七つと、ひとつ
石柱に浮かび上がった「残存記録数、七」という表示を前にしても、エリオたちはすぐに次の扉へ向かおうとはしなかった。
数字だけを見れば、先ほど少女が口にした『やっと、ひとつ戻った』という言葉と結びつけるのは簡単だった。最初に八つあり、そのうち一つが戻った結果として七つが残っている。円形の部屋に並んだ扉の数まで八つなのだから、そう考えたくなる材料は十分に揃っている。
しかし、セドリックはそこで一度全員を止めた。
「一回、分かっていることを整理しよう」
彼はそう言って、部屋の入口近くへ移動した。地下へ降りてからかなり時間が経っている。これまで危険な魔物には遭遇していないが、未知の施設であることに変わりはなく、発見が増えるほど判断を急ぎたくなる状況でもあった。
シリルが床へ簡単な図を広げ、フィーナが調査中に取った記録を横へ並べる。エリオも銀色の芽から少し距離を取り、これまでに聞いた音を頭の中で順番に確認した。
最初に神殿の地上部分で聞いた古式詠唱。
それを再生して開いた隠し階段。
地下の円形空間にあった八つの扉。
中央の台座から現れた少女。
少女が口にした古語と、各扉から返ってきた八つの反応音。
最初の部屋にあった黒い円盤。
二つ目の部屋に並んでいた大量の音の記録と、エリオの前世の記憶に反応した白い円盤。
そして三つ目の部屋に残されていた栽培設備らしきものと、一本だけ生きていた銀色の植物。
「今のところ、確実に言えるのはここまでね」
フィーナは書き留めた内容を指で追いながら言った。
「この場所は、私たちが普段使っている意味での神殿ではない可能性が高い。少なくとも地下部分には、何かを保存する設備がある。それも音だけとは限らない」
「植物も保存対象だったってことか?」
シリルが尋ねると、フィーナは少し考えてから首を振った。
「そこまではまだ分からない。栽培していたのかもしれないし、研究していたのかもしれない。そもそも、この芽が昔からここにあったものなのかも確認できてないもの」
エリオもその意見には同意だった。
銀色の芽は、他の植物がすべて枯れている中で一本だけ残っている。何百年も生き続けていると考えることもできるが、最近になって何らかの条件で芽吹いた可能性もある。
「音を出したのは、僕たちが来たからなのかな」
エリオが呟くと、セドリックが銀色の芽へ視線を向けた。
「それも確かめたいところだな。最初から同じ音を繰り返していたのか、それともお前が近づいたから反応したのか」
そこでエリオは、自分が部屋へ入ってからの記録を細かく思い返した。
水の流れる音。
石柱の振動。
透明な筒が転がった音。
そのあとで初めて銀色の葉が擦れた。
七音の並びが聞こえたのは、エリオが近づいてからだった。
「最初から鳴ってたわけじゃないと思います」
「確かか?」
「少なくとも、部屋に入った直後には聞こえてません。僕が気づいたのは、あの筒を見つけたあとです」
「それなら、何かをきっかけに動いた可能性はあるわね」
フィーナは銀色の芽を見ながら、慎重に杖を近づけた。
「今は魔力反応がほとんどない。さっき音を出していたときより弱い気がする」
「休んでる?」
「植物にそういう言い方をしていいのか分からないけど、状態としては近いかも」
セドリックは少し黙ったあと、石柱へ目を戻した。
「それで、この『残存記録数、七』だ。これが何を数えているのかは分からない。扉かもしれないし、円盤かもしれないし、もっと別の何かかもしれない」
エリオは頷いた。
先ほどは八つの扉と結びつけたが、確かに数字が一致しただけでしかない。
「じゃあ、次の部屋を見れば少し分かるかもしれませんね」
「そうだな。ただし、全部今日中に開ける必要はない」
セドリックはそこで一度、全員の顔を見た。
「地下へ入ってから時間が経っている。未知の魔術に触れて、エリオは記憶まで読まれている。判断力が落ちた状態で先へ進む方が危険だ。次の部屋を確認したところで、今日は一度引き上げる」
フィーナは少し不満そうな顔をしたが、反対はしなかった。
エリオ自身も、まだ先を見たい気持ちは強かった。それでも、セドリックの判断が正しいことは分かる。前世で録音をしていたときも、集中しすぎて同じ音を何度も聞き続けると、かえって違いが分からなくなることがあった。耳そのものより、判断する側が疲れるからだ。
《残響記録》が音を失わないとしても、エリオ自身の頭が疲れないわけではない。
むしろ大量の情報を扱うほど、整理する時間が必要になる。
「分かりました」
エリオが答えると、セドリックは頷いた。
「なら、四つ目までだ」
◇
円形の部屋へ戻り、四番目に反応していた扉の前へ移動する。
これまでと同様、エリオは少女が話していた記録を頭の中で再生し、扉から返ってきた高音と対応する言葉を探した。
少女の古語は、意味こそ分からないものの、聞き分けること自体は難しくなかった。一音一音の高さや長さ、発音の癖まで《残響記録》に残っているため、どの部分がどの扉に対応していたのかを音だけで照合できる。
四番目に扉が反応した直前、少女はそれまでより少し長い言葉を口にしていた。
『――イア・セレス・ノア』
全員が距離を取り、エリオがそのまま再生する。
扉の中央にあるくぼみへ黄色い光が灯り、そこから細い線が広がった。扉そのものが開く仕組みはこれまでと同じだったが、石が動き始めた瞬間、エリオには一つだけ違う音が聞こえた。
扉の向こうから、風が流れてきた。
地下空間であるにもかかわらず、はっきりとした空気の動きがある。
「風?」
セドリックも気づいたらしく、開きかけた扉の前で足を止めた。
「どこか外につながってるのか?」
シリルが問いかけると、エリオは耳を澄ませた。
空気が細い隙間を通過する音がしている。ただし、地上から吹き込んでいる風とは少し違った。一定方向へ流れているのではなく、ゆっくり吸い込まれ、しばらくすると逆方向へ戻ってくる。
まるで大きな何かが呼吸しているような動きだった。
「外から入ってきてるだけじゃないと思う」
「中で空気を動かしてる?」
「たぶん」
扉が完全に開く。
その先には、縦に長い部屋が続いていた。
左右の壁には、天井近くまで細い管が無数に伸びている。それらは部屋の奥へ向かうほど一本に集まり、最終的には大きな円形の装置へつながっていた。
中央には何もない。
植物も、円盤も、棚も置かれていない。
代わりに、壁全体が一つの巨大な機械のように見える。
「換気設備……?」
前世の知識から出てきた言葉を、エリオは思わず口にした。
フィーナが聞き返す。
「何て?」
「空気を入れ替えるための設備です。前の世界では、地下や大きな建物の中にこういう仕組みがありました」
「魔術じゃなくて?」
「向こうでは機械で動かしてた。でも、これはたぶん魔力ですよね」
フィーナが管へ杖を近づけて調べる。
「そうみたい。ただ、魔力の流れ方が変ね。一か所から送ってるんじゃなくて、壁全体に薄く広がってる」
セドリックが部屋の奥を見た。
「ここが今も空気を動かしているなら、地下の他の部屋にもつながっているのかもしれないな」
それなら、地下へ降りたときに空気が澄んでいた理由も説明できる。
長い間閉ざされていた場所なのに、息苦しさがほとんどなかった。
「だったら、さっきの植物が生きてた理由にも関係ある?」
エリオが言うと、フィーナは少し考えた。
「可能性はあるわね。水と空気が維持されているなら、あとは光と栄養がどうなっていたかだけど」
少しずつ、各部屋が独立したものではなく、一つの施設としてつながっているように見えてきた。
一つ目には黒い円盤。
二つ目には大量の音の保存物。
三つ目には栽培設備。
四つ目には空気を循環させる仕組み。
もし、この場所が長期間人間を地下で生かしておくために作られていたのなら、それぞれの部屋に役割があるのも不自然ではない。
「避難場所だったのかな」
エリオが口にすると、セドリックが頷いた。
「その可能性は上がったな。ただ、何から避難していたのかが分からない」
そこでフィーナが壁を見ながら言った。
「それに、避難施設なら人数分の居住区があるはずよ。今のところ寝台も生活用品も見つかってない」
「まだ四部屋しか見てないからな」
「そうだけど」
シリルは会話を聞きながら先へ進み、装置の周囲を調べていた。
「こっちに文字がある」
全員が奥へ移動する。
円形装置の下部に、三つ目の部屋で見たものとよく似た文字列が刻まれていた。
フィーナが杖の光を近づける。
「さっき読めるようになった文字と似てる」
「読めそう?」
「一部なら」
彼女は慎重に文字を追った。
「循環……維持……正常」
「今も正常ってこと?」
「たぶん。ただ、その下はまた古語になってる」
エリオは文字そのものではなく、装置の音を聞いていた。
低い駆動音が一定の周期で続いている。
大きく吸い込む。
空気が管の中を移動する。
やがて、ゆっくり吐き出す。
この音を聞いていると、本当に巨大な肺の中へ入ったような感覚があった。
そのとき、エリオの耳に、循環音とは別の小さな音が混じった。
一度だけではない。
低い駆動音のたびに、同じ位置で小さな引っかかりがある。
「セドリック」
「どうした?」
「ここの音、少しおかしいです」
エリオは装置の左側を指した。
「全部同じように動いてるけど、この辺だけ毎回別の音が混じる」
フィーナとシリルが近づく。
外から見た限りでは異常はない。
エリオは耳を澄ませながら、何度か位置を変えた。
音は装置の内部からしている。
金属同士が当たっているような硬い音ではなく、何かが薄い板へ触れて離れるような、柔らかい音だった。
「壊れかけてる?」
シリルが尋ねる。
「荷車のときみたいな感じじゃない。もっと……何か入ってるみたいな」
「中に?」
「たぶん」
セドリックはすぐに装置を開けようとはしなかった。
「外せそうな部分はあるか?」
シリルが周囲を調べると、左側の壁に小さな四角い蓋が見つかった。留め具らしいものはあるが、現代の道具では簡単に外せそうにない。
フィーナが魔力の流れを確認し、そこだけ装置本体から独立していることを確かめた。
「開けても本体は止まらないと思う」
「思う、か」
「絶対とは言えないわよ」
「なら無理はしない」
セドリックがそう判断した直後、エリオは別の方法を思いついた。
「音だけなら中を調べられるかもしれません」
「どうやって?」
「小さい音を鳴らして、返ってくる音を聞きます」
廃坑で壁の向こうを調べたのと同じ方法だった。
ただし今回は壊れやすそうな装置なので、直接叩くことはしない。
エリオは《残響記録》の中から、ごく短く乾いた音を選んだ。
前世で指を鳴らしたときに録れた、小さな破裂音。
それを装置の前で、できるだけ弱く再生する。
パチ。
音が狭い空間へ入り込み、内部で複雑に反射して戻ってくる。
エリオは一度聞いただけでは判断せず、少し位置を変えて同じ音を再生した。
三度目で、内部の形がある程度見えてきた。
「空洞があります」
「この中に?」
「はい。それと……薄いものが一枚」
「薄いもの?」
「紙みたいな音だけど、紙より硬い」
シリルが蓋をもう一度調べる。
「なら、何か入れる場所だった可能性はあるな」
フィーナが慎重に留め具へ魔力を流した。
すると、古い機構が生きていたのか、四角い蓋から小さな音がして自然に浮き上がった。
「触らないで」
フィーナが全員を止め、魔力の変化がないことを確認してから、シリルがゆっくり蓋を開く。
中に入っていたのは、薄い透明な板だった。
先ほど拾った筒と同じ材質に見える。
大きさは手のひらほど。
表面には何本もの線と小さな記号が刻まれていた。
「また文字?」
セドリックが尋ねる。
「文字もあるけど……これは図じゃないかしら」
フィーナが光を当てる。
透明板の中央には大きな円が一つあり、その周囲を八つの小さな円が囲んでいる。
エリオたちは同時に黙った。
「これ」
シリルが言った。
「今いる場所に似てないか?」
中央の円。
その周囲に並ぶ八つ。
地下の円形空間と八つの扉。
形はほとんど同じだった。
さらに透明板には、八つの円のうち一つだけに細い線が引かれていた。
その線は中央へ向かって伸び、途中で途切れている。
「ひとつだけ違う」
エリオが言った。
フィーナも頷く。
「さっきの『ひとつ戻った』と関係ある?」
「分からない。でも」
エリオは板の端に刻まれた記号を見る。
七つ並んだ同じ形の印。
その隣に、一つだけ異なる印。
文字は読めない。
しかし数だけなら分かる。
「また、七と一だ」
セドリックもそれに気づいた。
偶然と呼ぶには、同じ組み合わせが続きすぎている。
エリオは透明板へ近づきすぎないよう注意しながら、表面を観察した。
八つの円。
七つの同じ印。
一つだけ違う印。
そして中央へ向かう線。
もしこれが施設の図なのだとしたら、八つの扉の先にあるものが、それぞれ別の「記録」と対応している可能性がある。
「全部の扉を開けたら、中央で何か起こるのかな」
エリオが呟くと、セドリックがすぐに答えた。
「だからこそ、今日はここまでだ」
エリオは思わず彼を見る。
「まだ何もしてません」
「その顔で言っても信用できない」
「みんな本当に最近それ言いますね」
「お前が毎回、気になるものを見つけるたびに近づこうとするからだ」
言われてみれば否定できなかった。
フィーナが小さく笑いながらも、透明板を元の場所へ戻す。
「私も続きは気になるけど、セドリックが正しいわ。これだけ情報が増えたら、一度整理した方がいい」
シリルも蓋を閉じながら頷いた。
「帰り道もあるしな」
エリオは名残惜しさを感じながら、もう一度装置の音を聞いた。
低い循環音は、何事もなかったように一定の周期で続いている。
何百年もの間。
誰もいない地下で。
空気を送り続けていた。
この施設が何を守っていたのかは、まだ分からない。
それでも、少なくとも無意味に動き続けていたわけではないような気がした。
◇
神殿の外へ出たときには、森の光がすでに夕方の色へ変わっていた。
地下に長くいたせいか、木々の間から差し込む西日がやけに眩しく感じられる。
一行は神殿から少し離れた安全な場所を選び、そこで野営することになった。
シリルとバルガスが周囲を確認し、セドリックが簡単な火を準備する。フィーナは今日の記録をもう一度整理し始めた。
エリオは少し離れた場所へ座り、しばらく森の音を聞いていた。
鳥の声。
枝が風に揺れる音。
火が小さく爆ぜる音。
遠くを移動している小動物の足音。
どれも、この世界へ来てから何度も聞いてきたものだった。
地下であまりにも不可思議な音ばかり聞いたせいか、普通の森の音が妙に安心できる。
「疲れたか?」
隣にセドリックが座った。
「少し」
「なら今日はもう能力を使うな」
「聞こえるものは勝手に入ってきますけど」
「記録するなって意味じゃない。考えるのをやめろ」
エリオは少し笑った。
「それは難しいです」
「だろうな」
セドリックも笑ったあと、火の方を眺めた。
しばらく二人とも何も言わなかった。
エリオはその沈黙を不快には感じなかった。
ミラやルークといるときとは違う。
二人とは気軽に何でも言えるようになったが、セドリックたちとはまだ知り合って数日しか経っていない。それでも、地下で一緒に危険を確認し、一つずつ判断を重ねたことで、最初に宿で会ったときより距離はかなり縮まっていた。
「前の世界に戻りたいか?」
唐突にセドリックが尋ねた。
エリオはすぐには答えられなかった。
考えたことがなかったわけではない。
前世の母の声を聞いたばかりだからこそ、余計に答えづらかった。
「分かりません」
結局、正直にそう言った。
「十五年経ってるし、今の父さんと母さんもいる。ミラとルークもいるし」
「そうか」
「でも」
エリオは少しだけ間を置いた。
「母さんの声を聞いたら、会いたいとは思いました」
「それは普通だろ」
セドリックはそれ以上何も聞かなかった。
同情するでもなく、慰めようとするでもない。
ただ、その答えをそのまま受け取った。
エリオには、その距離感がありがたかった。
火の向こうでは、フィーナがシリルに何かを説明しながら身振りまで交えている。シリルは途中から明らかに理解していない顔をしていたが、それでも逃げずに聞いていた。
バルガスは黙って鍋を見ている。
勇者候補のパーティというから、もっと特別な集団だと思っていた。
実際、戦闘能力も経験もエリオたちより遥かに上だろう。
それでも、こうして野営しているところだけ見れば、普通の冒険者たちとそれほど変わらない。
エリオは、彼らと一緒にいることを少しずつ心地よいと感じ始めていた。
「明日は?」
エリオが尋ねる。
「朝の状態を見て決める」
「続き、見ます?」
「お前が元気ならな」
「元気です」
「今聞いたばかりだぞ」
「明日の話です」
セドリックは呆れたように笑った。
「本当に音が好きなんだな」
その言葉に、エリオは少し考えてから頷いた。
前世でも。
この世界でも。
そこだけは変わらなかった。
ただ、今は昔と違う。
以前は消えていく音を残したくて集めていた。
今は、その音の中に何が残されているのかを知りたくて聞いている。
似ているようで、少し違う。
エリオは燃える薪の音を聞きながら、今日見つけた透明板の形を思い返した。
八つの円。
七つの印。
一つだけ違う印。
まだ答えは出ない。
けれど、急ぐ必要もない。
音は消えない。
少なくとも、自分が聞いている限りは。
明日また、続きを聞けばいい。
そう思えることが、今のエリオには少しだけ嬉しかった。




