この世界にない音
セドリックにそう言われても、エリオはすぐには口を開けなかった。
十五年間、一度も誰かに話したことのないことだった。
自分がこの世界で生まれる前に、別の場所で別の人間として生きていたこと。相沢律という名前で暮らし、仕事をし、休日になると音を集めていたこと。そして、見知らぬ少女の声と耳を貫く高音を最後に、気づけばエリオとして生まれていたこと。
自分にとっては記憶であり、事実だった。
だが、目の前の四人にとっては違う。
死んだ人間が別の世界で生まれ直したなどと言ったところで、簡単に信じられる話ではないだろう。
「全部話すと、たぶん長くなります」
ようやくそう言うと、セドリックは剣から手を離した。
「時間ならある」
「いや、ここ遺跡の地下だけど」
フィーナが横から口を挟む。
「長話する場所としては最悪じゃない?」
「それはそうだな」
セドリックは少し考えたあと、円形の部屋を見回した。
「なら要点だけでいい。今の調査に関係するところだけ話してくれ」
その言い方に、エリオは少しだけ救われた。
前世の人生すべてを説明する必要はない。
今ここで必要なのは、少女の声をなぜ知っているのか。それだけだった。
「僕は……この世界で生まれる前にも、生きていた記憶があります」
フィーナの眉が動いた。
シリルは何も言わず、バルガスも表情を変えない。
セドリックだけが静かに続きを待っていた。
「今とはまったく違う場所です。魔法も魔物もなくて、もっと……道具が発達していた世界でした」
「前世の記憶?」
フィーナが尋ねる。
「たぶん、それが一番近いです」
「転生の伝承なら聞いたことはあるわ」
意外な言葉に、エリオは彼女を見た。
「あるの?」
「お伽話みたいなものよ。死んだ人間の魂が別の身体へ移るとか、生まれる前の記憶を持った子どもがいたとか。ただ、魔術として証明された話じゃない」
「俺は初めて聞いた」
シリルが言った。
「普通はそうよ」
フィーナはそう答えてから、エリオへ視線を戻した。
「それで、その世界であの声を?」
「聞きました」
エリオは頷いた。
「僕は昔から音を集めるのが好きでした。特殊な道具を使って音を記録して、あとから何度でも聞けるようにしていたんです」
「《残響記録》みたいなもの?」
「近いです。ただ、あっちでは能力じゃなくて道具を使います」
フィーナは興味深そうな顔をしたが、今は質問を挟まなかった。
「ある日、川の近くで録った音を確認していたら、その中に知らない女の子の声が入っていました」
エリオは一度だけ息を整えた。
「『まだ、聞こえる?』って」
誰も言葉を発しなかった。
先ほど、この地下で全員が聞いたものと同じ言葉だった。
「そのあと、すごく高い音が聞こえました。さっき台座から鳴ったのと同じ音です」
「キン、という音か」
セドリックが確認する。
「はい。あのときはもっと強くて、耳の中を直接貫かれるみたいでした。視界が真っ白になって、最後に『見つけた』っていう声を聞いたところで意識がなくなった」
「その次に?」
「エリオとして生まれてました」
自分で口にすると、改めて途方もない話だと思う。
十五年前ですら、自分自身で理解するのに時間がかかったのだ。
ところが、セドリックたちは誰も笑わなかった。
フィーナはむしろ台座へ目を向け、何かを考え込んでいる。
「つまり」
シリルが慎重に言った。
「お前は、この神殿とは無関係の別世界で、この少女の声と台座の音を聞いている」
「そうなる」
「そしてその直後、この世界に生まれた」
「うん」
「偶然にしては出来すぎてるな」
エリオもそう思う。
少女の声だけなら、まだ似た声だったと考える余地があった。
だが、高音まで同じだった。
さらに、神殿の少女は最後に「音を、忘れないで」と語り、その意味を理解できたのはエリオだけだった。
ここまで重なれば、もう偶然で片づけることはできない。
「もう一つあります」
エリオは言った。
「さっき少女が最後に言った言葉。僕には『音を、忘れないで』って聞こえました」
「私たちには古語のままだった」
フィーナが頷く。
「どうして僕だけ分かったのかは分かりません」
「《残響記録》の力じゃないのか?」
セドリックの問いに、エリオは首を振った。
「《残響記録》は音を覚えるだけです。意味が分からない言葉を翻訳できたことなんて、一度もありません」
少なくとも今までは。
この世界の言葉を覚えたのも、自分で一つずつ意味と音を結びつけた結果だ。聞いたことのない言語を理解するような力はない。
「なら、少女があなたにだけ意味を伝えた?」
フィーナが呟く。
「そんなことできるの?」
「今見たもの自体、私の知ってる魔術では説明できないもの」
彼女は台座へ近づいたが、今度は触れなかった。
「何百年、もしかしたら何千年も前の魔術を、現代の常識で考える方が間違ってるのかもしれない」
エリオはその言葉を聞きながら、台座の上に現れた少女の姿を思い出していた。
自分より少し年下に見えた。
長い髪。
知らない服。
そして、あの声。
自分をこの世界へ呼んだのは、彼女なのだろうか。
だとしたら、なぜ。
「エリオ」
セドリックの声で、思考が戻った。
「話してくれてありがとう」
「……信じるんですか?」
思わず尋ねると、セドリックは少し笑った。
「全部を理解したとは言ってない」
「ですよね」
「でも、ここで聞いた声と、君が台座の音を知っていたことは事実だ。君が嘘をついているなら、もっと簡単な嘘をつくだろ」
「それは確かに」
フィーナも頷く。
「わざわざ『別世界から生まれ変わりました』なんて話を選ぶ必要ないものね」
「もう少し言い方ない?」
「褒めてるのよ」
たぶん褒めてはいない。
それでも、少しだけ肩の力が抜けた。
十五年間抱えていた秘密を初めて他人へ話したというのに、思っていたほど怖くはなかった。
◇
「さて」
セドリックが八つの扉へ目を向けた。
「話は分かった。問題は、ここからどうするかだ」
円形の部屋には、形の同じ扉が等間隔に並んでいる。
少女の映像が消えてから、台座は完全に沈黙していた。
「順番に調べるしかないんじゃない?」
フィーナが言う。
「罠なら俺が見る」
シリルが最も近い扉へ向かおうとした。
「待って」
エリオは声をかけた。
「何だ?」
「さっき少女が話してる間、何か音してなかった?」
「少女の声以外に?」
「うん」
三人は顔を見合わせる。
バルガスが首を振った。
「俺は気づかなかった」
エリオもその場では意識していなかった。
だが《残響記録》には、少女が現れていた間のすべての音が残っている。
エリオは目を閉じ、記録を呼び出した。
少女の古語。
フィーナの小さな呼吸。
誰かの装備がわずかに擦れた音。
その奥に。
あった。
「鳴ってる」
エリオは目を開いた。
「何が?」
「扉」
「扉?」
八つ全部ではない。
少女が特定の言葉を口にするたび、部屋のどこかから小さな高音が返っている。
あまりにも小さく、少女の声に隠れていた。
だが、一度気づけば区別できる。
「もう一回、記録を聞きます」
エリオは少女の言葉を頭の中で再生しながら、音の方向まで確認する。
一つ目。
右奥。
二つ目。
左手前。
三つ目。
正面。
そのあとも順番に別の方向から音が返る。
全部で八回。
「八つ」
エリオは呟いた。
「扉と同じ数だ」
セドリックの表情が変わる。
「順番があるのか?」
「たぶん」
少女が話した古語に合わせて、八つの扉がそれぞれ一度ずつ音を返していた。
エリオは部屋の中央に立ち、音がした順番を指で示した。
「最初はあれ。その次がこっち。三番目が正面」
「待って」
フィーナが言う。
「ということは、その子の言葉が扉を選んでいた?」
「それか、扉の方が答えてた」
「どっちにしろ、意味がありそうね」
シリルは最初に開けようとしていた扉から離れた。
「適当に開けなくて正解だったかもな」
八つの扉を調べると、それぞれの中央に小さな円形のくぼみがあることが分かった。
台座にあったものとよく似ている。
ただし、一つだけ違う。
一番最初に音を返した扉のくぼみには、薄い光が残っていた。
「ここから?」
セドリックが確認する。
「たぶん」
「開け方は?」
「それは……」
エリオは扉を見た。
取っ手はない。
押しても動かない。
魔力を流す場所のようにも見える。
そして、壁を開いたときと同じように、古い魔術が使われている。
音。
言葉。
正しい順番。
そこまで考えたところで、一つの可能性が浮かんだ。
「少女の言葉を使うんじゃないかな」
「全部?」
「いや」
エリオは《残響記録》の中から、最初の扉が反応した瞬間を取り出した。
少女がその直前に口にしていた音だけを切り出す。
意味は分からない。
短い二音節。
『――エル・ナ』
「これ」
フィーナが表情を強張らせた。
「再生する気?」
「扉の前なら」
「何が起きるか分からないわよ」
「分かってる」
エリオは黒牙狼の一件を忘れてはいない。
意味の分からない音を不用意に使わない。
だからこそ、今回は状況が違う。
少女がその言葉を発した直後、扉が反応した。
少なくとも完全に無関係な音ではない。
「全員離れて」
セドリックが言った。
バルガスが盾を構え、その後ろへフィーナが下がる。シリルもすぐに退路を確保した。
エリオは扉から数歩離れた場所に立つ。
「一回だけやります」
「危険だと思ったらすぐ止める」
「はい」
エリオは記録した音を正確に再生した。
『――エル・ナ』
短い声が円形の部屋へ響く。
直後。
扉の中央にあるくぼみが白く光った。
光は円を描き、そのまま石の表面へ細い線となって広がっていく。
「反応した」
フィーナが小さく声を上げる。
扉の奥で何かが動いた。
重い石が擦れる。
全員が身構える中、扉はゆっくりと左右へ開いた。
その先には、小さな部屋があった。
敵の姿はない。
罠らしいものも動かない。
中央に置かれていたのは、一つの石台。
その上に、黒い円盤のようなものが載っている。
「何だ、あれ」
セドリックが呟く。
エリオはすぐには近づかなかった。
まず耳を澄ませる。
部屋の中から危険な音は聞こえない。
代わりに。
黒い円盤から、微かな音がしていた。
声だった。
非常に小さい。
何人もの人間が、遠くで同時に囁いているような音。
「また何か聞こえる」
「少女?」
「違う」
エリオは眉を寄せた。
これは一人ではない。
何十人。
いや、もっと多い。
無数の声が重なっている。
何を言っているかは分からない。
だが、その中に。
一つだけ。
知っている音が混じっていた。
エリオの表情が変わる。
「どうした?」
セドリックが聞く。
エリオは答えず、さらに耳を澄ませた。
聞き間違いではない。
無数の古い声に混ざって、確かに存在している。
電車が線路を走る音。
前世で何千回と聞いた、金属の車輪が継ぎ目を通過する規則的な音だった。
この世界に。
存在するはずのない音が。
「……これ」
エリオは黒い円盤を見つめた。
「僕のいた世界の音が入ってる」
その瞬間。
円盤の中で、無数の声が一斉に止んだ。
完全な静寂が訪れる。
そして、たった一人の少女の声が聞こえた。
『やっと、ひとつ戻った』
今度も。
その意味を理解できたのは、エリオだけだった。




