婚約破棄の代償は、王太子の座でお願いいたします
その夜、王宮の大広間は、王立学院の卒業生とその家族、そして彼らの門出を見届ける王族や貴族たちで華やかに賑わっていた。
天井から吊るされた巨大な魔晶石のシャンデリアが、まるで凍りついた星屑のように眩い光を降らせ、磨き上げられた大理石の床には、色とりどりのドレスの裾が波のように揺れて花畑を描いていた。楽団の奏でる旋律は軽やかに宙を舞い、笑い声とグラスの触れ合う音がそこに溶け合う。
今宵は、王立学院の卒業を祝う舞踏会。
学院を巣立つ若き貴族たちにとって、それは学生として過ごす最後の夜であり、同時に、ひとりの貴族として本格的に社交界へ踏み出す門出でもあった。
まして今年は、王太子もまた卒業生のひとりである。国王陛下も祝いの席に臨席され、大広間には例年以上の華やかさと格式が満ちていた。
上座では国王が穏やかな表情で杯を傾け、若者たちの門出を静かに見守っている。
誰もが笑顔を浮かべ、これから始まる未来について語り合っていた。
――少なくとも、その瞬間までは。
不意に、楽団の演奏が止んだ。
まるで、張りつめていた一本の糸を断ち切るように。
「エレオノーラ・ヴァレンティア!」
大広間に響き渡った声に、人々が一斉に振り返った。
ざわめきが波紋のように広がり、シャンデリアの光さえも一瞬揺らいだように思えた。
声を上げたのは、この国の王太子――アルベルトだった。
金色の髪に青い瞳。国王譲りの端正な容貌を持つ青年である。
もっとも、今の彼には、次代の国王として育てられてきた者に相応しい落ち着きなど欠片もなかった。頬は興奮で赤く染まり、瞳は熱に浮かされたように異様なほどぎらついている。呼吸さえ荒く、額にはうっすらと汗が滲んでいた。
そして、その腕にはひとりの少女がしがみついていた。桃色の髪。大きな琥珀色の瞳。
男爵令嬢リリア・モントレー。
ここ半年ほど、王太子がことさら寵愛している令嬢だった。
一方、名を呼ばれたエレオノーラは、静かに扇を閉じた。
パチン、と小さな音が響く。それだけが、この張りつめた空気の中で、奇妙なほど明瞭に聞こえた。
「はい。殿下」
ヴァレンティア公爵家の長女。
そして――アルベルトの婚約者。幼い頃から未来の王妃となるべく教育されてきた令嬢である。
淡い銀色の髪がシャンデリアの光を受け、絹のような艶を帯びていた。深い青の瞳は、風ひとつない湖面のように凪いでいる。
美しいというより、近寄りがたいほど整った容貌だった。
突然、大広間中に響く声で名を呼ばれたというのに、エレオノーラの表情は少しも乱れていない。
まるで、この瞬間が来ることをずっと前から知っていたかのように。
アルベルトが彼女を指差した。その指先は、小刻みに震えている。
「私は今日、この場をもってお前との婚約を破棄する!」
ざわり。
大広間の空気が、目に見えない波となって揺れた。誰かの喉が小さく鳴る音。扇が震える音。ひそやかな悲鳴。すべてが一斉に押し寄せる。
上座では、国王の表情からすっと笑みが消えていた。
「まあ……」
エレオノーラは小さく呟いた。
驚愕ではない。困惑でもない。ただ、予定されていた芝居の幕がようやく上がったことを確認するような、乾いた声だった。だが、その微かな異質さに気づいた者は、ほとんどいなかった。
「理由をお伺いしても?」
「しらばくれるつもりか!」
アルベルトは怒鳴った。声が広間の高い天井にぶつかり、震えながら降り注ぐ。
「お前はリリアを嫉妬し、学院で執拗に虐げた! 階段から突き落とし、教科書を破り、取り巻きに命じて悪口を広めた! さらには彼女のドレスに魔法で染みをつけたそうではないか!」
「わ、わたくし……怖かったのです……」
リリアが震える声を出した。アルベルトの腕に縋りつき、潤んだ瞳でエレオノーラを見る。その瞳の奥には、涙とは異なる何かがあった。
一瞬だけ。本当に一瞬だけ。計算めいた光が揺れた。
「エレオノーラ様に何度も、殿下から離れなさいって……。でも、わたくし……殿下をお慕いする気持ちを、どうしても捨てられなくて……」
「可哀想なリリア」
アルベルトは少女の肩を抱き寄せた。
「もう怯える必要はない。私がお前を守る」
「殿下……!」
二人は熱っぽく見つめ合った。まるで恋愛劇の一幕のような、あまりにも芝居がかった仕草だった。
けれど。
周囲の貴族たちは、誰ひとりとして拍手を送らなかった。むしろ、青ざめている者のほうが多い。氷水を浴びせられたような沈黙が、じわじわと大広間を覆っていった。
王太子の婚約は、若い男女の恋愛だけで決められるものではない。王家と公爵家との正式な取り決めであり、王国の政治そのものに関わる契約である。ましてエレオノーラは、八歳の頃から十年もの間、王妃となるための教育を受けてきた。
それを。国王の許可もなく。一介の男爵令嬢への恋情を理由に、一方的に破棄する。
貴族たちが青ざめている理由は、十分すぎるほど明白だった。
「なるほど」
エレオノーラは静かに頷いた。声には一切の乱れがない。
「それで、殿下はわたくしとの婚約を破棄なさり、モントレー男爵令嬢を新たな婚約者になさると?」
「その通りだ!」
「陛下のご許可は?」
その瞬間。アルベルトの顔が僅かに強張った。頬を染めていた赤みが、一瞬だけ色を失う。
「……父上も、分かってくださる」
その言葉に、大広間の上座から冷ややかな視線が注がれた。
国王だった。
先ほどまで卒業生たちを穏やかに見守っていたその顔からは、すでに一片の笑みも消えている。玉座の肘掛けに置かれた指が、ゆっくりと一度だけ動いた。
だが、国王は何も言わなかった。ただ、息子を見据えている。その沈黙は、怒声よりもなお重かった。
アルベルトは父王と一瞬だけ視線を合わせ――すぐに逸らした。
「では、いただいていないのですね」
エレオノーラが淡々と確認する。
「愛の前に身分など関係ない!」
「身分のお話ではございません」
凪いだ湖に小石を落とすような、静かな一言だった。
「王太子の婚姻は国事でございます」
「黙れ!」
アルベルトが叫ぶ。その声には、もはや理性の欠片すら見当たらない。
「そういうところだ! いつも規則、伝統、王家の責務! お前といると息が詰まる! リリアは違う! 彼女だけが私を一人の男として見てくれた!」
「アルベルト様……」
「リリア……」
再び見つめ合う二人。
エレオノーラは、しばらくそれを眺めていた。
青い瞳の奥には、何の感情も浮かんでいない。ただ遠い場所で燃える焚き火を眺めるような、静かな観察だけがあった。
そして、ふっと息を吐く。
「……やはり」
その呟きは小さかった。だが、不思議なほどよく響いた。まるで、大広間そのものが彼女の次の言葉を待ち構えていたかのように。
「何だ?」
「やはり、そうだったのですね」
「何の話だ」
エレオノーラはアルベルトを真っ直ぐに見つめた。その瞳の奥に、初めて小さな光が灯る。
そして。誰も予想していなかった言葉を口にした。
「殿下は――魅了されております」
静寂。
大広間から、音という音がすうっと吸い込まれるように消えた。
「……は?」
アルベルトが、間の抜けた声を出した。
対照的に。リリアの顔からは、見る間に血の気が引いていく。
「な、何を……」
「そう考えれば、すべて説明がつきます」
エレオノーラは冷静に続けた。閉じた扇を指先で軽く叩く。
こつ。
こつ。
その小さな音だけが、静まり返った広間に規則正しく響いた。
「殿下は本来、幼少期より帝王学を修められ、王太子としての責務を理解しておられました」
エレオノーラの声音はどこまでも穏やかだった。
「それが半年前から突然、政務を疎かにし始めた」
アルベルトの眉がぴくりと動く。
「王太子宮で行われる予定だった外交講義を欠席すること十二回。国王陛下がお命じになった地方視察を三度取りやめ。王国予算審議にも出席せず――その一方で、モントレー男爵令嬢への贈答品として、王太子宮の予算から金貨三千枚以上を支出」
今度こそ、大広間に明確などよめきが走った。
「金貨三千枚……?」
「王太子宮の予算から?」
「そんな額を……」
上座で国王の眉間に深い皺が刻まれた。
その横顔を見ただけで、何人もの貴族が口を閉ざす。
エレオノーラは続けた。
「さらに学院では、それまで親交のあったご友人を遠ざけ、モントレー男爵令嬢を諫めた者を次々と排除なさいました」
「それはリリアを守るためだ!」
「そして本日、国王陛下の許可なく、公爵家との婚約を一方的に破棄すると宣言なさいました」
エレオノーラは僅かに首を傾げた。銀色の髪が、肩からさらりと零れる。
「これが、正常な判断力をお持ちの王太子殿下の行動でしょうか?」
「……っ!」
「わたくしには、到底そうは思えません」
貴族たちの視線が変わった。潮の流れが、ゆっくりと反転していくように。
先ほどまで呆れや困惑に満ちていた目に、今度は疑念という名の影が宿り始める。
「確かに……」
誰かが呟いた。
「半年前から急に……」
「以前の殿下とは、まるで別人ではないか」
「魅了……?」
「精神干渉系の魔法なら……」
ひそひそとした囁きが、瞬く間に広がっていく。
「違います!」
リリアが叫んだ。声が裏返っていた。
「わ、わたくし、そんな魔法なんて使えません!」
「もちろん、調べれば分かることでしょう」
エレオノーラは優しく微笑んだ。
その微笑みを見た途端、リリアはなぜか背筋を震わせた。まるで、氷の刃をそっと首筋に当てられたかのように。
「王宮魔術師団に調査をお願いすれば、すぐに明らかになるはずです」
「待ってくれ!」
アルベルトが声を荒らげた。
「私は魅了などされていない! リリアを愛しているだけだ!」
「魅了されている者が、自ら魅了されていると認識できるのでしょうか?」
「何……?」
「精神干渉魔法とは、本人の認識そのものを書き換える術でございます。違いますか、宮廷魔術師長様」
突然話を振られた老魔術師が、僅かに眉を動かした。
大広間の端に控えていた彼は、ゆっくりと一歩進み出ると、国王へ一礼し、それからエレオノーラへ向き直った。
「……仰せの通りにございます」
「魔術師長!」
アルベルトが叫ぶ。
「殿下」
老魔術師は静かな声音で答えた。
「恐れながら、精神干渉を受けている可能性がある以上、殿下ご自身の『魅了されていない』という証言をもって、潔白の証明とはできませぬ」
「そんな馬鹿な話があるか!」
「――もうよい」
低い声が、大広間を切り裂いた。
瞬間。その場にいたすべての者が口を閉ざした。
それまで沈黙を守っていた国王が、ゆっくりと立ち上がっていた。
先ほどまでの穏やかな父親の顔は、どこにもない。そこにいるのは、一国を統べる王だった。
「魔術師長」
「はっ」
「アルベルトとモントレー男爵令嬢。双方を調べよ」
国王の声は静かだった。だが、その一言一言には、有無を言わせぬ威圧があった。
「精神干渉魔法の痕跡があるか、徹底的に確認せよ」
「御意」
「父上!」
アルベルトが一歩踏み出す。
国王の目が細められた。
「ここでは陛下と呼べ、アルベルト」
「……っ」
アルベルトが息を呑む。
「これは、お前の恋愛沙汰ではない」
国王の声が、大広間に重く落ちる。
「王太子の判断能力に疑義が生じている。ならば、これは王国の問題だ」
「私は正常です!」
「それを調べると言っている」
「父――陛下! 私はリリアを愛しているだけです!」
「ならば、なおさら恐れる必要はあるまい」
国王は冷たく言い切った。
「何の魔法も使われていないと証明されれば、それで済む」
アルベルトは口を開いた。だが、言葉は出てこない。
リリアもまた、青ざめた顔で王太子の腕に縋りついていた。
「やはり、精神が不安定になっておられるのでは……」
誰かが、ごく小さな声で呟いた。
「違う!」
アルベルトが振り返る。声が喉の奥で引きつれた。
「私は正常だ!」
誰も答えない。
「私は正常だ!」
もう一度。
その叫びは、先ほどよりも大きかった。
だが。
正常だ。
正常なのだと叫べば叫ぶほど、周囲の目からは正常には見えなくなっていく。
それは残酷なほど皮肉な螺旋だった。
エレオノーラは、その様子を静かに眺めていた。
冷静に。
どこまでも冷静に。
そして心の中だけで、そっと呟いた。
――ええ。
――そうですわ。
――もっとお叫びくださいませ、アルベルト様。
♢
その日のうちに、アルベルトとリリアは隔離された。王宮魔術師団による調査が始まった。
そして翌日――。
エレオノーラとヴァレンティア公爵は、国王から密かに王宮へ呼び出されていた。
案内されたのは、謁見の間でも、閣議に使われる会議室でもない。王宮の奥深く、限られた者しか立ち入ることのできない内廷にある、国王の私的な執務室だった。
重厚な扉が閉ざされた室内には、三人のほかに誰もいない。暖炉の火が静かに爆ぜ、分厚い絨毯の上に揺らめく影を落としていた。
「見事だった」
最初に口を開いたのは国王だった。その声には、隠しきれない驚嘆の色が滲んでいた。
エレオノーラは静かに国王へ頭を下げる。
「恐れ入ります、陛下」
「まさか、あの場で『魅了』を持ち出すとはな」
「陛下がお望みになっていたのは、アルベルト殿下を王太子から降ろすための理由でございましょう?」
「そうだ」
国王は躊躇なく認めた。そこにあるのは息子を案じる父親の顔ではない。一国を預かる王の、疲れを刻んだ横顔だった。
「三年前から、あれには失望していた」
アルベルトの堕落は、リリアと出会う以前から始まっていた。政務を嫌がる。勉学を疎かにする。忠告する教師を遠ざける。失敗を他人の責任にする。そして何より、自分は王になるのだから、何をしても許されると思っている。リリアは原因ではない。きっかけに過ぎなかった。
「第二王子殿下のほうが、遥かに王としての資質がおありです」
エレオノーラが言う。
「ああ」
国王が頷く。
「だが、王太子を廃するには相応の理由が必要だ」
王太子は国の象徴でもある。単に「出来が悪い」というだけで簡単に廃嫡できるものではない。派閥が生まれる。内乱の火種となる。ましてアルベルトの母――亡き王妃の実家は、今も大きな力を持っている。
「だから、必要だった」
国王は低く言った。囁くような、しかし重い声だった。
「誰もが納得する理由が」
「魅了によって心身を蝕まれたのであれば」
エレオノーラが続ける。
「殿下は悪くございません」
「そうだ」
「責任は魅了を行った者にある」
「ああ」
「そして、精神を深く侵された殿下は療養のため王太子の地位を退き、静かな場所で余生を送る」
国王の口元が僅かに上がった。
「美しい筋書きだ」
「ええ」
エレオノーラも微笑む。その優雅な微笑みとは裏腹に、口にしている筋書きには一片の慈悲もなかった。
誰も悪くない。王太子は被害者。王家も被害者。公爵家も被害者。悪いのは、王太子を惑わせた一人の男爵令嬢だけ。なんとも分かりやすい物語だ。
「しかし」
公爵が口を開いた。
「一つ問題がある」
「リリア・モントレーに、魅了の能力がないことでしょう?」
エレオノーラは即答した。国王が目を細める。
「知っていたのか」
「もちろんでございます」
「いつからだ?」
「最初から」
沈黙が落ちた。暖炉の薪が爆ぜる音だけが、やけに大きく響いた。エレオノーラはカップをソーサーへ戻した。かちり、と硬質な音が鳴る。
「学院の魔法適性検査記録を確認いたしました。リリア・モントレーの適性は水属性。固有技能はございません」
「では、なぜ魅了などと言った?」
「必要だったからです」
エレオノーラは平然と答えた。その声には、良心の呵責など欠片も見当たらない。
「事実である必要がございますか?」
国王が笑った。低い。乾いた笑いだった。
「なるほど」
公爵は娘を見つめる。その瞳には、恐れとも誇りともつかない色が浮かんでいた。
「恐ろしい娘に育ったものだ」
「あら」
エレオノーラは微笑んだ。
「お父様がお育てになったのでしょう?」
「違いない」
公爵も笑った。国王が尋ねる。
「魔術師団の検査では、魅了の痕跡など出ないぞ」
「出なくて結構でございます」
「ほう?」
「精神干渉魔法には、時間経過によって術式そのものが消失するものがございます」
「確かにな」
「そして、未知の術式というものもございます」
エレオノーラは続ける。声は淀みなく、まるで長年温めてきた台本を読み上げるようだった。
「痕跡が発見できないからといって、使われなかった証明にはなりません」
「だが、それだけでは弱い」
「ですから、証拠を揃えます」
「証拠?」
「リリア・モントレーと出会って以降、アルベルト殿下の言動が変化したという証言。殿下から彼女へ贈られた品々の記録。殿下が彼女の言葉だけを無条件に信じていた事実。そして――」
エレオノーラは微笑んだ。その微笑みは、獲物を前にした猟師のように静かで、そして完璧だった。
「モントレー男爵家から、精神干渉系魔法について記された古書が発見されればよろしいでしょう」
国王と公爵が黙る。
「……発見されるのか?」
「されます」
エレオノーラは答えた。
「明日の朝には」
国王は数秒、彼女を見つめた。その視線の中に、畏怖に似た何かが揺れていた。やがて。
「そうか」
それだけ言った。誰も、それ以上尋ねなかった。
♢
調査は一か月続いた。
結果、モントレー男爵令嬢リリアは、禁術指定されている精神干渉魔法を用いて王太子を魅了した――と認定された。証拠は次々と出てきた。王太子の異常な執着。莫大な贈答品。リリアの証言の矛盾。そしてモントレー男爵邸の地下室から発見された、古い魔導書。
『服従』
『依存』
『認識阻害』
精神干渉魔法について詳細に記された禁書だった。インクの色さえ古びて見えるその頁は、まるで最初からそこにあったかのように、誰の目にも自然に馴染んでいた。
「知りません!」
裁判でリリアは叫んだ。傍聴席の視線が、氷の刃となって彼女に突き刺さる。
「そんな本、見たことありません!」
誰も信じなかった。
「本当です! わたくし、魅了なんて使えません!」
魔法適性検査についても審議された。だが、王宮魔術師団はこう結論づけた。
『特殊な固有技能は、通常の適性検査では検出されない場合がある』
嘘ではない。実際にそういう事例は存在する。真実の欠片を織り交ぜることで、物語全体がより強固な真実らしさを帯びていく。
「違う!」
リリアは泣いた。頬を伝う涙が、法廷の冷たい光を弾いた。
「わたくしはただ、アルベルト様を好きになっただけ!」
その言葉さえ、罪を補強した。
「アルベルト様だって、わたくしを愛してくださった!」
王太子が異常なほど彼女に執着していたことこそが、魅了の証拠とされた。
「エレオノーラ様!」
傍聴席にいたエレオノーラへ、リリアが叫んだ。声が悲鳴のように裏返る。
「あなたでしょう!?」
エレオノーラは何も答えなかった。
「あなたがやったんでしょう!?」
衛兵に押さえられながら、リリアが泣き叫ぶ。
「わたくし、魅了なんて使ってない! あなたは知っているはずよ!」
エレオノーラはただ静かに彼女を見つめた。凪いだ青い瞳に、リリアの姿だけが映り込む。その瞳に、リリアは答えを見たのだろう。
「……ひっ」
顔が引きつった。
「いや……」
エレオノーラは微笑んだ。王妃教育で何千回も練習した、完璧な微笑みだった。優雅で、慈悲深く見えて、そのじつ底の見えない深淵のような微笑み。
そして判決が下された。王族に対する精神干渉。王統を乱そうとした大罪。
リリア・モントレー。死罪。
♢
処刑の日。王都の中央広場には大勢の民衆が集まった。
エレオノーラは見に行かなかった。見る必要がなかったからだ。
正午。鐘が鳴った。一度。二度。三度。その音は、まるで遠い記憶の底から響いてくるようだった。やがて、公爵邸へ報告が届く。
「刑は滞りなく執行されました」
「そう」
エレオノーラは書類から顔も上げなかった。ペンの先が紙の上を滑る音だけが、静かな部屋に続いていた。
「ご苦労様」
それだけだった。リリアの父であるモントレー男爵は爵位を剥奪された。一族は王都から追放。財産の大半は没収。
そして、その翌日。王宮から正式な発表があった。
王太子アルベルトは長期間にわたる魅了魔法によって精神を著しく損傷しており、宮廷魔術師団による治療でも完全な回復は困難である。よって、王太子位を剥奪。王位継承権も放棄。療養のため、王家所有の離宮へ移される。
代わって第二王子ユリウスが王太子となった。
民はアルベルトに同情した。可哀想な王子。悪女に心を壊された悲劇の王太子。吟遊詩人まで歌を作った。王家への批判はほとんどなかった。むしろ、迅速に事件を収拾した国王を称賛する声さえ上がった。すべて、予定通りだった。
♢
半年後。エレオノーラは馬車に揺られていた。
車輪が石畳を刻む音が、規則正しく胸の奥に響く。向かう先は王都から北へ半日ほどの場所にある王家の離宮。森と湖に囲まれた美しい屋敷だ。表向きは、療養には最適な場所。実際には、元王太子アルベルトを生涯閉じ込めておくための牢獄だった。
「エレオノーラ・ヴァレンティア公爵令嬢がお見えです」
侍従の声。扉が開く。冷えた空気が頬を撫でた。部屋の中にいた男が振り返った。
「……エレオノーラ?」
アルベルトだった。半年ぶりに見る彼は、随分痩せていた。かつて美しく整えられていた金髪は伸び、頬もこけている。目の下には濃い隈が刻まれ、かつての覇気はどこにも見当たらなかった。
「久しぶりでございます、アルベルト様」
「エレオノーラ!」
アルベルトが駆け寄ろうとする。だが、護衛騎士が前へ出た。
「お下がりください、殿下」
「どけ!」
「なりません」
騎士は冷静にアルベルトの行く手を塞いだ。
「ヴァレンティア公爵令嬢への無礼はお許しできません」
「私に命令するつもりか!」
アルベルトの顔が歪む。
「私は王太子だぞ!」
騎士は一瞬の沈黙の後、淡々と告げた。
「……元、でございます」
「……っ!」
エレオノーラは手を上げた。
「構いません」
「しかし」
「二人でお話ししたいのです」
騎士は一瞬迷ったが、一礼して部屋を出た。扉が閉まる。アルベルトがエレオノーラへ詰め寄った。
「助けてくれ!」
「まあ」
「私は正常だ!」
「そうでしょうね」
あまりにもあっさりした返答に、アルベルトが止まった。
「……何?」
「正常でしょう、と申し上げました」
エレオノーラは窓辺へ歩いていく。ドレスの裾が床を静かに撫でた。
湖が見えた。夕暮れ前の淡い光が水面に散らばり、まるで無数の小さな星が沈んでいるようだった。美しい場所だ。ここで一生を終えるのなら、悪くないかもしれない――ふと、そんな他人事のような感想が胸をよぎる。
「魔術師どもは私の精神が壊れていると言う!」
「そういう診断になっておりますもの」
「違う! 私は魅了などされていない!」
「存じております」
「だから――」
アルベルトが止まる。
「……何?」
エレオノーラが振り返った。銀色の髪が、窓からの光を纏って揺れる。
「存じております、と申し上げました」
「どういう……意味だ」
「そのままの意味です」
エレオノーラは微笑んだ。
「あなたは魅了などされておりません」
アルベルトの唇が震えた。
「……では」
「リリア・モントレーにも魅了の能力などございませんでした」
「……は?」
「彼女はただの水属性魔法使い。固有技能もなし。精神干渉魔法など一度も使ったことはございません」
沈黙。アルベルトの顔から、少しずつ血の気が失われていく。まるで、体の内側から何かが崩れ落ちていくかのように。
「では……リリアは……」
「処刑されました」
「それは知っている!」
絶叫が響く。壁に反響し、部屋の空気を震わせた。
「なぜだ! なぜ彼女が!」
「必要だったからです」
「必要……?」
「ええ」
エレオノーラは静かに頷く。
「あなたを廃太子にするために」
アルベルトが固まった。
「……私を?」
「陛下は以前から、あなたを王太子の地位から降ろしたいとお考えでした」
「父上が……?」
「あなたがリリアと出会うずっと以前からです」
「嘘だ!」
「本当です」
「私は王太子だ!」
「でしたわね」
「次の王だった!」
「その予定でした」
「私は!」
「王になる器ではなかった」
エレオノーラの声から、笑みが消えた。氷のように冷たい、静かな断言だった。
「それだけのことでございます」
アルベルトが絶句する。
「あなたは政務がお嫌いだった」
「……」
「勉強も嫌い」
「……」
「面倒なことは臣下に押しつけ、気に入らない者を遠ざけ、自分を褒める者ばかりを側に置いた」
「それは……」
「リリアはあなたを変えたのではありません」
一歩、エレオノーラが近づく。足音さえ、この対話の一部だった。
「あなたは最初から、そういう人間だったのです」
「違う!」
「違いません」
「リリアが!」
「リリアが現れて、あなたは我慢する必要がなくなっただけ」
「違う!」
「王太子として取り繕っていた仮面を、自分から脱いだだけです」
「黙れ!」
アルベルトが腕を振り上げる。だが、エレオノーラは微動だにしなかった。青い瞳は、恐れの色を一片も宿していない。
「殴りますか?」
「……っ」
「どうぞ」
静かな声だった。
「わたくしに傷一つつければ、精神状態がさらに悪化したと診断されます」
アルベルトの腕が止まる。
「今度は、この部屋から出ることさえ許されなくなるでしょうね」
「……貴様」
「怖いお顔」
「貴様ぁ……!」
アルベルトの拳が震える。それでも振り下ろせない。エレオノーラはそれを見て、笑った。
「ふふっ」
「……何がおかしい」
「いえ」
扇で口元を隠す。
「お可哀想だと思いまして」
「私を……哀れむな!」
「だって、お可哀想でしょう?」
エレオノーラは笑う。その笑みには、これまで抑え込んできた十年分の何かが、ようやく滲み出ているようだった。
「ご自分は正常だと、これほど理解していらっしゃるのに」
「……」
「この国で、あなたが正常だと信じている者は、もう誰もいない」
アルベルトの瞳が揺れた。波紋のように、動揺が広がっていく。
「父上なら……」
「陛下はご存じです」
「……え?」
「あなたが魅了されていなかったことを」
「……」
「魔術師長も」
「……」
「わたくしの父も」
「……」
「新しい王太子殿下も」
「……嘘だ」
「皆、知っております」
「嘘だ!」
「それでも」
エレオノーラは囁いた。声は柔らかいのに、刃のように鋭く胸を貫く。
「あなたは魅了されていたのです」
「違う!」
「ええ」
「私は正常だ!」
「ええ」
「魅了されていない!」
「ええ」
「ならば!」
「それでも、魅了されていたことになったのです」
アルベルトが息を呑んだ。ようやく、理解したらしい。真実など、もう何の意味もないのだと。
「……リリアは」
掠れた声だった。
「リリアは……そのために殺されたのか」
「ええ」
「無実だった」
「魅了については」
「なら!」
アルベルトが絶叫した。
「なぜ殺した!」
エレオノーラは首を傾げる。
「あなたが選んだからでしょう?」
「……何?」
「わたくしではなく、彼女を」
「それとこれとは――」
「あなたは舞踏会で仰いましたわね」
エレオノーラはゆっくりと言った。一語一語を、ナイフのように丁寧に置いていく。
「『愛の前に身分など関係ない』と」
「……」
「素敵なお言葉でした」
「……やめろ」
「ですから、わたくしも身分を考慮いたしませんでした」
「やめろ」
「王太子であろうと」
一歩。
「男爵令嬢であろうと」
もう一歩。
「国に不要ならば、排除する」
「やめろ!」
「平等でしょう?」
「黙れぇぇぇ!」
アルベルトが叫んだ。テーブルを蹴り倒す。花瓶が床へ落ち、砕けた。ガラスの破片が光を弾きながら散らばる。扉の外から騎士たちが飛び込んでくる。
「公爵令嬢!」
「問題ありません」
エレオノーラは涼しい顔で答えた。
「少々、興奮なさっただけです」
「離せ!」
アルベルトが騎士たちに取り押さえられる。
「エレオノーラ!」
彼は叫んだ。
「悪魔め!」
「あら、随分なお言葉ですこと」
「貴様にはそれがお似合いだ!」
エレオノーラはくすりと笑った。
「かつては婚約者だった女性に、ずいぶんお冷たいのですね」
「婚約は破棄しただろう!」
その瞬間、エレオノーラは心の底から愉快そうに笑った。透き通るような、それでいてどこか壊れたガラスの音にも似た笑い声だった。
「ええ」
「……何だ」
「ようやく一つ、正しいことを仰いましたわね」
「……」
「ありがとうございます、アルベルト様」
美しい礼をする。まるで舞踏会の一場面のように、優雅に。
「あの夜、わたくしとの婚約を破棄してくださって」
「……」
「おかげで、わたくしはあなたと結婚せずに済みました」
アルベルトの顔が歪んだ。
「最初から……」
掠れた声。
「最初から、これを狙っていたのか」
「どこからを『最初』と呼ぶかによりますわ」
「答えろ!」
「あなたがリリアと親しくなった頃には、陛下とお父様はすでに廃太子を検討しておられました」
「……」
「そして、あなたが公務を放棄してリリアと遊び歩くようになった頃には、第二王子殿下への王太子位移譲について具体的な協議が始まっておりました」
「……」
「わたくしが準備を始めたのは」
エレオノーラは微笑む。
「あなたが初めて、リリアの虚言を信じてわたくしを叱責した日からです」
アルベルトの目が見開かれた。
「あの日……?」
「覚えていらっしゃいます?」
もちろん、忘れるはずがない。リリアが泣いた。エレオノーラ様に扇で叩かれた、と。アルベルトは確認もしなかった。エレオノーラを呼び出し、人前で叱責した。
『リリアに謝れ!』
エレオノーラは、あの日、黙って頭を下げた。
誰にも見せなかった、あの瞬間の胸の内。屈辱と、そして静かに芽生えた冷たい決意。
「まさか……」
「わたくし、あの日決めましたの」
にっこり。
「この男を王にしてはいけない、と」
「……」
「そして」
扇を閉じる。
「こんな男の妻にもなりたくない、と」
アルベルトは何も言えなかった。エレオノーラは踵を返した。
「待て」
背後から声がする。立ち止まる。
「……私は」
アルベルトの声が震えていた。
「私は、いつまでここにいればいい」
エレオノーラは振り返った。
「いつまで?」
「ああ」
「……」
「五年か?」
沈黙。
「十年?」
エレオノーラは答えない。アルベルトの顔が青ざめる。
「まさか……」
ようやく気づいたらしい。
「一生……?」
エレオノーラは微笑んだ。
「療養に期限などございませんわ」
「……」
「治るまででございます」
「なら、私は正常だ! 今すぐ――」
「ですが」
遮る。
「あなたは回復不能と診断されております」
「……」
「つまり」
エレオノーラは扉へ向かう。
「どうぞ、お健やかに」
「待て」
「美しい湖もございます」
「エレオノーラ」
「庭園もたいそう美しゅうございましたわ」
「待ってくれ」
「本もお好きなだけ読めます」
「エレオノーラ!」
扉を開く。冷たい廊下の空気が流れ込んだ。
「待ってくれ!」
悲鳴のような声。
「私は王子だ!」
エレオノーラは振り返らなかった。
「私は王太子だ!」
廊下を歩く。
「次の王なんだ!」
声が遠ざかる。まるで水底に沈んでいくように、少しずつ小さくなっていく。
「ここから出せ!」
エレオノーラの口元が上がる。
「私は正常だ!」
扉が閉まる直前、最後の叫びが聞こえた。
「魅了なんてされていないんだ――!」
ばたん。重い扉が閉ざされた。
静寂。
エレオノーラは数秒立ち止まり、とうとう。
「ふ……」
肩が揺れた。
「ふふっ」
堪えられなかった。
「あは……あはははっ!」
廊下に、令嬢の笑い声が響く。誰にも見られていないその笑いは、これまでの完璧な微笑みとはまるで違う、飾らない感情の奔流だった。
十年間。王太子の婚約者として。未来の王妃として。感情を抑え。失敗を許されず。どれほど努力しても当然だと言われ。隣に立つ男の不足を補い続けてきた。その男が、今は小さな離宮の中で、誰にも信じてもらえない真実を、一生叫び続ける。
「ああ……」
エレオノーラは目尻に浮かんだ涙を指先で拭った。笑いすぎた涙なのか、それとも別の何かなのか、自分でもよく分からなかった。
「可笑しい」
扉の向こうから、まだ何か叫んでいる。
正常だ。魅了されていない。ここから出せ。
すべて、真実だった。けれど、真実だから何だというのだろう。
国王が認めない。宮廷魔術師団が認めない。裁判所も認めない。貴族も。民も。歴史さえも。誰一人として認めない真実に、何の力があるというのか。
エレオノーラは扉へ向かって、小さく囁いた。
「ご安心くださいませ、アルベルト様」
返事はない。
「歴史書には、きちんと残りますわ」
悲劇の王太子アルベルト。邪悪な男爵令嬢の魅了によって心を壊され、王位を弟へ譲った哀れな王子。きっと後世の人々は同情してくれるだろう。
「あなたは愚かだったのではありません」
エレオノーラは笑う。
「悪い女に騙されただけ」
それは王家がアルベルトへ与えた、最後の慈悲だった。
♢
翌春。第二王子ユリウスの立太子式が盛大に執り行われた。
澄み渡る青空の下、王国の旗が誇らしげに翻り、祝砲の音が城下にこだまする。
若き王太子の隣には、銀髪の令嬢が立っていた。
エレオノーラ・ヴァレンティア。ただし、彼女はユリウスの婚約者ではない。
「義姉上」
式典を終えたユリウスが声をかける。
「その呼び方は、もうおやめください、殿下」
「なぜ?」
「わたくしはもう、あなたの兄君の婚約者ではございませんもの」
「分かっている」
ユリウスは事もなげに答えた。
「だが、幼い頃からそう呼んできた。今さら変える必要もないだろう」
「次期国王としての威厳が損なわれます」
「義姉上をそう呼ぶことくらいで揺らぐ威厳なら、最初からないほうがいい」
エレオノーラは呆れたように息をついた。
昔からそうだった。まだユリウスがエレオノーラの腰ほどの背丈しかなかった頃から、彼は兄の婚約者である彼女の後をよくついて回った。王宮を訪れれば、いつの間にか隣にいる。庭園を歩けば後ろからついてくる。エレオノーラが王妃教育の合間に本を読んでいれば、自分も本を抱えて隣の椅子に座った。アルベルトが「堅苦しい」と嫌がった彼女の話を、ユリウスだけはいつも楽しそうに聞いていた。
「義姉上は、何でも知っているんだな」
幼い彼が目を輝かせてそう言った日のことを、エレオノーラは今でも覚えている。やがて少年は成長し、兄よりも背が高くなった。それでも彼女を見る眼差しだけは、不思議なほど昔と変わらなかった。
「相変わらず厳しいな」
ユリウスは苦笑した。
「兄上も、よく十年もその厳しさに耐えたものだ」
「あら」
エレオノーラは微笑む。
「耐えていたのは、わたくしのほうでございます」
「それもそうか」
ユリウスは笑った。だが、その笑みはすぐに消えた。
「……私は、ずっと羨ましかったけれどな」
「何がでございます?」
「兄上が」
エレオノーラが瞬きをする。
ユリウスはそれ以上言わなかった。
「何でもない」
そう言って微笑んだ彼の横顔は、エレオノーラの記憶にある少年のものではなかった。
ユリウスが笑う。エレオノーラは新王太子の筆頭補佐官に就任していた。王妃にはならない。十年間学んできた政治、外交、法律、魔法学。それらすべてを、今度は誰かの妻としてではなく、自分自身の力として使う。
「ところで」
ユリウスが声を潜める。
「兄上の様子は?」
「お元気だそうですわ」
「そうか」
「最近は毎日、日記を書いていらっしゃるとか」
「日記?」
「ええ」
エレオノーラは笑った。
「自分は魅了などされていなかった。すべては陰謀だった、と」
「……それは」
ユリウスが何とも言えない顔をする。
「処分するか?」
「いいえ」
「いいのか?」
「構いませんわ」
エレオノーラは窓の外を見る。春の王都。青空の下を、王国の旗が揺れている。風が頬を撫で、遠くから花の香りが漂ってきた。
「百冊でも」
微笑む。
「千冊でも」
誰にも読まれない離宮で、好きなだけ真実を書けばいい。
「書かせて差し上げればよろしいのです」
歴史書には、こう記される。
王国暦七百十二年。王太子アルベルトは、男爵令嬢リリア・モントレーの禁じられた魅了魔法によって精神を侵された。リリアは王家転覆を企てた大罪人として処刑。アルベルトは治療に専念するため、自ら王太子位を弟ユリウスへ譲った。その英断によって王位継承争いは回避され、王国の安寧は守られた――。
美しい物語だ。ただ一つ、欠点があるとすれば、最初から最後まで、ほとんど全部が嘘だった。
けれど、エレオノーラは思う。真実とは、起きた出来事のことではない。人々が信じ、記録され、後世へ伝えられたもののことをいうのだ。
そして今日も、北の離宮では一人の男が叫んでいる。
――私は正常だ。――魅了などされていない。――私は嵌められたのだ。
その言葉を聞いた侍従たちは、気の毒そうに目を伏せる。
「元殿下は、今日もまだ回復されていないようだ」
と。
エレオノーラは春風に揺れる銀髪を押さえた。そして誰にも聞こえない声で、そっと呟いた。
「ええ。存じておりますわ」
青い瞳が楽しげに細められる。
「あなたが魅了されていないことくらい――最初から」
けれど、もう遅い。あなた自身が選んだのだ。国よりも。責務よりも。十年間支えてきた婚約者よりも。甘い言葉を囁く少女を。だから、望み通りにして差し上げた。彼女とともに、王太子の未来まで捨てさせて。
「さようなら、アルベルト様」
エレオノーラは踵を返す。これから王太子府で会議がある。新しい法案。隣国との条約。魔導鉄道の敷設計画。やるべきことはいくらでもあった。もう、愚かな婚約者の尻拭いに費やす時間など、一秒たりともない。
王宮の長い廊下を歩いていく。その足取りは軽い。まるで羽根が生えたかのように。十年間彼女を縛っていた鎖は、あの舞踏会の夜、アルベルト自身の言葉によって断ち切られたのだから。
――お前との婚約を破棄する!
思い出すたびに笑みがこぼれる。
「本当に」
エレオノーラは呟いた。
「素晴らしい贈り物を、ありがとうございました」
春の日差しが降り注ぐ。金色の光が回廊を満たし、彼女の銀髪をきらめかせた。そしてエレオノーラは、もう二度と、北の離宮を訪れることはなかった。
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