悪役令嬢の弟に転生しました。姉が処刑されるまであと十年あるので、まず「だっこ」と言ってみます
第1章 三歳児の家族会議
姉が悪役令嬢になる理由を、俺は知っている。
父に認められたかったから。
婚約者の王子に愛されたかったから。
誰にも本当の自分を選んでもらえず、それでも「寂しい」と言えなかったからだ。
前世では、妹に付き合って乙女ゲーム『光と誓いのロンド』のシナリオを追っていた。
「この子、誰か一人でも味方がいたら違ったと思うんだよね」
処刑される悪役令嬢を見て、妹がそう言ったことを覚えている。
その記憶が戻ったのは、今日、三歳の誕生日を祝われていた時だった。
姉が俺の胸元に、小さな青いリボンを結んでくれた。輪の片方が少し大きくて、姉は何度も結び直した。
「動かないでくださいね。すぐ、きれいにしますから」
その声と顔を見た瞬間、画面の中にいた少女の名前が浮かんだ。
ロザリア。
続いて、前世の妹の声も、ゲームの結末も、一度に思い出した。
自分の手を見下ろす。短い指。リボンの端さえ、うまくつまめない。
知らない部屋に急に放り込まれたわけではない。ここで過ごしてきた三年の記憶も、ちゃんとある。その上に、もう一つの人生が重なっていた。
俺は、この世界へ生まれ直したのだ。
そう思った途端、生まれる前のことまで、芋づる式に戻ってきた。
白い空間で、知らない相手と向き合った記憶だ。
「はじめまして。転生神のツクヨです。あなたの転生を担当します」
担当。神様の自己紹介に、急に会社の窓口みたいな言葉が混ざった。
「……死んだら神様に会って、異世界に転生するって、ラノベのお約束じゃん」
「そうですね。実際にご案内する側は、なかなか忙しいのですが」
本当にあるのか。しかも、向こうにとっては日常業務らしい。
「転生先は、こちらになります」
示された名前は、エーミール・フォン・ハークスブルク。
「……悪役令嬢の弟?」
「ご存じでしたか。では、説明が早いですね」
早くない。姉の処刑まで知っているので、むしろ質問が増えた。
「姉を助けたいんだけど。何か、強い能力とかは?」
「今回はチートなしの凡人枠です」
「そこの説明だけ、やけに滑らかだな」
「理由を聞いても?」
「予算不足です」
「神様の世界にもあるのか、それ」
「あります。剣も魔法も、ご希望を全部通すと大変なことになりますので」
「大変になるの、こっちの人生なんだけど」
異世界まで来て、予算の壁にぶつかるとは思わなかった。
ツクヨは、にこりとした。窓口で『規則ですので』と言われる時の笑顔だった。
「ただ、破滅する未来まで時間はあります」
「それは助かる。まず、家族とちゃんと話をして――」
「では、よい人生を!」
「待って。今、相談の途中――」
そこで記憶は途切れていた。
なるほど。時間はある。家族のそばにも行ける。
ただし、自分の靴下も直せないところからの開始だ。
せめて、会話ができるまでの待ち時間は説明してほしかった。
鏡に映った自分の顔と、目の前で優雅にお辞儀をしてみせた少女の顔――ロザリア・フォン・ハークスブルク。輝くような波打つ金髪に、勝ち気で、けれどどこか怯えたような青灰色の瞳。
俺の姉だ。
姉は現在、七歳。
ゲームのシナリオ通りなら、十年後、十七歳になった姉は、第二王子の心を奪った平民出身のヒロインを階段から突き落とそうとした罪で断罪され、処刑台へと送られる。
なお、元のゲームでは、プロローグで「幼い弟がいる」と一行触れられるだけで、本編には登場しなかった。
数年前に母を病で亡くしたこのハークスブルク家で、姉はずっと一人、重圧と戦ってきたのだ。
画面の中では、彼女は怖い悪役だった。
けれど俺にとっては、転んだ時に真っ先に駆け寄ってくる姉だ。俺の靴下がずれていれば、膝をついて直してくれる。自分もまだ小さいくせに、「痛くありませんか」と、俺の顔を覗き込む人だ。
今日のリボンだって、結び直すたびに「苦しくない?」と聞いてくれた。
その手が、十年後には誰にも取ってもらえなくなる。
知ってしまった以上、知らないふりなんてできなかった。
妹が言っていた「誰か一人」に、今なら俺がなれる。
だが、今の俺はここにいる。
あと十年。今なら、絶対に間に合う。
(まずは、父上だ。家庭環境を改善しなきゃ始まらない)
父の前に立つ姉を、俺は何度も見ている。
歴史の小テストで、一問だけ間違えた日。父は正解したところには触れず、「王族に嫁ぐ者が、この程度でつまずくのか」と言った。
姉は「申し訳ございません」と頭を下げ、庭へ行く約束を取りやめて、部屋へ戻った。
別の日には、父に見せようと描いた庭の絵を持って、執務室の前で待っていた。中へ呼ばれた時には、絵を背中に隠して、勉強の進み具合だけを答えていた。
七歳の姉が、褒めてほしい気持ちをしまい込んでしまう家だ。
まずは父に、姉の頑張りを見てほしい。間違いを数える前に、よくやったと伝えてほしい。
俺はおぼつかない足取りで、東翼の執務室へと向かった。
三歳児の歩幅は驚くほど狭く、必死に足を動かしても景色が流れない。
しかも高級絨毯の毛足が、つま先を捕まえる。前のめりになった俺を、近くの侍女が慌てて支えてくれた。
家庭環境を改善する前に、歩行環境を改善してほしい。
ようやく重厚な扉にたどり着き、護衛騎士に開けてもらって中へと足を踏み入れた。
部屋の奥、マホガニーの机に向かって書類をめくっていたのは、この国の軍務と外交を束ねる辣腕の貴族、オズヴァルト・フォン・ハークスブルク侯爵。俺と姉の実父だ。
氷のように冷ややかな青い瞳が、小さな侵入者を見下ろす。
「……エーミールか。何の用だ。私は執務中だぞ」
さすがは次期宰相と目される男、威圧感が凄まじい。
いや、交渉相手は三歳児だぞ。その迫力は外交の席に取っておいてくれ。
だが、前世の思考を総動員し、俺は毅然と父を見上げた。
見上げすぎて首が痛い。交渉の席に、高さの格差まで持ち込まないでくれ。
父上、貴方の教育方針は間違っています。ロザリア姉上はまだ七歳です。成果ばかりを求めず、娘の存在そのものを認めてやってください――!
「ちちうえ」
「何だ」
「ねえさまを、ほめて」
「……何?」
口から出たのは、たったそれだけだった。
舌が驚くほど回らない。
まあ、三歳児が教育方針についてすらすら論じ始めても、別の意味で心配されるか。
よし。まずはこの一言で勝負だ。
父は顎に手を当て、黙り込んだ。軍の配置図を見る時と同じ顔である。
三歳児のお願いだ。裏の政治的意図はない。
ようやく立ち上がった父は、俺の脇へ手を差し入れた。持ち上げてから、片手を背中へ、もう片方を尻の下へと何度も置き直す。
「……ここで、いいのか」
近くの侍女が頷くまで、父は妙に慎重だった。どうやら俺は、外交文書より扱いが難しいらしい。
「ロザリアを褒めろ、だと? あの子の礼儀作法にも学問にも、まだ課題は多い。褒めるのは結果を出してからだ。……それよりエーミール、お前はなぜ部屋を出てきた」
「ちが……そうじゃ、なくて……」
反論しようと口を開けた。
だが、今日は誕生日の祝いで、いつもの昼寝の時間を逃していた。
おまけに、父の胸板は鍛え抜かれた岩みたいに硬いのに、日だまりみたいに温かかった。
こつんと額を預けると、父が慌てて俺の頭を支える。その大きな手と、歩くたびの規則正しい揺れに、まぶたが勝手に下がっていく。
いかん。これは説得の席ではなく、寝かしつけの会場だ。
「ねえ、さま……もっと……」
「エーミール?」
抗えない眠気の波に呑まれ、俺の意識はぷつりと途切れた。
第2章 まず、だっこ
子供部屋で目を覚ました俺は、すぐに作戦を変更した。
大人の説得は後回しだ。外堀を埋める前に、直接、姉のところへ行く。
「へるま、ねえさまの、とこいく」
「まあ、ロザリアお嬢様のところへ? 少しだけなら、気分転換によろしいかもしれませんね」
乳母のヘルマに手を引かれ、西翼にある姉の部屋へと向かった。
扉を開けると、そこには机に向かい、背筋をぴんと伸ばして座る七歳の姉がいた。
机の上には分厚い歴史書と、インク瓶。
姉は俺の姿を見ると、青灰色の目を丸くした。
「エーミール? どうしたの、わたくしの部屋などに」
七歳とは思えないほど大人びた、澄ました声。
だが、机の下で揃えられた足が、疲労で微かに震えているのを俺は見逃さなかった。
父に叱られたくなくて、必死に「完璧な令嬢」を演じているのだ。
俺はヘルマの手を離し、とてとてと姉の足元まで歩いていくと、両手を高く掲げた。
「ねえさま、だっこ」
姉は息を呑んだ。
どうしていいか分からないように視線を彷徨わせ、慌てて厳格な声を作ろうとする。
「だっ……!? わ、わたくしは今、王宮の歴史を学んでいる最中なのです。貴族の男子たるもの、自立歩行を尊ぶべきです!」
自立歩行。
絨毯に敗北してきた俺には、なかなか厳しいご意見である。
「……ですから、みだりに甘えてはいけません」
口ではそう言っている。
しかし、掲げた俺の手を払いのけたりはしなかった。
俺は下げずに、もう一度言った。
「だっこ」
「……もう。一度だけですからね」
姉は困ったようにため息をつくと、椅子を引き、俺の身体を抱き上げた。
七歳の女の子の腕力では立ち続けられない。姉はすぐに椅子へ座り直し、自分の膝の上に俺を乗せた。
ぎゅう、と。
確かな力で、小さな腕が俺の背中に回された。
ラベンダーの香油の匂い。
頬に、姉の指がそっと触れた。つん。もう一度、つん。
「ねえさま、ぷにぷに、してる」
「し、していません! 弾力を確認しただけです!」
何のための確認なのかは、教えてもらえなかった。
姉は澄ました顔に戻ろうとしたが、口元がゆるんでいる。こんな顔をする人だったのか。
嬉しくなって肩に頬を寄せると、姉は「……もう」と小さく言って、俺の背中を抱き直した。
姉が、張り詰めていた息を小さく吐き出すのが伝わってきた。降ろそうとは絶対にしない。
「甘えん坊ですね、エーミールは。わたくしがこうして構ってしまうと、あなたが立派な跡取りになれませんのに」
小言を言いながらも、俺の背中を撫でる手は信じられないほど優しかった。
この人は、冷酷でも傲慢でもない。
ただ、誰かに触れてほしかったのだ。けれど侯爵令嬢としての矜持が、それを自分から求めることを許さなかった。
弟に甘えられているという形を取ることでしか、誰かを抱きしめることすらできなかったのだ。
「ねえさま、あったかい」
「……当たり前です。生きているのですから」
澄ました返事の裏で、耳の先が真っ赤に染まっていた。
第3章 半分のプリン
その日を境に、俺は毎日、姉の部屋へ通うようになった。
絵本を読んでとせがみ、庭の花を見に行こうと手を引く。三歳児の特権をフル活用して姉に甘え倒した。
姉も、俺が扉を開けるだけでぱっと表情を明るくするようになっていった。
そしてある日、午後のおやつの時間のことだ。
子供部屋の食卓には、料理長特製のカスタードプリンが運ばれてきた。
銀の皿の上でぷるぷると揺れる黄金の山と、焦がしカラメルの甘い香り。
姉の瞳が完全にプリンに釘付けになっていた。
だが、銀のスプーンを手にした瞬間、姉は控える侍女たちの視線に気づき、すっと背筋を伸ばしてスプーンを置いた。
「……わたくしは、王族に嫁ぐ者にふさわしい節制を身につけねばなりません。このように甘いお菓子は、少し味見をするだけで十分です。残りはエーミールに差し上げなさい」
嘘つけ、と俺は心の中で突っ込んだ。
視線がプリンから一ミリも離れていない。悪役令嬢ロザリアの唯一の好物は、カスタードプリンなのだ。
俺は自分の皿のプリンを見つめた。
そして、小さな手でスプーンを握ると、真ん中にスプーンを差し入れた。
ところがプリンは、ぷるんと揺れて匙の先から逃げた。
逃げるな。こちらには家族の未来が懸かっている。
もう一度。今度は皿を片手で押さえる。ようやく割れたが、片方が六割、もう片方が四割になった。
三歳の手による公平な分配には、誤差が生じます。
俺は大きい方の塊をスプーンですくい、よいしょ、と立ち上がって姉の皿へと移した。さらにその端を一口分すくって、姉の口元へと差し出す。
「ねえさま、はんぶんこ。おおきいほう、あげる」
「えっ……? で、でも、わたくしは……」
「ねえさま、プリン、すきでしょ? ぼく、知ってるよ」
ロザリアが息を呑んだ。
侍女たちが微笑みながらそっと視線を逸らしてくれる。
ここには、姉を責める人間など誰もいない。
「……こぼしますよ、エーミール」
姉は観念したように小さく口を開け、ぱくりとスプーンをくわえた。
次の瞬間、目を見開き、両手を頬に当ててふにゃりと眉を下げる。七歳の少女としての、純度百パーセントの笑顔だった。
嬉しくなって次の一口を差し出したら、匙が跳ね、鼻の頭にカラメルがちょんとついた。
「あっ」
姉は寄り目になって鼻先を見ようとして、それからぷっと吹き出した。
「エーミール、そこはお口ではありませんよ」
俺が布巾で拭こうとすると、姉がそっと手を添えてくれた。今度は姉が、俺の口の端についたカラメルを拭く。
忙しい。食べるにも、手伝い合いが必要らしい。
「……おいしい」
「おいしいね!」
「ええ。とても……あまくて、おいしいです」
姉は涙ぐみそうな笑顔で、今度は自分の皿からプリンを一口すくい、俺の口へと運んでくれた。
甘いプリンの味に、二人の笑い声が重なった。
第4章 雷の夜
夜の帳が下りた侯爵邸に、遠くから雷鳴が響いていた。
俺は小さな熊のぬいぐるみを抱え、子供部屋を抜け出して姉の寝室へと向かった。
巡回の侍従頭に手を引かれ、部屋の前でノックをする。
鍵が開き、パジャマ姿のロザリアが不安そうに顔を出した。
「エーミール? どうしたの」
「かみなり、こわい。ねえさまと、ねるの」
寝室のベッドに潜り込むと、柔らかな羽毛布団の温もりが広がった。
「本当にお子様ですね。雷など、ただの自然現象ですのに」
姉は俺を横から抱き寄せ、布団越しにお腹をとん、とんと優しく叩いてくれた。
小さな手のひらなのに、触れたところから温かくなる。熊のぬいぐるみを間に挟むと、姉はその頭まで撫でた。
だが、その直後、ズドォンと地響きのような雷鳴が轟いた。
「ひっ……!」
小さく悲鳴を上げ、俺をぎゅっと胸の中に抱きしめたのは姉の方だった。
震えていた。怖かったのは、姉自身なのだ。
「ねえさま、こわい?」
「……こ、怖くなどありません。わたくしはお姉様ですから。あなたを守っているのです」
暗がりの中の強がり。
俺は短い腕を精一杯伸ばし、姉の背中に回した。
「ぼくが、ねえさまを、まもるよ」
「……ふふ。小さな騎士様ですね」
姉は小さく笑った。だが、その声は微かに震えていた。
しばらくの後、姉がぽつりと弱音をこぼした。
「……わたくしね、エーミール。今日、家庭教師の先生に言われたの。『来月にはジークベルト殿下との初めての公式茶会があります。粗相があれば、ハークスブルク家の恥ですよ』って」
ジークベルト王子。
将来、彼女を断罪する元凶の第二王子だ。
「怖いのです。お父様はいつもお忙しくて、百点を取った答案をお見せしても『次は満点を維持しろ』としか仰らない。もし……殿下に気に入っていただけなかったら、お父様はわたくしを見捨ててしまうのではないかしら」
完璧でいなければ、愛されない。
その歪んだ強迫観念が、十年後の悪役令嬢を作り出すのだ。
「すてないよ」
俺は姉の胸元に顔を押し当てて言った。
「ちちうえがすてても、ぼくがすてない。ぜったい、すてない」
「エーミール……」
「ぼく、ねえさまがすき。おべんきょうできなくても、プリンこぼしても、だいすき」
暗闇の中で、温かい雫が俺の頬に落ちてきた。
姉は何も言わずに、ただ折れそうなほど強く俺を抱きしめた。
第5章 おかえり、ねえさま
数週間後。
王宮での、ジークベルト王子との初めての公式面会の日。
夕刻、車輪の音を響かせて馬車が玄関前に戻ってきた。
俺は玄関ホールの石畳をペタペタと走った。
降りてきたロザリアの姿を見て、胸が痛んだ。
青白い顔。乱れた前髪。ドレスの裾を強く握りしめ、今にも倒れそうに肩を震わせている。
泣くのを必死にこらえながら、足早に自室へ向かおうとする姉の前に、俺は回り込んだ。
「ねえさま!」
「……エーミール。ごめんなさい、わたくし、今は……」
俺は最後の二歩をぽてぽてと駆け寄った。止まるつもりが止まれず、ドレスの裾にぽふんと顔から着地する。
「まあ……!」
姉がとっさに俺の肩を支えてくれた。
その冷え切った手を、両手で包み込んだ。
「ねえさま、おかえり。きょうは、プリンあるよ! カラメル、だぶる!」
「……え?」
「りょうりちょうに、おねがいしたの。おおきいやつ! いっしょに、たべよ?」
張り詰めていた糸が切れたように、ロザリアの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
姉はその場にしゃがみ込むと、俺を膝へ引き寄せ、首筋に顔を埋めて泣きじゃくった。
「……だぶるって、誰に教わったの」
涙の合間に、小さな笑い声が混ざった。
「う……うわぁぁん……! エーミール……っ!」
「よしよし。ねえさま、がんばった。えらかったね」
俺は姉の背中を、拙い手つきでぽんぽんと叩いた。
王宮でどれほど冷たい言葉を浴びせられようと、ここには自分を全力で迎える家族がいる。その温もりが、姉の震える肩を少しずつ落ち着かせていった。
第6章 父上、ほめかたがへたくそ
その夜。
いつもなら自室で一人、書類仕事に追われているはずの父オズヴァルトが、子供たちの食堂に姿を現した。
「お、お父様……!?」
食卓に着いていたロザリアが立ち上がる。
父は向かいの空席の前に立ち、低く問いかけた。
「……ロザリア。王宮でのこと、付き添った侍女から聞いた。ジークベルト殿下がお前の持参した刺繍を『出来が悪い』と放り投げたそうだな」
ロザリアが青ざめ、テーブルクロスを痛いほど握りしめた。
「申し訳、ございません……! わたくしの鍛錬が足りず……次は寝る間を惜しんで練習いたしますので……!」
父は眉をひそめた。
「刺繍の目の細かさなど、七歳の手習いとしては充分だ。あのような無礼を許すつもりはない。だが、相手は第二王子だ。今後は相手の気性を踏まえ、角の立たない立ち回りを学ばねばならん。明日の指導では、より実践的な……」
俺は椅子から降りようとした。ヘルマがすぐに手を貸してくれたので、床に足が着くなり父の足元へ突進した。高級なスラックスの裾を両手でぎゅっと握りしめる。
「ちちうえ!」
「ん? エーミール、食事中に席を……」
「ちちうえ、へたくそ!」
「へ、下手……? 私の外交手腕のことか?」
「ほめかた!」
父が固まった。軍務も外交も束ねる男が、三歳児から出された課題を前に、答えを見つけられずにいる。
「ほめてって、いったでしょ! ねえさま、がんばったの! いっぱい、ちくちくして、ゆびから、ちーってでたの! なんで、つぎのおべんきょうの、はなしするの!?」
静寂が食堂を支配した。
父は何かを言いかけて――姉の指先に視線を留めた。
針で何度も突いた痕と、小さな絆創膏。
父はその指先を見つめ、開いた口を、悔恨を滲ませてゆっくりと閉じた。
子供に厳しく課題を与え続けることが、己に課された貴族としての責務であり、子供たちを育てる道だと信じ込んできた男の表情が、音を立てて崩れていく。
父は食卓を回って姉のそばへ来ると、静かに膝を折り、娘と視線の高さを合わせた。
「……すまない」
掠れた声だった。
「ロザリア。お前の努力を、私は見落としていた。痛かったな。よく頑張った。……だが、そこまで無理をさせたのは、私の過ちだ。できないことがあっても、お前は私の大切な娘だ」
ロザリアが息を呑み、ぽかんと父を見つめた。
「明日の講義は休みなさい。これまでの詰め込みすぎた日程と指導法は、私が見直す。……殿下に放り投げられた品は、執務室に飾らせてもらう。見事な百合の紋様だったぞ」
「お父様……っ、はい……!」
ロザリアが両手で顔を覆い、しゃくり上げた。
父はぎこちない手つきで、娘の細い肩にそっと手を置いた。不器用だが、確かな温もりだった。
第7章 姉が王子を見限った日
それからの日々で、屋敷の空気は変わっていった。
父は週に何度か定時に仕事を切り上げて食卓に顔を出すようになり、姉のロザリアは、実によく笑うようになった。
「今日は、どんなお菓子を食べた」
そんな父のぎこちない問いに、姉が嬉しそうに答える。父は次の課題を口にせず、ただ穏やかにその話を聞いていた。
だが、問題は外にあった。
初夏を迎えた頃、ジークベルト王子が非公式に侯爵邸を訪れたのだ。
薔薇の咲くガゼボの円卓。
八歳のジークベルトは椅子にふんぞり返り、運ばれてきた紅茶には一口も手をつけず、空になった水のグラスを指で苛立たしげに叩いた。
「おい、ロザリア。先刻から何をぼさっとしている。私のグラスが空だろう。気が利かないな」
「申し訳ございません、殿下」
ロザリアは立ち上がり、給仕を呼んだ。以前のように怯える様子はなく、礼儀正しく落ち着いている。
俺はガゼボの脇の芝生に敷いた敷物の上で、積み木をしていた。ヘルマが隣に座っている。
塔が一つ完成したので、姉を呼んだ。
「ねえさま、これ、ねえさまのおしろ!」
姉が近づくと、屋根にした青い積み木を両手で差し出した。
「まあ……わたくしのお城?」
姉の頬がふにゃりとゆるんだ。
「私の城より立派なはずがないだろう!」
王子が椅子から身を乗り出した。
比べる相手は積み木五個だぞ、殿下。
ジークベルトは咳払いをして、俺を睨んだ。
「まったく、目障りだな。なぜ私の茶会にそんな赤ん坊がいるのだ。弟ばかり構って、私のことはどうした! 私とこの愚図、どちらが大事なのだ!」
(――俺への悪口はどうでもいい。だが、姉にそんな理不尽な二択を突きつけるな)
俺が立ち上がろうとしたその時、空気が静まり返った。
ロザリアが、すっと息を吸い込んだのだ。
姉は俺の前にしゃがみ込み、両手でそっと俺の頬を挟んだ。
潰さないように、大切なものを包むように。
それから片手を俺の手に移し、もう片方で頬をひとなでした。
そして、ジークベルトを正面から見据えて、首をかしげた。
「この子は、わたくしに会うと喜んでくださいますもの」
「……は?」
「エーミールは、わたくしが笑うと、一緒に笑ってくれます。美味しいお菓子があれば、大きな方を分けてくださいます。わたくしが疲れていれば、背中を撫でてくださいます」
澄んだ声がガゼボに響く。
「殿下は、わたくしとお会いになって、一度でも喜んでくださいましたか? わたくしが差し上げた刺繍を放り投げ、不機嫌をぶつけるばかりではありませんでしたか」
「な……何を無礼な! お前ごときが私に選ばれたことを感謝すべき立場なのだぞ!」
「いいえ」
ロザリアは立ち上がった。
俺の手を引いたまま、毅然とした佇まいで王子を見つめた。
「わたくし、もう殿下のために自分を削るような我慢はいたしません。人を傷つけることしかできない方に、愛されるための努力を続けるほど、わたくしの人生は安くはございません」
ジークベルトは顔を真っ赤にして、わなわなと震えた。
「お、覚えていろ! 婚約など破棄してやるからな!!」
捨て台詞を残し、王子は嵐のように去っていった。
ロザリアはふっと息を吐き、俺を見下ろして小さく眉を下げた。その手は微かに震えていた。
「……言ってしまいました、エーミール」
「ねえさま、かっこよかった!」
「ふふ。でも、お父様に何とお話しすればいいかしら」
「だいじょうぶ。ちちうえのところ、いこ!」
第8章 父は娘を選んだ
その日の夕方。
執務室で待っていた父オズヴァルトの前に、ロザリアが進み出た。
「お父様。昼間の非礼、どのような処罰も受ける覚悟です」
父は静かに立ち上がり、娘の前に歩み寄った。
「……ロザリア。お前は、殿下との婚約を解消したいのか」
「それは……家の利益や、王家との盟約が……」
「家の利益の話はしていない」
父は静かに遮った。
「私は、お前の気持ちを聞いているのだ。ロザリア」
姉は視線を落とし、隣の俺を見た。俺は力強く頷いた。
ロザリアはしっかりと前を向いた。
「……嫌です。あの方の妻になるのは、嫌でございます」
沈黙の後、父の大きな手がロザリアの頭に置かれた。
「……そうか。よく言った」
父は静かに告げた。
「娘を都合のいい飾りとして扱うことなど、許してはならなかった。だが私は、家の利益を理由に、お前に我慢を強いていた。……私の過ちだ」
父の青い瞳には、迷いはなかった。
「王家との交渉も、それに伴う一切の責任も、すべて私が引き受ける。お前が泥をかぶる必要は微塵もない。……お前は私の大切な娘だ。この家では、もう無理をしなくていい」
「お父様……っ!」
ロザリアが父の胸へと飛び込み、父はしっかりと娘を抱きしめた。
姉の肩が、少しずつほどけていく。俺はその様子を見てから、二人のそばへ寄った。
「ぼくもー!」
父の脚と姉の腰に、短い腕を精一杯回す。届かない分は、お腹で押した。
父がふっと吹き出し、膝をついて俺も腕の中へ迎えてくれた。
「お前もだ、エーミール」
姉は涙を拭いながら笑った。三人でくっつくと、少し窮屈で、ずいぶん温かかった。
姉は、自分の気持ちを言えた。父は、それを守ると答えた。
ゲームのシナリオには決して存在しなかった、温かな光景だった。
第9章 食卓に、もう一人
王家との交渉は、父が引き受けた。
けれど、次期宰相と呼ばれる父にも、簡単な話ではなかった。
婚約は家同士の約束だ。王子の非礼を説明しても、返ってくるのは「双方ともまだ幼い」「成長を待つべきでは」という言葉だった。
父は刺繍を投げ捨てられた日の経緯や、茶会にいた大人たちの証言をまとめ、何度も王城へ足を運んだ。
ある晩、帰ってきた父の襟元には、結び直した跡があった。食卓で姉の話を聞きながら、こめかみを押さえる手を、そっと膝へ戻した。
ようやく国王が王子の振る舞いを認め、婚約は双方の合意によって、正式に解消された。ジークベルト王子には、領地での再教育が命じられた。
ただ、何も失わずに済んだわけではない。
婚約に合わせて進めていた王家との共同事業は白紙に戻り、こちらが先に出していた準備費用の一部は返らなかった。父の次期宰相への推薦も、いったん見送られたという。
「……申し訳ございません、お父様」
姉がうつむくと、父は首を横に振った。
「家の約束を結んだのも、解き方を決めたのも、私だ。これはお前に背負わせるものではない」
それから、姉の顔を見て付け加えた。
「お前が安心して帰ってこられる家を守る。それも、私の仕事だ」
父は新たな縁談を急がず、これからは姉自身の気持ちを確かめて決めると約束した。
処刑台へ続く道から、姉は降りた。
外から見れば、幼い娘のわがままを許し、家の利益を損ねた父親なのかもしれない。帳簿には失った金額が残り、人々の噂には、解消された婚約が残るだろう。
けれど、その先にあった、もっとひどい結末は来なかった。
誰も、来なかった未来のために祝杯を上げたりはしない。七歳の姉が十年後に何を失うはずだったか、知っているのは俺だけだ。
ひょっとしたら、世界のどこでも――いや、どこの世界でも、運命とはそういうものなのかもしれない。
救われた人生は、奇跡の印をつけて歩いてはいない。ただ、今日も家へ帰ってくる。
そうして、姉が八歳になって間もない、ある日の夕暮れ。
侯爵邸の食堂には、甘いバニラと焦がしカラメルの香りが満ちていた。
食卓には、小皿に盛られたプリンが二つ並んでいる。
「今日は、わたくしも自分の分をぜんぶいただきます。エーミールも、遠慮せずに召し上がれ」
八歳になったロザリアが、嬉しそうに銀のスプーンを構えた。年相応の、甘いものが大好きな少女の笑顔だ。
「ぼくの! ぜんぶ、ぼくの!」
俺がスプーンを構えたその時、半開きの食堂の扉に、人影が見えた。
仕事着の詰襟を着た父オズヴァルトだった。入ろうとして、なぜか一度引っ込む。
「旦那様。扉の陰からお顔だけ出していては、お声も届きませんよ」
ヘルマが小声で言った。
「……様子を見ていただけだ」
「はい。プリンが冷たいうちに、どうぞ」
父は扉の前に進み出て、居心地悪そうに指を組み、咳払いを一つ。
「……コホン」
「お父様? いかがされましたの? 夕食はもうお済みと伺いましたが」
父は視線を泳がせ、食卓の上の銀の皿を見つめて、蚊の鳴くような声で言った。
「……私の分のプリンは、あるだろうか」
一瞬の静寂の後、ロザリアがぱあっと顔を輝かせた。
「ございますわ、お父様! 料理長が、お父様の分も冷やしてあると仰っていました!」
「そ、そうか。……なら、少しだけ、席を共にしよう」
父は安堵したように席に着き、ヘルマが三人目の皿を運んできた。
かつては父の席が空いていた食卓に、三人分の甘い香りが満ちていく。
「おいしいですか、お父様?」
「……うむ。美味いな。少し甘すぎる気もするが……悪くない」
ぎこちなくスプーンを動かす父を見て、ロザリアは幸せそうに目を細めている。
俺はといえば、プリンを半分ほど食べたところで急激な満腹感と眠気に襲われていた。手からスプーンがぽろりと落ちそうになる。
「あらあら、エーミール。もう眠くなってしまいましたの?」
ロザリアが椅子から立ち上がり、俺の元へと歩み寄ってきた。
俺はスプーンを置き、重いまぶたをこすりながら両手を高く上げた。
破滅を回避するための作戦ではない。ただ純粋に、大好きな姉に甘えたくて。
「ねえさま、だっこ」
「はいはい。仕方のない甘えん坊さんですね」
姉は椅子に座り直すと、俺を膝の上へ迎え入れてくれた。
ぎゅっと抱きしめられる温もり。ラベンダーの香り。
背中を優しくぽんぽんと叩かれるリズムが、心地よい眠気を運んでくる。
「よく食べましたね、エーミール」
「……ん。ねえさま、だいすき」
「わたくしもですよ。世界で一番、大好きです」
頭上から降ってくる優しい声を聞きながら、俺は姉の胸に顔を埋めた。
姉の指が、俺の頬をそっと撫でた。最初のように弾力を確かめるのではなく、ゆっくりと。
父も椅子を近づけ、大きな手を俺の頭に載せた。髪を乱さないようにするせいか、少しぎこちない。
でも、その手からも温もりが伝わってきた。
抱きしめてくれる腕がある。守ってくれる大人がいる。
俺は満足して、小さく息を吐いた。
――いや、待てよ。
俺だって、この家の息子だ。姉の未来ばかり心配していたけれど、いずれ俺にも勉強や礼儀作法が待っている。家のために、頑張らないと。
よし。まずは父上に、明日からの教育方針について相談だ。
「ちちうえ……」
「どうした、エーミール」
「ぼくも……おべんきょ……」
よし。今度は言えた。
「……ぷりん……」
なぜ付け足した、俺。
父が眉を寄せた。軍の配置図を見る時と同じ顔だ。三歳児の寝言に、そこまで真剣にならなくていい。
「勉強をしたら、プリンが欲しいということか?」
違う。俺は家の将来を担う者として――。
「うん……」
頷くな、俺!
「まあ、エーミール。やる気があるのですね!」
姉まで嬉しそうだ。まずい。今、何かの契約が成立した。
「では明日、わたくしが文字を教えて差し上げます。終わったら、一緒にプリンをいただきましょうね」
「私も時間を取ろう。最初の一字は、父が教える」
待って。姉を詰め込み教育から救ったばかりなのに、俺の時間割が編成されている。
しかも両方、断りにくいくらい嬉しそうだ。
「ねえさま……だっこ……」
「はい、ここにいますよ。お勉強は明日ですから、もうおやすみなさい」
背中をぽんぽんと叩かれた。撤回の申し出が、寝かしつけに吸収された。
まあ、いいか。二人ともそばにいてくれるし、プリンも出る。
侯爵家の将来については、ひとまず最初の一字を書けてから考えよう。
俺は姉の腕の中で、幸せな夢の世界へと落ちていった。
(おしまい)
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました!
弟の「だっこ」とおやつから始まった小さな歩み寄りが、家族みんなの温かな食卓へと繋がる物語をお届けしました。
ロザリアとエーミール、そして不器用なお父様の明日を温かく見守っていただけましたら幸いです。
※本作の執筆においては、過去に頂戴した感想を参考にしております。ありがとうございました。




