスモーキークオーツ。
次にシトリン。
最後にカイヤナイト。
ナギは一つずつ蓋を開けた。
触れない。
覗き込むだけだった。
「こちらで売ったものですか」
「分かりません」
「分からない?」
「長く置いていたものもありますから」
「記録は?」
「つけていません」
「三つとも、事件に関係しています」
「そうですか」
ナギは驚かなかった。
「人が亡くなったものもあります」
「ええ」
「知っていたんですか」
「石を見れば。何が起きたかまでは分かりませんが」
「では、何が分かるんですか」
ナギはスモーキークオーツを見た。
「長いこと鳴いている」
澪は指先を握った。
「鳴いている?」
「聞こえませんか」
「引っかく音は」
「それです」
「ピアスからは、笑い声がします」
「そうでしょうね」
「ネックレスは、人の名前を呼ぶ」
ナギはカイヤナイトへ視線を移した。
「声をたくさん覚えています」
「呪われているんですか」
「呪いという言葉は便利ですね」
否定でも肯定でもなかった。
「石が、人を殺したんでしょうか」
「石は何もしません」
「では、あの事件は何だったんですか」
「音が残っていただけです」
「残った音が、人を呼んだ」
「そう感じた人はいたかもしれません」
「それで死んだ人もいる」
「そうかもしれません」
澪は苛立ちを覚えた。
「はっきり言ってください」
ナギは澪を見る。
目だけが、少し寂しそうだった。
「音は、人によって意味が変わります」
「意味?」
「爪の音を、外へ出ようとしている音だと思う人もいる」
スモーキークオーツ。
「笑い声を、亡くなった姉が呼んでいると思う人もいる」
シトリン。
「知らない声を、自分に与えられた才能だと思う人もいる」
カイヤナイト。
「石がそう思わせたんじゃないんですか」
「分かりません」
「分からないばかりですね」
「分からない音を、無理に説明する方が危ないこともあります」
ナギは静かに言った。
「佐伯さんも、音を追いすぎましたね」
澪は録音機へ手を伸ばした。
取材として残しておきたかった。
電源を入れる。
録音ボタンを押す。
赤いランプが点灯した。
「記録しても?」
「どうぞ」
「Snow flakesの三人も、こちらでアクセサリーを?」
「選んでいきました」
「彼らの石も鳴るそうです」
「ええ」
「危険はないんですか」
「怖い思いはしているでしょうね」
ナギは少し笑った。
「でも、あの人たちは音をやっていますから」
「それと、何の関係が?」
「変な音がしたら、怖がります」
「普通に?」
「もちろん」
「それでも身につけている」
「音を捨てる必要まではないと思っているんでしょう」
澪は三人の会話を思い出した。
怖い日は早く帰る。
気にしなければいい。
中で鳴っているだけなら放っておく。
「慣れているんですか」
「慣れたというより」
ナギは少し考えた。
「音には、そういうこともあると知っている」
「そういうこと?」
「誰も鳴らしていないのに、鳴ることです」
店のどこかで、弦が一度だけ震えた。
澪は振り返った。
壁に掛けられた古い楽器。
誰も触れていない。
「今のは」
「鳴りましたね」
ナギはそれだけ言った。
「怖くないんですか」
「怖いですよ」
平然と答える。
「怖いものを、怖くないことにする必要はありません」
「それでも、ここに置いている」
「置いておく場所が必要なものもありますから」
澪は三つの箱を見た。
「これを、引き取ってもらえますか」
「佐伯さんがそうしたいなら」
「音を止められますか」
「止まりません」
「でも、ここに置けば」
「あなたから遠くなるだけです」
「それで構いません」
ナギはすぐには箱を閉じなかった。
「本当に?」
「持っていたくありません」
「それなら、お預かりします」
澪は息を吐いた。
胸の奥に溜まっていたものが、少し軽くなる。
録音機の赤いランプが静かに点いている。
「もう一つ、聞いてもいいですか」
「はい」
「匿名の封筒を送ったのは、あなたですか」
「いいえ」
「三つの住所を知っている人は?」
「知りません」
「では、誰が私に調べさせたんでしょう」
ナギは三つの石を見た。
「さあ」
「石が送ったとでも?」
「石は何もしませんよ」
先ほどと同じ言葉だった。
「でも、音は残る」
「ええ」
「音が、人を動かすことは?」
ナギは少しだけ笑った。
「音楽をしている方なら、よく知っているでしょうね」
澪は質問をやめた。
録音を止める。
赤いランプが消える。
ナギが三つの箱を店の奥へ運んでいく。
棚の上ではなく、その下にある古い引き出しへしまった。
「これでもう、聞こえなくなりますか」
「遠くはなると思います」
「遠くなるだけ」
「音は消えませんから」
澪は立ち上がった。
店を出る前に、アクセサリーの棚をもう一度見た。
青や黄色。
黒や透明。
どれも普通の石に見える。
その中に、小さなブローチがあった。
灰色の石。
角度を変えると、青い光が浮かぶ。
「それ、気になりますか」
ナギが聞いた。
「いいえ」
澪はすぐに視線を逸らした。
「今日は何も買いません」
「ええ」
「受け取りもしません」
「分かりました」
ナギは穏やかに頷いた。
「念のため、言っておきます」
「何をですか」
「私は、何もお渡ししません」
澪は彼を見た。
「それなら、安心です」
「ただ」
ナギの視線が、澪の録音機へ落ちる。
「それは、置いていった方がいいかもしれません」
「録音機を?」
「ずっと、誰か入っています」
澪は録音機を握った。
「何を言ってるんですか」
「聞こえませんか」
「これは仕事道具です」
「そうですか」
ナギは引き止めなかった。
「お気をつけて」
澪は店を出た。
細い路地を戻る。
角を一つ曲がると、街の音が戻ってきた。
車。
信号機。
人の声。
澪は振り返った。
路地はある。
看板も見える。
店の明かりも点いている。
消えてはいなかった。
ナギが店の前へ出て、古い箒で路地を掃いている。
普通の夕方だった。
澪はようやく、少し笑った。
何も起きなかった。
三つの石も手放した。
これで終わる。
駅へ向かって歩き出す。
しばらくして、胸元に重みを感じた。
足を止める。
ジャケットの襟に、小さなブローチが留められていた。
灰色の石。
角度を変えると、青い光が浮かぶ。
ラブラドライト。
澪はすぐに外そうとした。
留め具は簡単に外れた。
皮膚へ刺さってもいない。
ただのブローチだった。
澪は手のひらへ載せた。
ナギは、何も渡さないと言った。
店へ戻ろうと振り返る。
路地はまだある。
看板も見える。
だが、店の明かりだけが消えていた。
録音機の電源が勝手に入る。
赤いランプが点灯した。
スピーカーから、ナギの声が流れた。
『私は、何もお渡ししません』
少し間がある。
次に聞こえたのは、澪自身の声だった。
『分かっています』
その返事をした記憶はなかった。




