悪役令嬢の断罪中なので、乙女ゲーを全クリした父を召喚します
第一章 断罪の夜、父来たる
「エルゼ・フォン・ベルリッツ! 貴様のような嫉妬深く醜悪な女との婚約など、もはや一秒たりとも維持できん!」
大理石の床に響き渡る怒声。
天井の巨大なクリスタルシャンデリアが眩いばかりの光を投げかける中、王立学園の卒業記念パーティー会場は、一瞬にして冷え切った処刑場へと変貌していた。
わたくし――ベルリッツ公爵家の長女エルゼを指差しているのは、金髪を撫で付けた美貌の青年、この国の第一王子カイル殿下である。
その腕の中には、今にも泣き出しそうな子鹿のように震える、平民出身の男爵令嬢マリアが抱き寄せられていた。
「貴様が昨夜、マリアの紅茶に毒草の粉末を混ぜ、その命を奪おうとしたことは調べがついているのだ! 言い逃れはできんぞ!」
「……ええと」
周囲を取り囲む貴族の子女たちが、嘲笑と軽蔑の混ざった視線を一斉にわたくしへ浴びせてくる。
無実の罪。絵に描いたような冤罪。
あまりの理不尽さと衝撃に目の前が真っ白になった――その瞬間。
バチリ、と頭の奥で何かが弾けた。
(……あ、れ? ここ、どっかで見たことある)
押し寄せる記憶の奔流。
わたくしは、かつて日本の平凡な女子大生だった。名前は佐藤遙。二十歳そこそこで重い病気に倒れ、病院のベッドであっけなく人生を終えたはずだった。
そして思い出したのだ。
この金髪の王子も、怯える男爵令嬢も、そして今まさに処刑宣告を受けようとしている悪役令嬢『エルゼ』も。
すべて、生前の我が家の食卓で、誰よりも熱く語られていた乙女ゲーム『聖なるルミナス・ラプソディ』――通称『ルミラプ』の登場人物たちだ。
ただし、プレイしていたのはわたくしではない。
実の父親である。
思い出すのは、夕飯のサンマを突きながら、ビール片手に熱弁を振るっていた中年オヤジの姿だった。
『遙、いいか。カイル王子だけはやめておけ。あいつは承認欲求の塊だ。結婚したら絶対に浮気するしモラハラになる。顔だけの不良物件だ』
『宰相の息子のユリウスもやめておけ。実家のメンツしか頭にない。姑問題で胃に穴が空くぞ』
『騎士団長の息子は論外だ。脳筋すぎて話が通じん』
『庭師だ。遙、絶対に庭師を選べ。庭師はいいぞ……』
あの頃のわたくしは「はいはい、お父さんキモいからご飯中に乙女ゲーの攻略情報語らないで」と完全に聞き流していた。
だから、肝心の処刑回避方法が、まるでわからない。
「衛兵! この邪悪な女を直ちに地下牢へ連行せよ! 明朝の公開審問にて、正式に極刑を言い渡す!」
カイル王子の冷酷な宣告とともに、甲冑を着込んだ大柄な衛兵四人が、抜剣してわたくしを取り囲む。
冗談抜きで明日死ぬやつだ。
パニックになりかけた頭で、わたくしはドレスの隠しポケットに滑り込ませていた冷たい物体を握りしめた。
それは、ベルリッツ家に代々伝わる国宝級の秘宝。
一生に一度だけ、使用者が心から願う相手と、世界を越える縁を結ぶ古代魔導具――『召喚石』。
(お願い……誰でもいい! チートな竜騎士でも伝説の大魔導士でもいいから!)
わたくしは藁にもすがる思いで魔力を込め、心の底から叫んだ。
「いちばん私の味方になってくれる人を喚び出して!!」
ゴオッ! と凄まじい地響きが轟いた。
石畳の上に巨大で複雑な魔法陣が浮かび上がり、青白い神聖な光が天を衝く。吹き荒れる暴風に貴族たちが悲鳴を上げ、カイル王子が怯えて後ずさる。
「な、なんだこれは!? 邪術か!?」
バチィンッ!!
空間が割れるような乾いた破裂音とともに光が収まり、もうもうとした湯気が立ち込めた。
現れたのは――
頭に白タオルを巻き。
よれよれの灰色のスウェット上下を着て。
足元にはイボイボのついた健康サンダル。
そして左手には、キンキンに冷えた『エビルビール』の缶を握りしめた。
見覚えがありすぎる、五十代前半の冴えない日本人男性だった。
「……ぷはーっ。やっぱり風呂上がりの一杯はたまらん……って、あれ? ここどこだ? うちのリビングの畳、こんなツルツルしてたっけか?」
静寂。
百人を超える貴族と衛兵が、息を呑んで硬直している。
漂ってくるのは、爽やかなシトラス系のボディソープの香りと、ほんのり香ばしいビールの匂い。
わたくしは、あんぐりと開いた口が塞がらないまま、絶叫していた。
「お、お父さぁぁぁぁぁぁぁぁんっっっ!?」
「うおっ!? 誰だ!?」
中年男性――佐藤茂(さとう・しげる、五十二歳、食品メーカー資材調達部課長)は、飛び上がって健康サンダルを鳴らした。
そして、きらびやかな紫のドレスを着て床にへたり込んでいるわたくしを凝視する。
父の顔を見た途端、わたくしは自分の左手の甲を、右の人差し指で三回叩いていた。
採血が怖くて泣いていた幼いわたくしに、父が教えた『大丈夫』のおまじない。二十歳になっても、針を刺される前だけはやめられなかった癖だ。
父の目が、その指先で止まった。
「……その、おまじない。遙なのか?」
さっきまで大きかった父の声が、そこで途切れた。
缶を握る左手が、かすかに震えていた。
「うん。遙だよ」
父はわたくしの前に膝をつき、顔を覗き込んだ。
巻き毛も、目の色も、前とは違う。何かを尋ねようと口を開いて、それでも言葉が出てこない。
「入院してたとき、プリン買ってきてくれたでしょ。私が半分しか食べられなくて、残りはお父さんが食べた」
「……お前が、もったいないって」
「うん。あれ、美味しかったよ」
伸びてきた右手を、わたくしは両手で包んだ。
父の指が、恐る恐る握り返してくる。
「……温かいな」
たったそれだけ言って、父はうつむいた。
頭に巻いたタオルの端が、わたくしの手に触れた。
わたくしも何も言えず、その手を握っていた。
やがて父が、鼻をすすって顔を上げた。
「どうして……ここに」
「死んだあと、こっちの世界に生まれたの。さっき、お父さんのことを思い出して」
「そうか……。そうか」
父は何度も頷き、わたくしを助け起こした。立ち上がってからも、しばらく手を離さなかった。
ようやく指がほどけると、父の目が、わたくしの髪へ移った。
「……それにしても、その巻き毛。ずいぶん立派になったな」
「髪に再会の感想を持っていかないで」
声に、少しだけ笑いが混じった。
わたくしは目元を拭い、父のスウェットを見た。
「っていうか、なんでお父さんがここにいるのよ!?」
「知らんよ! 風呂から上がって、ビールを一口飲んだら足元がピカピカ光って、気づいたらここに立ってたんだ!」
「こらぁっ! 余を放って、二人だけで話を進めるな! ここは家族の居間ではないぞ!」
我に返ったカイル王子が、顔を真っ赤にして怒鳴りつけた。
「神聖なる学園の式典に、そのような怪しげな格好で乱入するとは! エルゼ、貴様、宮廷道化師でも雇って余を愚弄する気か!」
茂はビールの缶を右手に持ち替え、耳の穴を小指でほじりながら、カイル王子をじっと見つめた。
「……ん? あの金髪の兄ちゃん、どっかで……。ギャンブル漫画に出てきそうな尖った顎、スポーツ漫画に出てきそうな広い肩幅、学芸会に出てきそうなマント……。まさか、カイル王子か?」
「余の名を気安く呼ぶな、無礼者め!」
「うわ、本物だ。声までゲームのイメージ通りだな。攻略wikiで『顔だけの不良物件』って書き込まれてたやつだ」
「お父さんやめて! 悪口の出どころがネット掲示板すぎる!」
わたくしが頭を抱えると、茂はふっと真顔になり、缶を右手に持ったまま、左手をポケットに突っ込んでわたくしを見下ろした。
その目つきは、家庭で見せる怠惰なオヤジのものではなく、長年資材調達の修羅場をくぐり抜けてきた中間管理職のそれだった。
「なるほどな。状況は把握した。お前がエルゼで、今が断罪イベントの真っ最中ってわけだ」
「話が早くて助かるけど、どうすればいいの!? 私、明日処刑されちゃう!」
茂は頷き、極めて真剣な面持ちで言った。
「まず確認したい。庭師は生きてるか」
「そこぉぉぉぉぉぉぉぉっ!?」
わたくしの絶叫が大広間に木霊した。
これが、わたくしと父の、異世界での再会だった。
◇
第二章 作戦会議とズレる攻略本
王城の一翼を利用した王立学園。その塔の半地下にある留置室に、わたくしたちは押し込められていた。
高い位置にある鉄格子の小窓から、冷たい夜風とともに月光が差し込んでいる。
「おい、そこ座れ。風邪ひくぞ」
父はスウェットの上着を脱ぐと、わたくしの肩にかけてくれた。柔軟剤の匂いが鼻をくすぐり、不覚にも泣きそうになる。
大広間での騒動のあと、わたくしたちは「怪しげな不審者を召喚した危険人物」として、まとめてここに連行されたのだ。
朝八時には、国王や大司教、各家を代表する重臣たちが集まる大講堂で、正式な公開審問が行われる。
「……ごめんね、お父さん。せっかく生きてるお父さんを、私のせいでこんな物騒な世界に引っ張り込んじゃって」
「何を言ってるんだ。お前が生きて……いや、別の体とはいえ、こうしてまた喋れてるんだぞ。こんな嬉しいことがあるか。風呂上がりのビールがぬるくなったこと以外は、完璧な夜だ」
茂は鉄格子の隙間から月を見上げ、残っていたエビルビールをちびりと喉に流し込んだ。
……待って。その缶、どうして没収されていないの?
連行の際、衛兵が取り上げようとしたのを、父は『飲み残しですよ』と自分で一口飲んで見せていた。空いた手をねじ上げられたまま、缶だけは持っていてよいと言われたのだ。
武器ではないと判断されたらしい。危険人物として捕まった本人より、晩酌の続きのほうが先に潔白を証明している。
その横顔には、かつて病室でわたくしの手を握り続けていたときの、深い愛情が滲んでいた。
「さて、遙。……いや、今はエルゼって呼んだ方がいいか。敵の本陣に乗り込む前の作戦会議だ」
「作戦って……お父さん、剣とか魔法とか使えるの?」
「使えるわけないだろ。五十肩で右腕がこれ以上上がらん」
「だよね!」
茂はあぐらをかき、土間に指で図を描き始めた。
「お前がいた頃から遊んでた、あのゲームだ。お前を看取ったあとも、寂しくてな。まだ一緒に話せる気がして、隅から隅までやり尽くした。トロフィーコンプリート済みだ」
胸がぎゅっと痛む。お父さん、そんな理由でやり込んでたのね……。
……でも、五十二歳の父が全攻略対象との恋を隅々まで回収した絵面は、やっぱりちょっとキツい。
泣きたいのに、脳内のお父さんが美青年との恋愛イベントを始める。今だけ黙っていて、私の想像力。
わたくしは借りた上着の襟を握り、目元に押し当てた。
「いいか、エルゼ。この断罪イベントは、ゲームでは共通バッドエンドへの分岐点だ。カイルの告発は、全部あいつとマリアが仕組んだ狂言だ。だが本編をクリアすると、エルゼを国外へ逃がす隠しルートが解放されるんだよ」
茂は壁の隅を指差した。
「扉から三つ目のレンガを押し込むと、壁がスライドして秘密の地下通路が現れる。学園の地下から城の外の森まで一気に脱出できる裏ルートだ。さあ、行くぞ!」
父が意気揚々とそのレンガを力任せに押し込んだ。
ゴゴゴ……と鈍い音がして、レンガが奥に沈む。
――そして、何も起きなかった。
「……ん? おかしいな。接触不良か?」
茂がバンバンと壁を叩く。しかし、壁はビクともしない。
わたくしは、その壁の隙間から覗く真新しい灰色の物質を見て、ハッと息を呑んだ。
「あ、お父さん……それ、無理かも」
「あ?」
「その隠し通路、三年前に城と学園の排水管をまとめて改修したときに、防犯のために耐火セメントで完全に埋め立てられたわ」
「……はい?」
「ほら、うちの領地から良質なセメントを取り寄せて、私が工事の監督書類にサインした記憶があるもの。『抜け穴があると泥棒が入るから塞いでおきますね』って、現場の親方と話して……」
「塞がれて困ってるのは俺たちなんだよ! いや、防犯としては正しいんだけど!」
茂が頭を抱えて石壁に突っ伏した。
「バカな! 俺の完璧な攻略チャートが! ゲーム開始前の十七年間に、悪役令嬢が自主的にリフォーム工事していただと……!?」
「だって、泥棒が入ったら危ないじゃない!」
頭を抱える父。
だが、わたくしは首を振った。
「お父さん、そもそも国外逃亡なんてしたら、それこそ罪を認めたことになって一生指名手配犯よ。ベルリッツ公爵家にも泥を塗ってしまう。逃げるんじゃなくて、朝八時の審問で無実を証明しなきゃダメなの」
「無実の証明……? だが、証拠は全部カイルの手の中だぞ。証拠品とされた『毒薬の小瓶』は、王子の側近が保管してるはずだ」
「保管場所はどこ?」
「王子の執務室の金庫だ。だが、あそこは厳重な鍵がかかってて――」
カチャリ。
その時、静まり返った通路の奥から、複数の足音が近づいてくるのが聞こえた。
松明の明かりが揺れ、鉄格子の前に二人の人影が立つ。
「ひっ……! もう衛兵が見回りに……!?」
わたくしが身構えた瞬間、太い、聞き覚えのある女性の声が響いた。
「おやまあ、本当にこんなところに押し込められて! ひどいやり方をするもんじゃないか!」
◇
第三章 夜勤の人たちとビールの奇跡
「マ、マルタさん!? それにベレッタさんも!」
鉄格子の向こうに立っていたのは、甲冑の衛兵ではなかった。
白い割烹着のようなエプロンをつけた王宮料理長マルタと、腰に巨大な鍵束をぶら下げた、洗濯係主任のベレッタだった。
カチャカチャ、と小気味よい金属音が響き、頑丈な扉が、あっさりと開かれた。
「どうしてここに? それに、牢の鍵まで……」
「牢の寝具を取り替えるときの合鍵さ。洗濯係の特権だよ!」
ベレッタがニッと笑う。
呆然とするわたくしの横で、茂がスウェットのズボンをぽんぽんと叩きながら立ち上がった。
「いやあ、夜勤の人に開けてもらったよ」
「家に鍵を忘れたお父さんみたいに言わないで! ここ、閉じ込めておくための部屋だからね!?」
わたくしのツッコミに、マルタがカッカッカと豪快に笑った。
「頼りになるお連れさんじゃないかい、エルゼ様! さっき厨房前の廊下で、配膳台車の車輪が溝にはまって、衛兵ごと足止めされてただろう? この旦那さん、あたしを見つけるなり『料理長さんですよね。昨夜、マリア様に出したお茶のことで!』って呼び止めたんだよ」
「連行中に厨房へ聞き取り調査を始めたの!?」
「ちょうど衛兵が、マルタさんにも『毒を盛った疑いで連れていく』って説明したからな。茶を出した側にも話を聞いてくれ、と頼んだんだ」茂が頭を掻く。
「マルタさんが『うちの厨房に毒の疑いをかけるなら、あたしにも一言ある』って言ったら、衛兵も一分だけ待ってくれた。俺は廊下から一歩も動いてないぞ。両脇、がっちり固められてたし」
事情を聞いたマルタは、朝の審問までに厨房の記録を確かめると約束してくれたという。
肩をつかまれたまま関係部署への根回しを済ませるとは。会社で何を鍛えてきたの、この人。
「それで、話が済んでからね」ベレッタが身を乗り出した。「台車を押してたあたしが、その銀色の缶は何だいって聞いたんだよ。そしたら『助かりました。お礼になるか分かりませんが』って、マルタの味見用の小杯にちょっとずつ注いでくれてさ。なんだい、あの冷たい苦味と泡は! 夜勤明けまで取っておきたかったよ!」
「エビルの威力は異世界でも健在だったな」と茂が誇らしげに胸を張る。
「それだけじゃないよ!」マルタが目を吊り上げた。「旦那さんから事情を聞いて腰を抜かしたよ。あの馬鹿王子、エルゼ様がマリアの紅茶に毒を入れたって言いがかりをつけてるんだろ!? 冗談じゃない! パーティー前夜にマリア様にお出ししたハーブティーを淹れたのは、うちの若い見習いだ! あの子が毒なんて入れるわけがないし、エルゼ様は厨房に近寄ってもいない!」
「マルタさん……」
「エルゼ様にはね、あたしたち使用人一同、どれだけ感謝してるか知れないんだよ。厨房の換気扇を取り替えてくれたのも、洗濯場の排水溝を掃除しやすいように改修してくれたのも、全部エルゼ様だ。あんな性悪女の嘘っぱちに、あんたを殺されてたまるもんかい!」
ベレッタが懐から、コロンと小さな硝子瓶を取り出し、わたくしの掌に握らせた。中には、薄青い粉末が入っている。
「これは……?」
「パーティーの最中に、王子の側近の騎士見習いが、うちのゴミ捨て場にコソコソ捨てに来たのを見張って拾い上げたんだよ。『証拠の小瓶を確実に処分しろ』って王子に言われて焦ってたのさ。あいつらの悪巧みなんて、全部、夜勤の人間には筒抜けなんだ!」
わたくしは目を見張った。
父の言っていたゲーム知識――『王子の執務室の金庫にある証拠』は、現場の人間関係によって、すでにゴミ捨て場から回収されていたのだ。
「さっき厨房の検毒用の試薬で、この粉を調べたよ。毒草に反応する色が出た。厨房に残してあった同じ茶葉と、あの晩の保存用のお茶も確かめたけど、そっちには反応が出なかった」
「厨房に、そんなものまであるんですか?」
「王侯貴族の口に入るものを扱うんだ。検毒の道具も、あとで調べるために料理や茶を少し残しておく決まりもあるよ。塩加減だけ見てりゃいい台所じゃないのさ」
マルタが胸を叩く。頼もしすぎる。
「お父さん……これがあれば、朝の審問で王子の狂言を証明できるわ!」
「ああ。だがエルゼ、これだけじゃ足りん」
茂は腕を組み、ビジネスマンの顔に戻っていた。
「相手は第一王子だ。小瓶一つ突きつけたところで、『それはエルゼが捨てさせたものだ』とシラを切られたら、言った言わないの水掛け論になる。あいつの逃げ道を完全に塞ぐには、もう一つの決定的なピースが必要だ」
「もう一つのピース……?」
「毒草の出どころだ。この学園で、そんな特殊な薬草を調達できる場所は一つしかない」
茂は鉄格子の窓から、中庭の方角を指差した。
「温室だ。……行くぞエルゼ。裏口を開けてもらって、庭師のところへ乗り込む!」
◇
第四章 真夜中の中庭と、噂の庭師
真夜中の王立学園。
マルタとベレッタの手引きで裏口を抜けたわたくしたちは、見回りの憲兵の目を盗みながら、中庭の巨大なガラス温室へと滑り込んだ。
温室の暖かさにほっとして、わたくしは肩にかけていた上着を父に返した。
温室の中は、むせ返るような土と花の香りに満ちていた。
月光がガラス屋根を透過し、整然と並んだ苗床を照らしている。花や薬草を育て、必要とする人へ届ける。そんな仕事に、前から少し憧れていた。王子の婚約者でいるかぎり、自分には縁のない話だと思っていたけれど――。
「おい、誰だ!」
影の中から、鋭い声とともに人影が飛び出してきた。
革のエプロンをつけ、手には頑丈なスコップを構えた青年。
土で汚れた作業着、引き締まった体躯、そして警戒に満ちた深い鳶色の瞳――。
平民の庭師、リックだった。
「エルゼ様……!? それに、そちらの妙な装束の男は……!」
「うおおおおっ! リック君! 本物のリック君だ!」
茂が突如、感動のあまり両手を広げて駆け寄ろうとした。
「待て怪しい奴! それ以上近づくとスコップで叩くぞ!」
「お父さんストップ! 初対面の男の子にそんな勢いで突撃しないで!」
わたくしが慌てて茂の襟首を引っ張ると、リックはスコップを下ろし、酷く困惑した顔でわたくしを見つめた。
「エルゼ様、一体どうされたのですか。パーティー会場で殿下に捕らえられたと聞いて、俺……心配で……」
「リック、単刀直入に聞くわ」
父からあらかじめ聞いていた特徴を思い出しながら、わたくしは尋ねた。
「あなた、ここ数日の間に、カイル殿下の側近から『青い斑点のある薬草』を分けてくれって頼まれなかった?」
リックの表情が強張った。
「スリーピング・ウィードのことですか。確かに、殿下の側近が持っていきました」
「やっぱり……。いつ、誰が持っていったのか、詳しく教えて」
「パーティーの二日前、午後三時です。殿下の側近である騎士見習いがやってきて、『観賞用の珍しい花が欲しい』と、温室の奥にある薬草を強引に数株持っていきました。不審に思って、学園の温室薬草管理台帳に日時と相手のサインを残し、魔導印で封印してあります」
「でかしたぁぁぁっ!」
茂がパチンと指を鳴らした。
「さすがリック君! コンプライアンス意識が完璧だ! 帳簿をきっちりつける男に悪い奴はいない!」
「あ、あの、この方は一体どなたなんですか……?」
「私の……その、遠い親戚の、ちょっと頭のファンタジーなおじさんよ」
「おい、魔法で呼び出した実の父親を、ファンタジー扱いするな」
それはそうだった。異世界に転生した娘が、召喚石で来た父の現実感を疑っている。足元の魔法陣に聞かれたら、説教されそうだ。
「とにかく、身内です。ちょっと説明が長くなる種類の!」
わたくしは咳払いで誤魔化し、リックに向き直った。
「リック、その薬草管理台帳を朝の審問で提出してほしいの。あなたの証言があれば、毒草を手に入れたのが王子側だという証拠になる。……でも、平民のあなたが王子に逆らえば、職を失うかもしれない。危険な目に遭わせるわけには――」
「出します」
リックは迷いなく言った。
その真っ直ぐな瞳に、わたくしは息を呑んだ。
「エルゼ様は、俺のような身分の低い庭師にも、いつも丁寧に挨拶してくださいました。花の手入れをしている時、通りがかる貴族たちは泥を汚いもののように避けていきましたが、エルゼ様だけは『綺麗に咲かせてくれてありがとう』と笑ってくれた」
リックは耳を少し赤くしながら、作業着のポケットから包みを取り出した。
「これ……夜食に焼いた芋です。もしお腹が空いていたら、どうぞ。温かいものを食べて、明日に備えてください」
「あ……」
油紙に包まれた、まだほんのり温かい焼き芋。
そういえば数ヶ月前、ドレスを木の枝に引っ掛けて破いてしまい、落ち込んでいたことがあった。リックはあのときも、何も言わずに焼き芋を半分分けてくれたのだった。
今、手の中にある芋を半分に割ると、黄金色の断面から湯気が立ちのぼった。一口かじる。素朴な甘さが、冷えた体に染み渡っていく。
その横で、茂が腕を組み、うんうん、と深く深く頷いていた。
「いいぞ……すごくいいぞ……。顔良し、体格良し、誠実さ良し、そして芋を分ける甲斐性がある。完璧だ」
「お父さん、さっきから何なの!? なんでそんな上から目線でリックを査定してるのよ!」
「うるさい、父親には父親の重大な任務があるんだ! よしリック君、朝の審問は頼んだぞ。このおじさんが保証する、お前は絶対に出世する!」
「は、はあ……ありがとうございます……?」
それから、温室の片隅で台帳の記載と皆の証言を突き合わせ、誰が何を見たのかを念入りに整理しているうちに、東の空が白み始めていた。
決戦の朝が、やってくる。
◇
第五章 大広間の逆転劇
朝八時。
王立学園の大講堂は、異様な緊張感に包まれていた。
壇上の中央には、厳格な面持ちの国王陛下。その脇を、眉間に深い皺を刻んだベルリッツ公爵――わたくしの今世の父や、各省の重臣たちが固めている。
そして壇の下には、自信満々の笑みを浮かべたカイル王子と、マリアが立っていた。
「父上、皆様! これより、我が婚約者エルゼ・フォン・ベルリッツの数々の悪逆非道を告発いたします!」
カイル王子が高らかに宣言した。
「彼女は、卒業パーティーの前夜、無実の男爵令嬢マリアを毒殺しようとし、さらに昨夜、捕らえられていた留置室から不法に脱走いたしました! もはや弁明の余地はありません。直ちにベルリッツ公爵家の爵位を剥奪し、エルゼを反逆罪で処刑することを求めます!」
「牢を出たのは事実です」
大講堂の重厚な扉が左右に開かれ、朝日を背に受け、わたくしは大講堂へ足を踏み入れた。
身に纏うのは、ベレッタが公爵家の控え室から取り寄せてくれた、美しい深緑のドレスだ。
そして、その背後から従うのは。
灰色スウェットに健康サンダル姿の茂。
大鍋とお玉を手にした料理長マルタ。
巨大な洗濯用パドルを構えた洗濯主任ベレッタ。
そして、胸に分厚い帳簿を抱えた庭師リックだった。
「な、なんだ貴様らはぁぁぁっ!?」
カイル王子が悲鳴のような声を上げた。
「エルゼ! 抜け抜けと戻ってくるとは……!」
「逃げたのではありません。証拠を集め、陛下の前で申し開きをするために出頭いたしました」
わたくしはスカートの裾をつまみ、国王陛下に向かって完璧なカーテシーを披露した。
「陛下。マリア様への毒物混入という告発は、事実無根でございます。その証拠を提示いたします」
「なっ……証拠だと!? ハッ、ハッタリを言うな! 毒薬の小瓶は貴様の部屋から――」
「こちらの小瓶ですね?」
わたくしは、ベレッタから受け取った薄青い粉末の入った硝子瓶を掲げた。
「これは昨夜、殿下の側近である騎士見習いが、証拠隠滅のため厨房のゴミ捨て場に捨てたものです。洗濯主任のベレッタが回収いたしました。厨房での検査で、中身が有毒な粉末であることも確認されています」
「そ、そんなものはエルゼの捏造だ! 貴様が側近を脅して捨てさせたに決まっている!」
「では、こちらはどうでしょうか」
進み出たリックが、帳簿を開いて高く掲げた。
「王立学園・温室薬草管理台帳です。パーティーの二日前、午後三時、そちらにおられる殿下の側近が私の制止を振り切り、この毒草を持ち出しました。ここには彼の直筆の署名と、学園の魔導印がしっかりと刻印されております!」
「な……っ!? ば、馬鹿な!」
「さらに!」
マルタが大鍋を床にドシンと置いた。
「卒業パーティー前夜にマリア様へお出ししたハーブティーの茶葉は、厨房で厳重に保管されており、毒物反応は一切出ませんでした! 厨房の出納記録も確認済みです!」
「ぐっ……そ、その者が勝手にやったことだ! 余は知らぬ!」
カイル王子が青ざめ、後ろの側近へ責任を擦り付けるように叫んだ。
その瞬間。
スウェット姿の茂が、すっと前に出て、側近の少年の目をじっと見据えた。
二十年以上、下請けに責任を押し付けようとする理不尽な上役を見てきた、中間管理職の冷徹な声が響く。
「だそうだ。毒草を持ち出し、瓶を用意し、昨夜ゴミ捨て場に処分したのも、全部君一人の判断でいいんだな? 人一人を処刑させようとした責任まで、全部一人で被るつもりか?」
側近の少年はガタガタと震えだし、耐えきれずにその場に泣き崩れた。
「ち、違います! 殿下に命令されたんです! 『エルゼを追い落とすために毒草を手に入れろ、エルゼの部屋で見つかったことにしろ』と……! 昨夜瓶を捨てたのも、『余の証言があれば十分だ。薬草の出どころを調べられる前に処分しろ』と命じられたからで……全部、殿下の指示です!」
「き、貴様ぁぁぁっ!?」
カイル王子の絶叫に重なるように、マリアも青ざめてへたり込んだ。
「わ、私だって、殿下に言われて……! 毒なんて入っていないのに、エルゼ様に殺されかけたと騒げば、王妃にしてくれるって……!」
すべての狂言が、白日の下に晒された。
玉座の国王陛下が、雷のような一喝を放った。
「カイル……! 己の浮気心を正当化するために、公爵令嬢を冤罪に陥れ、あまつさえ部下に罪を擦り付けようとしたというのか! 見苦しいぞ、愚息が!!」
国王の怒声に、カイル王子はその場に崩れ落ち、衛兵たちに取り押さえられた。
国王は立ち上がり、わたくしを見下ろした。その表情には深い悔悟が滲んでいる。
「エルゼ嬢。此度のカイルの非礼と愚行、王家を代表して心より詫びる。無実を明らかにするためのそなたの行動、不問に付す。……婚約は直ちに破棄とし、名誉回復と望む限りの補償を約束しよう。そなたの望むものは何だ?」
わたくしは、壇上にいるベルリッツ公爵を見た。
今世の父は、しばらく黙ってわたくしを見つめていたが、やがて静かに、誇らしげに頷いた。
『家のために生きよとは、もう言わぬ。お前の望む道を選びなさい』――その瞳が、そう語っていた。
わたくしは深く一礼し、凛として告げた。
「陛下。わたくしは、いかなる貴族との新たな婚姻も望みません。ベルリッツ公爵家の名を辱めぬよう、王都の郊外に小さな土地を賜りたく存じます。貴族としての婚姻に縛られず、自分の事業を始めたいのです」
会場が静まり返る。
公爵令嬢が、新たな縁談ではなく、自分の仕事を選ぶ。
だが国王は、力強く頷いた。
「よかろう! そなたの誇り高き決断に敬意を表し、王領地の西、日当たりの良い丘陵地帯を一筆与えよう!」
◇
第六章 「庭師はいいぞ」の真実
嵐のような騒動が一段落し、昼下がりの柔らかな陽光が中庭を照らしていた。
噴水のほとりのベンチに、わたくしと茂は並んで腰を下ろしていた。
ふと見ると、茂の足元が、淡い光を帯びて少しずつ透け始めていた。
召喚石の魔力が、役目を終えて切れかけているのだ。
「……そろそろ、お別れね」
「ああ。どうやら現代へ戻る時間らしい」
茂は自分の透けかけた手を握ったり開いたりしながら、穏やかに笑った。
「さっき宮廷の魔導師に調べてもらった。一度つながった相手とは、石に魔力がたまれば、また話せるそうだ。声と姿だけなら月に一度、こっちに来るには、もう少しためる必要があるらしい。だから、今生の別れじゃないぞ」
「うん……! よかった……」
風が吹き抜け、木々の葉を揺らす。
わたくしは膝の上で両手を組み、ずっと胸に引っかかっていた疑問を口にした。
「……ねえ、お父さん。いい加減、教えてよ」
「ん? 何をだ?」
「どうして、あんなに頑なに『庭師はいいぞ』って言い張ってたの? 夕飯のたびに、洗脳みたいに熱弁してたじゃない」
茂の動きがピキリと止まった。
五十を過ぎた中間管理職が、まるで悪戯を見つかった小学生のように視線を泳がせる。
「言えるわけないだろ……! 年頃の娘に向かって、素面でそんなこと!」
「何よ、もうお別れなんだから白状しなさい!」
わたくしが詰め寄ると、茂は観念したように長いため息をつき、遠い目をして中庭の木々を見つめた。
「……あのゲームの男どもはな、みんなキラキラしてて、口を開けば『世界を救おう』だの『お前は俺の光だ』だの、壮大なことばかり言うんだ。王子と結ばれれば王妃としての重責に縛られ、宰相の息子と結ばれれば親族の政治闘争に巻き込まれる。……でもな、リックのルートだけは違ったんだよ」
茂の声が、ふっと柔らかくなった。
「リックのエンディングはな……主人公が貴族を辞めて、二人で郊外に小さな苗木屋を開くんだ。毎日朝早く起きて、泥だらけになって花の世話をして。夕方にはクタクタになって、安いうどんみたいな素朴なスープを二人で啜って、『今日も美味しかったね』って笑い合って……ただ、それだけなんだ」
噴水の水音が、静かに響く。
「前から好きなエンディングだったんだ。でも、お前が入院してからは、何度も見返した。病院の帰りに一人で牛丼を食いながら、またお前と晩飯を食いたいって、そればっかり考えててな」
父は、そこで一度言葉を切った。
「王子様と結ばれなくたっていい。元気になって、誰かと飯を食って、『美味しいね』って笑ってくれたら、それでよかった。だから、あの二人が笑って飯を食ってるのを見るたび、お前にもこんな毎日を送ってほしいって、泣いちまってさ。……悪かったな、親バカで」
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
視界が滲んで、父の顔がぼやける。
どこまでも不器用で、心配性で、愛おしい父親だ。
「……バカね、お父さん」
わたくしはドレスの袖で涙を拭い、精一杯の笑顔を作った。
「最高の理由じゃない。ちっともキモくないわよ」
「そうか? いやあ、死ぬほど恥ずかしいな……」
茂が照れ隠しに鼻をすする。その身体は、もう半分以上透けていた。
そこへ、中庭の小道から足音が近づいてきた。
剪定鋏を持ったリックが、控えめにこちらへ歩いてくる。
「あの……エルゼ様。お邪魔でしたでしょうか」
「ううん、ちょうどいいところに来てくれたわ」
わたくしは立ち上がり、ベンチを離れてリックの前に歩み出た。
そして、振り返って父を見た。
「お父さん。私、お父さんの言いたいこと、よく分かったわ」
「お、おう。じゃあリック君と……」
「でも、この先は攻略本じゃなくて、私が決めるからね」
悪戯っぽく微笑むわたくしに、茂は目を丸くし、それから参ったように破顔した。
わたくしはリックに向き直る。
「リック。私、王都を出て、郊外の領地で花と薬草の農園を開くことにしたの。珍しい薬草や、見たこともない品種の花を育てて、世界中に届ける事業を始めるわ」
「農園……ですか?」
「ええ。そこで、私の最初の共同経営者になってほしいの」
わたくしは右手を差し出した。
「私と一緒に、新しい生活を作ってくれないかしら。リック?」
リックは驚きに目を見張り、それから、今まで見たこともないほど眩しい笑顔を浮かべた。
土のついた逞しい手で、わたくしの手をしっかりと握り返す。
「……喜んで。一緒に、いい農園にしましょう」
「うおおおおおっ! かっこいいぞ遙! いやエルゼ!」
いよいよ全身が光の粒子になりかけた茂が、涙を流しながら両手でサムズアップを作った。
「確定申告と経理で困ったら、いつでも魔力をためて呼べよーーーーっ! 電卓持って飛んでくるからなーーーーっ!!」
「もう、最後まで生活感がすごすぎるのよ、お父さんは!」
パァン、と光が弾け、父の姿は完全に掻き消えた。
あとに残されたのは、芝生の上に転がった、エビルビールの空き缶が一本だけ。
わたくしとリックは顔を見合わせ、同時に吹き出した。
◇
エピローグ 新しい朝、私の選んだ道
それから、三年後。
王都から馬車で半日ほど走った、見晴らしの良いなだらかな丘陵地帯。
見渡す限りの色とりどりの花畑が風に揺れ、甘く爽やかな香りが空気を満たしている。
ここは今や王国中から注文が殺到する、『ベルリッツ・グリーン農園』だ。父である公爵も、今では我が農園の上得意として珍しい薔薇を大量に買い付けてくれている。
「エルゼ様、東の温室の朝摘みローズ、出荷準備が整いました!」
「ありがとう、マルタさん! あ、休憩用のスープ、今日もすごく美味しいです!」
「カッカッカ! 腕によりをかけたからね!」
宮廷の料理長を定年退職したマルタは、今ではうちの農園の寮母兼料理長として、元気いっぱいに腕を振るってくれている。
洗濯主任だったベレッタも、繊維用のハーブ栽培のアドバイザーとして定期的に顔を出してくれていた。
わたくしは麦わら帽子を目深に被り、泥のついた長靴を鳴らしながら、中庭のテラスへ向かった。
テラスのテーブルの上には、淡く青い光を放つ『召喚石』が置かれている。
石の上に、ぼんやりと浮かび上がっているのは――。
『もしもし、エルゼ? 聞こえるか? 今、会社の給湯室から繋いでるんだが』
「聞こえてるわよ、お父さん。相変わらず画質が荒いわね」
宙に浮かぶ半透明のウィンドウの向こうで、スーツ姿の茂が老眼鏡を直しながら書類をめくっていた。月に一度の定例連絡だ。
『先月分の決算書、目を通したぞ。肥料の仕入れ値、ずいぶん抑えたな。さすがだ、資材調達の才能があるぞ』
「誰の娘だと思ってるのよ。お父さんのアドバイス通り、まとめ買いでコスト抑えたのが効いたわ」
『よしよし。……で、リック君とはどうなんだ? そろそろ共同経営者から進展したのか?』
「お父さんには関係ないでしょ!」
わたくしが頬を赤くして言い返すと、後ろから足音が近づいてきた。
「エルゼ、お茶が入ったよ。……あ、お義父さん、こんにちは」
「ちょっとリック、その呼び方はまだ早いでしょ!」
すっかり逞しく、農園の頼もしい相棒となったリックが、摘みたてのミントティーのポットを置きながら屈託なく笑う。
ウィンドウの向こうで茂が身を乗り出した。
『おお、リック君! いいぞもっと呼べ! うちの娘が我儘言って困らせてないか?』
「とんでもないです。世界で一番尊敬できるパートナーですよ」
リックが温かなカップをわたくしの手元に差し出してくれる。
ハーブの爽やかな香りと湯気が、心地よく鼻先をかすめた。
「もう! 来月の召喚のために魔力をためたいんだから、今日は切るわよ!」
『おい待て、来月はそっちの収穫祭に合わせて有給取ったからな! 召喚石の魔力も満タンになる頃だ! 日本から美味いカレールーと日本酒を持っていくから、みんなで宴会しようぜ!』
「はいはい、楽しみにしてる! 仕事サボらないでちゃんと働きなさいよ!」
プチン、と光が消え、静かな風がテラスを吹き抜けていく。
わたくしはミントティーを一口啜り、広大な花畑を見渡した。
華やかな宮廷も、王妃の座も、わたくしには必要ない。
泥にまみれて働き、仲間たちと笑い合い、夕方には大切な人と一緒に温かいご飯を分け合って食べる。
お父さんが願ってくれた温かな幸せを胸に抱きながら、わたくしは、自分の足で選び取ったこの愛おしい生活を、今日も大切に紡いでいく。
(おわり)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
風呂上がりのお父さんと悪役令嬢の娘、二人のやり取りを楽しんでいただけましたら嬉しいです。
「庭師はいいぞ」に込めた父の気持ちも、どこか心に残るものになっていましたら幸いです。
好きな場面や、思わず笑ってしまった台詞などありましたら、感想で教えていただけると励みになります。
また次のお話でお会いできましたら嬉しいです。




