古いティーカップの手触り 保有効果
古いティーカップの手触り
胃の奥がきりきりと縮み上がるような、重苦しい焦燥感が胸を満たしていた。手放したくない、誰にも奪われたくないという頑固な執着が、血の巡りを鈍らせている。陽子は指先を強く握りしめ、膝の上でざらりとしたウール地の紺色タイトスカートの布地を小さく引き寄せた。首元には薄手のアイボリーのタートルネックセーターを着ていたが、緊張のせいで背中には冷たい汗がじっとりと張りついている。
「陽子さん、まだ迷ってるんですか。あんなの、ただの中古ですよ」
向かい側の席から、妹の美香が呆れたように眉をひそめた。美香は鮮やかなマスタードイエローのざっくり編みニットにジーンズという身軽な格好で、テーブルに運ばれてきたばかりのオムライスにフォークを突き刺している。喫茶店のテーブルには、湯気を立てるデミグラスソースの香ばしい匂いと、バターが焦げた甘い油の匂いが漂っていた。隣にはシャキシャキとした千切りキャベツと酸味の効いたドレッシングの香りが混ざり合い、陽子の空腹を刺激するはずだったが、喉を通る気配はまるでない。
「中古だなんて言わないで。私にとっては特別なものなの」
「特別って言ったって、陽子さんが自分で買ったわけでもないでしょう。先週のバザーで、たまたま余り物の山から百円で引き取ってきただけじゃない」
「そうだけど……でも、今はもう私のものよ」
口に出した瞬間、全身の毛穴がキュッと引き締まるような奇妙な疼きがあった。手に入れたその日から、自分の一部になってしまったかのような錯覚。百円で手に入れた事実など、いまの陽子の心には何の意味も持たなかった。
あのボーンチャイナのティーカップは、いま陽子の手元にある。表面は長年使い込まれて微かにくすんだ乳白色で、縁に施された金彩はところどころ擦り切れ、渋い光を放っている。指先で持ち手をなぞったときの、吸い付くような陶器の重みと滑らかな冷たさ。朝一番に濃いめの紅茶を注ぐと、透き通るような琥珀色が白い肌に映えて、湯気とともに立ち上るベルガモットの香りが鼻腔をくすぐる。その光景を思い浮かべるだけで、胸が切なく締めつけられるほど愛おしかった。
「あのね、骨董屋の店主が言ってたのよ。あれ、昭和初期の輸出用で、ちゃんと揃いなら価値があるけど、一客だけならせいぜい三千円がいいところだって。で、知り合いのコレクターがどうしても欲しいからって、五千円で譲ってくれって頼んできてるの。百円が五千円になるのよ。丸儲けじゃない。売らない理由がある?」
「あるわよ。私、あんなに手になじむカップ、生まれて初めて出会ったの」
「気のせいよ。たった一週間持ってただけで、なんでそんなに思い入れができるのよ」
美香はふうと息を吐き、オムライスの柔らかな卵を咀嚼した。
「じゃあ聞くけど、もしそのカップが今、骨董屋の棚に五千円で並んでたら、陽子さんは自腹を切って買う?」
「え……」
「買わないでしょ? 百円だったから買ったんでしょ。五千円の値札がついてたら素通りするはずよ。なのに、自分が持った途端に五千円でも手放したくないって、おかしいじゃない」
美香の鋭い言葉が、陽子の鼓膜をちくりと刺した。悔しさと当惑が入り混じり、耳の奥がカッと熱くなる。美香の言うことは理屈としては完璧に正しかった。もし店で五千円で売られていたら、陽子は絶対に買わなかった。高すぎると顔をしかめて背を向けたはずだ。
それなのに、なぜだろう。一度自分の手の中に入り、自宅の食器棚の特等席に収まった途端、それが三万円積まれても惜しいような宝物に思えてしまう。手放すことを想像するだけで、まるで自分の皮膚を一枚剥ぎ取られるような、痛烈な喪失感が襲ってくるのだ。
「理屈じゃないのよ……」
「理屈よ。ただの思い込み。損したくないだけよ」
美香は冷めた声で言い放ち、運ばれてきた食後のアイスコーヒーのグラスを揺らした。カランと氷が澄んだ音を立て、グラスの表面に細かい水滴がびっしりとつく。
「陽子さん、いつもそう。昔から自分のものになった途端、おもちゃでも洋服でも異様に執着して、捨てられなくなる。部屋が片付かないのも全部それのせいでしょ。手放す苦痛を、物の価値だと勘違いしてるのよ」
心臓を素手で掴まれたように息が苦しくなった。陽子は運ばれてきたホットのブレンドコーヒーに手を伸ばした。厚手のマグカップを両手で包み込むが、陶器の肌は無骨でざらついていて、あの自宅にあるティーカップの繊細なぬくもりとはまるで違っていた。苦い液体を口に含むと、舌の上に焦げたような苦みと強い酸味が広がり、胃の底に重く沈んでいく。
「……美香にはわからないのよ。手に入れた瞬間に、そこに私の時間が混ざるの。あのカップでお茶を飲んだ静かな朝の気分とか、光の当たり方とか、そういう全部が染みついてるの」
「たったの一週間で?」
「一日だって同じよ」
頑なな自分の声が、喫茶店の静かな空気に低く響いた。店内の隅からは、焙煎機の低いうなりと、誰かの読む新聞をめくる乾いた音が聞こえてくる。窓の外には晩秋の灰色の空が広がり、乾いた風に枯れ葉が舞い上がってアスファルトを擦るカサカサという音が届いていた。
「はあ……。もういいわ。頼まれたから仲介しようとしただけだし。コレクターの人には断っておく。でも陽子さん、それって自分の首を絞めてるだけだからね。手に入れたものを手放す痛みを怖がりすぎて、結局チャンスもお金も逃してるの」
美香は伝票を掴んで立ち上がった。
「私、先に出るね。ごちそうさま」
小銭をテーブルに置き、美香は颯爽と店を出ていった。ドアが開くたびに、チリンと真鍮のベルが涼やかに鳴り、外の冷え冷えとした空気が足元に滑り込んできた。
一人残された陽子は、冷めかけたコーヒーをじっと見つめた。胸の中にあるのは、カップを守り切った安堵感と、美香に図星を指された苦々しい敗北感だった。
自分の手の中にあるというだけで、なぜ人間はこれほどまでに価値を高く見積もってしまうのだろう。買うときの値段と、手放すときの値段。その間にある巨大な落差の正体は、物そのものの価値ではなく、失うことに対する臆病な恐怖心なのだ。
夕方、陽子は冷たい風に肩をすくめながら自宅のアパートへ戻った。玄関の鍵を開け、静まり返った部屋の明かりをつける。台所の棚を開けると、あの白いカップが静かに佇んでいた。
取り出して、手のひらに乗せてみる。ひんやりとした重みが肌に伝わる。夕暮れの薄暗い光の中で、擦れかけた金彩がほのかに光った。
「五千円、か……」
呟いてみても、やはりこのカップを誰かに渡してしまう光景を思い浮かべると、胸がぎゅっと痛む。手放す痛みは、五千円の現金を受け取る喜びよりも、はるかに重く心にのしかかってくるのだ。陽子は薬指の腹でカップの縁をそっとなぞり、小さく息を吐いた。
湯を沸かし、戸棚から紅茶の缶を取り出す。蓋を開けると、ベルガモットの華やかでどこか寂しげな香りがふわりと広がった。手放せない愚かさを抱えたまま、陽子はその白いカップに、熱い湯をゆっくりと注ぎ入れた。




