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『手放せぬ切符と秋の天ぷら』

『手放せぬ切符と秋の天ぷら』


胃の腑をじりじりと焼くような苦い後悔ばかりが、佐伯修平の息を浅く乱していた。向かいの席に座る部下の若い男は、湯気を立てる熱い茶をすすりながら、どこ吹く風といった顔で窓の外の銀杏並木を眺めている。だが修平の胸の内は、泥水を掻き回されたように濁り、苛立ちと焦燥で張り裂けそうだった。なぜあの時、たった一言「やめよう」と言えなかったのか。すでに注ぎ込んでしまった莫大な時間と金への未練が、首輪のように喉元を締め上げ、引き返す自由を奪っていた。損を認めたくないという浅ましい見栄が、正気のはずの思考を狂わせていく。その愚かな自分自身に対する嫌悪が、冷たい汗となって背中を伝い落ちていた。


東京の下町にある古い蕎麦屋の二階座敷には、昼時を過ぎてもなお、濃い出汁と油の香ばしい匂いが立ち込めていた。柱や梁は黒光りし、障子越しに差し込む晩秋の陽光が、畳の上に長い影を落としている。階下からは時折、威勢のいい花番の声と、食器の触れ合う乾いた音が響いていた。


修平は仕立て直したばかりの濃紺のツイードジャケットを羽織り、首元には地味なウールのネクタイをきつく締めていた。重い上着の布地が肩に食い込み、身体全体を強張らせる。向かいの青年、営業第二課の野村は、皺ひとつない淡いベージュのステンカラーコートを脱ぎ、糊の効いた白いシャツの腕を捲り上げていた。若さゆえの屈託のなさが、今の修平にはひどく眩しく、同時に癪に障った。


黒塗りの盆に載せられた料理が運ばれてきた。二人が頼んだのは、この店の名物である穴子と秋野菜の天せいろだった。竹籠に盛られた手打ち蕎麦は、艶やかな灰褐色に光り、瑞々しい冷気を放っている。大皿には、箸からはみ出るほど太い穴子の天ぷらが一本丸ごと横たわり、その脇に鮮やかな濃緑の春菊、橙色の南瓜、薄紫の秋茄子が、薄衣をまとってからりと揚がっていた。添えられた素焼きの小皿には、結晶の荒い焼き塩が盛られている。


「美味しそうですね、部長。この穴子、衣がまだパチパチ音を立てていますよ」

野村は無邪気に箸を割り、立ち上る油の匂いに鼻腔をくすぐられて目を細めた。


「ああ、そうだな。冷めないうちに食え」

修平はかすれた声で答え、湿った布おしぼりで指先を強く拭った。手のひらが冷え切っていた。目の前にある極上の料理すら、今の彼にはただの味のない塊に思えて仕方がなかった。


箸先で穴子の天ぷらを割り、粗塩を少しつけて口に運ぶ。さくりと心地よい音が耳の奥で弾け、次いでふわりとした白身の淡泊な旨味と、胡麻油の重厚なコクが舌の上に広がった。上質な素材であることは確かだった。けれど、噛み締めるほどに喉の奥が苦く引き攣る。三千万円。社運を賭けて開発を進めてきた新規アプリの追加開発費として、昨日役員会で承認させてしまったあの金額が、喉仏に刺さった魚の骨のように痛んだ。


野村が蕎麦を手繰り、軽快な音を立てて啜り込んだ。濃い醤油とかつお節の効いた辛口のつゆが、口元を湿らせる。

「いやあ、出汁が効いてて最高です。ところで部長、例の物流システムとの連携プロジェクト、本当にあのまま強行するんですか」


修平の箸がぴたりと止まった。天ぷら皿の縁に触れた漆塗りの箸先から、硬い振動が指骨に伝わる。

「……強行とは人聞きが悪いな。計画通りに進めているだけだ」


「でも、競合他社が先週リリースした無料ツール、うちのシステムの機能をほとんど網羅してますよ。現場のオペレーター連中も、今さら新しい画面の操作法を覚えるのは嫌だって騒ぎ始めてます。今なら、違約金を払っても開発を打ち切ったほうが傷口は浅いんじゃないですか」


野村の言葉は、痛いほど正しかった。論理的で、客観的で、何の曇りもない。だからこそ、修平の感情を逆撫でした。

「馬鹿を言え。これまでどれだけの時間を費やしてきたと思っている。開発チームは半年間、終電続きでコードを書き直してきたんだ。ここで白紙に戻せば、あいつらの苦労はどうなる。注ぎ込んだ二千五百万は丸ごとドブに捨てることになるんだぞ」


「だからって、さらに三千万足して五千五百万のゴミを作る必要はないでしょう」

野村は天つゆに浸した春菊の天ぷらを咀嚼しながら、あっけらかんと言い放った。つゆを吸った衣がじゅわりと崩れる音が、やけに座敷に大きく響いた。


「ゴミだと?」

修平の声が低く濁った。胸の奥に押し込めていた鉛のような感情が、熱い怒りとなって喉までせり上がる。


「失礼しました。でも、傍から見ているとそう見えますよ。部長が悔しいのは分かります。自分の決断が間違っていたなんて、誰だって認めたくないですからね。でも、映画館に入って開始十分でクソ映画だと分かったのに、チケット代の二千円が勿体ないからって最後まで席に縛り付けられて、二時間を無駄にするようなもんですよ」


「お前に何が分かる」

修平は冷たい蕎麦を一口啜ったが、喉を通りにくく、水で無理やり流し込んだ。

「お前には背負っているものがないから、そんな気楽なことが言えるんだ。私があのプロジェクトを始めた時、役員連中は全員拍手で迎えた。誰もが成功を信じていたんだ。今になってやめますと頭を下げたら、私の評価はどうなる。お前たちの冬の賞与はどうなるんだ」


「賞与が削られるのは嫌ですけど、泥舟に全員で乗ったまま沈むのはもっと嫌ですよ」

野村は湯呑みを両手で包み、立ち上る湯気の向こうから修平をじっと見つめた。その若い瞳には、嘲笑ではなく、純粋な哀れみが浮かんでいた。その視線が、何よりも修平の自尊心を切り裂いた。


「失敗だと決まったわけじゃない。追加開発で現場の使い勝手を改善すれば、巻き返せる見込みはある」


「それ、本気で信じてますか」

野村の静かな問いが、障子の桟を揺らす隙間風のように冷たく座敷を吹き抜けた。


「何だと」


「部長は、成功させたいんじゃない。自分が間違っていたと認める痛みに耐えられないだけです。サンクコストっていうんでしたっけ。過去に支払って戻らないコストに執着して、未来の判断を狂わせるやつです。大学の講義で習いましたよ。人間は、得をする喜びよりも、損をする恐怖のほうを二倍も強く感じるんだそうです。だから、損を確定させるくらいなら、もっと大きな破滅の賭けに出てしまう」


修平の指先が小さく震えた。テーブルの下で、膝の上にあるツイードのズボンをぎゅっと握りしめる。

野村の言葉は、まるで修平の心臓に直接打ち込まれた冷たい楔だった。そうだ。自分は知っていたのだ。先週の競合ツールの発表を見た瞬間、胸の奥で何かが決定的に壊れる音がした。このプロジェクトはもう死んでいると、誰よりも早く気付いていた。それなのに、恐怖のあまり目を逸らした。失敗を認めれば、自分が無能だと証明されてしまう。これまでの努力が、仲間との夜食のラーメンの温もりすらも、すべて無駄だったと宣告されるのが怖かったのだ。


座敷の隅で、置時計がカチカチと乾いた秒針の音を刻んでいる。

急須の底に残ったぬるい蕎麦湯の匂いが、鼻をついた。


「……もう冷めてしまったな」

修平は力なく呟き、皿の上に残った茄子の天ぷらを見つめた。薄紫の皮は艶を失い、油が衣に沈んで重たげに光っている。熱いうちに食べればあれほど美味だったはずのものが、放置された時間によって、ただの冷たい脂の塊へと変わり果てていた。


「ええ、冷めると美味しくないですね」

野村が箸を置き、両手を合わせてごちそうさまでした、と小さく頭を下げた。


修平は深呼吸をした。胸いっぱいに冷えた座敷の空気を吸い込み、肺を満たす。肺の奥がツンと痛み、その痛みがぼんやりと霞んでいた頭をわずかに冷ました。


「野村」


「はい」


「お前の言う通りだ。私は……ただ、怖かったんだな」

絞り出すような声だった。言葉にした途端、肩の奥から重い鎧が滑り落ちていくような、奇妙な脱力感が全身を包んだ。自分が無能であることを認める苦さは、舌の奥に残る冷めた天ぷらの油よりも遥かに苦かった。だが、その苦汁を飲み干した瞬間、視界を覆っていた濁った霧が、わずかに晴れたような気がした。


「部長……」


「午後一番で、専務のところへ行く。追加開発の承認を取り消してもらう。叱責されるのは私一人で十分だ」


野村の顔に、驚きと、それから少しの安堵が混ざったような笑みが浮かんだ。

「叱責だけで済めばいいですけどね。でも、泥舟から降りるなら、僕も手伝いますよ。撤退戦の言い訳資料くらい、一緒に作ってやります」


「生意気を言うな」

修平は苦笑し、手元の冷え切った蕎麦を一気に手繰った。つゆの塩気と蕎麦の香りが、今度ははっきりと輪郭を持って喉を通り抜けていった。


勘定を済ませて店の外へ出ると、冷たく澄んだ十一月の風が二人の頬を鋭く打った。頭上には、抜けるような青空がどこまでも高く広がり、街路樹の銀杏の葉が黄金色の雨となって歩道へと舞い散っている。足元で乾いた葉がカサリと音を立てた。失ったものは大きく、これからの道は茨に満ちているに違いない。それでも、自らの意思で手放した痛みの向こう側に、修平は久しぶりに、肺の底まで通る本物の空気の冷たさを感じていた。



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