柿の木の下で、嘘をついた人
柿の木の下で、嘘をついた人
――十一月三日、文化の日
紬は、祖母に嫌われてしまったのではないかと思うと、胸が苦しくてたまらなかった。昨日、あんなに強く言い返さなければよかった。けれど、十七歳にもなって何もかも祖母の言うとおりにするのは、どうしても嫌だった。
「おばあちゃんなんか、大嫌い!」
昨夜の自分の声が、まだ耳に残っている。
十一月三日の朝、山里は深い霧に包まれていた。紬は紺色のセーターに茶色のコーデュロイのスカートを合わせ、毛糸の靴下を履いて台所へ降りた。板張りの廊下は足の裏が冷えるほど冷やかで、障子の向こうでは柿の枝から朝露が落ちていた。
「おばあちゃん、おはよう」
返事がない。台所には昨夜の柚の香りが残り、卓袱台には白いご飯と茸の味噌汁が用意されていた。椀に触れると、まだ温かい。
「おばあちゃん?」
祖母の澄江は、どこにもいなかった。
そのとき、玄関の外から男の声がした。
「紬ちゃん、澄江さんはいるかい?」
村長の鷲尾だった。灰色の背広に茶色の帽子をかぶり、霧に濡れた革靴で立っている。
「いませんけど……何か?」
「困ったな。今朝、柿の木の下で会う約束だったんだ」
「何の約束ですか?」
「昔の話だよ。子どもには関係ない」
その言い方に、紬はかっとなった。
「私、もう子どもじゃありません!」
「そう怒るな。澄江さんにも、昔のことは忘れたほうがいいと言っておいてくれ」
鷲尾はそれだけ言って帰っていった。
紬は庭の柿の木を見た。朝霧の中、橙色の実だけがぼんやり浮かんでいる。根元には掘り返された土があり、そばに祖母の赤い手袋が片方落ちていた。
「……おばあちゃん?」
指先が震えた。
昨日の喧嘩を思い出した。文化の日の村の展示会へ、亡くなった祖父の写真を出したいと言った紬に、祖母は頑として首を縦に振らなかったのだ。
「おじいちゃんの写真くらい、いいでしょう!」
「駄目なものは駄目だよ」
「どうして? 何か隠してるの?」
「紬には関係ないことだ」
その言葉が悔しくて、紬は大嫌いだと叫んだ。
もし、あれが最後の会話だったら。
そう考えた瞬間、涙が込み上げた。
「おばあちゃん、帰ってきてよ……」
「おや、どうした。朝から泣いて」
背後で声がした。
振り向くと、駐在の佐伯が自転車を押して立っていた。
「佐伯さん! おばあちゃんがいないんです!」
「そりゃ心配だ。まず、落ち着いて話してごらん」
紬が事情を説明すると、佐伯は柿の木の根元にしゃがみ込んだ。
「この土、今朝掘ったばかりだね」
「村長さんが何かしたんでしょうか」
「どうしてそう思う?」
「昔のことを忘れろって言ったんです。絶対、何か知ってます!」
佐伯はすぐには頷かなかった。
「紬ちゃん、怖いときほど、最初に怪しいと思った人のことばかり目に入るものだよ。ほかの可能性も調べよう」
「でも!」
「澄江さんを見つけたいんだろう?」
紬は唇を噛み、黙って頷いた。
佐伯は赤い手袋を拾い、裏返した。指先には黒い煤がついていた。
「炭焼き小屋かな」
「えっ?」
「お祖母さん、昨日、あそこへ行く話をしていなかった?」
紬は首を横に振ったが、ふと祖母の言葉を思い出した。
『明日は、あの人に返してもらわなくちゃね』
あの人とは、誰のことだったのだろう。
霧が薄くなり始めた。畑の中抜大根が青い葉を広げ、道端では吾亦紅の小さな花穂が揺れている。遠くの秋の嶺には陽が差し、冷たい空気の中に小春の暖かさが混じり始めていた。
二人が山道へ入ると、鋭い鵙の声が響いた。懸巣が木の実をくわえて飛び去り、笹藪では鶉が羽音を立てた。
「佐伯さん、私、怖いです」
「うん」
「おばあちゃんに、ひどいことを言ったんです」
「喧嘩したのかい」
「はい。でも、おばあちゃんが悪いんです。何も教えてくれないから」
「そうか」
「……佐伯さんまで、おばあちゃんの味方なんですか?」
「どちらの味方でもないよ。紬ちゃんが何を悲しんでいるのか、聞いているんだ」
その言葉に、紬は急に泣きたくなった。
「私、おじいちゃんのことを知りたかっただけなのに……」
佐伯は静かに頷いた。
「それなら、きっと話せるよ。見つかったら、今度は怒鳴らずに聞いてみよう」
炭焼き小屋に着くと、扉の隙間から煙が漏れていた。
「おばあちゃん!」
紬は駆け寄った。
中では澄江が囲炉裏の前に座り、膝に古い木箱を抱えていた。紫色の綿入れ半纏に、紺のもんぺ姿だった。
「紬! どうしてここへ?」
「どうしてじゃないわよ! どれだけ心配したと思ってるの!」
紬は祖母に抱きついた。半纏から炭の匂いがした。
「ごめんねえ。昔の荷物を取りに来たら、足をくじいてしまって」
「だったら、誰か呼べばいいでしょう!」
「ここは人が通らないからねえ」
「もう! おばあちゃんの馬鹿!」
澄江は困ったように笑ったが、その目には涙が浮かんでいた。
佐伯が木箱を見た。
「それは、宗一郎さんの?」
「ええ。十年前、主人がここに隠したものです」
箱の中には、古い帳簿と一枚の写真があった。
写真には、若い祖父と村長の鷲尾が肩を組んで写っている。
「……おじいちゃんと村長さん?」
紬が驚くと、澄江は小さく頷いた。
「二人は親友だったんだよ」
「でも、村長さんは昔のことを忘れろって……」
「それはね、宗一郎が村の共同林のお金を調べていたからさ。帳簿に不正があったんだよ」
「村長さんが盗んだの?」
「違う。鷲尾さんのお父さんだよ。宗一郎は証拠を見つけたけれど、公表する前に亡くなってしまった」
「じゃあ、おじいちゃんは殺されたの?」
澄江は首を横に振った。
「階段から落ちた事故だった。佐伯さんにも、ちゃんと調べてもらったよ」
佐伯が頷いた。
「当時の記録にも残っている」
「それなのに、どうして隠していたの?」
紬が尋ねると、澄江は写真を撫でた。
「鷲尾さんは、自分の父親の罪を背負い込んでいたんだよ。宗一郎が亡くなったあとも、何度も謝りに来てね」
「でも、悪いことをしたのは村長さんじゃないでしょう?」
「そうだね。けれど、人は自分の家族のことになると、なかなかそう思えないものなんだよ」
紬は黙った。
自分も、村長を疑っていた。怖くて、誰かを悪者にしたかったのだ。
「じゃあ、どうして今日、箱を取りに来たの?」
「村の展示会で、昔の林業の資料を紹介することになっただろう。鷲尾さんが、今度こそ帳簿も公開したいと言いに来たんだよ」
「……そうだったんだ」
「でもね、私は怖かった。主人が亡くなった日のことを、また思い出すのが」
澄江の声が震えた。
「紬に写真を出すなと言ったのも、あの人の顔を見ると泣いてしまいそうだったからさ」
「おばあちゃん……」
「隠してばかりで、ごめんね」
紬は祖母の手を握った。
「私こそ、ごめんなさい。大嫌いなんて、嘘だった」
「知ってるよ」
「本当に?」
「本当に嫌いなら、こんな山奥まで探しに来ないだろう?」
紬は泣きながら笑った。
「……もう、ずるいよ」
澄江も笑った。
囲炉裏の薪がぱちりとはぜ、煙の匂いが三人を包んだ。
夕方、村へ戻ると、池には渡ってきた鴨が浮かんでいた。冷やかな水面に夕陽が揺れ、秋の嶺が紫色に染まっている。
澄江の足を診てもらってから、紬は台所に立った。今夜は鴨肉と茸の鍋だ。中抜大根を薄く切り、柚の皮を散らすと、爽やかな香りが湯気と一緒に立ち上った。
「紬、包丁が上手になったねえ」
「おばあちゃんが教えてくれたんでしょう」
「そうだったね」
「もうすぐ立冬だよ。寒くなるんだから、無茶しないでね」
「はいはい」
「返事は一回!」
二人は顔を見合わせて笑った。
その夜、紬は祖父の写真を卓袱台に飾った。
写真の祖父は、若い村長と並んで笑っていた。
「ねえ、おばあちゃん」
「なあに?」
「明日の展示会、一緒に行こうよ」
澄江はしばらく写真を見つめ、それから静かに頷いた。
「そうだね。宗一郎にも、みんなに会ってもらおうか」
紬は鍋の蓋を開けた。鴨の脂が黄金色に浮き、茸の香りが部屋いっぱいに広がる。
「さあ、おばあちゃん。温かいうちに食べよう!」
「そうだねえ」
窓の外では、柿の実が夜風に揺れていた。朝には何も見えなかった庭も、今は月明かりに照らされている。
紬は祖母の椀に、柔らかく煮えた大根をよそった。
秘密が解けたことよりも、祖母が目の前で笑っていることが、何より嬉しかった。
そして、もう一つだけ分かったことがある。
誰かを疑う気持ちも、言い返したくなる気持ちも、きっと簡単には消えない。それでも、相手の言葉を最後まで聞くことはできる。
「おばあちゃん、おかわりは?」
「いただこうかね」
「今度は鴨肉もたっぷり入れるね!」
笑い声と湯気が、秋深い家の中を温かく満たしていた。




