「補佐など誰がやっても同じ」と追放されたので寝坊したら、翌日の建国祭が崩壊していました
ゆるふわ設定です
# 無能と呼ばれた補佐官、抜けた翌日に式典が崩壊する
「イリス・フォルネ。おまえを、明日から私の補佐役から外す」
建国祭の前夜、王太子ラウル殿下は、式典控えの間でそう宣言した。
私は返事をする前に、殿下の手元を見た。明日の進行表が逆さまだった。よりによって、隣国使節団を迎える挨拶の順番が書かれた紙だ。そこを間違えると、東門で待たせる相手と西門で迎える相手が入れ替わる。
たぶん、今言うべきことではない。
けれど五年間、私はそういう「今言うべきではないこと」を拾ってきた。殿下の怒りが誰へ向かうか、王妃陛下がどこで眉を動かすか、使節団長が何を笑って流し、何を根に持つか。拾って、畳んで、見えない場所へ押し込んできた。
その結果が、これだ。
「承知いたしました」
私が頭を下げると、殿下の隣にいたミーナ嬢が、ほっとした顔をした。
彼女は侯爵家の末娘で、今いちばん王太子妃に近いと噂されている令嬢だ。明るく、よく笑い、よく間違える。間違えたあとに「だって難しいんですもの」と言えば、殿下がすぐ庇う。可愛らしい特技だ。私も一度くらい使ってみたかった。たぶん、似合わない。
「イリス、怒らないのね」
ミーナ嬢が首を傾げた。柔らかい声だった。式典前夜の控えの間で、贈答品の札がまだ半分も確認されていない状況でなければ、素直に可愛いと思えたかもしれない。
「怒る理由がございません。殿下がお決めになったことですので」
「そうだ。補佐など、誰がやっても同じだ」
殿下は、そこで胸を張った。
誰がやっても同じ。
その言葉で、私の中の何かが小さく座り直した。怒りではなかった。もっと生活に近いものだ。熱い湯を入れた杯を、やっと卓に置けた時のような、変な脱力。
誰がやっても同じなら、私がやらなくていい。
「では、引き継ぎを」
「いらないわ」
ミーナ嬢の返事は即座だった。少し早かった。殿下が満足そうに頷くより早く、彼女の指が進行表の束へ伸びる。
「わたし、明日は殿下の隣で笑っていればいいのでしょう? 細かいことは侍従たちがしてくれるはずです」
控えの間にいた侍従の一人が、わずかに目を伏せた。
気持ちは分かる。侍従は皿を運べる。扉を開けられる。けれど、北方公爵が去年から砂糖を避けていることも、隣国の副使が兄の話をされると機嫌を損ねることも、第三鐘の前に王妃陛下へ白百合を持っていくと喪の色に見えることも、勝手には思い出してくれない。
「かしこまりました」
私は進行表を揃え、机の端に置いた。
殿下の目が少し細くなる。思ったより私が食い下がらないので、拍子抜けしたのだろう。引き止めてほしかったのかもしれない。泣いて縋れば、殿下は優しい顔で許したかもしれない。
残念ながら、今の私はそれより眠りたかった。
「フォルネ家へは、こちらから伝えておく。おまえは明朝までに王宮を出ろ」
「はい」
「最後に何か言いたいことは」
あります、と言えば山ほどあった。明日の東門は第二鐘半。南方伯夫人の席は窓際に置かない。隣国のセルジュ団長には、花より実用の品を先に見せる。殿下は乾杯前に絶対に葡萄酒を飲まない。飲むと挨拶の二行目を飛ばす。
けれど、それらはもう私の仕事ではない。
「明日の建国祭が、よい式典になりますように」
私は礼をして、控えの間を後にした。
廊下に出た瞬間、足が少し軽くなった。比喩ではない。朝から走り回っていた足が、痛いまま軽い。たぶん、もう今夜は誰の靴紐も結び直さなくていいからだ。
王宮の使用人通用口を出る頃には、月が真上にあった。
宿を取る金はある。実家へ戻れば父に叱られるが、それは明日でいい。建国祭前夜に王宮を追い出された娘を、体面だけで怒鳴れるほど父も器用ではない。いや、怒鳴るかもしれない。そこは少し怪しい。
それでも私は、王宮前の坂を下りながら笑いそうになった。
明日、寝坊できる。
その事実が、王太子の信頼を失ったことより先に胸へ来た。
翌朝、私は本当に寝坊した。
宿屋の女将が扉を叩いた時、建国祭の第一鐘はとっくに鳴っていた。私は枕に顔を埋めたまま、しばらく動かなかった。身体が、起きなくていい理由を疑っている。五年間、祭礼の日は夜明け前に起きていた。殿下の礼服、挨拶文、席順、控えの菓子、予備の手袋。目を開けた瞬間に、頭の中で人と物が勝手に並んだ。
今日は並べなくていい。
それだけで、また眠りそうになった。
結局、起きたのは第二鐘の少し前だった。食堂へ降りると、女将が豆のスープを出してくれた。王宮の薄い朝食より、ずっと熱くて、ずっと塩が強い。
「お嬢さん、祭りは見に行かないのかい」
「人混みが苦手で」
嘘ではない。人混みそのものではなく、人混みの中で殿下が誰に何を言うかを考えるのが苦手だっただけだ。
スープを半分ほど飲んだところで、宿の入口が騒がしくなった。
「イリス様はいらっしゃいますか」
聞き覚えのある声だった。王宮の若い侍従、テオだ。彼はいつも走る時に、右の靴音だけ少し強くなる。何度注意しても直らなかったが、急ぎの使いには向いていた。
「こちらです」
私が手を上げると、テオは食堂の入口で止まり、汗だくのまま頭を下げた。
「お戻りください。今すぐ」
「嫌です」
自分でも驚くほど早く、返事が口をついた。
テオの口が開いたまま止まる。少し気の毒だった。彼は悪くない。悪くないが、私のスープも悪くない。冷める前に飲みたい。
「王宮が大変なのです」
「でしょうね」
「ご存じなのですか」
「いいえ。けれど、そうなる可能性は高いと思っていました」
私は匙を置いた。豆が一粒、椀の縁に残っている。こういう小さなものが気になるのは、まだ仕事の癖が抜けていない証拠だ。
「何が起きましたか」
テオは一度、息を整えた。
「東門と西門の迎えが入れ替わりました。北方公爵が控えの間でお怒りです。南方伯夫人は窓際の席に通され、扇で顔を隠したまま一言もお話しになりません。あと、ミーナ様が隣国使節団長を去年の副使の名で呼ばれました」
三つ。
思ったより少ない。いや、第二鐘前で三つなら十分多い。これから増える。
「殿下は」
「ミーナ様を庇っておられます」
「でしょうね」
「ですが、庇えば庇うほど、使節団の方々が黙ってしまわれて」
テオはそこで一度、食堂の入口を振り返った。
「セルジュ卿も、イリス様はどちらに、とお尋ねでした。殿下が答える前に、こちらへ向かわれたと」
私は残りのスープを飲んだ。塩が強い。少し舌に残る。王宮なら、私はここで水を飲み、顔を整え、走り出していた。
今日は走らない。
「戻りません」
「イリス様」
「私は昨夜、補佐役を外されました。引き継ぎも不要と言われています」
テオの顔が歪んだ。あの場にいたから、反論できないのだ。
「ですが、このままでは式典が」
「誰がやっても同じだそうです」
その言葉を口にした瞬間、少しだけ胸がすっとした。意地が悪い。分かっている。けれど五年間、一度くらいは言ってみても許されるだろう。
テオは唇を噛み、すぐに姿勢を正した。
「では、助言だけでも」
「対価をいただきます」
「え」
「私はもう王宮の補佐役ではありません。仕事として求めるなら、仕事として扱ってください」
食堂の奥で、女将が鍋をかき混ぜる手を止めた。聞いている。もちろん聞く。こういう話は、祭りの太鼓よりよく響く。
テオは迷った末、小さな革袋を取り出した。
「私の手持ちでは、これだけしか」
「あなたから取るつもりはありません」
私は革袋を押し返した。
「殿下にお伝えください。式典を戻したいなら、まず北方公爵へ殿下ご自身が詫びること。南方伯夫人には窓際を避けた別室を用意し、ミーナ様ではなく王妃陛下の侍女に案内させること。隣国使節団長には、名前を誤った理由を言い訳しないこと」
「それだけでよろしいのですか」
「よろしいわけがないでしょう」
つい本音がこぼれた。
テオが固まる。私は額に指を当てた。駄目だ。寝坊したのに、頭だけは勝手に王宮へ戻っている。
「応急処置です。それ以上は殿下が学ぶことです」
「殿下が、イリス様を連れて戻れと」
「戻りません」
「なぜ、と聞かれたら」
「無能だから、とお伝えください」
テオは、今度こそ何も言えなくなった。
昼前、王宮から二度目の使いが来た。
今度は殿下本人だった。
宿屋の食堂に王太子が入ってきた時、女将が鍋を落としかけた。客たちは一斉に黙り、すぐに黙っていないふりを始める。匙を動かす音が、妙に不自然に増えた。
殿下は私を見つけると、まっすぐ近づいてきた。礼服の襟が少し歪んでいる。誰も直さなかったのだろう。ミーナ嬢はその後ろにいた。目元が赤いが、泣いたというより、泣く機会を何度も逃した顔だった。
「イリス。戻れ」
第一声がそれだった。
懐かしい。何かを頼む時、殿下はいつも命令から入る。命令して、私が整えて、最後に「助かった」と言う。助かった、は嫌いではなかった。だから五年も続いたのだと思う。
「戻りません」
「これは王命だ」
「正式な王命でしたら、王印のある文書でお願いいたします」
殿下の眉が跳ねる。ミーナ嬢が小さく「そんな言い方」と呟いた。
その言い方を、五年間、私も飲み込んできた。
「イリス様、意地悪をしないでください。わたし、こんなに大変だなんて知らなくて」
ミーナ嬢は胸の前で手を組んだ。王宮なら、殿下がここで庇う。食堂では、女将が鍋をかき混ぜながら見ている。旅商人がパンを千切る手を止めている。観客の質が違うと、泣き方も少し難しくなるらしい。
「知らないのでしたら、学べばよろしいのでは」
「でも、急に全部なんて無理です」
「昨夜、引き継ぎはいらないとおっしゃいました」
「だって、あんな紙の束を渡されても分からないもの」
口にした。
私は殿下を見た。殿下はミーナ嬢を見た。ミーナ嬢は、自分が何を言ったのか分かっていない顔をしていた。
紙の束。
彼女にとって、進行表も来賓の好みも、贈答品の由来も、全部そうだったのだ。分からない紙の束。重くて、地味で、可愛くないもの。殿下の隣で笑うためには邪魔なもの。
「殿下」
私は静かに告げた。
「補佐など誰がやっても同じだとおっしゃったのは、殿下です」
殿下の顔が赤くなる。怒りか、恥か、暑さか。たぶん全部だ。
「言葉の綾だ」
「建国祭前夜に補佐役を外すほどの綾でしたか」
食堂の奥で、誰かが小さく咳をした。笑いを隠したのだろう。私はそちらを見なかった。見ると、こちらも笑いそうだった。
「イリス、今なら許してやる」
その言葉で、少しだけ残っていた情が、きれいに畳まれた。
許す。
私が許されるらしい。寝ずに式典を支え、失敗の前に立ち、功績は殿下のものにし、失敗は補佐の不足として受けてきた私が。今、宿屋の食堂で豆のスープを食べているだけで、許される側になる。
「ありがとうございます」
私は立ち上がり、深く礼をした。
殿下の表情が少し緩む。戻ると思ったのだろう。
「ですが、お断りいたします」
ミーナ嬢が息を呑んだ。殿下の口が開く。その時、宿屋の入口から別の声がした。
「では、その時間を我々が買ってもよろしいかな」
振り向くと、隣国使節団長のセルジュ卿が立っていた。
灰色の外套を羽織り、祭礼用の飾り紐を半分だけ外している。正式な場から抜けてきた格好だ。まずい。いや、私がまずいわけではない。まずいのは、隣国の使節団長が式典中に宿屋へ来られるほど、王宮側の場が崩れていることだ。
殿下の顔色が変わった。
「セルジュ卿、なぜこちらに」
「名を間違えられ、贈り物も取り違えられたので、少し散歩を」
散歩。
その一言で、食堂の客たちの匙が止まった。穏やかな言葉ほど怖い時がある。殿下もそれを理解したのか、唇を引き結ぶ。
セルジュ卿は私へ向き直った。
「イリス嬢。去年、我が副使の兄の件に触れず、それでいてこちらの希望だけは通してくださったのは、あなたでしたね」
「覚えていてくださったのですか」
「忘れる方が難しい。あの時、ラウル殿下は祝辞の紙を一枚飛ばして読まれた。あなたが杯を倒したふりをして止めなければ、我々は席を立っていた」
殿下が私を見た。
知らなかった、という顔だった。
私は少しだけ目を伏せた。知られないようにしたのは私だ。殿下の失敗を殿下の失敗にしないことが、補佐役の仕事だと思っていた。たぶん、そこが間違いだった。隠しすぎたから、殿下は自分が転びかけていたことにも気づかなかった。
「我が国の使節館で、式典調整役を探しています」
セルジュ卿の声が、食堂の床に響いた。
「王宮を離れたのなら、我々に来ませんか。少なくとも、紙の束を紙の束として扱う者はいません」
ミーナ嬢の顔が強張った。
殿下が一歩前に出る。
「待て。イリスは我が国の」
「昨夜、外されたと聞きました」
セルジュ卿は笑っていた。笑っているのに、退かない。
「それとも、補佐など誰がやっても同じという評価を、今ここで改めますか」
食堂の全員が殿下を見た。
王宮の広間ではない。豪華な柱も、絹の壁掛けも、殿下の味方をする沈黙もない。豆のスープの匂いがする宿屋で、殿下は初めて、自分の言葉だけで立たされていた。
「……イリスは、長く私に仕えた」
殿下は絞り出すように答えた。
「ならば、正当に慰労なさるべきでしょう」
セルジュ卿の返事は早かった。
ミーナ嬢が殿下の袖を掴む。昨夜までなら可愛らしい仕草だったのだろう。今は、王太子の腕を止める重りに見えた。
「イリス様、戻ってください。わたし、殿下に嫌われてしまう」
その本音は、泣き声よりずっと分かりやすかった。
私は彼女を責める気にはなれなかった。彼女は目立つ席を欲しがった。殿下は、目立たない仕事を軽んじた。どちらも、重いものを見ないまま手を伸ばしただけだ。
ただ、その後始末を私がする理由は、もうない。
「ミーナ様」
私は声をかけた。
「殿下に嫌われたくないなら、まず殿下の隣で起きることを見てください。笑うだけでは、たぶん足りません」
ミーナ嬢は泣きそうな顔をした。今度は少し、本当に泣きそうだった。
殿下は私を睨んだが、何も言えなかった。セルジュ卿の前で怒鳴れば、また一つ失う。そういう計算だけは、さすがに今できたらしい。
私はセルジュ卿へ向き直った。
「お話をうかがいます。ただし、今日は休みたいのです」
セルジュ卿の眉が上がる。
「いつからなら」
「明日から」
「明日」
「はい。昨夜、五年ぶりに補佐役を解任されましたので。せめて一日くらい、何も整えずに過ごしたいのです」
セルジュ卿は一瞬だけ黙り、それから声を立てて笑った。
「よろしい。では明日、正式に迎えを出しましょう」
殿下が何かを言いかける。
私は先に礼をした。
「ラウル殿下。建国祭のご成功をお祈りしております」
殿下の顔が引きつった。祈りで式典が整うなら、私は五年前から毎朝祈っている。けれど口には出さなかった。出すと、さすがに意地が悪すぎる。
セルジュ卿が宿屋を出る。殿下とミーナ嬢も、しばらくして王宮へ戻った。食堂に残った客たちは、しばらく誰も話さなかった。
最初に動いたのは女将だった。
彼女は私の前に、新しいスープの椀を置いた。
「冷めちまったからね」
「お代は」
「祭りの日のおまけだよ」
私は礼を言って、匙を取った。
王宮では、たぶんまだ誰かが走っている。殿下は怒り、ミーナ嬢は泣き、テオは右の靴音を強くして廊下を駆けている。北方公爵は機嫌を直さず、南方伯夫人は扇の陰で笑っているかもしれない。
その全部が、私の手の外にある。
スープを飲むと、朝より少しだけ塩が濃かった。女将がわざとそうしたのか、鍋の底に近いからなのかは分からない。
でも、今の私にはちょうどよかった。
明日から、また忙しくなる。
その前に今日は、寝坊して、温かいものを食べて、誰の失言も拾わない。
それだけで、追放も案外悪くないと思えた。




