手放せない青い傘
手放せない青い傘
美咲は、母の形見の青い傘を手放すことが、どうしてもできなかった。もう何年も使っていない。持ち手の木はひび割れ、紺色だった布はところどころ白く色あせている。それでも、玄関の傘立てから抜き取られるだけで、胸の奥が苦しくなった。まるで母の手を、もう一度離さなければならないような気がした。
「お母さん、その傘、まだ置いておくの?」
高校生の娘、菜月が尋ねた。十一月の土曜日、外は冷たい雨が降っていた。菜月は白いセーターに茶色のチェック柄のスカートを合わせ、肩までの髪を後ろで結んでいた。
「邪魔になってる?」
「ちょっとね。新しい傘が入らないんだよ」
「だったら、ほかの傘を整理しようか」
「でも、この傘、壊れてるじゃない」
美咲は返事をしなかった。台所からは、焼いた鮭の香ばしい匂いと、豆腐のみそ汁の湯気が漂っていた。食卓には炊きたてのご飯と、ほうれん草のおひたしも並んでいる。
「ご飯、冷めちゃうよ」
菜月はそれ以上言わず、椅子に座った。
美咲も向かいに腰を下ろしたが、胸のつかえは消えなかった。娘が悪いわけではない。壊れた傘を捨てたいと思うのは当然だ。それでも、あの傘をただの古い道具として扱われることが、悲しかった。
「その傘、おばあちゃんのだったんでしょ?」
「そうよ。私が二十歳のとき、母が買ったの」
「そんなに昔からあるんだ」
「昔はもっときれいな青だった。雨の日に差すと、空の下にもう一つ空があるみたいでね」
「おばあちゃん、青が好きだったの?」
「好きだったと思う。でも、私が好きだったから選んだのかもしれない」
美咲は箸を止めた。母が亡くなって七年になる。最後の入院中、母は窓の外を眺めながら、雨が降るたびに美咲の帰りを心配していた。
「傘を持ってきた?」
「持ってるよ」
「濡れると風邪をひくからね」
あのころ、美咲はもう四十歳を過ぎていた。それでも母は、幼い娘に話すような声で心配してくれた。
「お母さん、泣いてる?」
菜月の声で、美咲は我に返った。
「泣いてないよ。ちょっと思い出しただけ」
「捨てなくてもいいよ。そんなに大事なら」
その優しさが、かえって胸に痛かった。
午後、美咲は商店街の傘修理店へ向かった。ベージュのコートを羽織り、首に深緑のマフラーを巻いた。古い青い傘は布袋に入れ、胸に抱えるように持った。雨上がりの道には銀杏の葉が貼りつき、靴の裏で湿った音を立てた。パン屋の前を通ると、焼きたてのバターの匂いが流れてきた。
修理店の主人は、六十代くらいの男性だった。丸い眼鏡をかけ、紺色の作業着の袖を肘までまくっている。
「これ、直せるかしら」
主人は傘をゆっくり広げた。骨が一本曲がり、布には小さな穴が開いていた。
「直せないことはないけど、かなり費用がかかるよ」
「いくらくらい?」
「八千円かな。布も替えるなら、もっとかかる」
美咲は息をのんだ。新しい傘なら二千円ほどで買える。けれど、その金額を聞いても、修理を諦める気持ちにはならなかった。
「八千円でお願いします」
「ちょっと待ちなさい。そこまでして直す傘かい?」
主人は責めるでもなく尋ねた。
「母の形見なの」
「そうか。それなら大事だね」
「でも、こんな古い傘に八千円もかけるなんて、おかしいかしら」
「おかしいとは思わないよ。ただ、直したあとも使わないなら、別の残し方もあるんじゃないかな」
「別の残し方?」
「持ち手だけ残すとかね。木の部分はまだしっかりしてる」
美咲は傘の持ち手を見つめた。そこには母の指が触れた年月が残っているように思えた。
「全部残したいの」
口に出した途端、自分でも驚くほど強い気持ちが湧き上がった。
「わかった。じゃあ、もう少し考えておいで。急がなくていいから」
主人は傘を丁寧に畳み、美咲に返した。
店を出た美咲は、近くの喫茶店に入った。窓際の席に座り、温かいミルクティーとリンゴのタルトを注文した。店内には静かなピアノの音楽が流れ、シナモンの甘い香りが漂っている。
美咲は布袋から傘を少しだけ取り出した。色あせた布に触れると、ざらりとした感触が指先に残った。
「そんなに大事なの?」
顔を上げると、買い物帰りの姉、千春が立っていた。赤茶色のジャケットに黒いパンツを合わせ、片手にはスーパーの紙袋を提げている。
「お姉ちゃん、どうしたの?」
「偶然見かけたから。座ってもいい?」
「もちろん」
千春は向かいに座り、コーヒーを注文した。
「その傘、まだ持ってたんだ」
「修理しようと思って」
「いくら?」
「八千円」
「高いねえ」
「そうなの。でも、捨てられない」
千春はしばらく傘を見つめていた。
「私も昔、お母さんの古いエプロンを持ってたよ」
「花柄の?」
「そう。黄色い小さな花がいっぱいついてたやつ」
「あれ、どうしたの?」
「捨てた」
美咲は驚いて姉を見た。
「よく捨てられたね」
「簡単じゃなかったよ。何度もごみ袋に入れて、そのたびに取り出した」
「じゃあ、どうして?」
「ある日、気づいたの。エプロンがなくなったら、お母さんのことまで忘れる気がしてたんだって」
千春はコーヒーを一口飲んだ。
「でも、捨てたあとも覚えてた。台所で歌ってた声も、煮物の匂いも、怒ると眉毛が上がるところも」
「私は、まだ無理だと思う」
「無理に捨てなくていいんだよ。ただ、傘を持ってることと、お母さんを大切に思うことは、同じじゃないからね」
美咲は黙ってタルトを口に運んだ。煮詰めたリンゴの酸味が舌に広がったが、いつものように甘さを楽しむことはできなかった。
「お姉ちゃんは、あの傘に思い出ないの?」
「あるよ。高校の卒業式の日、お母さんがあれを差して迎えに来てくれた」
「そうだったの?」
「雨がひどくてね。私が濡れないように傘を傾けるから、お母さんの右肩だけびしょ濡れになってた」
美咲は思わず笑った。
「お母さんらしいね」
「うん。あの人、自分が濡れるのは平気だったから」
二人はしばらく母の話をした。失敗した卵焼きのこと、冬になると必ず作ってくれた大根の煮物のこと、機嫌がいい日にだけ口ずさんでいた古い歌のこと。話しているうちに、美咲は傘を見なくても母の顔を思い出せることに気づいた。
夕方、家に戻ると、菜月が台所で夕飯の支度をしていた。グレーの部屋着に着替え、髪をお団子にまとめている。鍋の中ではクリームシチューが煮え、鶏肉と玉ねぎの甘い匂いが広がっていた。
「お帰り。傘、直してもらえた?」
「まだ。少し考えることにした」
「そうなんだ」
菜月は木べらで鍋をかき混ぜた。
「ねえ、菜月。お母さん、あの傘を捨てたくないのは、どうしてだと思う?」
「おばあちゃんが大好きだったからでしょ?」
「それもある。でも、ずっと持っていたものだから、余計に大切に感じるのかもしれない」
「どういうこと?」
「同じものでも、自分のものになると、ほかの人が思うより価値が高く感じられることがあるんだって。保有効果っていうらしいの」
「じゃあ、お母さんはそのせいで傘を捨てられないの?」
「それだけじゃないと思う。思い出もあるしね」
菜月は少し考え、鍋の火を弱めた。
「私もあるよ。小学校のときのぬいぐるみ」
「あの白いウサギ?」
「もう灰色になってるけどね。お母さんに新しいのを買ってあげるって言われても、嫌だった」
「そうだったね」
「だって、あの子じゃなきゃ駄目なんだもん」
美咲は笑った。
「そういう気持ちなのかもしれないね」
「でもさ、お母さん」
「なあに?」
「大切だからって、ずっと同じ形で持ってなくてもいいんじゃない?」
美咲は娘を見つめた。菜月は少し照れくさそうに笑った。
「ウサギだって、いつか壊れちゃうと思う。でも、一緒に寝てたことは忘れないよ」
その夜、三人分のシチューをよそいながら、美咲は母のことを考えた。食卓の向こうでは菜月が熱いじゃがいもに息を吹きかけている。母も昔、同じように美咲の皿を気にしてくれた。
翌朝、美咲は青い傘を玄関から取り出した。窓の外には明るい日差しが差し込み、昨日の雨粒が庭の葉先で光っていた。
「菜月、ちょっと手伝ってくれる?」
「何するの?」
「この傘の写真を撮ってほしいの。お母さんの古いカメラで」
「いいよ。どこで撮る?」
「庭がいいな。青い色がきれいに見えるところ」
二人で庭に出ると、冷たい風が頬をなでた。美咲は傘を広げた。骨がきしみ、布がかすかに震えた。
「お母さん、もう少し右に傾けて」
「こう?」
「うん、いい感じ」
シャッターの音が小さく響いた。
「これで捨てるの?」
菜月が尋ねた。
美咲は傘を閉じ、木の持ち手を両手で包んだ。
「まだ捨てないよ」
「そっか」
「でも、修理もしないことにした。今はこのまま、思い出として置いておこうと思う」
「それでいいと思う」
「いつか手放せる日が来るかもしれないし、来ないかもしれない。でも、持っていないとおばあちゃんを忘れてしまう、とはもう思わない」
菜月は美咲の手にそっと触れた。
「ねえ、お母さん。今日のお昼、おばあちゃんがよく作ってた卵焼き、作ってよ」
「甘いやつ?」
「そう。ちょっと焦げてるやつ」
「焦がすつもりはないんだけどね」
二人は声を上げて笑った。
美咲は傘を抱えたまま、台所へ向かった。これから卵を割り、砂糖を入れ、母が使っていた古いフライパンを温めようと思った。
青い傘は、まだ手元にある。けれど美咲には、もう一つわかったことがあった。母が残してくれたものは、傘だけではない。娘と笑い合う声にも、甘い卵焼きの匂いにも、母と過ごした日々は生きている。
それがわかった今、美咲は初めて、傘を手放すかどうかを、自分の気持ちでゆっくり決められるような気がした。




