俳句 楽園のリアリズム(パート5・完結ーその3)
いまの段階でも、今回の俳句作品でそれなりのポエジーを味わえたとしたら、それは、ご自分の「言葉の夢幻的感受性」がそれなりに育ってきたことの証拠。それはまた、ご自分の詩的想像力や詩的感受性や詩的言語感覚がそれなりに育ってきたことの証拠。
詩を読んで詩的な喜びを味わうことを一生の趣味にするかどうかはご本人次第だなんて言ったけれど、この本のなかの俳句で次第にレベルアップしていくポエジーをくりかえし味わうそのことが、とほうもない喜びが約束された、バシュラール的な「書かれた言葉の夢想家」になるための、理想的なプロローグとなってくれるのは間違いないこと。今回をふくめた5回目から登場するふつうの詩でそれを実証してもらうためにも、それまでに、いままでに掲載され作品のなかの俳句のポエジーをくりかえし味わっては、それなりの言葉の夢幻的感受性をご自分のものにしてしまうことをおすすめします。
前回、俳句作品の著作権には触れませんでしたが歳時記の例句やこのような一種の鑑賞書で利用させてもらう場合は、作者名さえ明記すれば作者等の承諾は必要としないと思っていますが、いかがなものでしょう。
ポエジーとの出会いをつくりだそうとしてバシュラールの言葉を引用させてもらうときに、詩や詩人とあるところを俳句とか俳句形式と書き換えたくてしょうがなくなったり実際に書き換えてしまうたびに、最近、つくづくと感じることがある。
それは、大げさにいってみれば、バシュラールの言葉と俳句形式との、人間の幸福にとって(といっても俳句を読むことのできる日本人しかその恩恵に浴することはできないのだけれども。ああ、この国に生まれてほんとうに良かった!)奇蹟的と言ってみたくなるような、幸運な出会い、ということだ。
人類最高の幸福を実現してしまったバシュラールが人類の幸福のために書き残してくれたいくつもの言葉が、バシュラール本人抜きで、俳句という彼の理想とする詩型をみつけてしまった……。そんな感じだ。
「一行の詩の小箱」
「いっさいの意味への気遣いに煩わされ
ることなく、わたしはイマージュを生き
る」
このふたつの言葉を思い出してみるだけでも、バシュラールにとって、俳句がいかに理想的な詩であるかが納得できるだろう。これらの言葉は、たくさんの行の連なった、意味作用に満ち満ちた、ふつうの詩について言われているのだから、驚かないではいられない。
「われわれは断片を通してしか詩の衝撃
を受け入れることはできないのである。
断片だけがわれわれに見合っている」
いっぽう、ほんの2、3の「世界」の断片しか利用できない俳句形式にしても、この本のなかでバシュラールの言葉に触れて、うすうす感じていた自分の新しい可能性をはっきりと自覚するようになったのではないか。どうもそんなふうに思えてならないのだ。
「たましいを総動員してイマージュの中
心を捉えなければならない。あまりに細
々と記録された周囲の状況は、かえって
思い出の奥深くにあるものを裏切るであ
ろう。そういうものは静謐な大きな思い
出をそこなう饒舌な注釈のごときものに
すぎない……
咲きいでて風の芙蓉となりにけり
「ひとは雑多な物の前では、恵み多い夢
想によくふけることはできない……
小鳥らの声ちりばめし水の秋
「ときにはイマージュが単純であればあ
るほど夢想はますます大きくなる……
山の鳥霧に濡れたる声を出す
「イマージュは孤立のなかにあってはじ
めて一切の力を発揮できるのだ……
町の灯に応ふ山の灯露けしや
「記憶のなかにくだってゆくように、沈
黙へおもむく詩がある……
女湯の灯の消えてより天の川
「この孤独の状態では、追憶そのものが
絵画的にかたまってくる。舞台装置がド
ラマに優先する……
学校のピアノ鳴るたび山粧ふ
まだいくらでもあるけれど、自分にふさわしいこうしたバシュラールの言葉に触れたら、俳句形式が自分の新しい可能性にめざめないはずはない。そうなのだ。もしかしたら、世界一の幸福を実現してしまったバシュラールと、世界一すぐれた俳句という詩型は、この本のなかで、はじめて運命的な出会いを果たしてしまったのかもしれない。人間でもないもの同士が出会ってしまったのだから、やっぱり、奇蹟と言うしかないだろう。
もしかしたら、バシュラールの言葉に触れて気がついた自分の新しい可能性を、この本のなかで、俳句形式は、はじめて、ぼくたちに対してだけ試してくれているのかもしれない……。つまり、レベルの高い詩的想像力を自分のものにしているおそらく数少ない俳人やごく一部の俳句の読者をのぞけば、俳句のイマージュで、至純にして至福、本格的な極上のポエジーを味わうことができるのは、もしかしたら、この本を読んでいるぼくたちだけなのかもしれないのだ。
《俳句形式が浮き彫りにしてくれるイマージュは、幼少時代の宇宙的な夢想を再現させる、幼少時代の「世界」とまったくおなじ美的素材で作られているので、5・7・5と言葉をたどるだけで、俳句形式が、幼少時代の<楽園の幸福>をそっくりそのまま追体験させてくれる……
天高し屋根を真赤にサイロ立つ
《俳句形式のおかげで、ぼくたちは夢想するという動詞の純粋で単純な主語となる》
<楽園の幸福>を、きょうのテーマである<宇宙的幸福>という言葉に置き換えてしまっても、まったくおなじこと。
《5・7・5と言葉をたどるだけで、俳句作品のなかで、俳句形式が、幼少時代の<宇宙的幸福>をそっくりそのまま追体験させてくれる……
水飲んでよりしみじみと秋の雲
こんなふうに、一句一句の俳句作品のなかで、俳句形式が詩的想像力の代行をしてくれたから、十分な詩的想像力なんか育っていないぼくたちにまで、ポエジーという最高に甘美な喜びの感情を、いまはまだ個人差があるとしても、だれもにそれなりに体験させてしまったのだ。(あるいは、遅かれ早かれ体験させてしまうはずなのだ、絶対に)
「過去の証拠品を前に、思い出をよびさ
ましたりたしかめたりする旅先の事物や
風景を前に、旅人は思い出のポエジーと
幻想の真実との融合を味わう。夢想のな
かでふたたび甦った幼少時代の思い出は、
まちがいなくたましいの奥底での〈幻想
の聖歌〉なのである」
いまさら旅になんか出なくたってなんとかなるとは言ってきたけれど、散歩のようなほんの小さな旅でいいのだった。何度も旅に出ては「旅の孤独」を幼少時代の「宇宙的な孤独」へと移行させて、そこで、つまり旅先で、ぼくたちの幼少時代と詩的想像力を同時にみつけだして旅情を満喫してこられた方ほど、この本のなかの俳句でも、より本格的なポエジーに出会えたのではないかと思う。
「ひとのたましいは幼少時代の価値に決
して無関心ではない」
幼少時代の世界とまったくおなじ美的素材で作られている俳句作品のむきだしのイマージュが、旅先で目をさました幼少時代をもう一度めざめさせないはずはないのだし、旅先でみつけた詩的想像力を、俳句形式がもう一度上手に再利用してくれたから、並行して旅に出ては旅情を満喫してこられたどなたもが、
たぶんかなり簡単に、俳句の本格的な極上のポエジーに出会えたのだった。
まあ、そうは言っても、旅抜きでこの本だけを利用されてこられた方でも、俳句の言葉をとおして夢想することにもっと習熟すれば、約束どおり、そのうち、どなたもが確実に極上のポエジーに出会えるはずだけど、絶対に。
「プルーストは思い出すためにマドレー
ヌの菓子を必要とした。しかしすでに思
いがけない俳句の言葉だけでも同じ力が
発揮される」
「詩的なるものの実存主義に参加したけ
れば、想像力と記憶の結合を強化しなけ
ればならない」
いまさら旅になんか出なくたって、この本のなかの700句をくりかえし味わうほどに、俳句作品が、めざめる幼少時代を次第にレベルアップさせ、そうして、俳句形式が、ぼくたちの内部でそのつど想像力と記憶の結合をさらに強化してくれているはずだからだ……
秋の湖かがやきつつもかすみけり
宇宙性ということを考えると、俳句は天使の詩、というイメージをどうしても思い出してしまう。
俳句を天使の詩として読めてしまったのも、天使は論外だとしても、俳句形式が一句の背後にあらかじめ普遍的な幼少時代のたましいを召喚してくれていたからと、もう一度そう考えてみるのも、悪くないかもしれない。たとえば、こんなふうに。
《たったの17音で詩として自立できるわけもなく、いさぎよく作者は身をひいて、俳句形式にすべてあとをまかせるから、俳句は作品として自立することができるのだ。
したがって、俳句作者の栄光とは、自分は作品から身をひいて、自分の選んだ言葉だけでもって、一句一句、俳句形式をそのつど花咲かせることにあるだろう。
いっぽう、身をひいた作者への責任を果たすかのように、俳句形式自身が、バシュラールの助力をえて、一句の背後に、作者のかわりにだれものものでもある普遍的な「幼少時代」を召喚することによって、委託された俳句作品に最高のポエジーをもたらすことを思いついたのだ。
俳句のイマージュがこんなにも宇宙性に輝いて見えるのは、召喚されて永い眠りからさめた幼少時代のたましいが、ぼくたち読者に先だって、すでに、一句一句の背後で、思い思いに宇宙的な夢想を満喫しているせいにちがいない……
コスモスが咲くだけの旧村役場
召喚された幼少時代とは別に、何度も試みてきたことだけれど、一句一句の俳句作品のなかに、俳句形式そのものの存在をあえて意識してみるのも有効みたいだ。前にも読んだ文章だけれど、たとえばつぎの例のように。
「一句一句の俳句作品のなかで、俳句形
式は、宇宙的な夢想によって、原初の言
葉として、原初のイマージュとして世界
を詠っているのだ……
落葉松が黄に染めあげし村境
《俳句形式のおかげでぼくたちは夢想するという動詞の純粋で単純な主語となる……
鶏小屋の戸を締めにゆく秋の暮
ぼくたちはここで、俳句の専門家たちのようにして俳句を読んでいるわけではない。俳句で、どのような詩にもまして純粋なイマージュだけを受けとり、俳句で、ポエジーに出会わせてもらっているだけなのだ。けれども、そのためには俳句の音数律にあわせて5・7・5と言葉をたどっているわけで、それは一句ごとに俳句形式の恩恵を受けとっていることにもなるだろう。
5・7・5とたどったときに見えてくる世界が、たったこれだけの短さで、あんなにも美しく充実して、完結したものとして感じられるのは、俳句形式のおかげ。ポエジーに出会うためにいまだけ俳句を利用しているのだとしても、このことだけは、ちょっと忘れたくないな、と思うのだ。
幼少時代さえ復活すればいやでもぼくたちを夢想なんかさせてしまう、だれもの内部に確実に存在するメカニズムみたいなもの。それを補足してぼくたちを良質な夢想へと導いてくれるこの本で利用させてもらっているバシュラールのいくつもの言葉。一句一句の俳句作品が呼びさましてくれる幼少時代。そうして、ぼくたちの幼少時代とセットであらわになる詩的想像力。さらには、俳句形式の恩寵。いまさら旅になんか出なくたって、これだけの条件がそろっていて、気が向いたときにこの「俳句パート」を読んでいただくだけでも、旅先でひたる旅情にも負けない本格的なポエジーに出会えないはずはないのだ。
《俳句を読んでいると、美しい「世界」の宇宙的幸福が四方八方からぼくたちの心におしよせてくる……
バス来るや虹の立ちたる湖畔村
「ぼくたち俳句の読者は、限界も制限も
ないその夢想のなかで、ぼくたちを魅了
した宇宙的イマージュに身も心もまかせ
きっている……
涼しさは空に花火のある夜かな
「そのとき、世界と、世界を夢想するぼ
くたち俳句の読者は、どんな新しい連帯
関係にはいることか……
冬枯れの道二筋に分かれけり
並行して旅先で旅情を満喫していただくのがあくまでも理想だけれど、それでも、多少ハンディはあっても、いまさら旅になんか出なくたって、だれもがおなじものとして共有する幼少時代と世界の記憶さえあれば、つまり、その条件を満たすだれもが、俳句を読むだけでも、遠い日の宇宙的幸福を追体験する
ことは絶対可能なはず、と、どなたにもそう確信していただけるようにはなったのではないだろうか。
そうして、俳句による単純で奥深い「言葉の夢想」が、途方もない幸福が約束された、バシュラール的な書かれた言葉の夢想家への理想的なプロローグとなってくれるはず、というそのことも。
「わたしはまさしく語の夢想家であり、
書かれた語の夢想家である」
「詩的言語を詩的に体験し、また根本的
確信としてそれをすでに語ることができ
ているならば、人の生は倍加することに
なるだろう」
「孤立した詩的イマージュの水位におい
ても、一行の詩句となってあらわれる表
現の生成のなかにさえ現象学的反響があ
らわれる。そしてそれは極端に単純なか
たちで、われわれに言語を支配する力を
あたえる」
「幼少時代の追憶の領域、子供の頃から
記憶に宿されてきた愛されたイマージュ
の領域。イマージュによって生き、イマ
―ジュの効力によって生きるこれらの思
い出は、わたしたちの人生のある時期、
とくに沈潜した年齢を迎えるころ(ぼく
たちのやり方があまりにも有効だったの
で、この本のなかの俳句でポエジーを味
わっていただいている読者の方は、なに
も沈潜した年齢を迎えるまで待たなくた
ってぜんぜん平気だと思うけれど)複雑
な夢想の源泉となり素材となる」
子供の頃から記憶に宿されてきた愛されたイマージュの領域。イマージュの効力によって生きるこれらの思い出は詩を読んだりとか複雑な夢想の源泉となり素材となるって、この人生にさらに希望をあたえてくれるようすごい事実だと思うけれど、バシュラールはこんなこともどこかで言っているのだった。
「想像力はきわめて現前的な能力であり、
幼少時代の思い出のなかにまで〈バリエ
ーション〉を生じさせるのである」
「何千というイマージュに増殖された幼
少時代」
大井雅人。5・7・5と言葉をたどって受けとる、一句一句のイマージュの、その宇宙的幸福とは……
どの家の裏も五月の朝の海
海へ出る砂ふかき道花いばら
「俳句は宇宙的幸福のさまざまなニュア
ンスをもたらす……
暑き日の終りを告げて山ありぬ
未知の町なれど夕映夏つばめ
「俳句のひとつの詩的情景ごとに幸福の
ひとつのタイプが対応する……
雲晩夏家こまごまとその下に
海と坂晩夏まぶしき港町
呼びさまされる遠い日の記憶。よみがえる遠い日の宇宙的幸福。
「イマージュの閃光によって遠い過去が
こだまとなってひびきわたる」
俳句のイマージュの閃光によって、遠い過去が、ポエジーのこだまとなってひびきわたる……
ふりむかぬ母を追ふ子よ南風吹く
南風の吹き抜く二階兄の部屋
旅先でひたる詩よりも純度の高い詩情。それこそが、旅情というものにほかならないのだった。それを、言葉をとおして味わってしまうことの意味とは……
はじめての雪を灯に見て旅一夜
さくら咲く金沢仏具店多き
板壁の家秋風の日本海
部屋のなかで旅先の至福が味わえるなんて、そんな夢みたいなことがそう簡単に実現してしまっていいわけがない……
知らぬ町市電にゆられてゆく春夜
見て過ぎるのみの町並み鰯雲
まさに、ぼくたちが、かつて、ほんとうの旅で味わったことがあるような気がする、旅情そっくりの詩情。……とうとう部屋のなかで旅先の至福を味わってしまったと、そう感じられている方もなかにはいるかもしれない。
「ポエジー、美的なあらゆる歓喜の絶頂」
あらゆる芸術があたえてくれる美的感動とは、幼少時代の宇宙的幸福の<諧調>を遠い源泉とする喜びの感情。なかでも遠い日の宇宙的な<諧調>を直接呼びさます俳句こそ、芸術のなかの芸術、第一級の絶対芸術にほかならない。その宇宙的な〈諧調〉が、詩的想像力ばかりではなくて、ぼくたちの詩的感受性まで育成してくれることになるのはあたりまえ。
「ただ夢想だけがこういう感受性を覚醒
させることができる」
それにしても、詩的感受性と宇宙的感受性の違いって、どう考えればいいのだろう。ほとんど<事物のイマージュ>だけで作られている俳句を読むときには、詩的感受性ではなくて、ほんとうは、やっぱり、復活しはじめたぼくたちの宇宙的感受性がしぜんと反応してしまうことになるのかもしれない。
「幼少時代がなければ真実の宇宙性はな
い。宇宙的な歌がなければポエジーはな
い。俳句はわたしたちに幼少時代の宇宙
性をめざめさせる……
どの家の裏も五月の朝の海
俳句だけは、イマージュを作りだすのは詩的想像力だとしても、そのイマージュを受けとめてポエジーを生みだすのは、もしかしたら、詩や短歌の喜びや感動を生む詩的感受性なんかではなくて、旅先とかで復活しはじめた宇宙的感受性だったのだと考えると、俳句のポエジーの宇宙性を納得させてくれるのではないだろうか。
「おそらく、イマージュの幸福な継起に
したがって流れるか、あるいはイマージ
ュの中心にあってイマージュが光るのを
感じるか、二通りの夢想が可能ではある
まいか……
海と坂晩夏まぶしき港町
最後に篠原梵の作品でもって、たっぷりと宇宙的幸福を堪能させてもらうことにしよう。
《俳句形式が浮き彫りにしてくれるイマージュは、幼少時代の宇宙的な夢想を再現させる、幼少時代の「世界」とまったくおなじ美的素材で作られているので、5・7・5と言葉をたどるだけで、俳句作品が、遠い日の宇宙的幸福をそっくりそのまま追体験させてくれる……
ゆふぐれと雪あかりとが本の上
窓ぢゅうの夜明けの空も雪あかり
「孤立した詩的イマージュの水位におい
ても、一行の詩句となってあらわれる表
現の生成のなかにさえ現象学的反響があ
らわれる……
淡雪に窓を濡らしてバスの来る
あたたかにあけがたの雨ふり出でぬ
「イマージュの閃光によって遠い過去が
ポエジーのこだまとなってひびきわたる……
卯の花の白か車窓にきらめきし
円く濃き新樹の影にバスを待つ
蝶に蹤きいつもよりとほく子とあるく
「幼少時代の世界を再びみいだすために
は俳句の言葉が、真実のイマージュがあ
ればいい。幼少時代がなければ真実の宇
宙性はない。宇宙的な歌がなければポエ
ジーはない。俳句はわたしたちに幼少時
代の宇宙性をめざめさせる……
雨だれの音の向うに梅雨はげし
薄日して梅雨ふる海の村に来ぬ
短夜の人らねむれる汽車に乗る
「そのとき世界とその夢想家はどんな新
しい連帯関係にはいることか……
花びらの落ちつつほかの薔薇くだく
秋ふかき日ざしの中を来し風なり
きのふより濃き月光の障子なる
「ここでぼくたち俳句の読者は、宇宙化
するわたしの領域にはいる……
日の入りしあとに秋雲むらがれり
宇宙化するわたし、って、これもまたバシュラールならではすごい言葉だと思う。
俳句で極上のポエジーを味わうことのできたその瞬間にはぼくたち俳句の読者は例外なく宇宙化するわたしの領域にはいっていたはずだし、とくに詩のなかでも俳句作品だけがいつでも、ぼくたち読者を、宇宙化するわたしの領域へと導いてくれることになるのだ。
「夢想する人が宇宙論的に幸福であるこ
とをどうして肯定せずにおられよう」
今回はじめてで、もう少し私の作品を読んでみようかなと思われた方は、作品一覧の(パート4)あたりにある(パート1・改)と、なぜこうも旅というものにこだわるのかを理解してもらうためにも(パート2-その1と2)をまず最初に読んでいただくことをおすすめします。あとは、どこでもいい、適当なところを気軽に開いて、何度でも、気楽にくりかえし読んでいただければと思います。
このようなかたちでこのサイトをとおして何人もの方の人生と直接かかわれるだけでも意味があるとは思いますが、この原稿を売りこむために頑張って投稿をつづけているので、編集者の気を引いて本にしてもらうためにも読者数をもっと増やしたいので、サファリやヤフーやグーグルで「ヒサカズ(一字分空白)ヤマザキ)で検索してもらえれば作品タイトルからこのサイトに入れますので、この作品の存在をお知りあいの方とかにおしえていただけたなら、そのご協力に心から感謝いたします。
なんとしても早く本にしてもらいたいので、とくにこの後書きでは、これからもはしたないほど自己宣伝をしていくつもりなので、リアルタイムで読みつづけていただいている方とかすでに何編かを読んでいただいている方とかはたぶんうんざりするだけなので、この後書きは読まないですっ飛ばしていただけたらと思います。