残存記録数、七
白い円盤の光が完全に消えてからも、部屋の空気はしばらく動かなかった。
『今度は、全部返すから』
その言葉だけが、エリオの中に強く残っていた。
これまで《残響記録》に残っている音には、どれほど古いものであっても必ず「自分がそれを聞いた」という記憶が伴っていた。前世で相沢律として暮らしていた頃の音であっても、この世界へ生まれ変わってから聞いた音であっても、それがどこで、どんな状況で耳に入ったものなのかを辿ることができる。
ところが、今の少女の言葉にはそれがなかった。
聞いた覚えのない言葉なのに、音だけははっきりと《残響記録》へ残っている。声の高さも、言葉と言葉の間に入るわずかな息も、最後の音が少しだけ弱くなる癖も完全に再生できる。それはつまり、今この場で初めて聞いた音だということになる。
円盤がエリオの記憶を読み取っているだけなら、こんなことは起こらない。
エリオが自分の中にある音を与え、それに対して何者かが新しい言葉を返してきた。
少なくとも、そう考えなければ説明がつかなかった。
「エリオ」
セドリックに名前を呼ばれ、エリオはようやく白い円盤から視線を外した。
「大丈夫か?」
「はい。少し考えていただけです」
答えながらも、自分の声がいつもより硬いことには気づいていた。
セドリックもそれを感じ取ったのだろう。円盤とエリオを交互に見たあと、すぐに結論を出した。
「もう一度あれに近づくのはやめておこう。少なくとも、どういう仕組みでお前の記憶に触れているのか分かるまでは」
フィーナも、珍しく迷わず頷いた。
「私も賛成。記憶に残っている音を引き出すだけでも、今の魔術理論では説明できないのに、さらにこちらが知らない言葉まで返してきたとなると、普通の魔道具として扱うのは危険よ」
その言い方を聞いたシリルが、白い円盤へ慎重な目を向けた。
「それって、生きてるってことか?」
「そういう意味ではないわ。自律的に反応する魔道具だってあるし、決められた条件で記録を返す仕組みかもしれない。ただ、私たちにはその条件が分からないの。だから下手に触らない方がいいって話」
フィーナはそう答えたものの、声にはいつもの自信がなかった。
未知の魔術に対する興味は強いはずなのに、それ以上に警戒している。
エリオも同じだった。
棚に並べられた無数の黒い円盤は、どれもわずかな音を発している。子どもの笑い声、遠い波音、聞いたことのない獣の声、複数の人間が同時に何かを話しているようなざわめき。その一つ一つを詳しく調べれば、さらに多くのことが分かるかもしれない。
だが、今は情報が足りなさすぎる。
黒牙狼の声を意味も理解せず再生し、本物を呼び寄せてしまったときとは状況が違うものの、本質的には同じだった。
音は、ただ聞こえるだけのものではない。
何を意味しているのか。
誰に向けられているのか。
それを鳴らした結果、何が起きるのか。
そこまで分からなければ、安全に扱うことはできない。
「この部屋は、今分かる範囲だけ記録して先へ進んだ方がいいと思います」
エリオがそう提案すると、セドリックはすぐに頷いた。
「俺もそのつもりだ。ここだけで全部調べようとしたら、何日かかるか分からない。それに、あの少女が八つの扉を順番に反応させたことを考えると、部屋の並びそのものにも意味があるはずだ」
フィーナは名残惜しそうに棚を見回したが、反論はしなかった。
シリルが棚の配置と円盤の位置を簡単な図へ写し取り、フィーナは白い円盤だけが他と異なることや、触れずとも微弱な魔力反応があったことを書き留めていく。持ち出すことはせず、できる限り最初に見つけた状態を保つことにした。
エリオも、聞こえた音を自分なりに整理していった。
前世では、録音したファイルへ日付や場所を付け、あとから探せるよう分類していた。《残響記録》は音そのものを失わないが、勝手に整理までしてくれるわけではない。何千、何万という音が増えていけば、どれをどう使うかは本人の管理次第になる。
能力が優れているから使えるのではない。
何を記録し、何と比較し、いつ取り出すのか。
その部分は、相沢律として音を集めていた頃と何も変わらなかった。
◇
三つ目の扉を開くための音を探し出すまでには、少し時間がかかった。
少女が光の姿で現れたときに話していた古語の記録を、《残響記録》の中で一つずつ辿っていく。彼女が言葉を口にするたび、八つの扉のうち一つが微かな高音を返していた。その対応関係を順番に確認し、三番目の扉が反応した直前の短い音だけを切り出す。
『――ネア・フィル』
エリオが記録通りに再生すると、石扉の中央にあったくぼみへ淡い緑色の光が灯った。
これまでと同じように、細い光の線が石の表面を走り、複雑な模様を描きながら外側へ広がっていく。全員が十分に距離を取り、バルガスは盾を構え、セドリックとシリルもすぐに動ける姿勢で扉が開くのを待った。
やがて重い石がゆっくり左右へ動き、その向こうに現れた光景を見て、フィーナが思わず声を漏らした。
「……庭?」
地下にある部屋としては、あまりにも奇妙な光景だった。
これまでの二つの部屋は、石と魔道具だけで構成された無機質な空間だった。ところが三つ目の部屋には、床の大部分へ土が敷かれている。
細長い部屋の左右には浅い石造りの水路が伸び、中央には一定の間隔を空けて植物らしきものが並んでいた。ただし、そのほとんどは完全に枯れている。茶色く乾いた細い茎だけが土から突き出し、葉はほとんど残っていない。
天井には丸い透明板のようなものがいくつも埋め込まれていた。
地上の光を取り込んでいたのか、それとも魔術で明かりを作っていたのかは分からない。
「こんな地下で何を育ててたんだ?」
シリルは警戒を崩さないまま室内を見回した。
エリオも慎重に足を踏み入れたが、最初に気づいたのは視覚的な違和感ではなかった。
「水が流れてる」
セドリックが水路を見る。
「どこにだ? ここは乾いてるぞ」
「この部屋の中じゃないです。もっと下から聞こえる」
エリオは耳を澄ませながら、ゆっくり位置を変えた。
床の下を流れる水の音が、ごく小さく聞こえている。一定方向へ動いているため、地下水が自然に流れているだけかもしれないが、部屋の水路と何らかの形で接続されている可能性もあった。
フィーナがしゃがみ込み、土へ指先を触れる。
「乾いてるわね。少なくとも、今は水が上がってきてない」
「昔は水路に流してたのかも」
「だったら、地下にある水を持ち上げる仕組みがどこかにあるはずね」
フィーナはそう言いながら、部屋の中央にある石柱へ目を向けた。
腰ほどの高さしかない簡素な柱で、上には何も置かれていない。側面にはこれまでの部屋と同じように細かな文字が刻まれていたが、形は少し単純に見えた。
「これも読めない?」
エリオが尋ねる。
「今は無理。ただ、今までの文章っぽい文字列とは違うわね。数字とか、設備を示す記号かもしれない」
フィーナが文字を調べている間に、エリオは石柱そのものから発せられている微かな振動へ気づいた。
耳を近づけると、一定の間隔で小さな音が続いている。
完全に止まった石の塊から自然に出るような音ではない。
「これもまだ動いてます」
フィーナがすぐに杖を近づけた。
「ほんの少しだけど、魔力反応がある。ここも機能の一部は残ってるみたい」
「何百年も前のものなんですよね?」
「少なくとも、今の王国ができるより前の可能性が高いわ。それなのに動いてるからおかしいのよ」
エリオは改めて部屋全体を見回した。
音を保管する大量の円盤。
今も動き続ける設備。
水路。
植物を育てるための場所らしい部屋。
これまで神殿と呼んでいたが、宗教施設という印象はだんだん薄れてきている。
「音を保存するだけの場所に、畑みたいな部屋まで必要かな」
エリオが呟くと、フィーナが石柱から顔を上げた。
「ここに長く滞在する必要があったなら必要でしょうね。食料を外から持ち込めなかったとか」
「出られなかった?」
エリオが言うと、セドリックが少し間を置いてから答えた。
「それか、出なかった」
その違いは大きかった。
災害や戦争で外へ出られなかったのか。
何かを守るため、自分たちの意思で外へ出なかったのか。
今のところ答えはない。
エリオが考えながら室内を眺めていると、右奥から乾いた小さな音が聞こえた。
何か硬いものが床を一度だけ転がったような音だった。
「右奥で何か落ちました」
全員がすぐに身構える。
エリオが方向を示すと、シリルが慎重に先へ進み、枯れた茎の間を調べた。
「これか」
彼が拾い上げたのは、指ほどの長さしかない透明な筒だった。
中には何も入っていないように見える。
フィーナが受け取り、光へ透かして確認する。
「ガラスじゃないわね。かなり似てるけど、魔力を通しやすい素材みたい」
その細長い形を見た瞬間、エリオには前世の道具が浮かんだ。
「試験管に似てる」
「しけんかん?」
「前の世界にあった道具です。液体とかを少量入れて調べるための細い容器」
「じゃあ、ここは植物を育てるだけじゃなくて、何かを調べてた可能性もある?」
「形が似てるだけだから、そこまでは分からないけど」
フィーナがさらに筒を調べると、底の内側に非常に細かな文字らしきものが刻まれていることが分かった。しかし肉眼では判別しづらく、今その場で解読するのは難しい。
周囲の設備から外れて落ちていたこと、魔力的な接続がないことを確認したうえで、セドリックは調査品として一つだけ持ち帰ることを許可した。シリルが布で丁寧に包み、荷物の中へ収める。
その後もしばらく部屋を調べたが、目立った発見はなかった。
セドリックが次の部屋へ進むため戻ろうとしたとき、エリオの耳に、ごく小さな音が触れた。
乾いた葉が擦れるような音だった。
ただし、この部屋には風がない。
しかも、目に入る植物はどれも完全に枯れている。
「待ってください」
エリオは足を止め、音がした方へ耳を向けた。
「何かいる?」
セドリックがすぐに尋ねる。
「生き物かどうかは分からないです。ただ、植物の辺りから音がした」
エリオは枯れた茎の間をゆっくり進んだ。
もう一度、葉の擦れる音が聞こえる。
今度は場所を特定できた。
部屋の一番奥、周囲の枯れた植物に隠れるようにして、小さな銀色の芽が一本だけ生えていた。
「生きてる……」
フィーナが驚いたように近づこうとしたため、エリオは反射的に手を上げた。
「待って」
「何?」
「葉が動いた音だけじゃない」
エリオは銀色の芽から少し距離を取り、意識を集中した。
二枚しかない細い葉から、非常に小さな高音が出ている。
単に風を受けて葉が鳴っているのではない。
音の高さが一定の規則で変化している。
一音鳴り、少し高さが上がる。
さらにもう一音。
それを繰り返しながら、全部で七つの異なる高さを順番に並べているように聞こえた。
「植物そのものが音を出してる」
フィーナは信じられないという顔をした。
「鳴く植物なら聞いたことはあるけど、そういうもの?」
「たぶん違う。これは鳴き声というより……音を順番に並べてる」
エリオは、その並びに妙な懐かしさを覚えていた。
この世界で聞いた音ではない。
相沢律として生きていた頃、もっと当たり前のものとして耳にしていた。
学校でも。
楽器でも。
音を説明するときにも。
高さの違う音を一定の順序で並べるもの。
「ドレミに似てる」
思わず前世の言葉を口にしてしまい、当然ながらフィーナたちは意味が分からずこちらを見た。
「何だそれ?」
セドリックに尋ねられ、エリオは少し言葉を選んだ。
「前の世界では、音の高さを区別するために名前をつけていたんです。低い音から順番に上げていくとき、決まった並びがあって。この植物が出してる音は、それにかなり近い」
「同じなの?」
「完全に同じではないです。でも、偶然にしては並び方が似てる」
声だけなら似ていることもある。
音階に近いものなら、世界が違っても偶然似る可能性だってある。
そう考えることはできた。
ただ、これまでの出来事が多すぎる。
少女の声。
転生時と同じ高音。
前世の列車の音。
母の声。
そして今度は、律が知っていた音階に似た音の並び。
前世の世界とこの場所の間には、何らかの共通点がある。
その可能性を無視できなくなっていた。
銀色の芽は、もう一度同じ七つの音を順番に鳴らした。
最初の音から少しずつ高さが上がり、七番目で一つのまとまりが終わる。
ところが今回は、そのあとにもう一音だけ別の高音が続いた。
非常に澄んだ、細い音だった。
エリオはその瞬間に気づいた。
転生した夜、耳を貫いた高音。
地下の台座から聞こえた高音。
それらと同じ種類の音だった。
ただし今回は、痛みを感じるほど大きくはない。
遠くで小さな金属片を鳴らしたような、ごく静かな一音だった。
その音が鳴り終わると同時に、部屋の中央に立つ石柱が反応した。
「下がれ!」
セドリックの指示で全員がすぐに距離を取る。
石柱の側面に刻まれていた文字が淡く発光し、これまで判別できなかった線の一部が別の形へ変化していった。
「文字が変わった」
フィーナは杖を構えたまま、その変化を目で追っていた。
「読める?」
セドリックが尋ねる。
「少し待って。古語じゃなくなってる部分がある」
彼女は慎重に文字を確認し、何度か現在使われている文字と形を比較しているようだった。
やがて最初の一行を読み取る。
「保存区画、第三層……だと思う」
これまで完全に意味の分からなかった施設に、初めて具体的な名称がついた。
神殿ではなく。
保存区画。
その言葉自体が、この場所の性質を示しているように思えた。
さらに、その下にも別の文字が浮かび上がる。
フィーナはしばらく黙っていたが、途中で表情を変えた。
「残存記録数……」
そこで一度言葉が止まったため、セドリックが尋ねる。
「いくつだ?」
フィーナは発光する数字らしき文字をもう一度確認してから、ゆっくり答えた。
「七」
その数字を聞いた瞬間、エリオの中でいくつかの情報が自然に並んだ。
銀色の植物が鳴らした七つの音。
円形の部屋に並ぶ八つの扉。
そして、最初の黒い円盤から聞こえた少女の言葉。
『やっと、ひとつ戻った』
もし、あの「ひとつ」が何らかの記録を指しているのだとしたら。
一つが戻った。
残っているのは七つ。
合計すれば八つになる。
それは、円形の部屋に並んでいた扉の数と一致している。
「……全部で八つだったのかもしれない」
エリオは石柱と銀色の芽を交互に見ながら、そう口にした。
まだ推測にすぎない。
それでも初めて、この遺跡に散らばっていた数字と少女の言葉が、一つの形につながり始めていた。




