記憶の続き
母の声だと口にした直後、エリオは自分の中に生まれた違和感に気づいた。
懐かしい。
間違えるはずがない。
十五年以上聞いていなくても、声の高さも、語尾の癖も、少しだけ息を混ぜる話し方も覚えている。相沢律として生きていた頃、毎日のように耳にしていた声だった。
それなのに。
「……違う」
エリオは小さく呟いた。
「何が違う?」
セドリックが尋ねる。
エリオは白い円盤を見つめたまま、すぐには答えなかった。
考えれば考えるほど、おかしい。
「母さんは、僕をエリオなんて呼ばない」
フィーナが眉を寄せる。
「どういうこと?」
「前の世界での僕の名前は、律です」
これまで名前までは話していなかった。
「相沢律。それが前の世界での僕の名前でした。だから母さんが僕を呼ぶなら、律って呼ぶはずなんです」
先ほど聞こえた声は、確かに言った。
『――エリオ』
聞き間違いではない。
声は母のものなのに、呼ばれた名前だけが現在の自分のものだった。
つまり、単純に前世の音が保存されていたわけではない。
「じゃあ」
シリルが白い円盤を見ながら言った。
「その円盤は、お前の母親が昔言ったことを再生したわけじゃない?」
「少なくとも、『エリオ』って呼んだ記憶は存在しない」
「当然ね。あなたがエリオになったのは、この世界へ来てからなんだから」
フィーナはしばらく黙っていたが、やがて白い円盤へ視線を向けた。
「声だけを使った?」
「声だけ?」
「あなたが覚えている母親の声を使って、別の言葉を作った」
エリオは答えなかった。
そんなことが可能なのだろうか。
前世なら、録音した人間の声を加工し、本人が実際には口にしていない言葉を作る技術について聞いたことはある。しかし、ここはそんな機械が存在する世界ではない。
そもそも、この円盤はどうやって母の声を知ったのか。
「……もう一度聞いてみます」
エリオは白い円盤へ少し近づいた。
「触るなよ」
セドリックがすぐに言う。
「触りません」
「さっきも似たことを言って触っただろ」
「あれは」
「触ったな」
「……はい」
反論できなかった。
エリオは石台から十分に距離を取ったまま、耳を澄ませた。
白い円盤からは、もう何も聞こえてこない。
先ほどの声は一度きりだったらしい。
エリオは迷った末、円盤へ向かって声をかけた。
「聞こえてる?」
反応はない。
「エリオ?」
フィーナが不思議そうに見る。
「試してるだけです」
「何を?」
「向こうから僕の名前を呼んだなら、ただ記録を流してるだけじゃない可能性があるから」
もしこちらを認識しているのなら、何か反応するかもしれない。
「僕の名前は、エリオ」
静寂。
「前の名前は、律」
その瞬間だった。
白い円盤の中央に、細い光が灯った。
「反応した」
シリルが腰の短剣へ手をかける。
円盤から、低い振動音が聞こえ始めた。
トン。
間を置いて。
トン。
先ほどエリオが鼓動に似ていると感じた音だった。
それが少しずつ速くなっていく。
トン。
トン。
トン。
やがて光が円盤全体へ広がった。
そして。
『律』
今度こそ。
母の声が、前世の名前を呼んだ。
エリオの呼吸が止まった。
「今、何て?」
フィーナが尋ねる。
「……律」
「前の名前?」
「うん」
次に聞こえてきたのは、食器の触れ合う音だった。
カチャ、と陶器が机へ置かれる。
そのすぐあとに母の声が続いた。
『律、ご飯できてるよ』
エリオは何も言えなかった。
知っている。
これは知っている。
特別な言葉ではない。
むしろ、あまりにも普通の日常だった。
仕事から帰り、自室で録音したデータを確認していた夜。部屋の外から母が声をかけてきたことが何度もある。
同じ言葉を聞いた日も、おそらく一度や二度ではなかった。
だから、どの日の記憶なのかは分からない。
それでも。
エリオの中には、その音が残っている。
「……これ、僕が覚えてる音だ」
「円盤にも保存されていたんじゃなくて?」
「違うと思う」
エリオは首を振った。
自信があった。
「この音は、僕の記憶にある」
続いて別の音が流れた。
雨。
窓を叩く、小さな雨粒。
パソコンのキーボードを打つ音。
マウスをクリックする音。
椅子が僅かに軋む。
どれも前世では何度も聞いた。
そして、どれもこの世界には存在しない。
次々と流れてくる音を聞いているうちに、エリオはあることに気づいた。
全部、自分が覚えている。
列車の走行音もそうだった。
最初の黒い円盤から聞こえたときは、この遺跡に前世の世界の音が保存されているのだと思った。
しかし。
「もしかして……」
エリオは棚に並ぶ黒い円盤を見回した。
「最初からここに入ってたんじゃない?」
セドリックが問い返す。
「何が?」
「あの電車の音」
エリオは白い円盤を指した。
「この円盤が今、僕の記憶にある音を出したなら、最初に聞いた電車の音も同じなのかもしれない」
「つまり?」
「この場所が、僕の中にある音を読んでる」
フィーナの表情が変わった。
「《残響記録》から?」
エリオは答えられなかった。
だが、その可能性が一番高い。
この世界で聞いた音だけではない。
《残響記録》には、前世の音まで残っている。
七歳で《恩恵》を授かったときから不思議ではあった。普通なら幼い頃の音ほど曖昧になっていくはずなのに、相沢律として聞いた音だけは、転生後もほとんど失われていなかった。
今まで、それも能力の一部なのだと思っていた。
けれど。
本当にそうなのだろうか。
「《恩恵》って、生まれたときから持ってるものなの?」
エリオはフィーナに尋ねた。
「基本的にはそう考えられてるわ。七歳で授かるんじゃなくて、七歳で内容を確認できるようになる、と」
「じゃあ、名前は誰が決める?」
「名前?」
「《残響記録》っていう名前」
フィーナは少し考えた。
「鑑定具に表示されたものを神官が読む。少なくとも私たちはそう教わってる」
「その鑑定具を作ったのは?」
今度は答えが返ってこなかった。
「……知らない」
フィーナがゆっくり言う。
「教会の鑑定石はかなり古い魔道具よ。でも、誰が最初に作ったのかまでは」
エリオの中で、今まで別々だったものが少しずつつながり始めた。
古式詠唱。
音で開く扉。
音を保存する円盤。
そして、《残響記録》。
「まさか」
フィーナも同じところへ辿り着いたらしい。
「あなたの《恩恵》そのものが、この遺跡の技術と関係してる?」
部屋が静かになった。
エリオはすぐに肯定できなかった。
証拠がない。
だが、否定する根拠もなかった。
七歳のとき、神官は《残響記録》を珍しい《恩恵》だと言った。
記録には存在する。
しかし、実際に見るのは初めてだと。
もし、現代ではほとんど失われた力なのだとしたら。
「待って」
セドリックが言った。
「考えるのはいいが、決めつけるな」
エリオとフィーナが同時に彼を見る。
「今分かっているのは、この場所がエリオの記憶にある音を何らかの方法で引き出している。それだけだ」
冷静な指摘だった。
「《残響記録》が原因なのか、エリオ自身に何かあるのか、それとも別の理由なのかはまだ分からない」
「……そうですね」
エリオは頷いた。
音を扱うときも同じだった。
似ているから同じだと決めつければ、判断を間違える。
まず事実を集める。
「もう少し試したい」
エリオは白い円盤を見た。
「危険じゃない範囲で」
「何をする?」
「僕が今まで一度も聞いたことのない音を出せるか確かめます」
「どうやって?」
「この世界の音なら、みんなの方が知ってるものがある」
エリオはセドリックを見る。
「僕が知らない音、何かありますか?」
「急に言われてもな」
「エリオが聞いたことのないもの……」
フィーナが考える。
やがてシリルが口を開いた。
「王都の大鐘は?」
「聞いたことない」
「王都の中央聖堂にある。年に一度しか鳴らさない」
「シリルは聞いた?」
「ある」
ちょうどいい。
「音を真似しないでください」
「できない」
「頭の中で思い出すだけで」
「それで何になる?」
「この円盤が僕の記憶しか読めないなら、何も起きない。でも、この部屋にいる人間全員から音を引き出せるなら――」
「王都の鐘が鳴る」
フィーナが続けた。
シリルは半信半疑の様子だったが、白い円盤へ向き直った。
「思い出せばいいんだな?」
「はい」
全員が黙った。
エリオも耳を澄ませる。
数秒。
白い円盤に変化はない。
さらに待つ。
何も聞こえなかった。
「鳴らないな」
シリルが言う。
「もう一回」
再び試す。
結果は同じだった。
フィーナが円盤を見つめる。
「エリオにしか反応してない?」
「少なくとも今のところは」
エリオは白い円盤へ近づいた。
触れずに、その前へ立つ。
「じゃあ」
一つ、確かめたいことがあった。
前世の記憶にある音。
それを自分で選び、意識的に強く思い出してみる。
エリオが選んだのは、雨音だった。
律だった頃、自宅の窓を叩いていた雨。
何度も録った。
何度も聞いた。
ありふれていて、それでも好きだった音。
頭の中で思い出す。
数秒後。
白い円盤から、雨の音が流れ始めた。
フィーナが息を呑んだ。
「……本当に読んでる」
エリオは今度は別の音を考えた。
踏切。
警報音。
遮断機が下りる機械音。
遠くから近づく列車。
すぐに円盤の音が切り替わった。
カン、カン、カン、と規則的な警報音が部屋へ響く。
「すごいな」
セドリックが思わず呟いた。
だが、エリオは喜べなかった。
この円盤は、自分の中にある音へ触れることができる。
それが便利なのか危険なのかも分からない。
もし音だけではなく、もっと深いところまで読まれているのなら。
そう考えたところで、円盤が勝手に音を変えた。
「……え?」
エリオは何も思い出していない。
少なくとも、その音を選んではいなかった。
川の流れ。
車の走行音。
風。
第1話――ではない。相沢律として最後の日、川沿いで録った環境音だった。
あの日の録音が、そのまま再生されている。
「これは……」
エリオの身体が強張る。
十三分四十二秒。
その位置まで来れば、何が入っているか知っている。
「止められる?」
フィーナが尋ねた。
エリオは意識を逸らそうとした。
別の音を思い浮かべる。
だが、円盤は止まらない。
川。
車。
風。
そして。
『――まだ、聞こえる?』
少女の声。
全員が息を呑んだ。
その直後だった。
録音には存在しなかった音が続いた。
『大丈夫』
エリオは目を見開く。
知らない言葉ではない。
少女の声だった。
同じ声。
しかし、相沢律の録音には絶対に入っていなかった。
『今度は、全部返すから』
白い円盤の光が強くなる。
「エリオ!」
セドリックが腕を掴み、石台から引き離した。
その瞬間、音が途切れた。
円盤の光も消える。
誰も動かなかった。
「……今のも」
フィーナが慎重に尋ねる。
「昔聞いた言葉?」
エリオは首を振った。
「聞いたことない」
「じゃあ、記憶じゃない」
「うん」
これまでの仮説が、一つ崩れた。
円盤はエリオの記憶を読むことができる。
それだけではない。
その記憶の続きを、何者かがこちらへ返してきた。
『今度は、全部返すから』
何を。
エリオはその言葉を《残響記録》へ刻みながら、棚いっぱいに並んだ黒い円盤を見渡した。
失われた音。
保存された音。
そして、返される音。
自分がこの場所へ呼ばれた理由は、思っていたよりもずっと大きなものなのかもしれなかった。




