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「一度も愛したことはない」と仰った方に、渇いた領地をお返しいたします  作者: 九葉(くずは)


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8/10

第8話 止められなかった二十年

ミュレン家の書面は四月の二十四日に届いた。


ギースラーが受け取って、旦那様に渡した。旦那様は封を切って、立ったまま読んだ。


このたびの縁談、白紙に戻させていただきたく。水の来ぬ領地に娘はやれませぬ。麦を扱う家の判断でございます。悪しからず。


旦那様は書面を卓に置いた。それから、もう一度取って、同じところを読んだ。


ギースラーは扉の内側で待った。四十年、この場所で待っている。


「ギースラー」


「はい」


「水の来ぬ領地、と書いてある」


「はい」


「水は来ている。来すぎているくらいだ」


「さようでございます」


来すぎているのと、要るときに要るだけ来るのとは違う。ミュレン家はそれを知っている。麦を扱う家は、水の量ではなく水の順を見る。ギースラーはそのことを、この二十年で覚えた。


「四月の泥上げは済んだのだろう」


「済みましてございます」


「では水は回っている」


「板が四枚、外れております」


「誰が外した」


「三つの村が、それぞれ」


旦那様は書面を三度目に読んだ。読み終えてから、卓の端に置いて、椅子に座った。


「ギースラー」


「はい」


「クヴェレンベルクへ行け」


ギースラーは、はい、と言った。それ以外の返事を、この家で四十年したことがない。


「今年の刻限だけでいい。それだけ聞いてこい。私が頼んだとは言わなくていい」


「かしこまりました」


「言わなくていい、と言った。分かったか」


「かしこまりました」


境の村までは馬で一日半かかる。峠を越えずに川沿いを回るので、遠い。出立の朝、女中頭が握り飯を包んでくれた。行き先は聞かれなかった。この家の者は、もう誰も何も聞かない。


道の途中で、水路を三つ渡った。どれもこちらの領のものではない。板が全部きちんと入っていて、樋の口に泥がない。四月の下旬に泥がないというのは、泥上げが済んでいるということになる。


済んでいる、という当たり前のことに、ギースラーは馬を止めて見入った。


三つ目の水路の脇に、木の札が立っていた。日付と、村の名と、人数が書いてある。四月八日、上の村、十一人。読める字で書いてあった。


うちの領では、板が四枚ない。札も立っていない。


宿は境の村の道沿いにあった。二階の窓が一つ開いている。


奥様は下の店にいた。卓に紙を広げて、何か書いておられる。宿の主人が、あの方は毎朝ああしております、と言った。


ギースラーはしばらく戸口に立っている。


奥様が屋敷におられたとき、朝は書斎だった。誰も入らない部屋で、扉が閉まっていた。今は店の卓で、扉がない。宿の主人も、給仕の娘も、そこを通る。通るときに、おはようございます、と声をかけていく。奥様も返しておられる。


「奥様」


顔を上げられた。三月に見たときと、変わっておられない。強いて言えば、外套が新しい。


「ギースラー」


「お邪魔をいたします」


「掛けてください」


ギースラーは掛けた。腰を下ろすときに膝が鳴った。六十七になるとそうなる。


紙を見た。水路の絵図だった。ただし、こちらの領のものではない。線の引き方が違う。堰が二つしかない。


「クヴェレンベルクの図でございますか」


「はい」


「お仕事に」


「監理官補の話をいただいております。まだお返事はしておりません」


「さようでございますか」


奥様は羽根を置いて、こちらを見られた。


「旦那様のお言いつけで参りました。今年の刻限を伺ってまいれ、と」


「ハルツェンの刻限でございますね」


「はい」


「お答えできません」


「三月に、水利にかかわる一切を返上いたしました。目録に書いて、あなたが署名しました」


「いたしました」


「返上したものを、私が口で足すことはいたしません。足せば、返上したことになりませんので」


ギースラーは頷いた。


「ミュレン家の件は」


「白紙になりましてございます」


奥様は、そうですか、とだけ言われた。喜んでも、気の毒がってもおられない。


跡継ぎのため、と旦那様はおっしゃった。三月にそうおっしゃって、四月にその跡継ぎの道が閉じた。閉じた理由は水である。水は奥様が二十年回しておられた。


窓の外で、馬が水を飲んでいる。


「板が四枚外れております」


言うつもりはなかった。口が勝手に動いた。


「どこの板でしょう」


「上の村の樋と、下の村の樋と、町の分が二枚」


「町が二枚」


「はい」


奥様は絵図に目を落とされた。落としただけで、何もおっしゃらない。ギースラーは待った。


「ギースラー」


「はい」


「そのお話は、私が伺うべきものではございません」


「さようでございました」


「泥上げの持ち場の割り方でしたら、お答えできます。あれは目録の二十八行目に書いてございますので、書いたものの読み方をお伝えするだけになります」


「お願いいたします」


奥様は紙を裏返して、そこに三本の線を引かれた。


「水路をこの三つに分けます。年寄りは上、若い者は樋の口、あいだの年の者はその中間。人の名は書きません。名は毎年変わりますので、村の頭に人数だけ言わせて、こちらで持ち場に割ります。割ったら、当日の朝に読み上げます。読み上げないと、勝手なところに入ります」


ギースラーは紙を受け取った。線が三本と、数字が少し。それだけだった。


「これだけでございますか」


「これだけです」


二十年、この方は毎年これを紙に書いて、当日の朝に読み上げておられた。屋敷の者は誰も見たことがない。麓の三十人だけが見ていた。


ギースラーは紙を折って、懐に入れた。それから、椅子を引いて立つ。立ってから、床に膝を落とした。


「奥様」


「およしなさい」


「旦那様のお言いつけで参りました。ただ、いま頭を下げておりますのは、私の分でございます」


奥様は何もおっしゃらなかった。


二十年ある。毎年、一度は申し上げようとした。年に一度、雪解けの前になると、旦那様に、奥様の御役目のことを一度お考えいただきたく、と申し上げる支度をした。支度をして、口を開く前にやめる。十九回やめた。二十回目は、三月の朝に扉の前で止まって、そのまま戻った。


十九回のうち、どの一度でも言っていれば、と考える。考えても、どの一度かは選べない。全部同じように怖かった。


怖かったのは叱られることではない。四十年勤めて、叱られるのは慣れている。怖かったのは、申し上げたあとに旦那様が、そうか、とだけ言って、それで終わることだった。


「ギースラー」


「はい」


「お立ちください。膝が悪いでしょう」


ギースラーは立った。


「持ち場の割り方は、あなたがなさるのですか」


「私しかおりません」


「では、当日の朝に読み上げてください。読み上げるのは、頭でなくてかまいません」


「かしこまりました」


奥様は羽根を持ち直して、絵図に戻られた。もう用は済んだという意味になる。


宿を出るとき、雨が降りはじめた。


戸口で振り返ると、奥様はもう絵図に向かっておられた。堰が二つしかない領の絵図に。


あちらには、この方の名を書く欄があるのだろう。


馬に乗って、川沿いを戻った。懐の紙が濡れないように、外套の内側で押さえる。押さえながら、旦那様に何と申し上げるかを考えた。


刻限は伺えませんでした。これだけになる。


雨が強くなった。馬の足が泥を跳ねる。跳ねた泥が、外套の裾に同じ形でつく。三月に、門で見送ったときと同じ形だった。


私が頭を下げるべき相手は、二十年前の私でございました。

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