音を、忘れないで
階段の奥から聞こえた声に、誰もすぐには動かなかった。
『――まだ、聞こえる?』
その言葉は確かに全員の耳へ届いていた。
エリオだけが《残響記録》によって何かを聞き取ったわけではない。セドリックも、フィーナも、シリルも、バルガスも同じ方向を見ている。それだけで、十五年以上エリオの中にだけ存在していた声が、少なくとも幻聴ではなかったことが証明された。
「……今の、全員聞こえたよな?」
最初に口を開いたのはセドリックだった。
シリルがすぐに頷く。
「女の声だ。かなり若い」
「『まだ、聞こえる?』って言ったわね」
フィーナの言葉を聞き、エリオは無意識に拳を握った。
同じだ。
発音も、声の高さも、言葉を区切るわずかな間も違わない。
前世で録音した声を《残響記録》の中から呼び出し、今聞いたものと比較するまでもなかった。それでも念のため意識を向けると、二つの音は完全に重なった。
一切の違いがない。
「エリオ」
セドリックに呼ばれ、エリオは顔を上げた。
「さっき、聞いたことがあると言ってたな」
「……はい」
「同じ声か?」
ここで誤魔化す意味は、もうほとんどなかった。
「同じです」
「どこで聞いた?」
エリオは答えに詰まった。
異世界へ転生した。
前世では相沢律という名前だった。
その世界で音を集めていて、録音したデータの中にこの声が入っていた。
そんな話をしたところで、信じてもらえる保証はない。
むしろ今ここで説明すれば、調査とは別の混乱を招く可能性の方が高い。
「それは……今は説明しにくいです」
セドリックは少しだけ眉を寄せたが、問い詰めることはしなかった。
「分かった。ただ、危険に関わることなら言ってくれ」
「はい」
「それで」
セドリックは開いた階段へ目を向ける。
「どうする?」
ここまで来て戻るという選択肢もあった。
依頼されたのは神殿の調査であり、未知の地下空間へ無理に踏み込めとは言われていない。それどころか、これまで誰も見つけられなかった隠し階段を発見した時点で、一度帰還して報告しても十分な成果になる。
危険を避けるなら、それが正しい。
だが、エリオには戻るという選択肢を選べそうになかった。
「行きたいです」
セドリックは予想していたように息を吐いた。
「だろうな」
「止めますか?」
「止めても一人で来そうだからな」
「そこまでは」
「やりそうね」
フィーナが即座に口を挟んだ。
エリオは反論しようとしたが、自信がなくて黙った。
「ただし」
セドリックの声が少し低くなる。
「ここから先は、俺の指示に従ってもらう。何か聞こえても勝手に動かない。意味の分からない音も再生しない」
「分かりました」
「今度は本当に?」
「本当に」
黒牙狼の一件を思い出されているらしい。
セドリックが先頭に立ち、バルガスがそのすぐ後ろへ続く。中央にエリオとフィーナ、最後尾をシリルが守る形で、一行は地下へ続く階段を降り始めた。
◇
石段は予想以上に長かった。
フィーナが灯した小さな光球が周囲を照らしているが、階段の先までは見通せない。壁は地上部分よりも明らかに保存状態がよく、ひび割れも崩落もほとんどなかった。
何十段降りても、さらに下へ続いている。
エリオは歩きながら、周囲の音を注意深く聞いていた。
五人分の足音が石壁へ反射している。
同じ階段を降りているはずなのに、少しずつ反響の形が変わっていた。空間が広くなっているのか、それとも壁の材質そのものが変化しているのか。
「深いな」
セドリックが呟いた。
「これだけ地下へ続いてるなら、地上の神殿は入口にすぎなかったのかもしれないわね」
フィーナが壁へ光を向ける。
そこには細かな文字のようなものが刻まれていた。
「読める?」
エリオが聞く。
「無理。少なくとも現代文字じゃない」
「さっきの古式詠唱と関係ある?」
「たぶん。でも古式詠唱自体が、どの時代の言語を元にしてるのかは完全には分かってないのよ」
「そんなに古いんだ」
「今の魔術って、実は分からないことだらけなの」
フィーナは歩きながら説明を続けた。
「術式を組んで、魔力を流して、決められた詠唱を使えば魔術が発動する。そこまでは分かってる。でも、なぜその言葉でなければならないのかまで説明できる魔術師はほとんどいない」
「意味が分からない言葉を使ってるの?」
「全部じゃないわよ。現代語へ置き換えられた術も多いから。でも古い術式になるほど、意味の分からない音が残ってる」
エリオは、その説明に引っかかった。
「音?」
フィーナが振り返る。
「何?」
「今、言葉じゃなくて音って言った」
「そうだった?」
「うん」
フィーナは少し考えた。
「……まあ、意味が分からないなら、私たちにとっては音でしかないわね」
その答えを聞いても、エリオの中には小さな違和感が残った。
意味が分からなくても発動する。
必要なのは、正しい言葉ではなく。
正しい音なのではないか。
そんな考えが、一瞬頭をよぎる。
だが、それを確かめる材料はまだ何もなかった。
「止まれ」
先頭のセドリックが手を上げた。
階段が終わっていた。
その先には、広い円形の部屋がある。
フィーナが光球を高く上げると、部屋全体が淡く照らされた。
直径は二十メートルほど。
中央には石造りの台座が一つ置かれている。
壁には全部で八つの扉が並んでいた。
「何だここ……」
シリルが周囲を見る。
「全部同じ扉に見えるな」
「罠を確認する」
そう言って彼が前へ出ようとしたところで、エリオは小さな音に気づいた。
「待って」
全員が止まる。
「何かいる?」
「違う」
エリオは中央の台座を見た。
「そこから音がする」
全員の視線が集まる。
外見上は、ただの四角い石だ。
装飾らしいものもない。
「どんな音?」
セドリックが尋ねる。
「すごく小さい。……一定の間隔で鳴ってる」
エリオは慎重に台座へ近づいた。
耳を澄ませる。
確かに聞こえる。
低い振動。
その中に、かすかな高音が混じっている。
人間の耳なら、静かな場所でなければ気づかない程度のものだった。
「フィーナ。魔力は?」
「調べてみる」
彼女が杖を台座へ近づける。
直後、表情が変わった。
「ある」
「強い?」
「いいえ。ほとんど感じないくらい。でも……流れてる」
「こんなに古いのに?」
「だからおかしいのよ」
フィーナは台座の周囲を調べ始めた。
エリオは音を聞き続ける。
低い振動。
高い音。
また低い振動。
それが何度も繰り返されている。
やがて、あることに気づいた。
「これ、同じじゃない」
「何が?」
「少しずつ違う」
ループしているように思えたが、完全に同じではない。
音の高さがわずかに変化している。
一定の規則に従って。
「もしかして」
エリオは台座の側面へ回り込んだ。
そこに、小さなくぼみがあった。
丸い。
指先ほどの大きさ。
「何か入れる穴?」
シリルが覗き込む。
「分からない」
エリオは周囲を見回した。
八つの扉。
中央の台座。
小さな穴。
そして音。
この構造には意味があるはずだった。
エリオは《残響記録》の中から、ここへ来てから聞いた音を順番に呼び出した。
神殿の壁を開けた六つの音。
少女の声。
階段。
そして、この台座から聞こえる細かな音。
何かがつながりそうで、つながらない。
「エリオ」
セドリックが呼ぶ。
「一度離れよう。まず扉を――」
そのときだった。
台座から、突然はっきりとした音が鳴った。
キン。
エリオの身体が硬直した。
呼吸が止まる。
同じだった。
前世で。
あの夜。
耳を貫き、視界を真っ白にした音。
「エリオ?」
フィーナがこちらを見た。
「どうしたの?」
エリオは返事ができなかった。
台座はもう一度音を鳴らした。
キン。
今度は痛くない。
ただの高い音だ。
それでも、記憶の中の音と完全に一致していた。
「この音……」
エリオは思わず台座へ手を伸ばした。
「待て!」
セドリックの声が飛ぶ。
だが、指先が石へ触れる方がわずかに早かった。
台座全体が光った。
「下がれ!」
全員が一斉に武器を構える。
エリオも慌てて手を引いた。
しかし、何かが襲ってくる様子はなかった。
代わりに、台座の上へ淡い光が集まり始める。
細い線。
点。
それらが複雑に組み合わさり、やがて人の形を作った。
「……人?」
フィーナが息を呑む。
半透明の光でできた、小さな少女だった。
年齢はエリオより少し下に見える。
長い髪。
細い肩。
衣服の形は、この世界で見たことのないものだった。
だが実体ではない。
輪郭は時折崩れ、光の粒子が周囲へ散っている。
「魔術映像?」
「そんな術、聞いたことないわ」
フィーナの声には明らかな動揺があった。
少女の姿がゆっくり顔を上げる。
目が開く。
そして。
『――聞こえていますか』
声がした。
エリオは息を止めた。
あの少女の声だ。
ただし、今までとは違う。
現在使われている言葉ではない。
先ほど壁から聞いた古い詠唱と同じ言語だった。
「何て言った?」
セドリックが尋ねる。
「分からない」
フィーナが首を振る。
「古語よ。たぶん」
少女はさらに何かを話した。
『――エル・ナ・フィア。ソル・レイア――』
意味は分からない。
それでもエリオは、一音も逃さず記録した。
少女は一定の調子で話し続ける。
やがて最後の言葉を口にした瞬間、光が急速に薄れ始めた。
「待って!」
エリオは思わず叫んだ。
反応はない。
記録されたものを再生しているだけなのだろう。
少女の姿は消えかけている。
そして完全に消える直前。
今度は、エリオにも理解できる言葉が聞こえた。
『音を、忘れないで』
光が消えた。
部屋は再び静かになった。
誰も言葉を発しなかった。
エリオだけが、何度もその声を頭の中で再生していた。
「音を、忘れないで……」
口にすると、フィーナがこちらを見る。
「今の最後の言葉?」
「うん」
「私には意味が分からなかったけど」
「え?」
エリオは彼女を見た。
「最後だけ、普通に聞こえなかった?」
「全部古語だったわ」
セドリックたちも同じように首を振った。
エリオの背中に、ゆっくりと冷たいものが走った。
全員が同じ音を聞いた。
なのに。
意味を理解できたのは、自分だけだった。
「エリオ」
セドリックの声が低くなる。
「今度は、さすがに説明してもらった方がよさそうだ」
エリオは台座を見つめた。
十五年間、誰にも話さなかった前世のこと。
そして、この世界へ来る直前に聞いた声。
もう、偶然では済ませられそうになかった。




