『失ったものの重さと、氷の皇子が守りたい温もり』
『失ったものの重さと、氷の皇子が守りたい温もり』
変わらないことが、一番怖かった
レイモンドは、エレノアが残した帳簿を前にして、自分がどれほど彼女に甘えていたのかを認めたくなかった。婚約を解消してからというもの、領地の収入は減り、使用人たちは困惑し、食卓に並ぶ料理さえ以前とは違っていた。それでも彼は、もう少し待てばすべて元に戻ると信じていた。そう思わなければ、自分の判断が間違っていたと認めることになる。
朝食室には、焼きたての白パンと茸のオムレツ、燻製肉、林檎の蜜煮が並んでいた。レイモンドは深緑の上着に金の飾り釦を留め、いつもの席についた。
「紅茶が薄い。昨日は渋すぎたというのに、今日はどうした」
給仕の青年が青ざめた。
「申し訳ございません。茶葉の仕入れ先が変わりまして」
「元に戻せばいいだろう」
「以前の商会からは、取引をお断りされております」
「なぜだ?」
「エレノア様が直接交渉なさっていた商会でございます。契約の更新について、先方から何度もお手紙をいただいていたのですが……」
「そんなもの、執事が処理すればいい」
青年は困ったように目を伏せた。
「執事長も、エレノア様から引き継いだ書類を確認しているところでございます」
レイモンドは苛立ってナイフを置いた。銀食器が皿に触れ、甲高い音を立てる。エレノアがいなくなっただけで、どうしてこれほど何もかもが滞るのか。彼女が戻ってくれば解決する。その考えにしがみつくほど、胸の奥の不安は大きくなった。
そこへ、薔薇色のドレスをまとったマリアが現れた。
「レイモンド様、今日は宝石商が参りますの。新しい首飾りを選んでいただきたいわ」
「今日は無理だ。領地の管理者を呼んでいる」
「またお仕事? そんなことより、婚約披露の準備が先でしょう?」
「君も少しは領地のことを覚えてくれないか」
マリアは目を見開いた。
「私に帳簿を読めとおっしゃるの?」
「エレノアは読んでいた」
「またお姉様の話!」
その声に、レイモンドは口を閉ざした。比べるつもりはなかった。しかし、以前の暮らしがどれほど楽だったかを思い出すたび、エレノアの名前が浮かんでしまう。
「君に、彼女と同じことをしろとは言っていない」
「でしたら、私を責めないでくださいませ」
マリアは香水の甘い匂いを残して出ていった。
レイモンドは冷めた紅茶を見つめた。新しい管理者を雇えばいい。契約先を変えればいい。婚約者も新しくなったのだから、暮らしも変わって当然なのだ。頭では分かっているのに、どうしても以前のやり方を手放せなかった。
一方、ガルディニア皇宮の離宮では、エレノアが小さな決心をしていた。
彼女は、誰かの役に立っていなければ愛されないのではないかという恐れを、まだ捨てきれずにいた。実家では朝から晩まで働き、問題が起きれば真っ先に呼ばれた。必要とされることが嬉しかったのではない。必要とされなくなったとき、居場所を失うのが怖かったのだ。
その朝も、エレノアは薄桃色のドレスに白いエプロンを重ね、厨房に立っていた。鍋では牛乳と玉葱を煮込んだスープが湯気を立て、焼きたてのパンから香ばしい小麦の匂いが漂っている。
「エレノア様、今日は私たちにお任せください」
侍女のリゼが声をかけた。
「でも、殿下は朝からお忙しいでしょう。温かいものを召し上がっていただきたくて」
「料理長が準備しております。それに、エレノア様には昨日からお疲れが見えます」
「大丈夫よ。これくらい、慣れているもの」
そう答えた途端、エレノアは自分の言葉に胸が痛んだ。
慣れている。
実家でも、そう言って働き続けていた。疲れていても休まず、頼まれれば断らなかった。何も変えなければ、誰にも嫌われないと思っていた。
「リゼ、私が厨房に来なかったら、困る?」
「いいえ。料理長がおりますから」
「そう……」
安心するはずなのに、エレノアは寂しくなった。自分がいなくても困らないという言葉が、かつての自分には恐ろしく聞こえたからだ。
そのとき、アルヴィンが厨房へ入ってきた。濃紺の軍礼服には銀の飾り釦が並び、黒い外套の肩には外の冷たい霧が小さな雫となって残っている。
「エレノア、ここにいたのか」
「殿下、おはようございます。もうすぐ朝食ができます」
「リゼから聞いた。昨日も遅くまで献立を考えていたそうだな」
「好きでしていることですから」
「それなら、今日は私の頼みも聞いてくれるか」
「何でしょう?」
「朝食を作るのをやめて、私と一緒に食べてほしい」
エレノアは戸惑った。
「でも、私が何もしなければ……」
「料理長がいる。侍女もいる。お前が休んだからといって、誰も困らない」
その言葉に、エレノアの表情が曇った。
アルヴィンはすぐに気づいた。
「何か、嫌なことを言ったか?」
「いいえ。ただ……私が何もしなくてもよいのなら、ここにいる意味があるのかと思ってしまって」
アルヴィンはしばらく黙っていた。エレノアが働くことを好んでいると思っていたが、その笑顔の奥に別の不安があることを、今ようやく理解した。
「エレノア。私は、お前の料理だけが欲しいわけではない」
「殿下……」
「お前と話したい。食事をしたい。何もせずに窓の外を眺める日があってもいい。ここは、お前が働くためだけの場所ではない」
エレノアは目を伏せた。嬉しいのに、すぐには信じられなかった。長年続けてきた生き方を変えることは、思っていた以上に怖かった。
「では、今日は料理長にお任せしてもよろしいでしょうか」
「もちろんだ」
「私、何もしない朝食なんて、久しぶりです」
「私も、誰かを待ってから食べる朝食には慣れていない」
アルヴィンが少し照れたように言うと、エレノアはようやく笑った。
食堂には、香草入りの卵料理、温かなパン、蜂蜜を添えた白いチーズ、梨の甘煮が用意されていた。エレノアは料理を運ぶことも、給仕に指示することもせず、アルヴィンの向かいに座った。
「殿下、このパン、とても美味しいです」
「そうか。私はいつも食べていたが、気にしたことがなかった」
「料理長にお伝えしたら、きっと喜びます」
「では、あとで一緒に伝えに行こう」
エレノアは温かなスープを口に運んだ。玉葱の甘さと牛乳の柔らかな風味が広がる。自分が作らなかった料理を、こんなに安心して味わえるとは思わなかった。
「殿下も、何か変えてみたいことはありますか?」
「私か?」
「はい。いつも同じ時間に起きて、同じお仕事をなさっているでしょう?」
「それが一番効率的だからな」
「でも、たまには違うことをしてみませんか」
アルヴィンは考え込んだ。
「例えば?」
「午後のお茶を、庭でいただくのです」
「この寒さの中で?」
「温かい外套を着れば大丈夫です。冬の庭も、きっと綺麗ですよ」
アルヴィンは窓の外を見た。霜をまとった薔薇の枝が、薄い日差しに輝いている。幼い頃から冬の庭は寒く寂しい場所だと思い、近づこうともしなかった。
「……悪くないかもしれない」
「では、決まりですね」
エレノアの嬉しそうな顔を見て、アルヴィンも微笑んだ。
午後、二人は厚い外套を羽織り、庭へ出た。エレノアは白い毛皮の襟がついた深緑の外套を着て、アルヴィンは黒い手袋をはめている。冷たい空気が頬を刺したが、庭には冬ならではの静かな美しさがあった。
侍女たちが運んできた紅茶から、甘い湯気が立ち上る。皿には焼き林檎の小さな菓子が並んでいた。
「寒くありませんか、殿下?」
「少し寒い」
「でしたら、中へ戻りましょうか」
「いや、もう少しここにいたい」
アルヴィンは白い息を吐きながら、庭を眺めた。
「私は長い間、冬の庭など見る価値がないと思っていた。花も少ないし、風も冷たいからな」
「今はどうですか?」
「静かで、綺麗だ。お前が誘ってくれなければ、知らないままだった」
エレノアは微笑んだ。
「私も同じです。誰かに任せて休むことが、こんなに心地よいなんて知りませんでした」
アルヴィンは彼女の手にそっと触れた。
「変わるのは、怖いものだな」
「はい。でも、変わらないままでいることも、時には怖いのですね」
エレノアはその手を握り返した。
その頃、レイモンドの屋敷では、新しい管理者が古い契約書の整理を申し出ていた。
「閣下、これまでの方法を見直す必要がございます」
「余計なことはするな。エレノアが戻れば、以前のように運営できる」
「ですが、エレノア様はお戻りになりません」
「分かっている!」
レイモンドは怒鳴ったあと、深く息を吐いた。
分かっている。それでも、変えたくなかった。自分が間違っていたことを認めるくらいなら、何も変わらないと信じていたかった。
管理者は静かに書類を置いた。
「閣下。以前の暮らしを取り戻すことと、領地を立て直すことは、同じではございません」
レイモンドは答えられなかった。
窓の外では、冷たい雨が降り始めていた。
同じ冬の空の下、エレノアは初めて自分のために温かな紅茶を飲み、アルヴィンは初めて冬の庭の美しさを知った。
そしてレイモンドだけが、まだ、もう戻らない昨日の扉を叩き続けていた。




