第9話 二十年、帳面をつけたのは私です
広間の卓が、二列に並べてある。
クヴェレンベルクの館。五月六日の領主会議になる。上座に王国治水院の巡察官が二人。左にクヴェレンベルク伯とレーヴェンハウト様。右にハルツェン辺境伯と、その家臣が四人。ギースラーは一番端にいる。
私は壁際の椅子にいた。呼ばれたのは、二十年ぶんの記録の照合のためになる。監理官補の返事はまだしていない。していないので、席は卓にない。
壁際は日が当たらない。石の冷えが背中に来る。二十年、この種の場で私が座るのはいつも壁際だった。ハルツェンの側の壁際で、今日は向かい側の壁際になる。
はじめに巡察官が、今年の融雪出水の総量を読み上げた。両領あわせて例年並み。ただしハルツェン側の下流で一度、道の冠水があったと付け加えた。
議題は配水協定の更新だった。
五年に一度、更新する。今年がその年になる。
十五年前の更新のとき、私は雪の中を二日かけてここへ来た。三日目に熱を出して、宿で寝たまま書面を書いた。
「では、慣行の確認から」
巡察官の年かさのほうが言った。書き役が羽根を構える。
「両領の配水は証文によらず、慣行によって成り立っております。更新にあたり、慣行の当事者を確定いたします」
「当事者とは」
ハルツェン辺境伯が聞いた。
「協定の内容を決め、毎年これを実行してきた者でございます。名義ではございません」
「名義ではないとは、どういうことだ」
「慣行は事実の積み重ねでございます。誰が決めたかではなく、誰が決めてきたかを見ます」
広間が静かになった。
クヴェレンベルク側から、書簡の束が出た。二十束。麻紐の色が年ごとに違う。レーヴェンハウト様が卓に積んで、上から三束だけ開いた。
「二十年ぶんの書簡でございます。日付と水量と、こちらへの通し方の指示が入っております」
巡察官が一束を取って、透かした。窓の光に紙を当てて、字の入り方を見ている。同じ手かどうかは、そうやって見るものらしい。
「筆は一つですな」
「はい」
「二十年、同じ手ですか」
「はい」
ハルツェン辺境伯が卓の上を見ている。手は動かさなかった。
二十束の紐は、青、茶、灰、赤の順に並べてある。並べたのはレーヴェンハウト様で、順は私の水帳の背と同じになる。この広間で、その順の意味が分かる人間は二人しかいない。
「ハルツェン側の記録は」
巡察官が言った。ギースラーが立った。
家令は端の椅子から出てきて、卓に紙の束を置いた。ハルツェンの水帳から写した配水案が二十枚。年に一枚ずつ、領主会議に出してきたものになる。
「これでございます」
ギースラーの手は震えていなかった。束を置いてから、指で端を揃えて、それから一歩下がった。
巡察官が上から順に見る。三枚目で手が止まった。それから、最後まで繰った。繰り終えてから、隣の巡察官に渡す。
二人とも、同じところで手を止める。三枚目は十八年前の分で、あの年から書式を変えた。番の刻限の欄を右に寄せて、下に断りの記録を入れてある。
「ハルツェン辺境伯」
「何か」
「この二十枚は、どなたがお書きになったものでしょうか」
広間の誰も動かなかった。
ハルツェン辺境伯が、私のほうを見た。二十年で、この人が人前で私を見たのは、はじめてになる。
「二十年、水路の帳面をつけたのは私です」
私は立って、そう言った。
それだけ言って、座る。
巡察官が頷いた。書き役の羽根が動く。
クヴェレンベルク伯が卓を指で叩いた。
「ハルツェン殿」
「伯」
「二十年、水論の一つも起きなかった。それを誰がやったか、あなたは一度でも数えたか」
「私は」
「うちの下の村が、今年はじめて水を待った。二十年、待ったことがない村だ」
「伯」
「今年は起きている。板が四枚外れたと聞いた。八十年前は一枚で四人死んだ」
ハルツェン辺境伯は何も言わない。
巡察官が書き役に確認して、それから顔を上げた。
「協定の当事者欄には、二十年の実行者の名を入れます。ハルツェン側は、フェアベルク殿の署名がなければ、以後の水の増減を申し出ることができません」
「待たれよ」
「制度でございます。慣行は人につきます。土地にはつきません」
「私の領の水だ」
「水は領のものでございます。慣行は、その水を二十年配った者のものでございます」
ハルツェン辺境伯が立つ。
椅子が後ろへ倒れた。家臣の一人が拾った。
それから、この人が数えはじめる。
「三月に妻を出した。刻限が分からなくなった。板が四枚外れた。東の道が浸かって、麦の種が二袋。ミュレンの縁談が白紙になった。今年の泥上げの札が立っていない。隣領の水が来ない」
指を折っていた。左手の指を右手で一本ずつ倒していく。折り終えて、まだ足りないという顔をした。
「厩の裏の樋が詰まった。誰も直せん。峠の紙片が三日おきに来るが、あれをどう使うのか誰も知らん。屋敷の者は誰も知らん」
家臣の一人が下を向く。
「跡継ぎだ。跡継ぎがない。私は跡継ぎのために」
そこで声が止まった。
止まってから、この人が私のほうへ歩いてくる。壁際まで来て、私の前で止まった。
家臣団が見ている。巡察官も、伯も、レーヴェンハウト様も、ギースラーも見ている。
この人が体面を惜しむ相手が、全員この部屋にいる。二十年、体面のために私が先回りして消してきた失策の、その相手たちがそろっている。
「マグダレーナ」
「はい」
「愛していた。ずっと、愛していたんだ」
広間の空気が動く。誰かが息を吸った音がした。
私は立ち上がる。この人の目を見た。
壁際の椅子から立つと、広間の全部が見える。上座の巡察官が羽根を止めている。伯は動かない。レーヴェンハウト様は卓の書簡の束に手を置いたままで、こちらを見ていなかった。見ないでいてくれたのだと思う。
「頼む。今年の水を、いつ入れればいい」
そのときは、まだ分からなかった。
一つのことを、二回言われたのだということが。
広間の誰かが、椅子を動かした。それきり、誰も動かない。
私はこの人の顔を見ていた。見ながら、二十年前の秋のことを思い出す。紙に図を引いて、水の話をしましょうかと言った。あの紙を、この人は受け取らなかった。
受け取らなかったものを、今日は受け取りたいと言っている。
二十年かかって、この人は同じ場所に立った。私はもうそこにいない。
「辺境伯様」
「ああ」
「水のことでしたら、お答えします」
ハルツェン辺境伯の顔が、少し動く。
「三の堰は、明日から六日です」
書き役の羽根が動いた。紙の上で音が鳴る。
「上の村が朝の三刻から昼まで。町が昼から日暮れまで。下の村が夜通し。三日回して、四日目から入れ替えてください。四日目に入れ替えないと、下が引きすぎます」
「マグダレーナ、私は」
「東の畦は、今年上げてください。去年、土が足りませんでした」
「マグダレーナ」
「以上でございます」
上座で、年かさの巡察官が羽根を置いた。置いた音が広間に響くくらい、そこは静かだった。ハルツェン側の家臣が四人とも、卓の木目を見ている。誰も辺境伯のほうを見ない。
顔を上げていたのは、ギースラーだけだった。二十年、扉の外で足を止めて戻っていた人が、今日は目を伏せない。
私は椅子から離れた。
離れるとき、この人が手を伸ばす。伸ばしたところで、止めた。止めたのは私が避けたからではない。伯が咳払いをしたからだった。
クヴェレンベルク伯が、書き役に言った。
「今のを書き取ったか」
「書き取りました」
「では、それが今年のハルツェンの刻限だ。ハルツェン殿、確かめられよ」
ハルツェン辺境伯は答えなかった。答えないまま、卓のほうへ戻っていく。歩き方が、来たときと違っていた。
巡察官が書き役に、当事者欄を読み上げさせる。フェアベルク、と読まれた。ハルツェン、とは読まれなかった。
家臣の一人が、椅子を直して待っている。
私は広間を出た。
廊下は石で、外の光が入っている。館の裏手に窓があって、そこから境の堰が見える。水は透けていた。峠の雪が尽きたということになる。
呼吸をした。深く入る。二十年、この息の入り方をしていなかったことに、入れてから気がついた。
胸のあたりに、二十年ぶん重ねてあった何かが、一枚もない。外套の前を合わせながら、足の運びが速いことに気づいた。
廊下の石を踏む音が、行きより高い。荷が減ったからではない。荷は持っていない。
窓の桟に指を置いた。石が温かい。五月の光が当たっている。三月に掛け金を確かめた窓は、冷たかった。
広間の扉が閉まる音がした。
私は歩きながら、明日の朝のことを考えた。上の村が三刻から。町が昼から。下の村が夜通し。
もう私が決めることではない。決めることではないのに、明日の朝には三刻を数えるだろうと思った。
六日、と誰かが書き取る音がした。それが、私の最後の配水だった。




