失ったものの重さと、氷の皇子が守りたい温もり 損失回避バイアス(損失回避性)
失ったものの重さと、氷の皇子が守りたい温もり
レイモンドは、胸の奥をじわじわと締めつける焦燥感に耐えられずにいた。エレノアとの婚約を解消したときには、長年背負っていた退屈な義務から解放されたような気がした。それなのに今は、彼女がいなくなった屋敷の静けさが妙に恐ろしく、何を見ても失ったものばかりが目についた。
朝食の席には、焼きたての白パンと厚切りの燻製肉、半熟卵に林檎の蜜煮が並んでいた。以前なら食欲をそそられたはずの料理も、今朝はひどく味気ない。深紅の上着に金糸の飾り紐をつけたレイモンドは、銀のナイフを皿に置いてため息をついた。
「この紅茶はどうした。渋くて飲めたものじゃない」
給仕の青年が恐縮して頭を下げた。
「申し訳ございません。以前はエレノア様が茶葉の量と湯の温度を細かく指示してくださっておりましたので……」
「そんなことまで、あいつが?」
「はい。旦那様のお好みも、季節ごとの食材の仕入れも、すべて把握しておいででした」
レイモンドは返す言葉を失った。エレノアはいつも静かで、何をしても誇らしげに語ることがなかった。だから、自分は彼女の働きを当たり前だと思っていたのだ。
そこへ、薔薇色の絹のドレスをまとったマリアが現れた。金色の髪には真珠の髪飾りをつけ、甘い香水を漂わせている。
「レイモンド様、今日は宝石商を呼びましたの。婚約式には新しい首飾りが必要ですわ」
「宝石どころではない。領地の収入が減っているんだ」
「まあ、そんな難しいお話はお父様にお任せすればよろしいでしょう?」
「君の父上も困っている。エレノアが管理していた取引先から、契約の更新を断られたそうだ」
マリアは不機嫌そうに唇を尖らせた。
「お姉様なんて、ただ帳簿を眺めていただけでしょう?」
「違うらしい。彼女は農民たちの収穫量を調べ、冬の食料まで手配していた。取引先も彼女を信用していたんだ」
その言葉を口にした途端、レイモンドは胸が痛んだ。エレノアを手放したことが、取り返しのつかない失敗だったように思えてきた。マリアの華やかさを手に入れた喜びより、エレノアを失った不安のほうが、はるかに大きく膨らんでいた。
「だったら、お姉様に戻ってきてもらえばいいではありませんか」
「もう隣国の皇子に嫁いだんだぞ」
「でも、あの冷血皇子でしょう? きっと泣いて帰りたがっていますわ」
マリアは笑ったが、レイモンドは笑えなかった。
一方、ガルディニア皇宮の離宮では、エレノアが朝から穏やかな幸福を感じていた。窓から差し込む陽光が、淡い若草色のドレスに柔らかな陰影を落としている。袖口には白い小花の刺繍が施され、腰には生成りのエプロンを結んでいた。
「エレノア様、本当にお料理をなさるのがお好きなのですね」
侍女のリゼが微笑むと、エレノアは林檎の皮を剥きながら頷いた。
「ええ。誰かが美味しいと言ってくださると、私まで嬉しくなるの」
「殿下も昨夜は珍しく、スープをすべて召し上がりました。いつもは半分も召し上がらないのですよ」
「そうだったのね。それなら今日は、もう少し栄養のあるものを作りましょう」
エレノアは鶏肉を香草と塩で揉み込み、熱した鍋で皮目を香ばしく焼いた。玉葱と茸を加えると、甘く豊かな香りが立ち上る。白葡萄酒を少し注ぎ、牛乳と生クリームで煮込めば、柔らかな鶏肉のクリーム煮が完成した。付け合わせには、バターを練り込んだ滑らかなじゃが芋のピューレと、蜂蜜で焼いた人参を添えた。
「まあ、なんて良い香りでしょう!」
「殿下のお口に合うといいのだけれど」
そのとき、厨房の扉が開いた。
「私の口に合うかどうか、何の話だ?」
アルヴィンが立っていた。濃紺の軍礼服には銀の飾り釦が整然と並び、肩には黒い外套を掛けている。冷たい風にさらされた頬は少し赤く、青い瞳には昨夜より柔らかな光が宿っていた。
「殿下、お帰りなさいませ。今日は鶏肉のクリーム煮を作りました」
「また私のために?」
「もちろん皆様の分もございます。でも、殿下には温かいうちに召し上がっていただきたくて」
アルヴィンは一瞬、言葉を失った。誰かが自分の帰りを待ち、食事を温めてくれている。それは幼い頃に母を亡くして以来、忘れていた感覚だった。
「……そうか。では、いただこう」
食卓に着いた彼は、鶏肉を一口食べると静かに目を閉じた。柔らかな肉の旨味と茸の香りが、冷えきった身体に染み渡る。
「美味い。昨日のスープも良かったが、これも気に入った」
「嬉しいです。明日はお魚にしましょうか?」
「いや、明日は……お前も一緒に食べないか」
エレノアは驚いて顔を上げた。
「私も、ですか?」
「一人で食べるより、誰かと食べたほうが料理は美味いのだろう?」
その不器用な誘いに、エレノアの頬が温かくなった。
「はい。ぜひ、ご一緒させてください」
アルヴィンは彼女の笑顔を見つめながら、胸の奥に小さな不安が芽生えるのを感じていた。まだ出会って間もない女性なのに、彼女のいない食卓を想像すると、なぜか寂しくなる。昨日まで当たり前だった孤独が、今では失いたくない温もりによって塗り替えられ始めていた。
食後、侍従長が一通の書状を運んできた。
「殿下、エレノア様のご実家から使者が参っております」
アルヴィンの表情が険しくなった。
「用件は?」
「エレノア様に、領地の帳簿整理を手伝っていただきたいとのことです。数日間の帰国を希望しております」
エレノアは静かに目を伏せた。父が自分を必要としている。それは幼い頃から望んでいた言葉のはずだった。けれど今、その知らせを聞いても嬉しさは湧かなかった。
「お父様は、私に帰ってきてほしいのではなく、仕事をしてほしいのでしょうね」
アルヴィンは彼女の顔を見つめた。
「帰りたいか?」
「いいえ。今の私には、こちらで果たすべき務めがあります」
「ならば断ろう。お前はもう、あの家の都合で動かされる人間ではない」
その言葉に、エレノアの胸が熱くなった。
「ありがとうございます、殿下。でも、私からもお返事を書かせてください」
彼女は机に向かい、丁寧な文字で手紙をしたためた。
『お父様。領地の管理については、以前お渡しした引継書をご確認ください。私がいなくても運営できるよう、必要な手順はすべて記してあります。今後は新しい管理者をお育てください。私はガルディニアでの務めに専念いたします』
アルヴィンは手紙を読み、感心したように頷いた。
「恨み言の一つも書かないのだな」
「恨みを抱き続けると、自分の心まで疲れてしまいますから。でも、だからといって、何でも許すつもりはありません」
「強い女だな、お前は」
「そんなことはありません。今でも怖いことはたくさんあります」
「例えば?」
エレノアは少し迷ってから、小さな声で答えた。
「せっかく見つけた居場所を、また失ってしまうことです」
アルヴィンの胸が締めつけられた。彼女がどれほど傷ついてきたのか、その言葉だけで十分に伝わってきた。
「エレノア」
「はい」
「少なくとも、私がお前を追い出すことはない。ここにいたいと思う限り、安心して暮らせ」
エレノアは目を潤ませながら微笑んだ。
「ありがとうございます。私も、この場所を大切にいたします」
その夜、レイモンドのもとにはエレノアの返書の写しが届いた。彼は何度も読み返し、唇を噛んだ。
「なぜだ……なぜ、あいつは戻ってこないんだ」
マリアが苛立たしげに声を上げた。
「お姉様なんて、いなくても困りませんわ!」
「現に困っているだろう! 君は帳簿も読めない。取引先との交渉もできない。エレノアなら、こんなことには……」
「レイモンド様!」
マリアの叫び声に、レイモンドは我に返った。しかし、もう言葉を取り消す気にはなれなかった。自分が捨てた女性の価値を、失って初めて思い知ったのだ。
その頃、エレノアは離宮の暖炉の前で、アルヴィンから贈られた柔らかな肩掛けを羽織っていた。膝の上には母の料理帳が開かれ、明日の献立を考える時間が何より楽しかった。
「明日は白身魚の香草焼きにしましょう。それから、林檎の温かい焼き菓子も」
窓の外では冷たい風が木々を揺らしていたが、部屋の中には薪の香りと穏やかな温もりが満ちていた。エレノアはもう、失った婚約者のことを思い出して胸を痛めることはなかった。過去を取り戻すよりも、今ある幸せを大切に育てたい。その気持ちが、彼女の心を静かに満たしていた。
一方、本宮の執務室では、アルヴィンが侍従長に命じていた。
「エレノアの母方の相続財産について、調査は進んでいるか?」
「はい。どうやら、実家が不当に管理していた財産が相当額あるようです」
「すべて明らかにしろ。彼女が本来受け取るべきものを、取り戻してやりたい」
アルヴィンは窓の向こうに灯る離宮の明かりを見つめた。あの小さな温もりを失いたくないという思いが、彼の中で日に日に強くなっていることを、まだ誰にも知られたくなかった。




