音の保管庫
少女の声が途切れたあとも、エリオは黒い円盤から目を離せなかった。
『やっと、ひとつ戻った』
意味を理解できたのは、今回も自分だけだった。
それ以上に気になるのは、その直前に聞こえた音だった。車輪が一定の間隔で線路の継ぎ目を越えていく、規則的な走行音。十五年以上前まで相沢律として暮らしていた世界では、珍しくも何ともなかった音だ。
通勤でも聞いた。
休日に録音へ出かけるときにも聞いた。
駅のホームで電車を待っていれば、嫌でも耳に入ってきた。
だからこそ間違えようがない。
この世界には鉄道など存在しない。
少なくとも、エリオが十五年間暮らし、冒険者として各地の話を聞いてきた中で、鉄の車輪を使って大量の人間を高速で運ぶ乗り物など一度も耳にしたことがなかった。
「僕のいた世界の音が入ってる」
改めてそう口にすると、フィーナが黒い円盤を見た。
「さっきの音?」
「うん」
「どんなものなの?」
どう説明すればいいのか、エリオは少し迷った。
「大きな乗り物があって、決められた道の上を鉄の車輪で走るんです。何十人どころか、もっと大勢を一度に運べる」
「馬車みたいなもの?」
「似てるけど、馬は使わない」
「魔道具?」
「向こうには魔力そのものがなかったから、魔道具でもない」
フィーナはすぐには理解できなかったらしく、眉間へ皺を寄せた。
無理もない。この世界で育った人間へ電車を説明しようとすれば、鉄道や動力から話さなければならなくなる。今ここで必要なのは、前世の技術について講義することではなかった。
「とにかく」
セドリックが話を戻した。
「この遺跡に、エリオの前世の世界にしか存在しないはずの音が保存されている。それでいいな?」
「はい」
「なら、さっきの少女の声と合わせて考えても、君がここへ来たこととこの遺跡には何か関係がある」
エリオは頷いた。
否定できる材料は、もうほとんど残っていなかった。
十五年前、別世界で少女の声を聞いた。
同じ高音をきっかけに、この世界へ転生した。
その少女の声が、この古い神殿に残っている。
台座からは転生時と同じ高音が鳴った。
さらに、別世界にしか存在しないはずの音まで保存されている。
これをすべて偶然だと考える方が難しい。
「問題は、この円盤が何なのかね」
フィーナが杖の先を近づけた。
触れない程度の距離から魔力の流れを探っているようだった。
「さっきより反応が弱くなってる。でも、まだ微量の魔力は動いてる」
「持ち帰れるか?」
シリルが尋ねる。
「待って」
フィーナはすぐに答えなかった。
「台座とつながってる可能性がある。外した瞬間に壊れるかもしれないし、別の仕掛けが動く可能性もあるわ」
「じゃあ、まず調べるしかないな」
セドリックが言った。
エリオも同意した。
何より、自分自身がこのまま持ち出すことには抵抗があった。
前世の音が入っている。
それだけで、どうしても慎重になる。
円盤の表面は黒く、光をほとんど反射しない。金属にも石にも見えるが、どちらなのかは判別できなかった。直径は大人の手のひらより少し大きい程度で、中央にはごく細い溝が何本も刻まれている。
エリオは少し距離を取ったまま耳を澄ませた。
先ほどまで聞こえていた無数の声は止んでいる。
完全な静寂。
いや。
「……まだ鳴ってる」
「何が?」
セドリックが尋ねる。
「すごく小さい音」
エリオは石台の周囲をゆっくり移動した。
右。
左。
少し屈んで、円盤と耳の高さを合わせる。
一定の間隔で、微かな振動がある。
キンという鋭い高音ではない。
もっと低く、短い。
規則正しく繰り返している。
「鼓動みたいだ」
口にしたあと、自分でも妙な表現だと思った。
しかし、それが最も近かった。
トン。
少し間があり。
トン。
生き物の心臓ほど速くはない。
それでも、止まった物体から自然に生まれる振動には思えなかった。
「何かを待ってる?」
フィーナが呟いた。
「待つ?」
「魔道具の中には、条件を満たすまで休止状態になるものもあるわ。魔力を流すとか、決められた言葉を使うとか」
その言葉で、エリオは先ほどまでの流れを思い返した。
この神殿では、音が鍵になっている。
隠し扉も古式詠唱によって開いた。
地下の八つの扉も、少女が発した音に反応している。
ならば、この円盤にも。
「何か聞かせるんじゃないかな」
エリオが言った。
セドリックがすぐにこちらを見る。
「何を?」
「それが分からない」
「分からない音は再生しない約束だったな」
「覚えてます」
先回りされ、エリオは苦笑した。
だが、今回は無闇に音を出すつもりはなかった。
何を求めているのか。
その手がかりがないか探す。
黒い円盤から聞こえてきた音を、《残響記録》の中でもう一度確認する。
無数の囁き。
鉄道の走行音。
少女の声。
『やっと、ひとつ戻った』
ひとつ。
その言葉が引っかかった。
「戻ったって、何が?」
エリオは思わず呟いた。
「少女がそう言ったの?」
フィーナが尋ねる。
「うん。『やっと、ひとつ戻った』って」
「ひとつ、か」
セドリックも考え込む。
「さっき聞いた前世の音が戻った、という意味じゃないのか?」
その可能性はある。
だが、何かが違う気がした。
鉄道の音は、円盤の中にすでに入っていた。
エリオがここへ来たことで新しく保存されたわけではない。
ならば、何が「戻った」のか。
エリオは円盤を見つめながら、自分がここへ来てからしたことを順番に思い返した。
古式詠唱を再生した。
扉を開いた。
少女の記録を呼び起こした。
そして。
「僕?」
「何が?」
「戻ったのって、音じゃなくて僕なのかもしれない」
口にした瞬間、自分の背筋が冷えた。
フィーナも表情を変える。
「それだと、まるであなたがここへ来ることを待ってたみたいじゃない」
「そうなる」
十五年前。
『見つけた』
あの少女は、確かにそう言った。
見つけた。
そして今。
やっと、ひとつ戻った。
自分が偶然この世界へ転生したのではないとしたら。
何かに見つけられ、ここへ連れてこられたのだとしたら。
「エリオ」
セドリックの声が静かに響いた。
「考えるのは後でもできる。今は、この場所で分かることを集めよう」
その言葉に、エリオは頷いた。
分からないことを考え続けても答えは出ない。
音を集めていた頃と同じだ。
まず記録する。
比較する。
それから考える。
◇
最初の小部屋を一通り調べても、黒い円盤以外に目立ったものはなかった。
壁には細かな文字が刻まれていたが、フィーナにも読むことはできない。エリオは念のため文字の配置を覚えようとしたものの、《残響記録》はあくまで音を扱う《恩恵》であり、見たものを完全に記憶できるわけではない。
シリルが簡単な図に写し取り、調査記録として残すことになった。
問題は、残る七つの扉だった。
「全部開ける?」
フィーナが尋ねる。
セドリックは少し考えた。
「少なくとも、順番には意味があるはずだ。少女が示した順に調べよう」
異論はなかった。
二つ目の扉の前へ移動する。
エリオは《残響記録》から、少女が二番目の扉を反応させた言葉を取り出した。
『――ソル・レイ』
全員が十分に距離を取る。
バルガスが盾を構え、セドリックとシリルもすぐに動ける姿勢を取った。
「いきます」
エリオが再生すると、扉の中央にあるくぼみが青白く輝いた。
最初の扉と同じように光の線が広がり、重い石がゆっくり左右へ分かれていく。
その向こうは、一つ目とはまるで違っていた。
部屋全体が細長い。
左右の壁に沿って、石の棚が何段も並んでいる。
そして棚の上には、小さな黒い円盤がいくつも置かれていた。
「……一個じゃない」
フィーナが呟く。
十や二十ではない。
奥まで続く棚いっぱいに並べられている。
エリオは入口から動けなかった。
耳へ、微かな音が届き始めている。
一つ一つの円盤から。
それぞれ違う音が。
話し声。
鐘。
動物の鳴き声。
水。
風。
金属。
聞いたことのない楽器のような音もある。
無数の音があまりにも小さく重なっているため、普通の人間にはただのざわめきにしか聞こえないだろう。
しかし《残響記録》を持つエリオには、その一つ一つが別々に存在していることが分かった。
「これ……全部、音を保存してる」
「全部?」
セドリックが室内を見渡した。
「少なくとも、何か入ってる」
エリオは慎重に中へ入った。
近くの棚に置かれた一枚から、子どもの笑い声が聞こえる。
隣からは、波が岩へ当たる音。
その隣では、聞いたことのない巨大な生き物が遠くで鳴いていた。
どれも短い。
しかし確かに音が残されている。
前世で自分が作っていたSE素材のサイトが、ふと頭に浮かんだ。
音を一つずつ記録し、分類して保存する。
規模も技術も違う。
それでも、やっていることは妙に似ていた。
「音の保管庫……」
エリオが呟く。
フィーナがこちらを見る。
「何?」
「前の世界で、僕も似たことをしてた。こんな魔法みたいなものじゃないけど、録った音を一つずつ保存してたんです」
「誰かが、ここで同じことをしてた?」
「たぶん」
胸の奥に、奇妙な感覚が広がる。
自分とはまったく違う時代。
まったく違う世界かもしれない。
それでも、この場所を作った誰かは音を残そうとしていた。
本来なら消えてしまうものを、なくならないように保存していた。
まるで。
自分と同じように。
エリオは棚の奥へ視線を移した。
そこで、一枚だけ他と違うものに気づいた。
黒い円盤の中に、白いものがある。
奥から三段目。
他の円盤とは明らかに材質が違う。
「エリオ、勝手に触るなよ」
動こうとしたところで、セドリックに釘を刺された。
「まだ何もしてないです」
「顔に出てた」
「最近みんなそれ言うな……」
シリルが白い円盤の周囲を調べ、フィーナが魔力の状態を確認する。
「罠らしいものはない」
「魔力もほとんど感じないわ」
許可を得て、エリオは円盤へ近づいた。
耳を寄せる。
何も聞こえない。
「空?」
そう思った直後。
ごく小さな音がした。
息。
誰かが、一度だけ息を吸った。
そして。
『――エリオ』
自分の名前が聞こえた。
エリオは反射的に後ろへ下がった。
「どうした!」
セドリックが剣へ手をかける。
エリオは白い円盤を見つめたまま答えた。
「……今」
喉が乾いていた。
「僕の名前を呼んだ」
「少女の声か?」
違う。
エリオはすぐに分かった。
あの少女の声ではない。
もっと低い。
落ち着いた女性の声。
そして何より。
エリオはその声を知っていた。
十五年以上聞いていない。
それでも、《残響記録》に頼る必要すらないほど覚えている。
「誰の声だ?」
セドリックがもう一度尋ねる。
エリオはしばらく答えられなかった。
あり得ない。
少女の声や鉄道の音とは意味が違う。
これは。
前世で毎日のように聞いていた声だった。
「……母さん」
相沢律だった頃の。
自分をそう呼んでいた人の声が。
この世界の古い遺跡に残っていた。




