第10話 一年目の朝
綴じ糸の色を決めるのに、半日かかった。
クヴェレンベルクの水利小屋は、境の堰から百歩ほど上にある。北の窓から堰が見えて、南の窓から峠が見える。両方見えるように建ててあるのだと、ここへ入った日にヨナス様が言った。
卓の上に、白い綴じ糸が十六本ある。染屋から取り寄せたもので、藍、茜、鬱金、それから灰にするための木灰。二十年、私は屋敷の女中頭に頼んで染めてもらっていた。ここでは自分で染める。
十六本のうち、藍に六本入れた。
一年目は青にすると、去年の五月に決めていた。決めていたのに、半日迷ったのは、去年の巻がもう手元にないからだった。ハルツェンの二十冊は、あちらの棚にある。並べて色が重ならないようにする必要は、もうない。
それでも青にした。
昨日、乾いた糸で綴じた。綴じ穴は五つ。今朝、一冊目が卓の上にある。まだ何も書いていない。
去年の五月に返事をして、六月からここにいる。
給金は年に十二ターレル。四半期ごとに三ターレルずつ来る。薪は月に一荷。官舎は小屋の下の村にあって、部屋が二つある。二つ要らないと言ったら、書き物をする部屋と寝る部屋は分けたほうがいい、と伯に言われた。分けてみると、たしかに違う。
十二月に、下の村の樋の枠を一つ入れ替えた。木が痩せて、水が横から漏れていた。
冬のあいだに、この領の二十年ぶんの記録を読んだ。ヨナス様の台帳は、水量と日付だけがきれいに並んでいて、判断の理由が一行も書いていない。私のものと同じだった。同じなので、読むのに時間はかからなかった。
ヨナス様に、なぜ去年の三の堰をあの日に開けたのですかと聞いたことがある。冬の初めだった。この人は少し考えて、あなたの書簡にそう書いてあったからです、と答えた。
では私が間違っていたら、と聞く。
間違っていたことがないので分かりません、と答えた。慰めている口ぶりではなかった。台帳を読んだ結果を言っているだけの声になる。
読み終えてから、新しい欄をひとつ増やすことにした。
なぜその日にしたか、を書く欄になる。
欄を作るのは、書くより先になる。
二月に、境の村の女が二人、小屋まで上がってきた。用件は洗い場の水の順だった。決めて、紙に書いて、渡す。渡した紙に名を入れた。入れてから、自分の名で紙を渡すのは初めてだと気がつく。
三月の朔日に、峠の見張りから紙片が来た。
積雪二尺二寸、風向、南。三月の二日と三日は、村の水利の役たちと泥上げの日を決めた。ここでは役の頭が四人いて、四人とも私より年上になる。最初の年だから、日は去年と同じにしませんかと言われた。去年と同じでは、二尺二寸に合わない。合わない理由を紙に書いて渡した。四人は紙を持って帰り、翌朝、日を変えると言ってきた。
紙を渡して、翌朝に返事が来る。二十年、そういうことはなかった。
四日目の朝に、北の窓を開けた。
水が来ている。
堰の下で、水が白く濁っている。濁りの色は年ごとに違って、上の谷の崩れが少ない年は白い。今年は白い。白い年は水が素直で、番の順を守れば揉めない。
風は南。土手の霜柱はもう立たない。
私は卓に戻って、一冊目を開いた。
一行目の欄は空けてある。日付と、積雪と、風向を書く前に、書く人の名を入れる決まりがこの領にはある。ハルツェンにはなかった。名を入れる欄があると知ったのは、去年の秋になる。
戸を叩く音がした。
ヨナス様だった。長靴が濡れている。堰の見回りの帰りで、板は二枚上げてきたという。
「二枚でよろしいですか」
「はい。三枚だと、四日目に下が引きすぎます」
「理由を伺っても」
「上の谷の崩れが少ない年は、水が素直に来ます。素直な水は速いので、三枚上げると下の村が朝までに引ききってしまいます。引ききると、翌日に順を待てません」
ヨナス様は頷いて、それから紙を出して、いま聞いたことを書いた。
書くところを、私は見ている。二十年、誰も書かなかったことだった。
「そう書いておきます」
ヨナス様は卓の端に紙を置いた。協定書の写しだった。去年の五月に更新したもので、冬のあいだ王都の治水院に行っていたのが、判が押されて戻ってきたことになる。
「当事者欄をご覧ください」
見た。
フェアベルク、と書いてある。私の字ではない。書き役の字だった。
五月の広間で、羽根を動かしていた人の字になる。あの日、この人は二つ書いた。刻限と、名前と。
紙の縁が薄い。王都の紙は屋敷のものより薄くて、光に透ける。透かすと、判の朱が裏まで回っているのが分かる。
「フェアベルク家は、水を計る家でございます」
「知っています。伯が調べました」
「調べたのですか」
「王都の橋の下の記録が残っていました。三十年分の水位です。あなたの祖父の名で」
私は写しを持ったまま、しばらく座っていた。
水番の家、と言われたことがある。三度訂正して、三度目にやめた。やめてから十四年たっている。
「もうひとつあります」
ヨナス様が、写しの三枚目をめくった。
「分水の条項が、協定に残っていました。町の分だけ」
「附則の四です。読んでください」
読んだ。
短い条項だった。ハルツェン領タールバッハの町へ、境の堰から年に一度、通水二日分を回す。数量は下の樋の口の幅で定める。この条項は当事者の交代によって消えない。
「これは」
「去年の五月に、あなたが書いたものです」
「書いておりません」
「三月の目録の、二十九行目にありました。ギースラー殿が持ってきた束の中に入っていたそうです。伯が更新のときに、そのまま附則へ移しました」
二十九行目。
物でも鍵でもない行のところに、七行だけ書いた。番の刻限、泥上げの持ち場、三村の順、隣領への通し方。そのあとに、町への分水のことを書いた。
書いたことを、私は忘れていた。
三月の目録を作った三日間、私は数えることばかりしていた。冊数、頁の欠け、鍵の数、行数。数えているあいだに、数えなくていいものをひとつ書いた。書いてから、それを目録の中に紛れさせた。去年の五月に、伯はそれを読んだ。読んで、附則に移した。
ヨナス様はそれきり何も聞かない。
聞かれれば、答えるつもりでいた。
「泥を、二十年一緒に上げましたので」
言ってから、窓の外を見た。峠がまだ白い。二尺二寸なら、雪解けは三十四日後になる。
「ハルツェンの水は」
「今年は札が立っています。ギースラー殿が当日の朝に読み上げているそうです」
「さようでございますか」
「東の畦も上がったと聞きました」
それだけだった。それ以上は言わないし、私も聞かない。
ヨナス様は帰らずに、卓の向かい側に座る。座ってから、鞄を開けずに置いた。
「一冊目ですか」
「はい」
「書くところを見ていてもいいですか」
「見ても、面白いものではございません」
「二十年、書かれたものだけ見てきました」
この人の手が、卓の上で組まれている。指の背に、堰の板でついた古い傷がある。書かれたものだけを見てきたのはこちらも同じで、この手を見たのは今日がはじめてになる。
私は羽根を取った。
インク壺の蓋を開ける。一年目の欄に、日付を入れた。三月四日。積雪二尺二寸。風向、南。
その下に、新しく作った欄がある。
なぜその日にしたか、を書く欄。
今日は書くことがない。まだ何も決めていないからで、決めるのは三十四日後になる。空けておいた。
それから、名の欄に書いた。
マグダレーナ・フェアベルク。
書き終えて、羽根を置いた。青い綴じ糸が、頁の間から少し出ている。切り揃えるのを忘れていた。
「切りましょうか」
「いえ」
伸びたままでいい。来年、二冊目を綴じるときに、どちらが一年目か分かる。
ヨナス様が窓のほうを見た。私も見た。
水は濁っている。峠には雪がある。南風は四日目で、明日には北へ振れて、それからまた南に戻る。三十四日後に、この領の水が動く。
そのころには、あちらの峠も落ちる。ハルツェンの雪は、こちらより二寸多い年が続いている。二寸多ければ二日遅い。二日遅れて落ちた水が、境の堰まで来る。来た水の二日分が、附則の四によって町へ回る。
町の東の畦は、今年は上がっている。上がった畦の内側に、麦が播かれている。
その日に、この人の隣で板の枚数を決めることになる。決めるのは私で、書くのも私になる。
去年、この人は四十日待った。私はその日数を毎日数えていた。数え終わってから返事をしたのは、待たれたからではない。数え終わるまで待てる人だと分かったからだった。
隣にいるのは、私が選んだ。
小屋の戸が風で少し鳴った。
一年目の朝だった。




