まだ、聞こえる?
その声を聞いた瞬間、エリオの中から周囲の音が一度消えたような気がした。
実際に静かになったわけではない。隣にはセドリックたちがいて、誰かが身じろぎするたびに革鎧が擦れ、通路の奥からは水滴の落ちる音が一定の間隔で返ってくる。自分自身の呼吸も、いつもより速くなっている。
それでも、エリオの意識は先ほど聞こえた声だけに向いていた。
間違えるはずがなかった。
十五年以上前。まだ相沢律として日本で暮らしていた最後の夜、自分が録音した環境音の中に紛れ込んでいた少女の声。
『――まだ、聞こえる?』
そして、白い光に意識を奪われる直前に聞いた、
『見つけた』
あの声だった。
「聞いたことがあるって、どこでだ?」
セドリックに尋ねられ、エリオはすぐには答えられなかった。
前世の話を誰かにしたことはない。
両親にも、ミラにもルークにも言っていない。十五年以上この世界で暮らしてきた今となっては、自分がかつて別の世界にいたという事実そのものが、ときどき現実味を失うことすらあった。
だが、この声だけは違う。
今まで、前世とこの世界を結びつけるものは何一つなかった。
それが今、目の前に現れた。
「……昔です」
結局、エリオはそう答えた。
「かなり昔に、一度だけ」
「この神殿で?」
シリルが聞く。
「違う」
それだけは即答できた。
「ここじゃない。ずっと遠いところで」
嘘ではない。
ただ、その「遠い」が彼らの想像する距離とはまるで違うだけだ。
セドリックは少しの間エリオを見ていたが、それ以上は追及しなかった。
「分かった。今は先へ進もう。ただし、何か思い出したら教えてくれ」
「はい」
「声の方向は分かるか?」
エリオは通路の奥へ耳を向けた。
先ほど聞こえた声を《残響記録》の中から呼び出し、神殿内に残る反響と比較する。
声そのものは一瞬だった。
だが、壁に当たって戻ってきた音まで含めて記録されている。
「正面じゃない」
エリオは答えた。
「たぶん左。少し下から聞こえた」
「地下か?」
「分からない。でも、ここより低い位置だと思う」
シリルが地面と壁を調べ始める。
神殿の通路には、ところどころ崩れた場所があるものの、階段らしいものは見当たらない。
「先の調査隊も地下への道は見つけていない」
シリルが言った。
「隠し通路でもあるのかもしれないな」
「廃坑のときみたいに探せる?」
フィーナがエリオを見る。
「やってみます」
エリオは腰の短剣を抜いた。
刃ではなく、柄の金属部分で近くの石壁を軽く叩く。
コン。
低い音が通路へ響き、いくつもの反響となって戻ってきた。
少し位置を変える。
もう一度。
コン。
廃坑とは材質も構造も違う。石壁は木や土より音が複雑に返ってくるため、一度や二度では分かりにくい。
それでもエリオは、焦らず何度も繰り返した。
音を鳴らす。
記録する。
直前のものと比較する。
前へ数歩進み、また鳴らす。
十回ほど試したところで、わずかな違いに気づいた。
「ここ」
通路の左側。
一見すると周囲とまったく同じ石壁だった。
エリオは同じ場所をもう一度叩いた。
コン。
他の場所より、返ってくる音がほんの少し遅い。
「向こうに空間がある」
シリルが壁へ手を当てた。
「でも継ぎ目がない」
「本当に?」
フィーナも近づいてくる。
「石を積んだ壁に見えるけど」
「積んだように見せてるだけかもな」
バルガスが低い声で言った。
ここまでほとんど口を開かなかった大男が、壁の一部へ指を向ける。
「この石だけ、埃が少ない」
全員がそこを見る。
確かに、周囲と比べて表面がわずかに滑らかだった。
シリルが押す。
動かない。
引くための取っ手もない。
上下左右を調べても仕掛けらしいものは見つからなかった。
「魔術的な鍵かもしれないわね」
フィーナが壁へ手を近づけた。
淡い光が指先に灯る。
「魔力の流れがある。かなり弱いけど、完全に死んではいない」
「開けられるか?」
「構造が分からない。無理に壊したら何が起きるかも分からないわ」
セドリックは頷いた。
「壊すのは最後だ」
エリオは壁を見ながら、もう一度耳を澄ませた。
何かが気になる。
先ほどから、壁の向こうで小さな振動が続いているような気がした。
音というほど大きくない。
規則的でもない。
しかし完全な無音でもない。
「……フィーナ」
「何?」
「今、魔力を流してる?」
「いいえ。調べただけ」
エリオは眉を寄せた。
「じゃあ、向こうから音がする」
全員が静かになった。
エリオは壁へ耳を近づける。
やはり聞こえる。
ごく小さな振動。
高い音と低い音が重なり、一定の形を繰り返している。
どこかで聞いたことがあるような気がする。
いや。
聞いたことがある。
エリオは《残響記録》の中を探った。
三歳の頃に見た魔術師。
炎を出す前に唱えていた短い詠唱。
七歳の鑑定後、興味本位で何度も思い返した音。
その詠唱とは違う。
だが、似ている。
音の並び方に規則がある。
「これ……言葉かもしれない」
「何?」
セドリックが聞き返す。
「壁の向こうで、何かが繰り返してる。魔法の詠唱みたいな」
フィーナの顔つきが変わった。
「聞かせられる?」
エリオは一瞬迷った。
意味の分からない音を不用意に再生しない。
黒牙狼の一件以来、それは自分で決めたルールだった。
「ここではやめた方がいいと思う」
「そうね」
フィーナもすぐに同意した。
「術式だった場合、再現だけで何が起こるか分からない」
その言葉を聞いて、エリオは気になった。
「詠唱だけじゃ魔法は使えないんじゃないの?」
「普通はね」
フィーナは壁を見たまま答えた。
「でも、これは普通の神殿じゃないでしょう?」
教会で鑑定を受けた日のことを思い出す。
神官も同じようなことを言っていた。
魔術は詠唱だけでは発動しない。
魔力と適性、術式への理解が必要だと。
だからエリオ自身、《残響記録》で詠唱を再現しても魔法までは使えないのだろうと考えていた。
だが。
もし、この壁そのものに術式が組み込まれているのだとしたら。
「音が鍵なのかもしれない」
エリオが呟く。
「鍵?」
「扉を開けるための言葉があって、それを向こう側からずっと繰り返してるとか」
「何百年も?」
セドリックの疑問はもっともだった。
この神殿がいつ建てられたのかは分からない。それでも、少なくとも数十年という話ではないだろう。
「魔道具なら不可能ではないわ」
フィーナが言った。
「魔力を蓄積して動き続けるものはある。ただ、これだけ古いものが今も動いているなら相当な技術ね」
エリオは再び壁へ耳を寄せた。
繰り返されている音を、一つずつ覚えていく。
短い。
全部で六つほどの音節。
現在使われている言葉ではない。
それでも音の並びとしてなら、完全に記録できる。
「記録した?」
セドリックが尋ねる。
「はい」
「外へ出て試すか」
その判断には全員が同意した。
神殿内で正体の分からない詠唱を再現するより、一度外へ出た方が安全だ。
◇
神殿から十分ほど離れた場所まで戻り、周囲に魔物がいないことを確認してから、エリオは先ほどの音を再生した。
フィーナが隣で注意深く聞いている。
『――ラ、エル、ネア、ソル、イア、レン』
エリオ自身には、意味の分からない音の連なりでしかない。
だが、フィーナは一度聞いただけで表情を変えた。
「もう一度」
エリオは同じものを再生する。
発音も間も、完全に同じ。
フィーナはしばらく考え込んでいた。
「知ってるのか?」
セドリックが聞く。
「言葉そのものは知らない。でも、魔術学院で似たものを習ったことがある」
「何?」
「古式詠唱」
その言葉を聞いても、エリオには意味が分からなかった。
フィーナは説明を続ける。
「今の魔術で使う詠唱より、ずっと古い形式。現代では一部の儀式魔術にしか残ってない」
「読める?」
「無理。学院にいた先生でも、単語をいくつか知っている程度だった」
「じゃあ意味は分からないのか」
「そうね」
フィーナはエリオを見る。
「でも、あなたの発音が正しいなら、資料としてはものすごく価値がある」
「正しいよ」
エリオは即答した。
「聞いた通りに出してるから」
「そうだったわね」
フィーナは少し笑った。
「こういうとき、本当に便利ね。その《恩恵》」
その言葉を聞きながら、エリオは別のことを考えていた。
古い詠唱。
音。
神殿。
そして、前世で聞いた少女の声。
偶然が重なりすぎている。
「戻ろう」
エリオが言った。
セドリックがこちらを見る。
「試す気か?」
「この音が鍵なら、扉が開くかもしれない」
「危険だぞ」
「分かってる」
それでも、確かめたい。
十五年以上抱えてきた疑問に、初めて手が届くかもしれないのだ。
セドリックは少し考えてから頷いた。
「分かった。ただし、全員いつでも退ける状態でやる」
◇
再び神殿へ入り、壁の前へ戻る。
バルガスが盾を構え、セドリックは剣へ手をかけた。シリルは後方の退路を確認し、フィーナもすぐに魔術を使えるよう杖を握っている。
エリオは壁から数歩離れた。
「やります」
「頼む」
目を閉じる必要はなかった。
記録した音は、すぐに取り出せる。
エリオは《残響記録》を使い、壁の向こうから聞いた六つの音をそのまま再生した。
『――ラ、エル、ネア、ソル、イア、レン』
神殿の通路に声が響く。
一秒。
二秒。
何も起こらない。
「違ったか?」
シリルが呟いた、その直後だった。
壁の内部から、低い音が鳴った。
ゴォン。
全員が身構える。
石壁に細い光が走る。
一本。
二本。
線は複雑な模様を描きながら広がり、やがて壁いっぱいに巨大な円を作った。
「下がれ!」
セドリックの声に従い、全員が距離を取る。
重い石が擦れる音が響いた。
これまでただの壁にしか見えなかった部分が、ゆっくりと奥へ沈み始める。
その先に。
下へ続く階段が現れた。
暗い。
光の届かない地下へ向かって、石段が続いている。
「本当に開いた……」
フィーナが呟く。
エリオは何も言えなかった。
階段の奥から、空気が流れてくる。
冷たい。
長い間閉じられていた場所とは思えないほど、澄んだ空気だった。
そして。
その奥から、再び声が聞こえた。
今度はエリオだけではない。
全員が聞いた。
『――まだ、聞こえる?』
エリオの身体が固まった。
今度こそ。
一文字も違わなかった。
相沢律が、別の世界で最後に録音した言葉と。
まったく同じだった。




