聞いたことのある声
王国が認定する勇者候補。
その言葉を聞いても、エリオにはいまひとつ実感が湧かなかった。
勇者という存在そのものは、この世界で暮らしていれば嫌でも耳にする。魔物の被害が大きくなった地域へ派遣され、場合によっては騎士団でも手に負えないような強大な魔物を討伐する。各地に残された遺跡の調査や、王国から直接依頼される特殊任務を任されることもあるらしい。
ただし、最初から勇者と呼ばれる者がいるわけではない。
一定以上の実力と希少な《恩恵》を持つ冒険者の中から、王国が何人かを勇者候補として認定し、その活動を支援する。その中で実績を積み、王国が正式に認めた者だけが勇者と呼ばれるようになる。
エリオが知っているのは、その程度だった。
少なくとも、F級から始めてようやくD級になったばかりの自分と関わるような存在ではないと思っていた。
「本当に行くの?」
ギルドの入口近くにあるテーブルで、ミラが紙を眺めながら尋ねた。
「話を聞くだけなら」
エリオは答えた。
「断る理由もないし」
「そうだけどさ」
ミラは納得しているような、していないような顔をしている。
隣ではルークが椅子へ深く座り、腕を組んでいた。
「向こうが欲しいのはエリオの耳だろ」
「耳っていうか、《残響記録》だと思う」
「同じようなもんだ」
「全然違うよ」
「俺からしたら大体同じだ」
相変わらず適当な男である。
ただ、ルークも今回の話については少し気にしているようだった。
「まあ、変な話じゃないとは思う」
「そうなの?」
「廃坑で閉じ込められてた鉱夫を見つけた話、結構広まってるからな。姿の見えない相手の位置が分かるってのは、遺跡とか洞窟じゃ便利だろ」
言われてみれば、その通りだった。
エリオ自身、《残響記録》を使って廃坑の壁の向こうに空間があることまで見つけられるとは思っていなかった。
前世で多少、反響というものを意識して音を聞いていた経験があったからできたことではある。それでも、あの一件で能力の使い方がもう一つ増えたのは確かだった。
「でも」
ミラが言う。
「そのまま引き抜かれたら嫌だな」
「まだ何も言われてないよ」
「だから、もしもの話」
エリオは少し笑った。
「そのとき考える」
「軽い」
「ミラに言われたくない」
「私は慎重派です」
「黒牙狼三体に突っ込んできた人が?」
「あれは助けに入ったの」
二人のやり取りを聞いて、ルークがため息をついた。
「とりあえず行ってこいよ。勇者候補なんて滅多に会える相手じゃない。もし嫌な奴だったら帰ってくればいい」
「分かった」
そう答えて立ち上がったものの、エリオは二人に背を向けたところで少しだけ足を止めた。
ミラとルークと組んで一年。
自分にとって、初めての仲間だった。
《残響記録》を面白がるだけではなく、実際に役立つと言ってくれたのも二人が最初だった。
だからこそ、自分だけに届いた呼び出しに、少し後ろめたさのようなものを感じているのかもしれない。
「エリオ」
ミラに呼ばれて振り返る。
「何?」
「別に、行くなって意味じゃないからね」
エリオは一瞬だけ驚いた。
「分かってる」
「ならいい」
それだけ言って、ミラは手を振った。
◇
勇者候補の一行が滞在していたのは、町で最も大きな宿だった。
一階には食堂があり、奥には個室がいくつかある。ギルドから話を通されていたため、受付で名前を告げるとすぐに一番奥の部屋へ案内された。
扉を開けた瞬間、エリオは少しだけ身構えた。
部屋には四人いた。
最初に目についたのは、窓際に立っていた青年だった。
二十歳を少し過ぎたくらいだろう。
濃い金色の髪を短く整え、腰には長剣を下げている。華美な装備ではないが、革と金属を組み合わせた鎧は明らかに質が良い。
青年はエリオを見ると、穏やかに笑った。
「君がエリオだね」
「はい」
「呼び出してすまない。俺はセドリック・ヴァーン」
その名前には聞き覚えがあった。
紙に書かれていた勇者候補本人の名前だ。
「セドリックでいい。堅苦しいのは苦手なんだ」
思っていたより普通の人だった。
もっと威圧的な人物を想像していたエリオは、少し拍子抜けした。
「エリオ・アルディスです」
「知ってるよ。廃坑の話も聞いた」
セドリックはテーブルを示した。
「座ってくれ」
残る三人も簡単に自己紹介をした。
赤い髪の女性は魔術師のフィーナ。
無口な大男は盾役のバルガス。
灰色の外套を着た細身の青年は、斥候を担当するシリル。
全員がC級以上。
セドリックに至ってはB級だった。
D級になったばかりのエリオからすれば、明らかに格上の冒険者たちである。
「まず先に言っておくけど」
全員が席についたところで、セドリックが話し始めた。
「いきなり俺たちの仲間になってほしい、という話ではない」
エリオは少し安心した。
「じゃあ、どうして僕を?」
「一つ、手伝ってほしい仕事がある」
セドリックはテーブルの上へ地図を広げた。
町から東へ二日ほど進んだ場所。
森と山の境目に、小さな印がつけられている。
「古い神殿跡だ」
エリオは地図を覗き込んだ。
「遺跡ですか?」
「ああ。正確な年代は分かっていない。ただ、王国が管理している記録よりもかなり古い可能性がある」
「何を調べるんです?」
「内部の構造と、安全な進入経路。それから」
セドリックは少し間を置いた。
「音だ」
エリオは顔を上げた。
「音?」
「先に調査へ入った冒険者が、妙な報告をしている」
今度はシリルが一枚の紙を差し出した。
簡単な調査記録らしい。
「誰もいない通路から、人の声が聞こえたそうだ」
エリオの指が止まった。
「人の声?」
「そうだ」
シリルは淡々と説明する。
「だが調べても誰もいなかった。地下へ続く道も見つからない。聞き間違いだろうということで一度は処理されたが、別の日に入った調査隊も同じような報告をしている」
「どんな声ですか?」
「そこまでは分からない。言葉には聞こえるらしいが、何を言っているのか理解できなかったそうだ」
エリオの脳裏に、あの声が蘇った。
『――まだ、聞こえる?』
前世で録音に紛れ込んだ少女の声。
もちろん、同じものだと考える理由はない。
だが。
人がいない場所から聞こえる声。
その一点だけで、無関係だと切り捨てるには十分すぎるほど気になった。
「興味がある顔をしてるな」
セドリックが言った。
「……たぶん」
「俺たちは、その音の正体を調べるつもりだ。ただ、問題がある」
彼はシリルへ視線を向けた。
斥候の青年が続ける。
「俺も耳には自信がある。だが、音を完全に記憶できるわけじゃない」
「エリオなら聞いた音を残せる」
セドリックが言う。
「それに、廃坑では反響を使って壁の向こうの空間を見つけたそうだな」
「そんな大したことじゃないですよ」
「できたことが重要だ」
セドリックの言い方には、迷いがなかった。
「君の《恩恵》は遺跡探索に向いていると思う」
エリオはしばらく答えなかった。
珍しい。
面白い。
便利かもしれない。
これまで《残響記録》に向けられてきた評価とは違う。
セドリックは最初から、何に使えるのかを考えている。
「期間は?」
「往復も含めて一週間前後だろう」
「ミラとルークには?」
「ギルドには、君を一時的に協力者として借りたいと伝えてある。君が断ればそれで終わりだ」
勝手に話を進めていない。
そのことにも、エリオは好感を持った。
「報酬は通常のD級依頼よりかなり多い」
フィーナが横から口を挟む。
「危険度もその分高いけどね」
「フィーナ」
「大事なことでしょ」
彼女は悪びれずに肩をすくめた。
「勇者候補だからって、安全な仕事ばっかりしてるわけじゃないもの」
「それは知っておいた方がいいですね」
エリオが言うと、フィーナは少し笑った。
「話が早いじゃない」
悪い人たちではなさそうだった。
少なくとも今のところは。
「少し考えても?」
「もちろん」
セドリックは頷いた。
「明日の昼まででいい」
「分かりました」
エリオは地図へもう一度目を落とした。
古い神殿。
誰もいない場所から聞こえる声。
それだけでも十分に興味を惹かれる。
それに、これまで活動してきた場所よりずっと遠い。
自分がまだ知らない音があるかもしれない。
そう考えた瞬間、自分の中ではほとんど答えが決まっていることに気づいた。
◇
「行きたいんでしょ」
その日の夕方。
話を聞き終えたミラは、開口一番そう言った。
「まだ何も言ってないけど」
「顔見れば分かる」
「そんな分かりやすい?」
「音の話されたんだろ?」
ルークが笑いながら言った。
「はい、行きますって顔して帰ってきたぞ」
エリオは否定しようとしてやめた。
「古い神殿らしい」
「ほら」
「しかも、人がいない場所から声が聞こえるって」
「もう絶対行くじゃん」
ミラが呆れたように言う。
「そんなことない」
「じゃあ断る?」
「……行きたい」
「でしょうね」
ミラは笑った。
意外にも、寂しそうな様子はなかった。
「行ってきなよ」
「いいの?」
「なんで私たちの許可がいるの?」
「一応、パーティだし」
「一週間でしょ?」
「たぶん」
「だったら経験になる」
ミラは少し真面目な顔になった。
「私たちと一緒にいたら、できる仕事にも限界があるからね」
「そんな言い方しなくても」
「事実でしょ」
隣でルークも頷いた。
「勇者候補の仕事を見られる機会なんてそうない。行ってこい」
エリオは二人を見た。
「ありがとう」
「ただし」
ミラが人差し指を立てる。
「知らない魔物の鳴き声を勝手に再生しない」
「もうしないよ」
「意味の分からない音も」
「分かってる」
「怪しい声が聞こえても一人で行かない」
「……分かった」
「今ちょっと間があった」
「気のせい」
ルークが吹き出した。
エリオも笑った。
翌朝。
エリオはセドリックたちのもとを訪れ、依頼を受けると伝えた。
◇
出発は、その翌日になった。
町を離れて東へ進み、街道から森へ入る。
ミラやルークと歩くときとは違い、移動の速度が明らかに速かった。
セドリックたちは慣れている。
余計な休憩を取らず、それでいて疲労を残さない程度に歩調を調整している。危険な場所へ入れば、誰かに指示されるまでもなく自然と隊列が変わった。
エリオはその動きを観察しながらついていった。
やはり経験が違う。
「無理してないか?」
前を歩いていたセドリックが振り返る。
「大丈夫です」
「ならいい。何か聞こえたら遠慮なく言ってくれ」
「はい」
その言葉の通り、セドリックは何度かエリオの判断で足を止めた。
一度は遠くを移動している大型魔物の足音。
もう一度は、街道脇の斜面から落ちかけている岩の小さな軋み。
どちらも大きな問題にはならなかったが、セドリックたちはエリオの報告を軽く扱わなかった。
「止まって」
エリオが言えば止まる。
「右から何か来る」と言えば、姿を見る前から準備をする。
確認して何もなければ、それで終わり。
疑うために時間を使わない。
二日目の午後。
森の向こうに古びた石造りの建物が見えてきた。
「あれだ」
シリルが言った。
神殿と呼ばれてはいるが、屋根の大半は崩れ、外壁にも蔦が絡みついている。
入り口だけが、不自然なほど完全な形で残っていた。
エリオたちはそこで一度立ち止まった。
風が木々を揺らしている。
鳥の声。
葉の擦れる音。
仲間たちの呼吸。
それ以外には何も聞こえない。
「どうだ?」
セドリックが尋ねた。
「今は特に」
「なら入ろう」
全員が装備を確認する。
シリルを先頭に、神殿へ足を踏み入れた。
内部は薄暗かった。
外から差し込む光は入り口付近までしか届かず、その先には長い石造りの通路が続いている。
足を踏み入れた瞬間、靴音が壁へ反射した。
エリオは自然と耳を澄ませた。
一歩。
もう一歩。
反響を確認する。
通路の幅。
天井の高さ。
奥行き。
特に異常はない。
そう判断しかけた、そのときだった。
エリオは足を止めた。
「待って」
四人がすぐに止まる。
「何か聞こえた?」
フィーナが小声で尋ねる。
エリオは答えず、通路の奥を見た。
今のは小さすぎた。
もう一度聞こえるかもしれない。
全員が息を潜める。
数秒。
何もない。
さらに数秒。
そして。
遠い。
どれほど離れているのか分からない場所から、ごく小さな声が届いた。
『――――』
エリオの心臓が、一度強く跳ねた。
「聞こえた」
セドリックが言う。
「人の声か?」
エリオは答えられなかった。
今の一言。
言葉としては聞き取れない。
だが、声の高さ。
響き。
息の混ざり方。
エリオは知っていた。
十五年以上前。
別の世界で。
自分が最後に録音した声。
忘れるはずがない。
「エリオ?」
セドリックがこちらを見る。
エリオは通路の暗闇を見つめたまま、ようやく口を開いた。
「……この声」
「知ってるのか?」
答えるまでに、少し時間がかかった。
「聞いたことがある」
それは、この世界で一度も聞いたことのないはずの声だった。




