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お姉様は、私が殿下に愛されているのが許せないだけなのです

作者: 紡 愛(つむぎ あい)
掲載日:2026/06/11

26.06.16、分かりにくい箇所があったため手を入れました

「お姉様は、私が殿下に愛されているのが許せないだけなのです」


妹のオーラは、泣きそうな顔でそう言った。泣きそう、というところが上手い。泣いてしまえば話がそこで止まるが、泣きそうなままなら周囲はいくらでも続きを想像してくれる。私はその続きを邪魔しなかった。ここで妹の嘘を一つずつ剥がせば、私はいつもの意地悪な姉に戻るだけだし、彼女はまた「怖かった」と言えば済む。掃除も勉強も謝罪もできない人間ほど、ああいう言葉だけは落とさず持っている。


「そうか。やはり君は妹を虐げていたのだな」


王太子アーヴィン殿下が勝ち誇ったように言う。彼はオーラの肩を抱き、私はそこでようやく少しだけ笑った。殿下は気づかなかったが、父は気づいた。父の顔から、家の損得を計算する時の薄い笑みが消える。遅い。けれど、何も気づかないよりはましだ。


「では、殿下」


私は扇を閉じ、オーラへ向けて半歩下がった。譲ったのだ。立ち位置を。姉として、未来の王太子妃として、これまで私が踏んでいた面倒な場所を。


「わたくしとの婚約を破棄し、オーラを新たな婚約者になさる。そういう理解でよろしいのですね」


「当然だ。真実の愛を得た以上、君のような冷たい女は不要だ」


不要。結構なことだと思った。不要なら、明日の朝一番に王妃教育の記録を引き継げる。五年分の講義録、三か国語の外交挨拶、隣国王弟の持病、南部伯爵家と北部侯爵家が同じ卓につけない理由、王妃陛下が嫌う花の名前。ついでに、殿下が三度聞いて三度忘れた戦没者慰霊祭の式次第も渡してしまおう。愛があれば覚えられるのだろう。知らないけれど。


「オーラ、よかったわね」


妹の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。祝福されるとは思っていなかった顔だ。責められる準備はしていても、渡される準備はしていなかったのだろう。


「お姉様……?」


「殿下に愛され、わたくしの代わりに王家へ入るのですもの。まず明日の午前は王妃陛下へのご挨拶、午後は財務卿との面談ね。今月中に各家への詫び状も必要だわ。婚約者を替えるということは、恋人を取り替えるのとは違うもの」


言いながら、私は父を見た。父はもうこちらを止められない。娘を一人捨てて、もう一人を差し出す形になった以上、ここでオーラを引かせれば、我が家は王太子を弄んだ家になる。


オーラの指が殿下の袖をつかんだ。さっきまでの可憐な仕草ではなく、沈む人間が板切れをつかむような必死さだった。


「わ、私は、ただ殿下のお側に……」


「ええ。側にいるだけでは済まない場所に、行きたかったのでしょう?」


私はにっこり笑った。少し性格が悪い顔だったと思う。でも仕方がない。妹が欲しがったのは私の婚約者ではない。私が苦労して立っていた場所だ。なら、飾りだけ持っていくのは許さない。椅子が欲しいなら、そこに座ったまま落ちてくる書類も、人の恨みも、失敗した時に向けられる全部の目も、まとめて抱えてもらわなければ不公平だ。


「まず、王妃陛下へのご挨拶では、殿下の隣に立つだけでは足りません。南部派の奥方が先に膝を折るか、北部派の侯爵夫人が先に扇を閉じるかで、次の寄付金の流れが変わります。笑っていれば済む場ではないの」


オーラの顔から、可哀想な妹の色が少しずつ抜けていく。けれど、まだ引き下がれない。ここで「そんなつもりでは」と言えば、殿下の愛が王太子妃の椅子までは届かないと認めることになる。


私は彼女の逃げ道を塞がない。塞いでいるのは、彼女自身がさっきまで欲しがっていたものだ。


「それから、殿下」


「なんだ」


「オーラはまだ王家の系譜を最後まで暗唱できません。隣国語も、礼法も、各家の婚姻関係も途中です。ですが、殿下が真実の愛でお選びになった方ですもの。まさか教育不足を我が家の責任にはなさいませんわよね」


殿下の眉が動いた。


責めてはいない。私はただ確認しているだけだ。怒鳴らなくても、相手の足元に穴があることを教えてくれる。親切に見えるところが、特にいい。


「当然だ。私が支える」


「まあ。頼もしいこと」


その瞬間、父が小さく咳払いをした。ようやく口を挟む気になったらしい。家のために私を黙らせてきた人が、今度は家のために妹を黙らせようとしている。家族愛とは、ずいぶん忙しいものだ。


「アイリス、話を大きくするな」


「大きくしたのは殿下ですわ、お父様。わたくしは縮めようとしておりますの。婚約破棄を、恋のもつれではなく、正式な引き継ぎに」


父の口が閉じた。正式、という言葉に弱い人だ。責任から逃げる時だけは家長の顔をするくせに、書面に残る話になると途端に腰が重くなる。


私はオーラに向き直った。


「明日から、わたくしの授業に同席なさいな。いいえ、同席では足りないわね。あなたが主役ですもの。先生方には、殿下の新しい婚約者として紹介しておくわ」


「お姉様、そんな急には……」


言った。


オーラ自身が、とうとう言った。


私はそこで初めて、ほんの少しだけ息を楽にした。急には無理。その一言を、私は何年も飲み込んできた。泣けば甘え、断れば冷たい、疲れたと言えば努力不足。だから黙って覚えた。黙って直した。黙って、妹が欲しがる形だけ綺麗に残してやった。


今夜は違う。


「急ではないでしょう。あなたは殿下の隣に立つ覚悟で、今日ここへ来たのですもの」


オーラの唇が震えた。


今度は演技ではない。塗った紅の端がほんの少しだけ乱れ、彼女はそれを隠すように殿下の胸へ寄ろうとした。けれど殿下の腕は、さっきほど早く彼女を抱かなかった。


「私は、ただ……殿下をお慕いしていただけで」


出た。


恋をしただけ。愛しただけ。好きになってしまっただけ。そう言えば、皿を割った子どもみたいに、誰かが片づけてくれると思っている。羨ましい。私も一度くらい、その言葉で寝坊や失敗や面倒な親戚を全部なかったことにしてみたかった。


「ええ。ですから、そのお気持ちを王家へお届けするのです」


「王家へ……?」


「殿下は王太子ですもの。あなたが愛した方は、詩集の中の騎士ではありません。税と軍と婚姻と派閥を背負った、国の跡取りです」


広間の奥で、誰かが小さく息を呑んだ。ようやく、恋物語の表紙がめくれて中の帳面が見えたのだろう。金額も署名欄もない愛なら、どれほど甘くても構わない。けれど王太子の愛は違う。甘いだけで済むなら、私の五年は何だったのか。眠気を噛み殺して覚えた隣国の祝祭日も、笑顔で聞いた派閥の悪口も、殿下が途中で飽きた講義の要点をまとめた夜も。


思い出すだけで腹が立つ。


特に、あの講義中に殿下が窓の外の鳥を数えていた日。あれは今でも許していない。鳥は十二羽だった。なぜ私が覚えているのか。腹が立ったからだ。


「ですが、ご安心なさい」


私はオーラの手を取った。逃げようとした指先を、優しく包む。優しく。そう見えるように。


「殿下が支えてくださるそうです。あなたが覚えられない家名も、間違える礼法も、笑って済ませられない失言も、すべて殿下が責任を持ってくださるのでしょう」


「アイリス、君は言い方が」


「言い方?」


私は殿下へ顔を向けた。


「では、内容は合っていますのね」


殿下は答えなかった。答えないことが、広間では答えになる。オーラの手が私の中で冷たくなる。気の毒に。けれど、離してはあげない。彼女は私の婚約者を欲しがったのではないと言い張るだろう。愛しただけだと泣くだろう。なら私は、その愛を一番立派な箱に入れて、王宮の真ん中へ置いてあげる。誰が見ても逃げられないように。


合図を待っていた侍女が、すぐに扉を開ける。入ってきたのは、王妃教育の教師たちと記録官、それから王宮法務官だった。年配の礼法教師は、私と目が合うなり深く頷いた。あの人は私が七度同じ姿勢を直されても泣かなかった日のことを覚えている。たぶん、今日も泣かないと思っている。正解だ。


広間がはっきりと揺れた。


ざわめき、という可愛いものではない。貴族たちが一斉に席次と派閥と明日の噂の価値を計算し始めた音だ。扇が開き、杯が置かれ、壁際にいた若い令息まで背伸びをする。見なければ損だと言わんばかりに。


「アイリス、これは何の真似だ!」


殿下の声が大きくなる。よかった。声だけは本当によく通る。ここで小声になられては困るのだ。


「引き継ぎでございます」


私は広間の中央へ進んだ。逃げるように見えない速度で、けれど誰も割り込めない距離まで。記録官が机を運び込み、法務官が羊皮紙を広げる。夜会のための花と料理の間に、急に仕事の匂いが混ざった。これでようやく、恋の芝居ではなくなる。


「殿下は公衆の面前で婚約破棄を宣言なさいました。新たにオーラをお選びになった。ならば、この場にいる皆さまに見届けていただきましょう。未来の王太子妃の義務が、誰に移るのかを」


オーラが首を振る。


「そんな、私はまだ」


「まだ?」


私は声を少しだけ上げた。広間の奥まで届くように。殿下より小さく、けれど逃げ道を塞ぐには十分な声で。


「愛される覚悟はあっても、国へ名を出す覚悟はないのですか?」


その言葉で、空気が変わった。


誰かが笑ったのではない。もっとひどい。笑う前の沈黙だ。オーラはその沈黙を初めて浴びた顔をしていた。今までは、泣けば誰かが背中を撫でた。可愛いと言われては席を譲られた。怖いと言えば私が悪者になった。けれど今、広間にいる人間は誰も彼女を妹として見ていない。


王太子が選んだ女として見ている。


「違うの、私は、ただ殿下を」


「ええ。ですから、殿下の隣へ」


私は記録官へ頷いた。


「まず、婚約破棄の理由を正式記録に残してください。殿下のお言葉どおり、わたくしがオーラを虐げた、と」


「アイリス!」


殿下が叫ぶ。


その叫びで、オーラの顔色がさらに悪くなった。遅い。止めるなら、愛を叫ぶ前に止めるべきだった。広間の全員が、今の声を聞いた。記録官も、法務官も、教師たちも。


私は扇を開いた。


今度は笑いを隠すためではない。客席に向けて、幕が上がったと知らせるためだ。


「法務官殿。確認を」


私は扇を閉じ、記録官の前へ出た。


「殿下は、わたくしがオーラを虐げたとおっしゃいました。では、その虐げとは具体的に何か。ここにいる皆さまにも分かるよう、殿下のお言葉でお願いいたします」


殿下の喉が動いた。


さっきまであれほど勢いよく飛び出していた言葉が、急に靴底へ張りついたように出てこない。無理もない。恋人を庇うための怒鳴り声と、法務官の前で記録に残る証言は別物だ。前者は気持ちよく酔えるが、後者はあとで首を絞める。


「……彼女を、厳しく叱責した」


「何について?」


「茶会での失敗だ」


記録官の羽根ペンが走る。かすかな音が、広間の変なところに響いた。普段なら音楽に紛れて消える音だ。今夜はその小さな音に、何十もの家の未来が耳を寄せている。


私はオーラへ目を向けた。


「オーラ。あなたが茶会で失敗したことは事実ね」


「それは……少し、粗相を」


「少し」


私はその言葉を拾った。


「隣国大使夫人の膝へ熱い紅茶をこぼし、その場で謝罪せず、怖かったと言って殿下の後ろへ隠れた。翌朝、わたくしが大使夫人へ詫び状を出した。これが、少し?」


オーラの睫毛が震えた。


殿下がすぐに口を挟む。


「だから君は彼女を責めたのだろう!」


「責めましたわ」


広間がまた揺れた。オーラの顔に、勝った、という色が一瞬だけ戻る。可愛い。そういうところだけは本当に素直だ。


私は記録官へ向き直った。


「王妃主催の茶会で隣国大使夫人へ熱い紅茶をこぼした者に、即座の謝罪と見舞いを指導すること。これは虐げに当たりますか?」


法務官が眉を上げた。礼法教師が、扇の向こうで口元を押さえる。笑ったのではない。たぶん、笑わないようにしたのだ。


「通常、必要な指導と判断されます」


「では、記録を」


羽根ペンがまた走る。


私は楽しくなっていた。よくない。よくないが、止める理由もない。五年も泥を飲まされてきたのだ。せめて今夜くらい、相手が自分で掘った穴の深さを測るところを見物しても罰は当たらないだろう。


「次に、殿下」


私はゆっくり振り返った。


「その謝罪文を、わたくし名義で出すよう命じたのはどなたでしたか?」


「知らない」


殿下は短く言った。


中身が少ないほど、立派に聞こえる時がある。けれど今夜は、少ない中身を大勢が覗き込んでいる。空っぽなら空っぽだと、すぐに分かる。


「ご存じないのですね」


「当然だ。私は君にそんな命令をしていない」


「では、侍女長」


私が呼ぶと、壁際に控えていた侍女長が一歩進み出た。年齢を重ねた女の一歩は強い。派手ではないのに、床が少しだけ締まる。彼女はオーラのように震えなかった。殿下のように声を張りもしなかった。ただ、必要な場所に立った。


「茶会の翌朝、殿下付きの侍従から何を受け取りましたか」


「殿下のご指示として、詫び状の草案をお預かりしました。差出人はアイリス様に直すようにと」


オーラの手が胸元へ戻った。さっきより雑だった。もうレースも宝石も気にしていない。


「違う……私は、そんなつもりじゃ」


「あなたのつもりは聞いていないわ」


私はやわらかく言った。やわらかく言えた自分に、少しだけ感心する。


誰かの失敗を、私の名前で見栄えだけ直す。家でも王宮でも、やっていることが変わらないのが腹立たしい。


「殿下のご指示があったかを確認しているの」


殿下が侍女長を睨む。


「下がれ。お前が誤解したのだ」


「では、侍女長」


私はすぐに言葉を継いだ。怒鳴らせない。怒鳴る余白を与えると、この人は声量で勝った気になる。


「殿下付き侍従の署名入り受領控えを」


侍女長が一枚の紙を取り出した瞬間、広間がはっきり騒いだ。見たい、という欲が貴族たちの首を一斉に伸ばす。上品な人たちだ。噂の餌を前にしても、靴音だけは控えめにする。


「殿下」


私は紙を受け取らず、あえて侍女長の手元に残したままにした。


「こちらも、知らないとおっしゃいますか?」


殿下は、受領控えを見なかった。


見なければ存在しないことにできると思っている顔だった。子どもの頃なら、それで侍従が拾ってくれただろう。王太子という立場は便利だ。転んでも床が悪いことになり、忘れても周囲の伝え方が悪いことになる。


けれど今夜は、床も侍従も殿下の味方をしなかった。


「……私の侍従が勝手にしたことだ」


「では、殿下の侍従が、王太子殿下の名を使って、未来の王太子妃へ虚偽の指示を出した。そう記録してよろしいのですね」


法務官の顔が変わった。


そこまで話が大きくなるとは思っていなかったのだろう。無理もない。恋人を庇うための小さな嘘が、王太子宮の統率問題に化けたのだから。私は何も足していない。殿下の言葉を、王宮で使える形に直しただけだ。


殿下の口が閉じる。


オーラが、そこで初めて殿下から半歩離れた。


遅いわ、と思った。沈みかけた船から降りるなら、せめて水が足首に来る前にしなければならない。膝まで来てから可愛い靴を心配しても、もう誰も同情してくれない。


「アイリス様」


法務官が私を見た。


「受領控えの提出を」


「はい」


私は頷き、侍女長へ目配せをした。侍女長が記録官へ紙を渡す。その手順を、広間中が見ている。ここが大事だった。私が怒って紙を振り回せば、女の癇癪で終わる。けれど侍女長が出し、記録官が受け、法務官が確認すれば、それはもう噂ではなく手続きになる。


オーラは、それを見ていなかった。


彼女は父を見ていた。父なら助けてくれると思ったのだろう。父は妹に甘い。宝石もドレスも部屋も、私から取り上げてオーラへ渡す時だけ、家族らしい顔をした。


けれど父は、今度は目を逸らした。


可哀想な娘を庇うより、王家に睨まれないほうを選んだのだ。分かりやすい。家族愛も、家名の前ではずいぶん行儀よく畳まれる。


「お父様……?」


オーラの声がひっくり返った。


私は少しだけ気分がよくなった。いい性格ではない。知っている。だが、彼女が私の婚約者を取った時も、母の形見の髪飾りを欲しがった時も、父は一度もその声を私に返してくれなかった。今夜くらい、同じ薄さを味わえばいい。


「続けましょう」


私は広間へ向き直る。


「殿下は、オーラを新たな婚約者として望まれました。ならば我が家としても、正式に確認しなければなりません」


「何をだ」


殿下の声には、もう最初の勢いがない。


「オーラの教育不足、茶会での外交上の失態、王太子宮の指示による責任転嫁。この三点を、王家が把握した上で婚約を望むのか。それとも、真実の愛は夜会の壇上だけで終わるものなのか」


広間が静まり返った。


静かざまぁにするつもりはない。ここまで来たら、全員に聞いてもらう。オーラが欲しがったものは、花束でも恋文でもない。国の名前が付いた椅子だ。座りたいなら、椅子の脚がどれだけ重いかも見せてやる。座る前から潰れるなら、それは私のせいではない。


「わ、私は……」


オーラが口を開く。


今度は泣きそうな顔ではなかった。泣けば助かるか、計算している顔だった。


私は先に言った。


「泣く前に答えなさい。あなたは王太子妃になりたいの? それとも、王太子に庇われる可愛い恋人でいたかっただけ?」


その問いは、妹の頬を打つより効いた。広間中が答えを待っている。父も、殿下も、教師たちも。今まで誰も彼女に選ばせなかった。欲しがれば与えられ、泣けば退けられ、飽きれば私のところへ戻ってきた。


初めて、欲しがったものの名前を自分で言わなければならなくなったのだ。


オーラは答えなかった。


答えないまま、殿下の袖へ手を伸ばす。さっきまでなら、そこに逃げ込めばよかった。殿下が肩を抱き、私を睨み、周囲が可哀想な妹を見る。何度も見た手順だ。手順というものは怖い。何度も繰り返すと、本人まで本当に道だと思い込む。


けれど今夜、その道の先には法務官がいる。


オーラの指は、殿下の袖に触れる直前で止まった。殿下がわずかに身を引いたからだ。


広間の空気が、そこで露骨に動いた。扇の陰で目だけが笑う夫人、杯を口元に運ぶふりで隣へ合図する伯爵。人は残酷だ。落ちると分かったものを見る時だけ、妙に姿勢がよくなる。


「殿下……?」


オーラが小さく呼ぶ。


殿下は答えない。助けると言った口で、今は助け方を探している。たぶん、彼女を守りたいのではなく、自分が損をしない言い方を探しているのだろう。気の毒に。そういう顔は、愛されている女には見せないほうがいい。


「オーラ」


私は彼女の名を呼んだ。


「あなたは、王太子妃になりたいの?」


「……私は」


唇が震える。


今度は涙が一粒落ちた。頬の真ん中を通って、化粧を少し崩す。本当に困った時の涙は、思ったより不格好だ。私はその不格好さを、少しだけ好ましく思った。ようやく人間らしい顔になったからだ。


「私は、ただ、殿下に愛されていたかっただけで……」


言った。


広間に、答えが落ちた。


拾ったのは私ではない。王妃教育の教師でも、法務官でもない。先に拾ったのは、周囲の貴族たちだった。恋人でいたかっただけ。その言葉は甘く聞こえるが、王太子の婚約破棄の理由としては軽すぎる。羽根より軽い。軽すぎて、国の書類の上に置いた瞬間、勝手に飛んでいく。


「オーラ!」


殿下がようやく声を上げた。


怒ったのは、裏切られたからではない。自分の逃げ道まで彼女に踏まれたからだ。殿下はそこで彼女を庇えば、恋に溺れて国を軽んじた王太子になる。切り捨てれば、守ると言った女を公衆の面前で捨てる男になる。


どちらでもいい。


どちらでも、私が五年かけて飲み込んできたものよりは軽い。


「法務官殿」


私は振り返った。


「記録を。オーラは、王太子妃の地位ではなく、殿下の寵愛を望んだと発言しました」


「待て!」


殿下が叫ぶ。


待たない。私は何年も待った。殿下が書類を読むのを待ち、家族が私を見るのを待ち、妹が満足して飽きるのを待った。待った結果がこれなら、もう十分だ。


「いいえ、待ちません」


私は扇を閉じた。


「今夜は、殿下が始めた公の場です。最後まで公にいたしましょう」


「ならば、婚約破棄は撤回する」


殿下はそう言った。


広間の空気が、一瞬だけ妙な形で止まる。誰も感動しなかった。誰も安堵しなかった。今ここで撤回と言えば、すべてが元通りになると本気で思っているのは、たぶん殿下だけだ。


オーラが殿下を見上げる。救われた顔ではない。置いていかれた顔だった。恋人でいたかっただけ、と言った直後に、恋人から婚約者の席を取り上げられたのだ。可哀想ではある。少しだけ。ほんの爪の先ほど。


「撤回、でございますか」


私は確認した。


「そうだ。君が反省するなら、今回は不問にしてやる」


不問。


問題を起こした側が使うと、ここまで厚かましく聞こえるのかと勉強になる。私は何も言わず、法務官へ視線を向けた。法務官は目を伏せた。笑わないためか、怒らないためかは分からない。


「では、記録をお願いいたします」


「何の記録だ」


「殿下は公衆の面前で婚約破棄を宣言し、オーラとの真実の愛を理由にわたくしを糾弾なさいました。その後、オーラが王太子妃の責務ではなく寵愛のみを望んだと発言したため、婚約破棄を撤回。あわせて、わたくしに反省を求めた、と」


殿下の顔色が変わった。


「誤りなどではない」


殿下は、まだ言った。


その一言で、父の肩がわずかに落ちた。オーラは息を止め、教師たちは互いに目を合わせないように視線を伏せる。誰も殿下の味方をやめたとは言わない。ただ、同じ舟に乗るには水の入り方が派手すぎると気づいた顔をしていた。


「では、殿下は今も、わたくしがオーラを虐げたとお考えなのですね」


「そうだ」


「理由は、王妃教育上必要な叱責と、殿下のご指示でわたくし名義に直された詫び状。それから、オーラが殿下に愛されていたかったというお気持ち」


「言い方をねじ曲げるな!」


殿下が一歩踏み出した。


私は下がらなかった。ここで下がれば、また殿下の声が場を押し戻す。怒鳴る人間は、自分の声で道が開くと思っている。実際、今までは開いていたのだろう。侍従がどき、家臣が黙り、私は書類を拾った。


今夜は違う。


上座で、王妃陛下が立ち上がった。


広間の全員が膝を折る。遅れた者はいなかった。さすがに、恋の騒ぎと王妃の起立を取り違えるほど愚かな家はない。


「アーヴィン」


王妃陛下の声は、殿下ほど大きくなかった。けれど広間の隅まで届いた。声量ではない。誰の言葉を聞くべきか、全員が最初から知っている声だった。


「あなたは今、自分の婚約者を虚偽で責めたのか、それとも王妃教育を虐待と呼んだのか。どちらです」


殿下の顔から血の気が引いた。


ようやく、殿下にも見えたのだろう。私一人を悪女にする話では、もう足りない。王妃教育を否定すれば、王妃陛下の采配に泥を塗る。虚偽だったと認めれば、王太子が公の場で婚約者を貶めたことになる。


どちらでも、綺麗には終わらない。


「母上、私は」


「ここでは王妃と呼びなさい」


短い叱責だった。


それだけで、オーラの膝が崩れた。派手な悲鳴は上げなかった。上げる余裕がなかったのだと思う。殿下の袖をつかむことも、父を見ることも忘れ、ただ床に手をついた。


私は、その姿を見て少しだけ胸がすいた。


姉としては最低かもしれない。けれど、母の形見の髪飾りを泣いて奪った妹が、今さら床の冷たさだけは免除されると思うほうが厚かましい。人は欲しがったものの重さで、一度くらい指を挟めばいい。


「アイリス・ヴァレンティア」


王妃陛下が私を呼んだ。


「はい」


「あなたは、この婚約の継続を望みますか」


広間が、そこで本当に揺れた。


誰もが私を見た。父も、殿下も、オーラも。まるで今さら、私に選ぶ口があったことを思い出したような顔だった。


遅すぎて、笑いそうになる。


「望みません」


私ははっきり答えた。


殿下の目が見開かれる。驚くなら、せめて最初の婚約破棄の時にしてほしかった。自分から捨てたものが歩いて戻ってくると信じられるほど、私の足は安くない。


「わたくしは、殿下の婚約者を辞退いたします。あわせて、妹オーラを新たな婚約者として推すこともいたしません」


「お姉様……!」


オーラが顔を上げた。


私は彼女を見た。


「だってあなた、王太子妃になりたいわけではないのでしょう?」


その言葉に、広間のあちこちで扇が動いた。笑いを隠す音だった。派手な拍手よりずっと痛い音だ。オーラはそれを初めて浴びて、ようやく自分が舞台の真ん中ではなく、見世物の真ん中に立っているのだと気づいた顔をした。




そうでしょうね。まとめると、ずいぶんひどい。けれど私は飾っていない。殿下の言葉を順番に並べただけだ。人は自分の発言を、少し離れた場所から聞かされると急に嫌がる。


「そんな書き方は悪意がある!」


「では、殿下のお言葉で訂正なさいますか」


私は少しだけ首を傾げた。


「どの部分が事実と異なります?」


殿下は答えない。


広間の沈黙が、今度は味方になった。さっきまで私を値踏みしていた視線が、殿下へ貼りついている。王太子が、自分の言葉のどこを取り消すのか。誰を守り、誰を捨てるのか。皆が待っている。


「アイリス」


父が低く呼んだ。


止めろ、という声だった。家のために。王家のために。場を収めるために。何度も聞いた。私が折れれば丸く収まる時にだけ、父は私の名を呼ぶ。


私は父を見た。


「お父様。わたくし、今夜はたいへん親孝行をしておりますのよ」


父の眉が動く。


「王太子殿下が我が家の娘を二人とも公の場で傷物にしかけたのです。ここで曖昧に終わらせれば、明日から噂は好き勝手に育ちます。ならば今、事実を記録に残すのが、家のためではありませんか」


父は黙った。


家のため、という言葉はよく効く。私に向けて振り回してきた刃を、持ち手ごと返されるとは思っていなかったのだろう。


「殿下」


私はもう一度、王太子へ向いた。


「撤回なさるなら、まず公にお認めください。わたくしがオーラを虐げたという発言は、事実確認を怠った誤りだったと」


王妃陛下は、オーラを見下ろした。


「オーラ・ヴァレンティア。あなたは王太子の婚約者となる意思がないまま、公の場で婚約破棄の理由に関わったのですね」


「ち、違います、私はそんな大きな話になるなんて」


「王太子の隣で、王太子の婚約者を貶める言葉を受け入れた。それを大きな話ではないと思ったのなら、なお悪い」


泣けば誰かが止めてくれる。オーラはまだそう思っていたのかもしれない。けれど王妃陛下は、泣いている娘を慰めるために立ち上がったのではない。王太子が壊した場を、王家の権威で押さえるために立ったのだ。


オーラの涙は、今夜初めて役に立たなかった。


「ヴァレンティア伯爵」


王妃陛下の視線が父へ移る。


父は一拍遅れて頭を下げた。遅れた。私は見た。広間も見た。こういう時だけ、人の遅れはきちんと記憶される。


「はい、陛下」


「あなたの家では、王太子妃教育を受ける娘と、その立場を望まない娘の区別もつけられないのですか」


「滅相もございません。オーラには、私から厳しく」


「お父様?」


オーラの声が裏返る。


父はそちらを見なかった。甘やかす時はあれほど目尻を下げる人が、切り離す時はずいぶん首が動かない。私は少し感心した。人間、都合が悪い時ほど姿勢がよくなるらしい。


「陛下、次女の浅慮は我が家で必ず処分いたします。アイリスには、これまで通り王家へ」


「お待ちください」


私はそこで口を挟んだ。


父の眉が跳ねる。今のは、黙れ、という顔だった。昔からそうだ。母の形見をオーラが欲しがった時も、私の部屋の鍵を取り替えられた時も、父は同じ顔をした。家の中では効いた顔だ。だが残念ながら、ここは家の廊下ではない。


「わたくしは先ほど、殿下の婚約者を辞退すると申し上げました」


「アイリス、家のためだ」


「ええ。ですから、家のために確認を」


私は父へ向き直った。


「オーラが殿下のお側にいたことを、我が家はいつから把握していましたか」


父の口が止まる。


そこを止めたかったのだ。王太子の失態だけで終われば、父は私を差し出して家を守った顔ができる。オーラを泣かせ、殿下へ頭を下げ、最後に私へ「分かってくれ」と言えば、また全部が私のところへ戻ってくる。


冗談ではない。


私は今夜、王太子の後始末だけでなく、父の古い癖も終わらせに来た。


「知らなかった、とはおっしゃいませんわよね」


「何を根拠に」


「先月、オーラの新しい夜会用ドレスを仕立てたのはお父様です。殿下の瞳の色に合わせた青いドレス。王太子殿下の私的な茶会へ出るための馬車も、家の紋章付きでした。御者の記録は残っています」


広間の視線が、父の背中へ集まった。


父は、初めて私を娘としてではなく、敵として見た。遅い。私はずっと家族の側に立っていたのではない。家族に踏まれても、立っていただけだ。


「アイリス」


「はい」


「お前は、そこまで家を売るのか」


笑いそうになった。


家を売る。なんて大きな言い方だろう。私の時間も、婚約者としての立場も、母の形見も、何度も家のためという顔でオーラへ渡してきた人が、今夜初めて自分の棚から物を出されそうになって慌てている。


「売るほど高くありませんわ」


広間のどこかで、誰かが咳き込んだ。


私は父から目を逸らさない。


「ただ、値札の付け方を間違えていただけです。わたくし一人を黙らせれば済むと思っていた分を、今夜は正しい場所へ戻しているだけです」


父の顔が、ようやく怒りに変わった。


家長の怒り。娘を黙らせるための顔。家の食卓なら、それで十分だった。母が亡くなってから、私はその顔を見るたびに言葉を飲んだ。オーラが泣き、父が怒り、私が折れる。折れたところに、次の頼みごとが置かれる。そうやって家は回ってきた。


回っていたのではない。


私を軸にして、都合よくきしんでいただけだ。


「アイリス、お前は自分が何をしているか分かっているのか」


「はい」


私は即答した。


「ようやく、ただ働きをやめようとしております」


父が息を詰まらせる。


貴族令嬢の口から出すには、少し品のない言葉だったかもしれない。けれど品よく言えば、また意味だけを薄められる。献身。家族愛。姉の務め。婚約者としての責任。呼び方を変えれば美しく聞こえるものは、たいてい誰かを安く使う時に便利だった。


「お前を育てたのは誰だ」


「お父様ですわね。では、育てた娘を王家へ差し出す前に、その娘の婚約者へ次女を近づけた理由もご説明いただけますか」


父の唇が震えた。


計算が詰まった時の震えだ。あの人は、私が感情で喚いているうちは強い。だが、話を順番に戻されると弱い。都合の悪い部分を飛ばして「家のため」と言う癖が、今夜は使えない。


王妃陛下が静かに告げる。


「ヴァレンティア伯爵家には、王家より正式な調査を入れます。王太子宮との私的接触、婚約者への責任転嫁、次女の処遇。すべて明らかにしなさい」


オーラが小さく悲鳴を上げた。


父は何も言わなかった。言えなかったのだろう。調査という言葉は、貴族にとって処罰そのものより嫌な時がある。処分なら頭を下げれば終わることもあるが、調査は引き出しを開ける。鍵をかけた棚も、忘れたふりをしていた手紙も、誰に何を渡したかまで。


私は少しだけ肩の力を抜いた。


これで、家には戻らない。


戻ればまた、泣いた妹と怒った父と黙った使用人の間に立たされる。家族の問題なのだから、と言われる。私は家族の問題が嫌いだ。なぜなら、いつも私だけが問題を解く側にされるから。


「陛下」


私は王妃陛下へ向き直った。


「調査の間、わたくしは伯爵家へ戻らず、母方の伯母の屋敷へ身を寄せる許可をいただきたく存じます」


父が顔を上げる。


「勝手なことを」


「勝手ではありません」


私は父を見た。


「家のために戻れと言うなら、まず家が何をしたかを調べてからになさってください」


今度こそ、父は黙った。


広間の空気が、私の背中から少しずつ離れていく。さっきまで私を押していた視線が、殿下へ、オーラへ、父へ散っていく。軽くなった、とは思わない。軽くなるには、背負わされたものが多すぎた。


それでも、今夜初めて、自分の足で立っている気がした。


王妃陛下が頷く。


「許可します」


その一言で、私の帰る場所は変わった。家を失ったのではない。やっと、あの家から私の名前を剥がせたのだ。


「アーヴィン」


王妃陛下の声で、殿下の背筋が伸びた。


それでも、もう王太子らしくは見えなかった。さっきまで人を裁くつもりで立っていた男が、今は自分の足元に落ちた言葉を拾えずにいる。婚約破棄。虐げた。真実の愛。どれも大きな顔で投げたものばかりだ。投げた時は気持ちよかっただろう。戻ってくる場所までは考えていなかっただけで。


「あなたは当面、政務から外れなさい。王太子宮の侍従も入れ替えます。今回の件が、あなた個人の軽率か、宮全体の弛みかを確かめる必要があります」


「母上……いえ、王妃陛下、それは」


殿下の声が裏返った。


その瞬間、壁際の若い令息が目を伏せた。見てはいけないものを見た、という顔だった。いいえ、見ておきなさい。王太子が恋に浮かれて婚約者を晒し者にした結果、どこから罰が落ちるのか。貴族の子息なら、一度くらい教材にしておいたほうがいい。


「オーラ・ヴァレンティアは、調査終了まで王宮への出入りを禁じます」


オーラが父へ縋るように振り返った。


父は、半歩も動かなかった。


さっきまで家のためと私を押し出そうとしていた人が、今度は家のために妹を拾わない。分かっていたことなのに、オーラの顔を見ると少しだけ胸の奥がざらついた。ざまあみろ、だけでは終わらない。彼女は加害者だ。けれど、泣けば欲しいものが落ちてくると教えたのは、父でもある。


だから許す、とはならないけれど。


「お姉様、助けて」


とうとう、オーラが私を呼んだ。


広間中がこちらを見る。面白いものだ。私が助ける側に戻るかどうかまで、皆で見届けたいらしい。人の不幸だけでなく、人の甘さにも値踏みが入る。なら、見せてあげる。今夜の私は、そこまで安くない。


「助けて、の意味によりますわ」


「私、こんなことになるなんて思ってなくて」


「でしょうね」


私は頷いた。


「あなたはいつも、そこまでは考えないもの。欲しいと言う。怖いと言う。泣く。あとは誰かが片づける。今まではそれで済んだのでしょう」


オーラの目から、また涙が落ちた。


「でも今夜は、片づける人間を先に捨てたのよ」


その言葉で、彼女は口を閉じた。


殿下が私へ一歩近づこうとする。近衛が動いた。ほんの半歩、しかし十分だった。王太子の前に近衛が立つ。それだけで、広間の者たちは明日どんな噂が走るかを理解したはずだ。


「アイリス、私は……」


「殿下」


私は彼の言葉を遮った。


「わたくしに謝るのでしたら、今ではありません。まず王妃陛下へ。次に、巻き込んだ各家へ。隣国大使夫人へ。教師方へ。侍女長へ。それから最後に、わたくしです」


殿下の顔が歪む。


謝罪にも順番があると、初めて知った顔だった。


「わたくしは、殿下の後始末の最後尾に並ぶ気はございません」


今度は、広間のどこかで低く笑いが漏れた。


私はそれを止めなかった。止める義理もない。王太子殿下が公の場で始めた芝居だ。観客が反応するところまで、きちんと受け取っていただかなくては。


王妃陛下が法務官へ視線を向けた。


場は終わりに近づいている。誰かが咳をし、誰かが扇を閉じ、楽士たちは楽器を持ったまま身じろぎもしない。再開していい曲など、もう残っていないのだろう。恋の夜会として始まったものが、家と王家の失敗発表会で終わるのだから、楽譜も気の毒だ。


私は侍女長へ小さく頷いた。


彼女はすぐに入口へ向かう。こういう時、仕事の早い人を見ると安心する。泣く人間より、怒鳴る人間より、扉を開ける人間のほうがずっと役に立つ。


開いた扉の向こうに、母方の伯母が立っていた。


レティシア伯母様は、夜会には似合わない濃紺の外套を羽織っている。飾り気はない。けれど、あの人が一歩入ってくるだけで、父の顔が明らかに強ばった。分かりやすくて助かる。父は王家より、亡き母の実家に見られることを嫌がっている。外面を保てない相手だからだ。


「アイリス」


伯母様は私を呼んだ。


その声に、私は少しだけ息を吐いた。泣きはしない。泣くと化粧が崩れるし、明日の朝には荷物の選別をしなければならない。母の本、古い手紙、持ち出せる宝石。オーラに触られたものは置いていく。縁起が悪い。


「伯母様。お迎え、ありがとうございます」


「遅くなったかしら」


「いいえ。ちょうどよい頃合いですわ」


本当は、もう少し早くてもよかった。けれど、それを言うほど可愛げのない姪ではない。少なくとも今夜は。


父が一歩出る。


「レティシア殿、これは我が家の問題です」


「ええ。ですから来ました」


伯母様は父を見た。


「妹の娘が、あなたの家で問題にされ続けていたようですので」


広間の空気が、また動いた。


父の顔が赤くなる。怒りと羞恥が混ざった色だ。いい顔ではないが、見覚えはある。都合の悪い話を家の中に押し戻したい時、父はいつもあの顔をした。


伯母様には通じない。


「アイリスの荷物は、明朝こちらで引き取ります。使用人に触らせないでください。特に、妹の遺品はすべて」


「勝手な」


「勝手をしたのは、そちらでしょう」


短い言葉だった。


それだけで、父は黙った。


私は伯母様の隣へ歩いた。オーラが何か言いかけたが、声にはならない。殿下も、もう私を呼ばなかった。ようやく分かったのだろう。私が場を去るのは、拗ねているからではない。戻る場所を、自分で変えたからだ。


出口の前で、一度だけ振り返る。


広間には、王太子と妹と父が残っている。三人とも、私がいなくなった後のことをまだ知らない顔をしていた。書類は残る。噂も残る。王妃陛下の命令も、母方伯母の目も残る。


私だけが、残らない。


「それでは皆さま」


私は軽く膝を折った。


「今夜の後始末は、どうぞ当事者の方々で」


伯母様が、隣で少しだけ笑った。


私は伯母様の隣に立ったまま、広間の中央へ視線を戻した。


けれど、そこで夜会は終わらなかった。


むしろ終わったのは、私がいたから辛うじて保たれていた言い訳のほうだった。誰かを悪女にしておけば済む話ではなくなり、残されたのは、王太子の軽率と、妹の浅慮と、父の保身だけ。どれも綺麗に包めば小さく見えたかもしれないが、私が包む手を引っ込めた以上、中身はそのまま広間に転がる。


王妃陛下は法務官へ命じた。


「今夜の記録を正式文書として残しなさい。王太子の婚約破棄宣言、撤回、虚偽発言の疑い、ヴァレンティア伯爵家の関与。各家へ通知する文面も作成を」


殿下が顔を上げる。


「各家へ、ですか」


「当然です。あなたは公の場で婚約を壊し、公の場で戻そうとした。見ていた者だけに噂を任せれば、王家の言葉より先に尾ひれが泳ぎ出します」


王妃陛下の返答に、殿下は口を閉じた。


オーラは床に座り込んだまま、父を見ていた。父は彼女へ手を貸さない。貸せば、家が妹を推していたとさらに見える。貸さなければ、今まで溺愛していた娘をその場で捨てた男に見える。


どちらにしても遅い。


父は今、初めて私の役目を理解したのかもしれない。誰かの失敗を、少しでも見苦しくない形に畳む役目。泣いた娘を拾い、怒った男をなだめ、外へ漏れた傷を家の中で縫う役目。


もう、その役は空席だ。


「ヴァレンティア伯爵」


王妃陛下が父を呼んだ。


「あなたの家には、明朝より王家の監査が入ります。アイリスの持参金、王妃教育に関わる支出、次女に流れた衣装代と交際費。すべて提出なさい」


「陛下、それは」


「娘を家のために使うなら、家の帳尻も合わせていただきます」


父の喉が鳴った。


オーラが小さく泣いた。今度は誰も近づかない。泣き声は広間の床に落ち、誰の足元にも拾われなかった。


殿下は、まだ立っていた。


けれど、隣には誰もいない。恋人は座り込み、私は伯母様の隣に退き、母である王妃は彼を王太子として裁いている。真実の愛を掲げた男が、最後に残したのは、誰も守れなかったという事実だけだった。


「アーヴィン」


王妃陛下は言った。


「あなたには、王太子としてではなく、一人の王族として基礎から学び直してもらいます」


広間の貴族たちが、息を呑む。


王太子としてではなく。


その意味を、誰より先に殿下が理解した。顔色が抜け、膝がわずかに揺れる。廃嫡とは言われていない。けれど、その手前に置かれた椅子は、十分に冷たい。


「正式な処分は、国王陛下と協議の上で下します。今夜は下がりなさい」


殿下は何か言おうとした。


だが、王妃陛下の目を見て、何も言えなくなった。


その沈黙が、今夜いちばん大きな返事だった。


王妃陛下の命が下りたところで、私は伯母様に促され、今度こそ広間を出た。扉が閉まる音は、思ったより静かだった。


翌朝、私は伯母様の屋敷で目を覚ました。


最初にしたのは、泣くことでも祈ることでもない。枕元に置かれた水差しを見て、誰も私に今日の予定表を持ってこないことを確認することだった。


静かだった。


本当に静かだった。父の怒鳴り声も、オーラの泣き声も、殿下から届く遅れた返書もない。侍女が扉の外で待っている気配はあるが、私を急かすためではない。朝食をいつ運ぶか聞くためだ。


それだけのことが、妙に贅沢だった。


「お目覚めですか」


入ってきたのは、伯母様付きの侍女だった。私の実家の侍女のように、こちらの顔色を窺って家の機嫌を測る目ではない。ただ仕事をする目だ。ありがたい。人の感情を背負わずに済む視線は、こんなに軽いのか。


「ええ。荷物の件は?」


「奥様が、すでに馬車を出されました。ヴァレンティア家の使用人には触れさせないよう、弁護士も同行しております」


弁護士。


朝食前に聞く言葉としては少し重い。けれど、昨夜の甘ったるい真実の愛よりはずっと胃に優しい。


「母の遺品だけは、必ず」


「承っております」


侍女は頷いた。


私はそこで、ようやく寝台から足を下ろした。床は冷たかったが、嫌ではなかった。実家の廊下の冷たさとは違う。あそこでは、朝から誰の顔を立てるか考えながら歩いた。ここでは、まず靴下を履けばいい。


そんな当たり前の順番まで、私は忘れていたらしい。


昼前、伯母様が部屋へ来た。


「王宮から使いが来たわ」


「早いですわね」


「王妃陛下は、仕事の遅い男がお嫌いなのよ」


思わず笑ってしまった。


伯母様は机の上へ封書を置く。王家の紋章がある。昨日までなら、開ける前に背筋を伸ばしていただろう。今日は、まず紅茶を一口飲んだ。熱すぎる。けれど自分で飲むと決めた熱さなので、腹は立たない。


封書の中身は、昨夜の件に関する正式な聞き取りの依頼だった。私への謝罪、婚約解消の手続き、当面の保護。必要な言葉が、必要な順で並んでいる。


それだけで、少し気分がよかった。


「戻りたいと思う?」


伯母様が聞いた。


私は返事に少し迷った。


殿下のところへではない。実家へでもない。昨日までの自分へ戻りたいか、という意味だろう。


「思いません」


言ってから、自分でその声を聞いた。思ったより軽かった。もっと震えるか、泣くか、怒るかすると思っていた。けれど口から出たのは、昼食の献立を決めるくらいの声だった。


「ただ、少し腹は立っています」


「何に?」


「昨日まで、私は逃げるにも許可がいると思っていたことに」


伯母様は笑った。


「いい腹立ちね」


「そうでしょうか」


「ええ。人に向けるだけの怒りは疲れるけれど、自分の足を動かす怒りは役に立つわ」


私は窓の外を見た。


庭師が、生け垣の伸びた枝を切っている。切られた枝は落ちる。残った枝は、形を変えてまた伸びる。たぶん私は、落ちたほうではない。


残ったほうでもない。


ようやく、どこへ伸びるか自分で決められる枝になったのだと思った。


数週間後、王宮から正式な処分が下った。


アーヴィン殿下は王太子としての公務を停止され、地方の離宮で再教育を受けることになった。廃嫡ではない。けれど、王位継承権の話をする時、人々が一拍置くようになっただけで十分だった。椅子は残っている。座れるかどうかは別の話だ。


オーラは、伯爵家の領地に下げられた。


王宮への出入りは禁止。社交界も当面は無理だろう。泣けば許された場所から、泣いても収穫量が増えない場所へ行くのだから、最初はずいぶん苦労すると思う。少しは苦労すればいい。けれど、そこで初めて自分の手で何かを片づけるなら、それはそれで悪くない。


父は、王家の監査でずいぶん削られた。


持参金の扱い、オーラへの過剰な支出、王太子宮との私的なやり取り。どれも一つなら言い逃れできたかもしれない。だが並べると、人の娘を便利に使ってきた家の形がそのまま出た。父は爵位こそ失わなかったが、中央での発言力は落ちた。家のため、と言うたびに、周囲が父ではなく帳簿を見るようになったらしい。


私は伯母様の屋敷で暮らし始めた。


朝、誰の機嫌を先に取るか考えなくていい。昼、届いた手紙を自分のために開けていい。夜、明日の誰かの失敗を先回りして潰さなくていい。


最初は落ち着かなかった。


何もしない時間があると、胸のどこかが勝手に次の面倒を探そうとする。癖はしつこい。家族より長く私の中に住みついている分、追い出すには少し時間がかかるのだろう。


それでも、私は毎朝少しずつ覚えている。


温かい紅茶を、温かいうちに飲んでいいこと。


好きな本を、途中で閉じなくていいこと。


泣いている誰かを見ても、必ず私が立たなくていいこと。


ある午後、伯母様が新しい手袋を贈ってくれた。白ではなく、深い緑の手袋だった。王妃教育で選ばされる色ではない。父が好む色でも、殿下の隣に立つための色でもない。


「似合うと思って」


伯母様はそれだけ言った。


私は手袋をはめて、指を曲げた。少し硬い。新品だからだ。使えば馴染む。馴染まなければ、別のものを選べばいい。


そんな簡単なことまで、私は誰かに許されるのを待っていた。


「ありがとうございます」


今度は、ちゃんと笑えた。


鏡の中の私は、王太子の元婚約者でも、伯爵家の都合のいい長女でも、妹の失敗を引き受ける姉でもなかった。


ただの私だった。


少し性格が悪くて、まだ腹の底に怒りが残っていて、けれど明日の予定を自分で決められる私。


それで十分だ。


少なくとも、誰かの真実の愛の後始末をするよりは、ずっと。

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― 新着の感想 ―
何故こんな王妃様からこんな王子が生まれてしまったのやら…… 王子の周辺見直したほうが良いな あと父親にもっとバチが当たりますように(祈)
>(父は)今夜くらい、同じ薄さを味わえばいい。」 「同じ薄さ」ではなく「同じ(情けの)薄さ」と思っています。 これは、「薄情」を言い換えているのでしょう。 >(王妃)「あなたの家には、明朝より王家の…
>オーラの涙は、今夜初めて役に立たなかった 役にたった場面なんかあったかな?
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