第7話 泥は、上げても出てくる
四月の十日。泥上げの日が決まった。
決めたのは辺境伯様ではなく、町の水番頭だった。屋敷に上がってきて、もう待てませんので明後日にいたします、と言い、返事を聞かずに帰っていく。ローゼリンデはそれを廊下から見ていた。
「あの人、失礼ではありませんか」
「放っておけ」
辺境伯様は書斎に入って、扉を閉める。
当日、ローゼリンデは麓へ下りた。屋敷にいても仕方がないし、これから住む土地のことは見ておいたほうがいいと思った。外套は一番厚いものを着る。それでも寒かった。
屋敷からは二人出た。女中頭が名簿を持ってきて、誰と誰を出すか決めている。二人というのは決まりで、去年も一昨年もそうだったという。
水路は思っていたより浅かった。深さは膝の少し上まで。幅は大人が二人並べるくらい。その両側に、人が三十人ばかり立っている。
三十人が全員、水の中にいるわけではない。半分は岸にいて、半分が入っている。半刻ごとに入れ替わる。
「お嬢さん、どちらの」
年寄りの女に声をかけられる。ローゼリンデは名乗った。名乗ると、女は少し黙って、それから、寒いですね、と言った。
作業は音から始まる。
鍬のようなものを水に入れて、底の泥をさらう。さらった泥を岸へ放る。放るときに水が跳ねる。跳ねた水が顔にかかる。それが十回続くと、外套の襟が濡れる。
「若い衆は樋の口だ」
誰かが言った。
樋の口というのは、水路が細くなって板の枠が入っているところで、そこに泥がいちばん溜まる。溜まった泥は重い。若い男が四人がかりでさらっていた。四人でも動かない塊があって、そのときは鍬を捨てて手を入れる。
手を入れると、みんな一度、動きが止まる。
冷たいのだ。
見ていると、止まるのは一呼吸だけだった。一呼吸のあと、また動く。誰も冷たいとは言わない。
ローゼリンデも指を入れてみた。手首まで入れて、五つ数えて抜いた。夏でもこうだと年寄りの女が言った。雪の水は夏でも痛い。
年寄りは浅いところにいる。膝より下しか浸からない場所で、鍬の柄を短く持って、少しずつ上げている。若い者は樋の口。中くらいの年の者は、その間。
「決まっているのですか。どこを持つか」
「決まっとります」
「どなたが決めたのです」
女は答えなかった。答えないというより、答えを言いにくそうな顔をした。それでローゼリンデも聞かない。
かわりに、別のことを聞いた。
「毎年、何人お出しになるのです」
「水を引く家が一軒につき一人ですわ。引かん家は出さんでよろしい。出さん家は、順が後ろになりますで」
「後ろになると」
「畑に間に合いませんな」
女が笑う。笑ったが、冗談を言っている顔ではなかった。
上げた泥は岸に積む。積んだ土は畦へ運ぶ。運ぶのは荷車で、荷車を引くのは女の仕事になっていた。
荷車は重い。上げたばかりの泥は水を含んでいて、乾いた土の倍あるという。轍が深く入って、途中で一度、車輪が嵌まった。三人がかりで押した。押したうちの一人がローゼリンデになる。
東の畦のところで、荷車が止まった。
「ここは去年、足りとらんかった」
「今年やるという話でしたけれど」
「話はしましたがな」
誰と、とは誰も言わなかった。
日が傾いて、作業が終わる。三十人が水から上がって、それぞれの村へ帰っていく。誰も屋敷のほうを見なかった。
その晩、堰の見張りに人が出る。
上堰の小屋に二人。中堰に二人。下堰に一人。夜通し起きていて、水が来すぎたら板を下ろす。ローゼリンデは上堰の小屋に一刻だけいた。
小屋には火がない。火を焚くと、水面が見えなくなるからだという。
板の縁に印がある。炭で引いた線が三本。一番下の線まで水が来たら、板を一枚下ろす。真ん中まで来たら二枚。一番上まで来たら、走って麓へ知らせに行く。
「三本しかないのですか」
「三本で足ります」
男はそう言って、板のほうへ顎をやった。夜の水は黒くて、線がどこにあるのかローゼリンデには分からなかった。男には分かるらしい。
「この線は、どなたが」
「前の奥様が」
見張りの男はそう言って、それきり黙った。
線は消えかけていた。今年、誰も引き直していない。
「引き直さないのですか」
「引き直すには、去年の水の量を知っとらんといかんのです」
男はそれ以上言わなかった。
一刻いて、ローゼリンデは屋敷へ戻る。戻る道で、指がまだ痛かった。
四月の十五日に、辺境伯様が地図を広げた。
領の水路の絵図で、堰が三つ描いてある。上堰、中堰、下堰。
「峠の雪が落ちる。二日か三日のうちだ」
「そうなのですか」
「二尺五寸ある。全部落ちる」
辺境伯様は絵図の上に指を置いた。置いてから、動かさなかった。
「君ならどうする。どの堰から開ける」
ローゼリンデは辺境伯様の顔を見た。
目が絵図に戻っていて、こちらを見ていない。答えを待っている顔だった。
「わたし、水のことは何も」
「上からか、下からか。どちらかだろう」
「存じません」
「考えれば分かる」
「分かりません」
辺境伯様が絵図から手を離す。それから、少し笑った。
「そうか」
その笑い方を、ローゼリンデは覚える。
分からないと言ったことを、この人は責めなかった。責めないかわりに、期待もしていなかった。
はじめから、答えられるとは思っていなかったのだ。
では、なぜ聞いたのだろう。
聞く相手がいないからだ。
父からの手紙が届いたのは、その翌日だった。
麦の値のことが書いてある。この春、東の街道の麦が三割上がった。上がった理由は、水が出て種が遅れたからだと書いてある。
そのあとに、三行あった。
ハルツェンの水は、今年どうなっている。番の順が決まっていないと聞いた。順が決まらぬ領地は、来年も決まらぬ。
ローゼリンデは手紙を三度読む。
父は麦を扱う。麦は水で決まる。父が水の話を書くときは、麦の話ではない。
返事を書こうとして、書くことが思いつかなかった。順は決まっていない。決める人はいない。決められる人は、三月に屋敷を出ていった。
その人の名前を、父の手紙は一度も出していない。
その夜、ローゼリンデは眠れなかった。
眠れないので、昼に見た絵図のことを考えた。堰が三つある。上、中、下。上から開けるか、下から開けるか。二つに一つなら、当てずっぽうでも半分は当たる。
五日前に水路に立っていた三十人の顔を思い出そうとして、思い出せたのは年寄りの女ひとりだった。あとは全部、同じ帽子と同じ長靴に見える。
四月の十七日に、雪が落ちた。
朝から南風で、昼にはもう峠の頂が黒く見えた。水が来るのは早い。上堰の小屋から人が走ってくる。板の線を三本とも越えたという。
辺境伯様は窓の前に立っている。立ったまま、指示を出さなかった。
ローゼリンデは廊下に出て、階段の上から玄関を見た。役の男たちが集まっている。誰も上がってこない。上がってきても、決める人がいないと知っているからだった。
その日から三日、麓の水路には人が並びっぱなしになった。
上の村が引けば下の村が止まり、下の村が引けば町が止まる。止まった側が板を外しに行く。外された側がまた外しに行く。三日で、樋の板が四枚なくなる。
四日目の朝、ローゼリンデは屋敷の窓から麓を見た。水路の線が、去年の絵図と違うところを通っている。どこかで水が畑へ回ったのだと分かった。分かったところで、誰に言えばいいのかが分からない。
泥は、上げても上げても出てきた。




