心の思い込みと、千円のケーキ 行動経済学
認知バイアスと行動経済学
心の思い込みと、千円のケーキ
佐倉美咲は、自分は買い物で失敗しない人間だと思っていた。三十二歳になるまで、家計簿を欠かさずつけ、値段を比べ、無駄遣いを避けてきた。だからこそ、親友の由紀から「美咲は意外と思い込みが激しい」と言われたとき、少し腹が立った。自分ほど慎重に物事を考える人間は、そう多くないはずだった。
土曜日の午前十時、東京の商店街には焼きたてのパンの香りが漂っていた。美咲は薄い水色のブラウスに紺色のスカートを合わせ、白いカーディガンを羽織っていた。肩には茶色の革鞄をかけ、足元には歩きやすい黒い靴を履いている。
隣を歩く由紀は、黄色い花柄のワンピースに白い帽子を合わせていた。
「ねえ、美咲。今日は何を買うつもり?」
「夕食の材料と、仕事で使うノート。それから、お母さんの誕生日ケーキを予約したいの」
「予算は?」
「全部で五千円くらいかな」
「相変わらず計画的ね」
「お金は大切に使わないと。安いものを上手に選ぶのが一番よ」
由紀は楽しそうに笑った。
「じゃあ、今日は面白い実験ができそう」
「実験?」
「私、大学で行動経済学を教えているでしょう。人間がどうやって物を選ぶのか、美咲と一緒に考えてみたいの」
「私を研究材料にするつもり?」
「そんな大げさな話じゃないわ。買い物を楽しみながら、心の癖を見つけるだけよ」
美咲は少し不満そうに唇を尖らせたが、由紀の楽しそうな顔を見ると、それ以上は文句を言えなかった。
二人が最初に入ったのは、商店街の洋菓子店だった。木製の扉を開けると、小さな鈴が澄んだ音を立てた。店内にはバターとバニラの甘い香りが満ち、ガラスケースには苺のショートケーキや栗のタルト、艶やかなチョコレートケーキが並んでいた。
「いらっしゃいませ」
店主の女性が笑顔で迎えた。
「母の誕生日ケーキを探しているんです」
美咲が答えると、店主は三種類のケーキを紹介した。
「こちらは三千円の苺のケーキ、こちらは四千五百円の特製ケーキ、そしてこちらが八千円の豪華な果物のケーキです」
「八千円!」
美咲は思わず声を上げた。
「ずいぶん高いのね」
「旬の果物をたっぷり使っておりますので」
美咲は三つのケーキを見比べた。八千円のケーキを見た後では、四千五百円のものが妙に手頃に感じられた。
「この四千五百円のケーキがいいかな。八千円に比べれば、ずっと安いもの」
由紀は隣で微笑んだ。
「美咲、最初はいくらくらいのケーキを買うつもりだった?」
「三千円くらいよ」
「それなのに、どうして四千五百円が安く感じられたの?」
美咲は言葉に詰まった。
「だって、八千円のケーキがあったから……」
「それがアンカリング効果よ」
「アンカリング?」
「最初に見た数字が、後の判断の基準になってしまうことがあるの。八千円という値段を見たことで、四千五百円が安く感じられたのね」
美咲はもう一度ケーキを眺めた。
「でも、四千五百円のケーキも美味しそうよ」
「もちろん。大切なのは、値段に引っ張られて選んでいないか、自分に尋ねることよ」
美咲はしばらく考え、三千円の苺のケーキを予約した。
「母は昔から苺が好きなの。こっちのほうが喜ぶと思う」
「それなら、いい選び方ね」
店を出ると、美咲は少し悔しそうに言った。
「私、数字に惑わされるなんて思わなかった」
「誰にでも起こることよ。行動経済学は、人間がいつも合理的に判断するわけではないことを考える学問なの」
昼近くになると、二人は小さな洋食屋に入った。赤い格子柄のテーブルクロスが敷かれ、厨房からは玉ねぎを炒める香ばしい匂いが漂っていた。
美咲は煮込みハンバーグを、由紀は鶏肉のクリーム煮を注文した。温かなコーンスープと柔らかいパンも運ばれてきた。
「ねえ、由紀。人間の判断って、そんなに信用できないものなの?」
「信用できないというより、心には近道をする癖があるのよ。毎回すべてを調べていたら、疲れてしまうでしょう?」
「確かに。夕食のおかずを選ぶだけで一時間も考えたくないわ」
「その近道が役立つこともあるけれど、ときどき間違いにつながるの」
美咲はハンバーグを一口食べた。柔らかな肉から熱い肉汁が広がり、濃厚なソースの味に思わず頬が緩んだ。
「美味しい! このお店にして正解だったわ」
「どうして正解だと思うの?」
「前にも来て美味しかったからよ」
「もし前回だけ偶然美味しくて、今日は味が落ちていたら?」
「そんなこと、考えもしなかった」
「それも面白いところね。人は自分の考えを裏づける情報を集めやすいの」
「確証バイアス、だったかしら?」
「よく知っているじゃない」
「新聞で読んだことがあるわ」
由紀は嬉しそうに頷いた。
「例えば、ある店が素晴らしいと思い込むと、よい評判ばかり気になって、悪い評判を軽く見てしまうことがあるの」
「じゃあ、自分の考えと反対の意見も聞いたほうがいいのね」
「そう。でも、反対意見を聞くのは気分がよくないこともあるでしょう?」
「わかるわ。私だって、自分が間違っていると言われたら腹が立つもの」
二人は顔を見合わせて笑った。
食後、美咲たちは文房具店へ向かった。棚には色とりどりのノートや万年筆が並び、紙と木の落ち着いた香りが漂っていた。
「このノート、素敵ね」
美咲は深緑色の表紙をしたノートを手に取った。
「一冊千二百円か。ちょっと高いわね」
そのとき、棚の赤い札が目に入った。
『本日限り 二冊購入で一冊無料』
「由紀、見て! 三冊で二千四百円になるのよ!」
「三冊も必要なの?」
「今は一冊だけど、いつか使うでしょう?」
「いつ使う予定?」
「それは……まだ決めていないけど」
由紀は優しく尋ねた。
「もし割引がなかったら、三冊買う?」
「買わないと思う」
「それなら、割引を逃したくない気持ちが働いているのかもしれないわね」
「損をしたくないってこと?」
「そう。人は得をする喜びより、損をする痛みを強く感じることがあるの。損失回避と呼ばれる考え方よ」
美咲はノートを見つめた。
「でも、無料の一冊をもらわないのは、損した気分になるわ」
「本当に損をするのかしら? 一冊だけ買えば、支払いは千二百円で済むのよ」
美咲は思わず笑った。
「不思議ね。千二百円節約できるのに、無料の一冊を逃すほうが惜しく感じるなんて」
「お店の売り方が悪いという話ではないのよ。自分が何を必要としているか、忘れないことが大切なの」
美咲は深緑色のノートを一冊だけ買った。
午後三時、二人は商店街の喫茶店で休憩することにした。窓際の席には柔らかな日差しが入り、店内には挽きたての珈琲の香りが満ちていた。
美咲は紅茶と小さなチーズケーキを、由紀は珈琲と林檎のタルトを注文した。
「今日はずいぶん勉強になったわ」
美咲は紅茶を一口飲んで言った。
「でも、少し自信をなくしたかもしれない。私はもっと賢く買い物をしているつもりだったから」
「自信をなくす必要はないわ。自分の思い込みに気づけたことが大切なのよ」
「由紀は、認知バイアスに引っかからないの?」
「もちろん引っかかるわ」
「大学で教えているのに?」
「知識があっても、感情はなくならないもの」
由紀は少し恥ずかしそうに笑った。
「この前、五千円もする靴を買ったの。履き心地が悪かったのに、高かったから捨てられなくてね」
「それで?」
「無理して履き続けたら、足が痛くなってしまったわ」
美咲は驚いた。
「それこそ、損をしたくない気持ちじゃない?」
「ええ。それに、すでに払ったお金が惜しくて、よくない選択を続けてしまったの。サンクコスト効果と関係する話ね」
「専門家でも失敗するのね」
「人間だもの」
二人は声を上げて笑った。
夕方、商店街には買い物帰りの人々が増えていた。八百屋には赤いトマトや青々とした小松菜が並び、魚屋からは威勢のよい声が聞こえていた。
美咲は夕食用に大根と人参、鶏肉を買った。今夜は母の好きな煮物を作るつもりだった。
「由紀、今日はありがとう」
「こちらこそ、楽しかったわ」
「私、これから買い物をするとき、少しだけ考え方を変えてみる」
「どんなふうに?」
「安いから買うのではなく、本当に必要だから買う。みんなが選んでいるからではなく、自分が欲しいから選ぶ。そして、自分が正しいと思ったときほど、別の見方がないか考えてみるわ」
由紀は嬉しそうに微笑んだ。
「それができたら、十分よ」
美咲は夕暮れの空を見上げた。薄紫色の雲がゆっくり流れ、街灯が一つずつ灯り始めていた。
「ねえ、由紀。認知バイアスって、悪いものばかりじゃないのね」
「そうよ。心の癖を全部なくすことなんてできないし、なくす必要もないわ」
「大切なのは、癖があると知っておくことなのね」
「ええ。そして、間違えた自分を責めすぎないこともね」
美咲は買い物袋を持ち直した。袋の中には、母のための夕食の材料と、自分で選んだ一冊のノートが入っていた。
今日の買い物で節約できた金額は、それほど大きくなかった。それでも美咲は、お金以上に大切なものを手に入れた気がしていた。
自分の心を知ることは、他人の心を理解することにもつながる。誰かが間違った選択をしても、すぐに愚かだと決めつけず、その人が何を恐れ、何を大切にしていたのか考えられるようになりたい。
「由紀、また一緒に買い物に行きましょう」
「もちろん。次は私の思い込みを見つけてちょうだい」
「任せて。今日はずいぶん勉強したもの」
二人は笑いながら、夕暮れの商店街を歩いていった。




