ぬるま湯の底で揺れる月 現状維持バイアス
ぬるま湯の底で揺れる月
古びた平屋の居間に漂う線香の残り香が、志保の鼻の奥をつんと刺した。どこか甘く、どこか埃っぽいその匂いを吸い込むたび、胸の奥底に溜まった鉛のような澱がずしりと重みを増していく。この家から一歩も外へ出られないまま、時間ばかりが指の隙間からこぼれ落ちていく感覚。変わらなければならないと焦る気持ちと、変わりたくないと縮こまる心が胸の中でせめぎ合い、志保は小さく胃のあたりを押さえた。三十五歳という年齢が、まるで背中に貼り付けられた重い荷札のように感じられてならない。
「志保、お茶が入ったよ。熱いうちに飲みなさい」
台所から運ばれてきた母の澄んだ声を聞いた瞬間、志保の肩からふっと余計な力が抜けた。それと同時に、この居心地の良さに溺れて抜け出せなくなっている自分への、底知れぬ自己嫌悪が湧き上がる。濃紺の木綿の割烹着を着た母が、湯気の立つ湯呑みを茶ぶ台の上にことんと置いた。
「ありがとう、お母さん。……今日も、いいお天気だったね」
志保は、膝の上で握りしめていた自分の手をそっと開いた。着古して袖口がほつれかけた灰色のアクリルセーターは、暖かくて肌になじんでいるが、外の世界の誰に見せるわけでもない、ただの引きこもりの鎧だ。窓の外では、庭の柿の木が夕暮れの風に揺れ、乾いた葉の擦れ合う音がさわさわと耳を打っていた。
「そんなぼんやりした顔をして。今日は街の洋裁店から連絡はあったかい? あそこの店主さん、腕のいい縫い子を探しているって言っていたじゃないか」
母が茶ぶ台の向かいに腰を下ろしながら、探るような視線を向けてくる。その瞳の奥にある純粋な心配の色が、志保にとっては針で刺されるよりも痛かった。期待に応えられない申し訳なさと、新しい場所へ飛び込むことへの恐ろしさ。未知の扉を開けるくらいなら、この薄暗い茶の間でじっと息を潜めていたほうが、どれほど傷つかずに済むだろう。そんな卑怯な計算が頭をもたげるたび、志保は自分の弱さに吐き気を覚えた。
「……ううん、まだ。それにね、お母さん。あの店、街の中心部にあるから電車に乗らなきゃいけないでしょう。私、昔から人混みが苦手だし、もし入ってから人間関係で揉めたりしたら、かえって迷惑をかけるんじゃないかって思って」
口から出た言葉は、自分でも呆れるほど滑らかな言い訳だった。失うかもしれない平穏ばかりを過大に恐れ、得られるかもしれない希望には固く目をつぶる。いつもの悪い癖だとわかっているのに、心のブレーキがぎぎぎと嫌な音を立てて車輪を止めてしまう。
「あんたは昔からそうだね。橋を叩いて、叩き壊して、結局渡らない。今のままでいれば確かに怪我はしないけれど、それじゃああんたの時間は止まったままだよ」
母の言葉は静かだったが、志保の胸の急所を的確にえぐった。痛みに耐えかねて俯くと、台所から漂ってくる夕餉の支度の匂いが鼻腔をくすぐった。生姜と醤油の甘辛い香り、それに炊きたての白米のふくよかな湯気。
「夕飯、手伝うよ」
逃げるように立ち上がった志保は、板張りの冷たい床を素足で踏みしめながら台所へ向かった。冷え切った足裏の感覚が、わずかに現実の輪郭を取り戻させてくれる。まな板の上には、丸々と太った鰯が三匹並んでいた。
「じゃあ、この鰯を生姜煮にしておくれ。煮汁が煮立ってから魚を入れるんだよ。そうしないと生臭さが残るからね」
「わかってる。何度も作ったもの」
志保は鉄の平鍋に酒と味醂、濃口醤油を合わせ、千切りにした生姜を放り込んだ。コンロの青い炎が鍋底を舐め、すぐに甘辛い煮汁が泡を立てて煮え立つ。そこへ、頭と内臓を落とした鰯を滑り込ませた。ジュウという景気のいい音とともに、立ち上る濃密な魚の脂の匂い。手慣れた作業をこなしている時だけは、自分が無能ではないと錯覚できる。何年も繰り返してきたこの手順、この味付け。未知の挑戦などしなくても、ここではすべてが安全で、すべてが予測可能だった。
落とし蓋をして火を弱めると、玄関の引き戸がガラガラと音を立てて開いた。
「ただいま。志保、いるか」
太く、少ししゃがれた声に、志保の心臓がトクンと小さく跳ねた。幼馴染の耕平だ。近所の工務店で大工をしている耕平は、作業着のまま、土埃と木屑の匂いを全身にまとって居間へ上がってきた。色褪せた藍色のヤッケの胸元には、白い木粉が点々と散っている。
「耕平くん、いらっしゃい。ちょうど夕飯ができるところよ。食べていくでしょう?」
母が嬉しそうに声をかけると、耕平は人懐っこい笑顔を浮かべ、日に焼けた大きな手で頭を掻いた。
「いい匂いにつられて来ちまった。おばさんの作る鰯の煮付け、大好物なんだよ」
ちゃぶ台を囲み、三人で並んで箸を取る。黒く煮詰まった鰯の身を箸で割ると、中から湯気とともにふっくらとした白い肉が現れた。口に運べば、生姜の爽やかな辛みと濃厚な醤油の甘みが舌の上にじわっと広がり、噛むほどに鰯の脂の旨味が溢れ出す。炊きたての麦混じりのご飯をかきこむと、お腹の底がじんわりと温かくなった。
「うまいな。やっぱり、この家の味は落ち着くよ」
耕平が満足そうに茶碗を置いたのを見て、志保は小さく息をついた。だが、次の耕平の言葉が、その安らぎを一瞬で粉砕した。
「そういえば志保、隣町の工房の件、どうなった? 親方がお前の刺繍の腕を見込んで、専属で伝統工芸の帯留めを作ってみないかって言ってたろ。返事の期限、明日までだぞ」
耕平の真っ直ぐな瞳に見つめられ、志保の手から箸が滑り落ちそうになった。胸がぎゅっと縮み上がり、喉の奥がカラカラに乾く。隣町の工房。志保がずっと憧れていた、本格的な絹糸の日本刺繍を扱う工房だった。願ってもない話のはずだった。それなのに、いざ扉が開かれると、恐怖の波が押し寄せて足がすくんでしまう。
「私には、無理だと思う。今まで家で趣味で縫っていただけの私が、お金をもらって人様の帯に針を入れるなんて。もし失敗して大切な絹地を台無しにしたら、取り返しがつかないわ」
「やってみもしないで、なんで失敗することばかり考えるんだよ」
耕平の声が一段低くなった。その瞳に浮かんだ苛立ちと焦燥の色に、志保は怯えるように身を引いた。
「失敗したら怖いもの! 今のままだって、こうして母さんと暮らして、内職をして、慎ましく生きていけるわ。大きな夢なんて見なくたって、傷つかずに生きていけるのなら、それで十分じゃない!」
思わず声を荒らげた志保の言葉に、居間が水を打ったように静まり返った。冷めかけた鰯の煮汁の上に、白く固まりかけた脂の膜が張っていくのが見えた。その濁った膜が、まるで外の世界を拒絶して閉じこもる自分自身の心の殻のように思えて、ひどく惨めだった。
「傷つかないかもしれないけどさ、志保。お前、本当にそれで笑えてるか?」
耕平は静かに立ち上がり、ヤッケのポケットから小さな紙包みを取り出して茶ぶ台に置いた。
「親方から預かってきた、工房で使う最高級の絹糸だ。お前が断るなら、明日俺が返しに行く。でもな、今の場所にじっとしてるのが一番安全に見えても、そこが沈みかけの泥舟だったら、動かないこと自体が一番の命取りになるんだぞ」
耕平はそれだけ言うと、足音を忍ばせて夜の闇の中へ帰っていった。
母も何も言わず、膳を片付けて奥の部屋へと引っ込んでしまった。一人残された志保は、薄暗い居間でぽつんと紙包みを見つめていた。開いてみると、中からは息を呑むほど美しい、艶やかな山吹色の絹糸が現れた。指先でそっと触れると、驚くほど滑らかで、まるで生き物の体温を宿しているかのような温もりがあった。
自分を守るために築いてきた、現状維持という名の分厚い壁。そこに留まっていれば、確かに新しい痛みを知ることはない。けれど、その代償として、自分は希望の光すら遮断し、暗闇の中でただ腐っていくだけなのではないか。
志保は絹糸を胸に抱きしめた。冷え切った心臓が、痛いほどの熱を持って激しく脈打ち始める。失敗する恐怖は消えない。足は今も震えている。それでも、この柔らかな糸で自分の明日を縫い直してみたいという切ない衝動が、胸の奥底からとめどなく溢れ出していた。
窓を開けると、夜空には冴え冴えとした月が冷たい光を放っていた。吹き込んできた夜風は肌を刺すほど寒かったが、志保の頬を打つその風は、どこまでも澄み渡り、心地よかった。




