手放せない天秤
手放せない天秤
胸の奥が冷たい鉛で押しつぶされるような痛みに、耕平は思わず息を詰まらせた。全身の血が足元へ一気に引いていき、指先が凍りついたように冷たく痺れている。目の前に広がる光景を視界が捉えるより先に、ただ「奪われる」という恐怖だけが、喉の奥を締め上げた。せっかく積み上げてきたものが、自分の指の隙間からこぼれ落ちていく感覚。それを取り戻すためなら、どんな無茶でもしてしまいそうな、焼けつくような焦躁が頭の中を真っ白に染め上げていた。
十一月の冷え込みが厳しくなった夕暮れ時、古い商店街の外れにある洋食屋の硝子戸には、白く息の跡のような結露がうっすらと浮かんでいた。擦り切れたツイードのジャケットの襟を立てた耕平は、暖簾代わりの重い真鍮のドアノブを回す。カランと鳴った控えめなベルの音が、張り詰めた神経をかすかに震わせた。店内には、じっくり煮込まれたデミグラスソースの香ばしい匂いと、バターが鉄板の上で焦げる甘く豊かな湯気が満ちている。
奥のボックス席には、藍色の厚手のタートルネックセーターに身を包んだ友人の修二が、すでに座っていた。テーブルの上には、運ばれてきたばかりの湯気を立てる煮込みハンバーグと、ツヤツヤと炊き上がった平皿の白米、そして赤ワインのグラスが並んでいる。肉汁の弾ける匂いが鼻腔をくすぐるはずなのに、耕平の胃袋は堅く結ばれた縄のように縮こまり、食欲など微塵も湧いてこなかった。
「顔色がひどいな、耕平。座れよ。注文はもうしてあるぞ。お前の一番好きなビーフシチューだ」
修二がナイフを置き、探るような、だが温かみのある声で言った。
「……悪い。少し、眩暈がしただけだ」
耕平は濡れた雨粒をウールのコートから手で払い落としながら、向かいの席に腰を下ろした。椅子が軋む音すら、自分の破滅を予告する秒針のように聞こえてしまう。
ほどなくして、白い陶器の深皿に入ったビーフシチューが運ばれてきた。赤ワインとフォンドボーで何時間も煮込まれた大きな牛肉の塊が、艶やかな漆黒のソースの中でほろりと崩れそうに揺れている。横には鮮やかなオレンジ色の人参と、鮮緑のブロッコリーが添えられ、ふんわりと湯気が立ち上っていた。銀のスプーンを握りしめたものの、耕平の手は微かに震え、重い金属の冷たさだけが皮膚を通して骨まで沁み渡っていく。
「さっきから一度も皿に手をつけないな。何があったんだ。仕事か、それとも例の工房の経営か」
修二がワイングラスを揺らしながら、静かに問いかけてきた。耕平は膝の上で、擦り切れたスラックスの生地をぎゅっと握りしめた。布地のざらついた感触が、焦りをごまかす唯一の支えだった。
「……悔しくて、たまらないんだ」
耕平の口から漏れ出たのは、絞り出すようなかすれ声だった。
「得られなかった喜びなんてどうでもいい。ただ、自分が手に入れたはずの場所を失うと思うと、夜も眠れない。胸が焼けて、息が吸えなくなるんだよ」
「工房の立ち退き料と、新しいテナントの移転話か」
修二が短く息を吐いた。
「そうだ。あの場所は、親父から受け継いで十年、俺が泥水をすする思いで守ってきた。家主は相場より高い補償金を払うと言っている。移転先の駅前ビルに行けば、客足は間違いなく今の三倍になる。数字の上では、どう計算したって俺にとってプラスだ。誰もが『得をする話だ』と笑って背中を押してくる」
「だが、お前は首を縦に振らない」
「振れるわけがないだろう!」
耕平は思わず声を荒らげ、すぐに周囲を気にして肩をすくめた。店内を流れる穏やかなジャズの旋律が、自分の浅ましい興奮を嘲笑っているように思えて居心地が悪かった。
「新しい場所で百万円儲かるかもしれない可能性と、いま手元にある愛着のある工房を失う五十万円の損なら、失う痛みのほうが何倍も重くのしかかってくるんだ。手放した瞬間、俺の人生の半分がごっそり削り取られるような気がして……怖くてたまらないんだよ」
修二は何も言わず、フォークでハンバーグを小さく切り分け、口に運んだ。咀嚼するわずかな時間すら、耕平にとっては針の筵だった。
「耕平、シチューが冷めるぞ。一口食べてみろ。美味いものを腹に入れないと、心まで痩せ細る」
促されて、耕平はスプーンを褐色のソースに沈めた。舌の上に広がる濃厚なコクと肉の甘み、かすかな苦味。いつもなら至福を感じるはずの味が、今はまるで砂を噛んでいるかのように喉を通らない。飲み込んだ塊が胃の底に落ちていく重さだけが、はっきりと感じられた。
「……味が、よくわからないよ」
「人間ってのはな、得ることの喜びよりも、失うことの痛みを二倍以上強く感じるようにできているらしいぞ」
修二が卓上の紙ナプキンで口元を拭い、耕平をまっすぐ見つめた。
「手に入れたものを手放すのが怖いのは、お前が臆病だからじゃない。昔から人間が生き延びるために身につけた、心の防衛反応みたいなものだ。獲物を逃した悔しさより、持っていた食糧を奪われて飢え死にする恐怖のほうが、圧倒的に命に関わるからな」
「心の防衛反応……?」
「そうだ。心理学では損失回避性なんて呼ぶらしいが、要するに、失うのが死ぬほど嫌なんだよ、誰だってな。いまのお前は、新しい場所で得られる未来の希望よりも、いまあるものを失う痛みに目が眩んで、足元がすくんでいるだけだ」
耕平は胸に手を当てた。そこにはまだ、ドクドクと不規則に跳ねる心臓の鼓動があった。修二の言葉は、まるで自分の見苦しい内面をそのまま暴き立てているようだった。得られる利益よりも、失う損失のほうが巨大な怪物に見えてしまう。だからこそ、明らかに有利な選択肢を前にしても、恐怖で身動きが取れなくなっていたのだ。
「だけど修二、あの工房の煤けた柱も、油の染み込んだ作業台も、全部俺の一部なんだ。それを他人の都合で引き剥がされる屈辱と喪失感に、俺は耐えられそうにない」
「失う痛みに耐える必要はないさ。ただ、その痛みが『実際よりも二倍以上大きく見えている幻だ』ってことだけは、知っておくべきだ」
修二はワインを一口含むと、椅子の背にもたれかかった。
「お前が本当に守りたいのは、あの古びた建物そのものか? それとも、そこで靴を作り続けてきたお前自身の腕と、これからの時間か?」
「それは……」
言葉に詰まった耕平の前で、店の奥の厨房から、肉を強火で炒める小気味よい音がジュウと響いた。香ばしい煙が漂い、客たちの談笑が耳に届く。この店も、以前は別の通りにあったはずだ。だが移転しても、マスターの腕と、通い続ける常連の温もりは何も変わっていなかった。
耕平はもう一度、冷めかけたシチューにスプーンを入れた。今度はしっかりと牛肉をすくい、口の中に運ぶ。繊維が舌の上で解け、豊かな香りと温もりが、冷え切っていた胃袋の底をじんわりと温めていくのを感じた。失うことへの怯えで強張っていた筋肉が、ほんの少しだけ緩んだ。
「……美味いな、これ」
「だろ? 人は何かを失うとき、世界のすべてを失うような錯覚に陥る。だが、手放した手のひらは空っぽになるわけじゃない。次に掴むための隙間ができるだけだ」
修二は笑って、自分の皿に残ったハンバーグを平らげた。
窓の外では、夜の帳がすっかり降り、冷たい小雨が街灯の光を反射してキラキラと銀色に光っていた。自分の工房を失う痛みは、きっと明日になっても消えはしないだろう。胸の奥に居座るあの鉛のような重みは、契約書に判を押すその瞬間まで、いや、押した後もしばらくは耕平を苦しめ続けるに違いない。
だが、その痛みは自分が生きている証拠であり、脳が仕掛けてくる錯覚に過ぎないのだと知っただけで、胸の圧迫感はいくぶんか和らいでいた。
「修二、もう一杯、ワインを頼んでもいいか」
耕平が言うと、修二は満足そうに目を細めて頷いた。
「ああ、付き合うよ。今夜はとことん、その手放す痛みを味わって、明日新しい鍵を受け取りに行こう」
耕平はウールの袖をまくり、残りのシチューをしっかりと噛み締めた。失う恐怖に背中を丸めるのではなく、その痛みを抱えたまま一歩を踏み出す覚悟が、温かい料理とともに身体の奥底へと染み渡っていくようだった。




